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ぼくしのめがね

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聖霊のバプテスマBaptism of Holy Spirit

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三年前に、シアトルで留学してい... 三年前に、シアトルで留学していたEちゃん。フライトアテンダントになって、シアトルに遊びに来てくれました。感謝です。とっても成長して、大人な話しが出来ました。
いつまでも、元気で、神様が守ってくれるようにと、お祈りしています。。。。。
日曜日は、忙しいので、土曜日に... 日曜日は、忙しいので、土曜日に母の日を祝いました。義母の大のお気に入りの日本食レストランです。隣には、雑貨屋さんがあり、ショッピングも楽しみました。もう八十代半ばの義母。最近は、立て続けに二回も手術。。。。とにかく健康でいられますようにとお祈りしました。。。。最近、とみにやせちゃったなぁ。。日本の母には、カードとお菓子を送って祝いました。母も、喜んでくれていました。日本の母にもあいたいなーー。。。
2016年5月8日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/K2i5iXsnA10

使途2:4

ここ何週間か大切なお話しをしています。いかに、キリストの昇天が大切であるか、ペンテコステの出来事が教会にとって大切かと話して来ました。今日は、聖霊のバプテスマがもたらす事柄についてお話ししたいと思います。

まず、先に話した事がらの関連性についておさらいしたいと思います。

イエス様の昇天によって、イエス様は、天の王座に着座され、王の王となられた。それを信じる私たちは、そのイエス様の王国の国民の身分となった。そして、信仰によってイエス様の死と葬りと復活と昇天に合わされた私たちには、御名の権威が与えられている。

ペンテコステの日に、イエス様が話されていた「父の約束」すなわち、聖霊が降臨し、一人ひとりの上に臨み、あふれ、みな一つ霊とされ、教会が発足した。イエス様のかねてからの願い、御父とイエス様が一つであるように、教会とイエス様も一つ、信者の一人ひとりも一つとなることが実現した。

聖霊様は、単なるエネルギーではなく、パーソン。イエスの霊、御子の霊とされる一神格。さて、その方が臨む、その方にバプタイズ、浸される時、どのようなことが起きるのでしょうか。。。御国の一員として機能していくことが出来るようになるのです。

★ 異言の力    

V4 みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。4 And they were all filled with the Holy Spirit and began to speak with other tongues, as the Spirit gave them utterance.

さて、五旬節の出来事では、みなが外国の言葉で話しはじめ、人々は、酔っ払っているのかと思ったというのです。異言については、いろいろな、議論があります。異言がでなくても、聖霊に満たされているとする人もいれば、異言を話さなければ満たされてないという派の人たちもいます。
私は、人それぞれの神様との関係が大切なのであるから、異言を話さないとダメだとは言いたくありません。
でも、パウロも言っているように、話せるなら、話した方が、いいと私も思います。

異言は、スーパーナチュラルの扉を開く窓口です。 数年前に、テレビ番組で、医者が異言を話す人の脳を調べました。そして、フランシスの修道士の祈っているときの脳と、チベットの仏教の僧侶が瞑想しているときの脳と比べました。異言を語る人たちの脳は、全く違っていたそうです。クリスチャンが言葉を使って祈っているときと、カトリックの祈りと、僧侶の瞑想は同じだったそう。前頭葉に力が集中していたそうです。自分の考えで、言葉をコントロールしています。しかし、異言を語る人の脳は、脳全体が活発に動いていたそうです。全体です!まさに、人間のコントロールから全く外れたところで、脳が機能しているそうで、サイエンスが、聖書の言っていることを証明した。異言を語るとき、この世の力、束縛から解放され、全くこの地上の影響の無い、天的な世界が開かれるというのだ。    

聖霊のバプテスマは、天と人を一つにし、また地上の人たちを一つにする。といえるでしょう。

聖書に次のように書かれている通りです。

Ⅰコリント14:14
もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。For if I pray in a tongue, my spirit prays, but my understanding is unfruitful.

異言を話している時は、自分の知性を飛び越して霊で直接祈っているということです。頭では、分からないが、霊では分かっているというようなことがおきます。そして、霊のことがよく分かるようになると、霊でおきていることを、頭が上手に解釈して通訳することができるようになります。

★ 伝道の力   恐れがなくなる=確信をもって

使途1:8 

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」But you shall receive power when the Holy Spirit has come upon you; and you shall be witnesses to Me in Jerusalem, and in all Judea and Samaria, and to the end of the earth.”

弟子たちは、聖霊を受けるまでは、恐れに縛られていました。聖霊が臨んで一番顕著な出来事は、恐れから解放されることです。違ういい方で言うならば、確信に満ち溢れ、恐れなどもろともしなくなる、ということです。

ペテロは、聖霊のバプテスマを受けた後、立ち上がり、大胆に今起きていることはどういうことか、説明し始め、そして、大伝道メッセージへと移り、3000人以上の人が救われるということが起きました。

それは、聖霊を受けると、今まで頭で理解しようとしてたことが、すとんと胸に落ち、確信がゆるがなくなる、確信がズドーンと腹の真ん中に来る経験をするのです。揺るがない確信を持って生きている人は強いです。

★ 御名の権威の行使

復活のイエス様が大宣教命令を弟子たちにわたしますが、その時に言われた言葉が次のことばです。

マルコ16:17-18 

信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、18 蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」And these signs will follow those who believe: In My name they will cast out demons; they will speak with new tongues; 18 they will take up serpents; and if they drink anything deadly, it will by no means hurt them; they will lay hands on the sick, and they will recover.”

大宣教命令のあと、父の約束を待ちなさい。と言われました。父の約束、すなわち、聖霊が望むとき、これらすべてのことが可能になるということです。聖霊とは、三位の神の一神格、聖霊様が臨むことによってイエス様の権威と一つになる。確信を持って御名の権威の行使ができるようになるのです。

信じる者には、それを受ける資格があるというのです。私たちは、どれほど、自分に与えられた身分を理解しているでしょうか。どれほど、自分に委ねられている権威を使って生きているでしょうか。

★ 天とのコミュニケーション能力が与えられる

先ほど、異言のところで話しましたが、天と直接一つとなれるものだといいました。自分の知性を飛び越え、人間的な常識を飛び越え、そして、地上のあらゆる束縛を超えて、天と霊においてつながれること、その一つの表れが異言ですね。
聖書には、聖霊の九つの賜物があるというのです。
それは、イエス様の御国に国籍を持つ天国民としてのしるしです。聖霊において、天と一つになっているならば、与えられる賜物として聖書にしるされています。

1コリント12:6-11 聖霊の九つの賜物

働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。8 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、9 またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、10 ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。11 しかし同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。

九つの賜物は、
知恵のことば、知識のことば、信仰、いやし、奇蹟を行なう力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力

今日は、一つ一つについて、時間が足りないので説明はできませんが。。また、次回に。
いづれも、超自然的なことです。そして、御国のために働くために必要なツールであります。私たちは、すでに天国民とされていますから、この賜物にあずかる資格を持っているのです。

エペソ4:7
しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。 But to each one of us grace was given according to the measure of Christ’s gift.

信じる者には、求めるならば与えられるものです。

★ アクティベーション!

ペンテコステの体験は、五旬節が来たからといって、自動的に全ての人が聖霊に満たされたのではない。イエスの言葉を聞いて、信じ、おことばどおりに祈り待ち望んだ人たちに注がれた。
私たちが、聖書の言葉を黙想するときに、力が注がれる。御言葉を信じるときに、聖霊の注ぎがあるのです。

天に昇られたイエス様を信じている私たちには、天的に生きる使命があります。そして、資格があります。聖霊のバプテスマを求めましょう。そして、受け取りましょう。イエス様に与えられた権威と能力をアクティベイトさせる必要があります。

一緒に祈りましょう。


#キリスト教 #神 #聖書

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ペンテコステの出来事 At the Day of Pentecost

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サウスレイクユニオンの地域を歩... サウスレイクユニオンの地域を歩くことがよくあります。家からすぐ近くです。。。五年前には何----も無かった地域ですが、今や、たくさんのビルが立ち並び、たくさんのレストランとカフェ、そして、アマゾンで働くアマゾニアンでにぎわっています。。。。。通勤時、歩きづらいほどの人が歩いています。 そして、アマゾニアンに配るバナ... そして、アマゾニアンに配るバナナの小屋が朝でてます。。。儲かっている会社は違うなあー。と眺めています。いつも、二、三人の人がこのスタンドに立ってバナナを笑顔で手渡しています。。。。この仕事ええなぁ。。。なんて思いながら通り過ぎます。アマゾニアンは、犬を連れていることが多いのも特徴です。この写真は、バナナ配りの女性が、アマゾニアンのわんこをかわいがっているところです。。。
2016年5月1日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/6-_w8L1ELEg

使徒の働き2:1-4

1 五旬節の日になって、みなが一つの所に集まっていた。2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。When the Day of Pentecost had fully come, they were all with one accord in one place. 2 And suddenly there came a sound from heaven, as of a rushing mighty wind, and it filled the whole house where they were sitting. 3 Then there appeared to them divided tongues, as of fire, and one sat upon each of them. 4 And they were all filled with the Holy Spirit and began to speak with other tongues, as the Spirit gave them utterance.

もうすぐペンテコステです。今日は、昇天のイエス様の後、何が起こったのかというお話しをしたいと思います。そうです、ペンテコステの日の出来事についてです。

★ ペンテコステ、五旬節、七週の祭りとは

先ほど読んだ使徒二章にもあったように、「五旬節」(「七週の祭り」、ペンテコステ)のできごとです。ユダヤには、七つの祭りがありますが、五旬節はその一つです。そして、全ての祭りは、イエス・キリストを指し示しています。春には過越の祭りがあり、イエス様の十字架を象徴していますし、種を入れないパンの祭りは、罪のないキリストを象徴しています。また、初穂の祭りは、イエス様の復活を象徴しています。そして、ここででてくる七週の祭り(ペンテコステ)は、聖霊降臨を象徴しています。あとの三つの祭りは秋の祭りですが、これは、やがてくるイエス様を指し示しています。
この七週の祭りというのは、二つの種を入れたパンを祭司のところに持ってくるという儀式があります。そして、これの意味するところは、一つの祭司によって、二つの罪ある存在、ユダヤ人と異邦人、すなわち、全世界の人々が一つにされる。ということを指し示すものであります。
みなさん、何ヶ月か前に話した、ヨハネの福音書を覚えていますか? 

★ イエス様の祈り ヨハネ17章の実現

イエス様は、十字架にかかられる前に、父なる神様に、とりなして祈りました。

ヨハネ17:21-23

21 それは、父よ。あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。23 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。

イエス様は、切に祈りました。イエス様と父が一つであるように、イエス様と、信じるものたちも一つであるように、そして、信じている者たちも一つであるように。。。一つになることを切に切に祈りました。一つであるなら、世がイエス様を信じるようになると。。。

教会の成熟は、人数でもない、プログラムでもない、ティーチングでもない。いかに一つであるかによります。そうすると、世が信じる人の集まりに魅力を感じ、引き寄せられるのです。聖書にも、いかに人々が、御父と一つになっていたイエス様に惹かれてついていったことでしょうか。

★ 聖霊のバプテスマ、聖霊に浸される体験

ひとりだけの上にではなく、そこにいた全ての人に聖霊が下られた。
聖霊のバプテスマということばは、ペンテコステ教会にいれば、よく耳にすることであります。そして、また、油注ぎを受けた預言者であるとか、癒しの賜物をもつ働き人に注目が行き過ぎる傾向もあります。しかし、聖霊のバプテスマの本来の目的は、五旬節の祭りの意味にもある様に、二つものを一つにすることであります。

人々は、イエス様の言葉に根ざし、期待をして、ともに集まり、祈りに専念していました。イエス様の昇天から10日間、祈っていました。その日が来たので、自動的に聖霊体験をしたのではありません。
イエス様の言葉だけを頼りに、祈っていたのです。

そこへ、突然激しい風のようなごう音とともに、聖霊が降臨されたのです。そこに、集まって祈りに専念することに決めた人たち全員の上に分かれた下のような炎がのぞみ、聖霊のバプテスマを受けました。聖霊に浸されました。

聖霊のバプテスマを思うときに、どのように受けたら。。。と思う方が多いですが、ここでの人たちと同じように、父の約束を待ち望んで祈りに集中することを選んだらいいのです。また集まってともに祈ることもいいでしょう。とにかく、心に決めて求めることが大切です。人それぞれですか。。私の妹は、まだ礼拝にも来ていないときに、キャンプに行って、自分の罪とイエス様の十字架のことが分かった時に、急に聖霊に満たされ異言を話し始めました。。。一方、私は、なかなか受けられませんでした。でも、受けた時には、イエス様の赦しがはっきり分かった時に、滝に打たれたように、激しく聖霊が望みました。みなさんには、どのように来るのでしょうね。

★ 教会の誕生  聖霊によって一つにされた共同体

そののち、二章に書かれていますが、ペテロがメッセージをし、3000人がイエス様を信じ、共同体が出来ました。教会が発足しました。
ここで、教会は、一つになるために集められたのではなく、一つであるから集まるようになったのだということがわかります。

★ ペンテコステの出来事 イラストレーション

小さいコップをボールに十個くらい入れます。そこに、水を注ぎます。コップ一つ一つに注いで行き、あふれるまで、注ぎます。そして、その後も続けて注ぎ続けます。。。るそして、ボールいっぱいまで注ぎます。
ペンテコステの出来事は、このようです。一人ひとりの上に聖霊が臨まれ、あふれ、そこに集っている人たちの上に臨み、あふれ、完全に彼らを浸しました。同じ霊に完全に浸されたら、一つにならざるを得ませんね。
これが、聖霊の満たしの本来の姿です。
共同体の上に、注がれるものなのです。また、共同体、一つとなるべく注がれ、浸されるのが聖霊様のバプテスマなのです。

★ 力でなく、聖なるお方を求めましょう

聖霊と聞くと、力、エネルギーであるとか、見えないソースというイメージを持つ方がいると思いますが、聖霊様は、一人の神です。ご人格をもった方です。
PERSONです。そして、その名前は、聖なる霊です。聖なる方です。
私たちが、力を求めるなら、間違えてしまいます。
しかし、聖なるお方を切に求め、神様のみ言葉と約束に従って求めるなら、必ず満たしを体験するでしょう。


今日のお話しで分かるように、イエス様の情熱は、私たちが一つになることです。そのために、聖霊のバプテスマを私たちに約束してくださました。聖なるお方に満たされ、教会として、浸されることを求めていきましょう。


#キリスト教 #日曜日礼拝 #聖書

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イエス様体験 Experiencing Jesus

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土曜日は、ヒスパニックチャーチ... 土曜日は、ヒスパニックチャーチのマービン牧師と奥さんのベティさんの結婚25周年のお祝いに招かれました。この写真は、結婚した時の近いを確認して、今までそうしてきたことの感謝と、これからも守ることを誓いました。 真ん中の白いドレスがベティさん... 真ん中の白いドレスがベティさん。マービンはその右。レセプションも結婚式バリのすばらしさ。音楽がメキシコ系で明るく、食事もメキシカンレストランからで、美味しかったです! テーブルもこんなに素敵に、飾ら... テーブルもこんなに素敵に、飾られました。素敵です! 日曜日は、子どもたちがみんな病... 日曜日は、子どもたちがみんな病気で、誰もいなく寂しかったです。。。今週は、まきさんのお誕生日を祝いました。マイカ君のお手製ケーキを楽しみました。まきさん、おめでとうごさいます!
2016年4月10日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/RM6vK9sBEm4

ヨハネ21:1-14

この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。2シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。 5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」 6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。7そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。8しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。9こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。12イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。《弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。《とあえて尋ねる者はいなかった。13イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。14イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現わされたのは、すでにこれで三度目である。


先週のイエス様の復活の後のお話しに続いて、場面は、ガリラヤに移ります。よみがえったイエス様にあって弟子たちは喜びましたが、少し、複雑な気持ちがあったようです。彼らは、以前にガリラヤであおうと言われていたとおりに、ガリラヤにやってきました。今まで三年間一緒にすごした師であるイエス様がいない。。。お腹もすいた。みんなを食べさせなくては。。。なんともいえない、不安な気持ちともどかしさ、そして、あの十字架の一件からの敗北感がまだあったのでしょう。世間が自分たちに背を向けている、負けた感覚があった。
昔は、漁師で、腕をならしていたペテロが、またあの達成感を味わって、自分の自信をとりもどそうとした。「昔は、ここで、良く漁をしたものだ。自分の腕にかかったら、大漁だ」と、仲間と漁にでたのです。しかし、夜通し水の上にいましたが、何もとれませんでした。またも、ここで、敗北感を味わいました。「なんだ、一匹も獲れないじゃないか。。。」と。がっかりしたに違いありません。
そんなとき、復活のイエス様が再び岸に現れます。
私たちが、落胆し、自信がなく、自分の得意な分野でさえうまく行かないとき、その時、イエス様体験をする時です。行き詰まりを感じているなら、喜びましょう。今こそ、イエス様が現れてくださいます。

キリスト者の成熟と言うものは、イエス様を個人的にどれだけ体験したかによります。頭の知識がどれだけあるかには、よりません。弟子たちは、復活のイエス様を体験し、成熟の歩みを一歩踏み出していったのです。

★ イエス様体験の始まり

イエス様は、岸から話しかけられました。5「子どもたちよ。食べるものがありませんね。」 “Friends, haven’t you any fish?”と。

すなわち、魚がとれませんでしたね? と言っています。弟子たちのイエス様体験は、この時から始まっています。まだ、岸にいるのが、イエス様かどうか遠くて分からなかった時です。しかし、イエス様の方では、それを良くご存知で、見守っていてくださっているのです。私たち状況を知っていてくださっているのです。後で、出てきますが、すでにイエス様は魚とパンで食事の用意をしてくれていたのです。「神様に知られている」という感覚は、私たちに安心を与え、そして、次のステップに私たちを導いてくれます。

私たちもそのようなことがあります。日常のふとした時に、あれ、前に祈ったことが今実現してる。とか、神様が出会わせてくださったと思える出会いがあった時など、神様の導きを感じます。そして、「ああ、私は、神様に知られてる」という確信が来るのです。

あなたが、主の導きを感じる時、イエス様体験がもう始まっているのです。

★ 右側に網をおろしなさい

次ぎに、岸にいる人が言うのです。6「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」“Throw your net on the right side of the boat and you will find some.”
弟子たちは、思ったことでしょう。「おかしなことを言う人だな」と。普通は、舟の左側に網を下ろして、漁をするものだったそうです。漁師なら、それが常識。それが、手順だったのです。一晩何も獲れなかったものが、右におろしたからといって何か変化があるとは思えません。

イエス様を体験する時には、「人間の常識」を忘れなければなりません。人間の常識と神様の業とは、無関係なのです。

弟子たちは、言われたとおりに網を下ろしました。するとたくさんの魚がかかりました。そこで、弟子たちは、それがイエス様だと気がつくのです。

神の一声に従う時、弟子たちは、奇跡を体験したのです。

成熟の鍵は、「言われたとおりにすること」です。

私は、若い時には、これがなかなか出来なかったのです。イエス様と深い交わりがない若いクリスチャンの時には、神の言葉に練られ、そして、群れ全体を見ているリーダーにどう従うかで成熟が表れます。私は、なかなかリーダーの言葉通りに従うのが難しかったことを覚えています。どうして、このやり方ではだめなのだろう。どうして、今、これをやらないといけないのだろう。主に仕えたい、教会を助けたい思いは、強かったのですが、この一言に従ってみるということが分かるまでに時間がかかりました。
これが、分からないと、クリスチャンとして成熟できないのです。私たちは、自分の国を確立するものではなく、神の国を建てるものだからです。時には、断片的にしか物事が見えていなく、どうして、今、これをするのか分からない時もたくさんあります。しかし、神の一声にしたがって見なければ、結果がでないのです。

★ 魚を持ってきなさい

9こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」9 When they landed, they saw a fire of burning coals there with fish on it, and some bread.10 Jesus said to them, “Bring some of the fish you have just caught.”

イエス様はすでに一緒に食べるための魚も焼いて用意してくださっていた。

その上で、自分たちでとった魚も持ってきなさいと声をかけた。「自分たちで」とは言え、それは、イエス様の助けで獲ったものだった。

共に働き、共に報酬を分かちあう喜びを体験した。そして、ああ、そうだった、イエス様と過ごした三年間を思い起こしたことでしょう。
イエス様は、なぜ、弟子たちの取った獲物を持ってきなさいと言われたのでしょうか。聖書の中にイエス様のおっしゃった次のような言葉があります。

ヨハネ16:23-24

その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。24あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。“And in that day you will ask Me nothing. Most assuredly, I say to you, whatever you ask the Father in My name He will give you. 24 Until now you have asked nothing in My name. Ask, and you will receive, that your joy may be full.

イエス様の言葉によって、その言葉が実現した。そこで、神の働きと、自分の働きが交わり一体化した。それを、確認するために、弟子たちの魚を持ってこさせたのです。それは、双方の喜びが増し加わるためでした。

良く私は、言いますが、天の国のお金は、喜びです。報酬は、喜びです。喜びの度合いが、私たちの報酬の大きさとなります。私たちが、祈り、神の言葉に従い、神のみ心がなることを体験する時に、喜びは、神の側と私の側で満ち満ちたものとなります。イエス様体験は、この喜びを私たちにもたらすものであります。必ず、天の報酬の伴うものであるのです。

★ 共に食事をした

13イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。13 Jesus came, took the bread and gave it to them, and did the same with the fish.

共に食事をするということは、とても親密な関係を作ります。食べ物を一緒に食べると心も開くそうです。ですから、ビジネスでも、取引先と一緒に食事をすると、商談がうまくまとまるのだそうです。

イエス様は、大酒の飲みの大食らいだと言われました。いつも、取税人や罪人、病人を訪ねてともに食事をしました。イエス様は、いつも私たちとの所に来て、私たちと親しくしたいと願っておられるのです。

「見よ。わたしは、戸の外にたってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする (ヨハネの黙示録3章20節)。」Behold, I stand at the door and knock. If anyone hears My voice and opens the door, I will come in to him and dine with him, and he with Me.

これは、クリスチャン教会にイエス様が語られた言葉です。イエス様は、私たちと親密さを保ちたい、いつも私たちのうちに来て、ともに食事をしたいと願っているのです。いつも、心のドアをノックしておられます。イエス様体験は、イエス様に心を開き、イエス様を心の中に入れなければ体験できません。

癒しや、解放も、イエス様をお招きしなければ、経験できないのです。

イエス様体験は、継続的なイエス様との個人的な交わりから来るのです。たくさん勉強して頭を鍛えても、私たちの霊は大きくなりません。私たち教会は、今まで頭を成長させることと霊を成長させることと勘違いしてきたと思います。
霊を養い育てるには、神の声が必要です。イエス様との親しい交わりが必要です。

今日、しばらく心をしずかにしてイエス様を心にお招きしましょう。。。。


#キリスト教 #クリスチャン #聖書

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復活のイエスが示すクリスチャンライフ

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水曜日に、日本に帰国する留学生... 水曜日に、日本に帰国する留学生Kちゃんを空港まで送っていきました。いつも、人を見送るのは、寂しいものです。たくさんの思い出と、優しい心をありがとう、Kちゃん。日本でもがんばってね! エリックは、礼拝のあと、留学生... エリックは、礼拝のあと、留学生さんたちに英語を教えています。妻ながら、教えるの上手やん。。。と思います。 真剣な面持ち。。。。みんなは、... 真剣な面持ち。。。。みんなは、アメリカに来て、まだ二週間ほどです。シアトルにいる間に、たくさん吸収できたらいいですね!! がんばつてね!
2016年4月3日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/BQWc28hnhec

ヨハネ20:19-23

19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」


先週は、幸いなイースターを教会の家族と過ごすことができて感謝でした。復活のイエス様は、四十日間五百人ほどの人に現れました。そして、神の国について話されました。今日は、そんなイエス様が弟子たちがいるところに現れて、語られた言葉から学んでいきたいと思います。

① 安息の力の中に生きる

弟子たちは、イエス様を殺した人たちが自分たちをも捕まえるのではないかと、おどおどしていました。そして、戸を閉めて鍵をかけてじっとしていたのです。
そこへ、復活したイエス様が入ってこられました。

第一声「平安があなたがたにあるように」“Peace be with you.” そして、手とわき腹を見せてもう一度、「平安があなたがたにあるように」“Peace to you!” と言われました。

クリスチャンにとって、安息、平安の中を生きるということが一番の力であります。
恐れに凝り固まっていた弟子たちに、「イエス様は平安があるように」と言われました。

私たちは、信仰の世界に生きています。信仰とは、目に見えないものを信じて生きることであります。しかし、この世の中は、目に見えるものを頼りに生きることが当たり前です。もしも、目に見えることだけを頼りにして生きるなら、この弟子たちのように、恐れに凝り固まって、部屋から出ることが出来なくなってしまうのです。「もし、こうなったら。。。」という恐れを元にした信仰は、あなたを不自由にします。イエス様は、こう教えられて入のです。平安を手放してはいけない。

心にいつも平安と、神様にある休みを得ていなさい。何があっても、どんな状況の中にあっても、平安を第一に確保しなさいと。

平安は、神への信頼から来る

② イエスの傷との一体化

イエス様が次ぎにされたことは、20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。20 When He had said this, He showed them His hands and His side.Then the disciples were glad when they saw the Lord.

イエス様は、ご自分の傷を見せられました。弟子たちは、喜びました。これは、何をさしているのでしょうか。私たちと、イエス様の関係は、このイエス様の傷にあります。 イエス様が、私の罪の身代わりとなって十字架についてくださった。苦しみと恥と、罪の罰を一手に引き受けてくださったのです。私たちクリスチャンにとって大切なこと、このイエス様の十字架との一体化なのです。

私の罪、私の恥、私の至らなさ、私醜さ、それから、イエス様の傷にイエス様の十字架に付けられたのだ。十字架をさて、「それは、あそこにあります!」という宣言が私たちをイエス様と一つにするのです。これが無ければ、私とイエス様の関係はないのです。まず、イエス様は、その傷を弟子たちにお見せになりました。。

あなたの罪は、今、今日どこにありますか。そう、あの十字架の上です。あなたの手元ではありません。もし、あなたの手元にあるものがあるのなら、今、今日、あの十字架 に持っていきましょう。

③ あなたは遣わされたもの: 宣教師

次ぎにイエス様が言われました。21「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」21 So Jesus said to them again, “Peace to you! As the Father has sent Me, I also send you.”

イエス様に罪赦されたクリスチャンは、すでに遣わされたものです。何と言う恵みでしょうか。天の父がイエス様を遣わしたように、イエス様に私たちは遣わされているのです。すなわち、父がしていることを見て、事を行なったイエス様のように、私たちもイエス様のしているわざを見て行なうということなのです。

私たちはイエス様が、「私を見たものは、父を見たのです」と言われたとおりに、「私たちを見たものは、イエス様を見たのです」と言うように、イエス様を指し示しながら生きていくのです。

あなたは、自分には何がないから、これがないから、と言い訳をしていませんか、また、特別な人だけが神様に召されていると思っていませんか。イエス様に罪赦された人は、みな、召されているのです。

★小さなさくらちゃんの証し

④ 聖霊と共に働く

22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。22 And when He had said this, He breathed on them, and said to them, “Receive the Holy Spirit.

イエス様は、さあ、宣教師となるために、学校に行きなさいとは言われませんでした。「聖霊を受けなさい」と息を吹きかけられました。

◎息を吹きかけて。。。息は、私たちの命のもと。最初の人アダムに神は息を吹きかけ生きたものとされました。私たちは、体だけでなく、霊が息をしないといけません。私たちの霊が、いのちの基をいただかなければなりません。霊が生きなければなりません。それは、聖霊様です。
そして、私たちの身体が息、空気に頼って一秒一秒生きているように、私たちの霊もまた、聖霊の息に頼って、一秒一秒生きていなければいけません。

私たちは、自覚しなければなりません。肉の力には限りがあること。私たちの肉的な考えは、何も霊的な祝福を生み出さないことを。
聖霊に満たされるとは、とても抽象的に聞こえ、ある人には理解出来ないかもしれませんね。

◎聖霊が来ると。。。次のようなしるしがあります。

ヨハネ14:26を読みましょう。
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。... But the Helper, the Holy Spirit, whom the Father will send in My name, He will teach you all things, and bring to your remembrance all things that I said to you.

ヨハネ16:13
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」 However, when He, the Spirit of truth, has come, He will guide you into all truth; for He will not speak on His own authority, but whatever He hears He will speak; and He will tell you things to come.

◎聖霊様に満たされあふれる体験、聖霊のバプテスマ

使途1:8
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」8 But you shall receive power when the Holy Spirit has come upon you; and you shall be witnesses to Me in Jerusalem, and in all Judea and Samaria, and to the end of the earth.”

力を受ける。恐れが無くなる。★私の証し。
神の力に頼る、神の力で生きる生活がクリスチャン生活なのです。

⑤ 赦すものとなる

23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」23 If you forgive the sins of any, they are forgiven them; if you retain the sins of any, they are retained.”

赦しとは、相手を責め、損害賠償を請求する権利を放棄することです。
赦しの反対、裁きとは、何週間か前にお話ししまたが、いのちを断つことです。人間関係の間で、裁きがあるならば、その人とあなたの間に、いのちや愛が行き交うことはありません。その道が断たれてしまいます。そこには、神の祝福がありません。
イエス様は言われました、この地に来られたのは、裁きのためではなく、救いのために来られました。天の御国の行使として、赦しを示されました。
私たちも、父がイエス様を遣わしたように、イエス様に遣わされたものたちです。私たちは、赦しの使者であります。
そして、イエス様の赦しが二つのものを一つにし、隔ての壁を打ち壊し、平和を作り出しました。
私たちは、平和をつくるものとされたのです。
赦し、和解をもたらすことがクリスチャンの使命であります。

★アーミッシュの赦しのお話し:

私がアメリカに来たころ、2006年に話題になっていた出来事がありました。それは、クリスチャンを狙った人質銃撃事件でした。五人の少女たちが命を落とし、五人が怪我をしました。なんとも、自分勝手で、卑劣な事件でした。しかし、世の中を揺さぶる出来事がありました。それは、このアーミッシュ(クリスチャン)が犯人を赦したことでした。この行動を「不相応な赦し」として愚かだという人たちもいました。また、これぞ、キリスト教と言われ、世界中でニュースとなりました。なんと、海外から、イスラム教の人たちから尊敬の手紙がぞくぞくと届きました。アーミッシュは、相手をゆるすことで、平和をつくりました。
パワフルな出来事です。

赦すことは簡単ではありません。しかし、「不相応な赦し」を受けたのは、この犯人だけではありません。この私もキリストに「不相応な赦し」を受けたものなのです。
赦しを受けたものとして、また人も赦すのがクリスチャンの務めです。

イエス様の言葉を重く受け止めましょう。

私たちが罪を赦すなら、その人の罪は赦され、とあります。23 If you forgive the sins of any, they are forgiven them; if you retain the sins of any, they are retained.”
イエス様は、私たちを小さなキリストだと言われているのではないしょうか。

今週これらのことを黙想しながら、歩んで行きましょう。

#キリスト教 #聖書

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クリスチャン生活の基本シリーズ⑤交わり

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今週の日曜日は、私たちの礼拝が... 今週の日曜日は、私たちの礼拝が終わってから、車で三十分ほど行ったところにある、ミャンマー人教会に奉仕に行きました。
この写真は、子どもたちの教会学校の様子。。。みんなかわいいです。。。ミャンマー語、さっぱり分かりませんでしたが、みんなは、こちらで育っているので完全なバイリンガルでした。
礼拝は、全て、ミャンマー語でし... 礼拝は、全て、ミャンマー語でした。。。全く理解でませんでした。私のメッセージには、牧師のジョシュアが通訳してくれました。
ジョシュアは、エリックのクラスメイトで、一緒に神学校で学んでいます。。。。私たちの教会でも時々メッセージしてくれます。お互い、仏教国出身のせいなのか、彼のお話しは、日本人の私たちに分かり易く、また思想的でとても深いです。。。。
ジョシュア夫妻と。。。奥さんの... ジョシュア夫妻と。。。奥さんの英語の名前は、私が付けました。クリスティーンです。ジョシュアと彼女は婚約中、アメリカとミャンマーで離れ離れでした。ある日、ジョシュアがグリーンカードのくじに応募しました。一つは、彼女のため、一つは、自分のために。。。すると、彼女にグリーンカードがあたり、はれてアメリカにわたり、結婚することが出来ました!!! そして、今は、男の子の赤ちゃんも生まれました。すばらしい!
2016年2月21日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/Hp8efTI4iIA

クリスチャンほど、共に集まることを大切にする人たちはいないと思います。今日は、教会の交わりについてお話ししたいと思います。

私がクリスチャンになりたてのころ、とにかく、教会に来たくて仕方がありませんでした。ほぼ毎日のように教会に来ていたと思います。

初めて宣教旅行に参加し、海外でクリスチャンに出会った時、心が躍りました。喜びでいっぱいになりました。教会では、教会員同士、神の子ども同士ということで、兄弟姉妹と互いに呼びあいますが、初めてあう人種の違う相手を心から自分の姉妹、兄弟と呼べる妙な感覚で包まれました。

また、初めて大きな聖会、クルセードのようなものにいった時、圧巻でした。何千人もの人と同時に声を合わせて神を賛美し礼拝する時に、喜びが爆発的に沸きあがりました。まるで、天国の前味のようでした。

聖書の中に、次のような言葉があります。

マタイ18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」20 For where two or three are gathered together in My name, I am there in the midst of them.”

キリスト者の集まるところに、それがたとえ二人、三人のような少ない人数でも、そこにイエス・キリストの臨在があふれるのです。そこに、神が共におられるという喜びがあるのです。

今の時代は、インターネットやテレビやラジオで気軽に神様のメッセージを聞くことが出来ます。そして、それで救われることも出来ます。そして、もともと人間関係が苦手、また社交的でない人は、人の集まりである教会に寄り付きたくなかったりします。けれども、聖書は、はっきりと、集まることをやめてはいけません。集まりなさいと言っています。

ヘブル10:25

ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。 not forsaking the assembling of ourselves together, as is the manner of some, but exhorting one another, and so much the more as you see the Day approaching.

では、私たちが集まって交わりを持つことは、どのような意味があり、大切さがあるのでしょうか。

★ 教会の交わりに加わること キリストの身体となる

私たちは、イエス・キリストを信じたときから、キリストの身体の一部となりました。教会の一部となりました。教会というのは、罪の暗闇の中から、神様のために呼び出されたものたちの集まりです。まだ、イエス様を信じているが、教会に繋がっていない人、あるいは、海外にいて特定の教会につながっていない人は、ぜひ、教会につながりましょう。

教会とは、次のように聖書で表現されています。

1ペテロ2:5

あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、きよい祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。 you also, as living stones, are being built up a spiritual house, a holy priesthood, to offer up spiritual sacrifices acceptable to God through Jesus Christ.

旧約聖書のソロモンは、大きな美しい石で神の神殿を建てました。しかし、どの石も生きているものではありませんでした。しかし今は、イエスを信じるものは誰でも、生ける石として、霊の家に築き上げられる、そして、神の住む宮としての役割を果たすものだとあるのです。行きながらにして、神に喜ばれ、そういう人が組み合わされて一つの大きな神の宮なのだというのです。また、次のような言葉もあります。

エペソ1:22

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 And He put all things under His feet, and gave Him to be head over all things to the church, 23 which is His body, the fullness of Him who fills all in all.

1コリント12:27

あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。Now you are the body of Christ, and members individually.

キリストが頭、そして、私たちが身体なのです。一人ひとりは、その手であったり、口であったり、目であったりする器官なのです。一人もかけては、キリストの考えていることをこの世で共に果たすことができないのです。わたし達一人ひとりに役割が必ず備えられているのです。

★ 一つとなるために

キリストの身体として、キリストを頭として、働くには、一つ心になって、一つマインドにならなければ、働くことは難しいですね。ここで、イエス様のとりなしの祈りについてお話したいと思います。イエス様は、十字架に掛かられる前に、わたしたちのことを思って、次のような祈りをされました。

ヨハネ17:11

わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。Now I am no longer in the world, but these are in the world, and I come to You. Holy Father, keep through Your name those whom You have given Me, that they may be one as We are.

ヨハネ17:21

それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。that they all may be one, as You, Father, are in Me, and I in You; that they also may be one in Us, that the world may believe that You sent Me.

イエス様の夢というのは、私たちと一つとなることでした。

ですから、神であられるのに、地にくだり、そして、私たちの一人のようになり、生き、苦しみ悲しみを味わい、そして、辱めを受け、十字架に掛かられ、恥を受け、罪人の一人として数えられました。

イエス様は、私たちを創造されたその時から、私たちと一つになりたいという熱い思いをもっておられたのです。

そして、今や、誰でも、キリストを信じるもののうちには、キリストの霊が宿ってくださるのです。キリストを信じるものは、キリストと一つになるのです。
そして、キリストがもう一度、地上に来てくださることが聖書に書かれてあります。その時がイエス様の夢の完成形です。

キリストの花嫁を花婿であるイエス様がついに婚礼のために迎えに来られるのです。
そのために、イエス様は、祈っているのです。

イエス様が父なる神と一つであるように、私たちも一つであるようにとイエス様は祈っています。考えにおいて一つ、心において一つ、行動において一つになること。イエス様が父と一つであるように、わたし達もキリストと一つであり、私たちも互いに一つとなること。これが、イエス様の願いであり、祈りであります。

私たちの信じている神は、三位一体の神です。三位が一つと数えられる神なのです。これは、深い真理であります。教会が見逃してはならない真理です。
私たちも、大勢いますが、一人として数えられるほどに、一つになるべきなのです。
そうするときに、全世界にキリストの姿を顕現することができるのです。なんと、教会はその姿から程遠いことでしょうか。

私たちは、リバイバルを人数や、大きなミニストリーなどによって測りがちですが、これは、正しい測りではないのではないでしょうか。
キリストの思いに寄れば、教会が一つになることが、これが本当の成熟の測りなのではないでしょうか。

一つになるには、コミュニケーション、交わり、互いに集まることなしには難しいのです。そして、一人ももれることなく、交わりに入らなければ意味がないのです。。。。

★ 共に集うことの大切さ

みなさん、順境の時は、私たちは一人でも楽しく信仰を保つことが出来ます。けれども、試練の時、逆境の時、私たちは、励ましが無くては、太刀打ちできません。私たちは、一人よりも複数でいた方が困難に立ち向かえるのです。わたしも、結婚する前は、ミニストリーしながらよくうつになり、落ち込み、不安になりました。しかし、結婚してからは、同じ信者である夫が常に励まし、誉めてくれるので、すっかりそのようなことはなくなりました。

次の聖書の箇所を読みましょう。

1テサロニケ5:10-18

主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。11ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。 12兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。13その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。14兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。15 だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。

★ 励ましのため

互いに励まし、徳を高めあいなさいというのです。キリストと共に死んでも生きる、永遠に生きるものとされたのですが、この世の逆境にあっても、それは、一時的なものであり、後の日に大きな報いがあることを互いに覚えて、励ましあいなさいというのです。
このテサロニケの教会は、大変な迫害の中にいたという背景があります。

★ 矯正と成長を助けるため

また、14兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。14 Now we exhort you, brethren, warn those who are unruly, comfort the fainthearted, uphold the weak, be patient with all.
私たちは、一匹狼では、成長できません。私たちの成長とは、キリストの身丈にまで、成熟することです。私たちは、先輩から教えられ、また互いに真理に照らし合わせて、自分を省みる必要があります。これは、人との関わりが無ければ、分からないことです。
人と、接するからこそ、自分の姿が見えてくるのです。罪とは、自分に起こった物事に対する心の反応で分かります。人に囲まれていなければ、どのようにして自分の罪にきがつくことができるでしょうか。

★ 祈りと奉仕のため

キリストの身体として、私たちは、この世にキリストの全体像を示す役目をになっています。キリストが考えていることを行動に移すこと。
身体全体が一緒に働いて、この世で神様の働きをするのです。
実際的な働きは、もちろんですが、約束を伴っているのは、教会の祈りです。

マタイ18:18-19

まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。まことに、あなたがたにもう一度告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。 “Assuredly, I say to you, whatever you bind on earth will be bound in heaven, and whatever you loose on earth will be loosed in heaven. 19 “Again I say to you that if two of you agree on earth concerning anything that they ask, it will be done for them by My Father in heaven.

私たちが集って共に集まり祈ることは、天においても地においても非常に力があるのです。天の父なる神様はそれをかなえてくださいます。とあります。私たちは、集まって祈ることをやめてはいけません。これが、私たちの大切な奉仕です。

私たちが肉体において共に集まり、交わりを持ち、互いに励ましあい、訓戒しあい成長を助け、たましいにおいても一つとなり、そして、共に祈り、天を地上に解き放ち、霊的にも一つになること、このように、霊、肉、たましい、どの分野においても私たちは、教会として一つになっていくことをめざしましょう。

教会にまだつながっていない人は、教会につながりましょう。教会につながっている人は、聖書の学び、祈り会などに参加しましょう。また、自分でそのような小さな会をつくってもかまいません。ラインやフェイスブックを通して、互いに祈り、交わってもかまわないでしょう。互いにつながり、互いに祈ることをやめないようにしましょう。




#キリスト教 #クリスチャン生活 #教会 #聖書

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