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東方の博士たちが見た星。
その星に導かれ彼らは
エルサレムからベツレヘムまでのやってきました。
また御子イエスのいらっしゃる家の真上にその星がとどまるのを見て
無常の喜びを得たとあります。
その家に子がいることを確信できたからです。
その家の屋根10メートル程の上空に星がとどまったことが想像できます。
先回はこの星の正体について多くの学者の諸説を紹介しました。
そして宇宙に存在する天体ではありえないことも聖書の記述から説明しました。
今回は私の理解しているこの星の正体についてお伝えします。
これは神の臨在に伴う栄光の輝きであり、
専門的にはシャカイナ・グローリーと言われているものです。
神は目に見えないお方ですが、
人間社会に特別な形でご自身を顕される時があります。
その顕現の際には様々な自然現象とも言えるものが伴われます。
雲、火、松明の炎、雷、稲光、火の柱、雲の柱、舌のような形をした炎などです。
この特異な自然現象によって神がご自身が顕現されていることを
人間には認識できるのです。
西洋神学でエピファニーと呼んでいたこの「顕現」を
ヘブル語で「シャカイナ」と言います。
その際、明るい栄光の輝きを伴って現れることからこの可視的な自然現象を
「シャカイナ・グローリー」とメシヤニック-ジュー(イエスをメシアと信じるユダヤ人)が呼ぶようになったのです。
東方の博士たちが見た星とは、このシャカイナ・グローリーであるとであると私は考えます。
イエス様の生誕とともにそのしるしが輝く星となってバビロニアの空に輝きました。
そしてその星が神の心のままに自由に動き、ときには消え現れしながら
博士たちを幼児イエスのいる場所までピンポイントに導いたのです。
私の卒業した神学校の創始者であり初代院長であられた蔦田先生は
これを「セキナの栄光」として日本語に訳されて紹介されました。
博士らに現れたシャカイナ・グローリーは御子生誕の晩、
ベツレヘムの野山に野宿している羊飼いたちにも現れています。
「主の使いが羊飼いの傍に立ち、
主の栄光が照らすとは神の臨在をわからせる現象であった。
これが『セキナの栄光』である。」
(蔦田二雄著 岩から出る蜜 P.276)
数週間ほど前のクリスマス礼拝では、
マタイ福音書2章が説教のテキストとして使われた教会が多かったと思います。
私もその日、隣の街の栄光キリスト教会でゲストスピーカーとして招かれていて
この箇所からお話しさせていただきました。
古来から議論となっているポイントは、
東方で博士たちが見た星でした。
聖書において「東方」とはメソポタミアのことであり
バビロニアかペルシャを示す地域限定用語です。
その地方の博士達が「ユダヤ人の王が生まれたしるし」としての星を見たとして
エルサレムまでやって来ました。
この星の正体については多くの学者達が推論して来ました。
有名なドイツのケプラーは、
木星と火星の融合したものだと結論づけました。
他の学者はハレー彗星であるとか
超新星、
2000年以上の周期にある彗星であると言う人もいます。
しかし聖書を厳密に解釈していくなら
この星がどの天体にも当てはまるものでないことが明らかとなります。
①この星はエルサレムからベツレヘムまで、北から南へと移動しています。
「すると見よ、東方で見た星が彼らを先導し」(マタイ2:9)
惑星は時に通常の軌道から逆方向へ進む場合があります。
その変則行動が博士たちをして導いたと解説している専門書を見たことがあります。
しかしその変則行動であったとしても惑星は東西の軌道上から外れる事はなく
北から南へ移動する博士たちを導く動きになり得ません。
②ある地点にまで進んでいき、そこにとどまっています。
「ついに幼児のおられるところまで進んで行き、その上にとどまった」(マタイ2:9)
あたかも意志を持っているかのような動きです。
進む方向も、止まる地点も、それが現れるタイミングも、
全てが博士らをして幼児イエスに導くためのものでした。
③長旅が報われた安堵と喜びを博士らに与えています。
「その星を見て彼らはこの上もなく喜んだ」(マタイ2:10)
この段階で博士らはまだ幼児イエスに面会はしていません。
その家の前で無常の喜びを抱いたのです。
そのためには誤りなく幼児の場所を探し当てたとの確信がなければならなかったはずです。
つまり、その星は幼児のいる家の屋根のすぐ上に止まったからです。
もしそれが天体の星であるならばその家も、ベツレヘム中の家家も町全体が破壊されていたことでしょう。
それでは、この星の正体とは何か?
次回私が理解しているところをおつたえします。
新約聖書が「奥義」と言う言葉を使うときに
これは聖書独特の概念を示す専門用語です。
一般的には通常、人には隠されているもの、長年秘められてきたものと言う意味です。
ところが聖書においてはそのベクトルは逆であり
「長年秘められていたことが明らかとされ、時至って開陳されたこと」
を指す言葉となっています。
新約聖書のコロサイ書には、
3つの奥義が出て来ます。
①教会の奥義(コロサイ1:24〜26)
「キリストの体とは教会のことです。……私は神から委ねられた務めに従って、教会に使えるものとなりました。これは多くの世代にわたって隠されていて、今や神の聖徒たちに現された奥義なのです。」
②内住のキリストの奥義(同1:27)
「この奥義とは、あなた方の中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」
③神の奥義なるキリスト(同2:1)
「豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。」
……………………………………………
これら3つのものは旧約時代には私たち人間に知らされておらず、
従ってその時代の誰も体験できないことでした。
主イエスが地上に来られた事で神の経綸(英語でエコノミー、またはディスペンセイション)
大きく動き、
私たち人間がこれら豊かな神のギフトを手に出来る道が開かれたのです。
クリスマス・イブの今宵、
イブのパーティに家族で行って来ました。
毎年の恒例となっている家族・親類でのパーティ。
年に一度しかお会いしない方々がほとんど。
子供らは背丈が伸びて成長ぶりに驚き、
変わらない壮年世代の元気さ、その成熟ぶりにお互い安堵する。
私よりも1世代上の叔父叔母の中には今年から老人ホームに入居したり、
ガン手術後のキモセラピーのため来られなかったりした方々が3名ほどいらっしゃた。
恒例の聖書朗読では最高齢のノームおじさんから
同世代の壮年にバトンタッチがなされていた。
月日と共に肉体は衰え
今まで出来たことが剥ぎ取られていく。
生きるというのは時に残酷である。
その現実社会に人となって来られたのが主イエスであられた。
神ご自身が肉体をともなって、しかも無力な赤子の姿をとりこの世に降誕された。
この事実は、病、死、罪という人の克服できない現実を凌駕するものがある。
それゆえ私たちは御子イエスのご生誕を喜び、
子供らにはプレゼントが贈られた。
サンフランシスコのマーケット通り
どんよりとした曇り空の続くシアトルの12月。
これは冬の典型的なノースウェストの天候で来年3月頃までこのような重たい空模様となる。
今日は雨が降らないだけそれでもまし。
先週のように氷点下にならないだけまだマシ。
しかも今年はどうした事か
師走だというのに道路は渋滞に犯されてない様子。
…………どうも天候やら道路状況に私の気分まで左右されているようだ。
紀元66年の使徒パウロは殉教を目前にして生涯の最後期に
その心情を吐露している手紙を書いている。
テモテへの手紙。
「しかし主は私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。
………………
主は私を全ての悪から救い出し、天の御国に救い入れて下さいます。」
(Ⅱテモテへの手紙4:17-18)
パウロにとっては環境が全てではなかった。
環境を超えたものを持っていた。
環境で恩寵の大小を計らずに
現実を超越したところにある恩寵を知っていた人物であった。
パウロの最期は実にひっそりとした寂しいものであったが
その心中には凱旋的勝利への歓喜が沸き起こっていたのである。
美しい目が欲しいなら、人の良いところを探しなさい。
美しい唇が欲しいなら、優しいことだけを話しなさい。
落ち着きが欲しいなら、自分はひとりではないということを胸に歩きなさい。
For beautiful eyes, look for the good in others;
for beautiful lips, speak only words of kindness;
and for poise, walk with the knowledge that you are never alone.
(オードリーヘップバーン)
オリンピック公園
申命記34章全節
申命記は40年間エジプトを脱出しシナイの荒野を放浪したイスラエルの民と行動共にしたモーセが律法を再述した書です。
34章が申命記の最終章で、
今やモーセが約束の地を望みながらもそこのモアブの地から天に帰る段階に至っています。
本章からは特に神によって用いられたモーセの資格が読み取れます。
❶健康に恵まれた人:「モーセが死んだ時は120歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。」(7節)
私の神学校の恩師は、
「肉によって御用するのではないが肉体においての御用であるから、健康が大切な資材である」と教えられました。
暴飲暴食を慎み粗食に甘んじ、
規則正しい生活が健康維持の基盤であることを神学校時代に体験を持って学びました。
❷神との親密さを保った人:「モーセような預言者はもう再びイスラエルには起こらなかった。彼を主は、顔と顔と合わせて選び出された。」(10節)
健康と気力の維持が次の段階に繋がります。
困難な仕事をやり遂げるためには常に動機が見直され、
目的が確固とされなくてはなりません。
聖書をよく学び神の知識を蓄え、神との親しい交友を築いていくことです。
❸神の経綸に生きた人:「主は彼に仰せられた、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに『あなたの子孫に与えよう』と言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたがあなたはそこへ渡っていく事はできない。」(4節)
出エジプトの立役者であり、40年間の原野での厳しい試練を乗り越え、いまや約束の地に入る手前まで来たモーセでした。
先祖に神が誓われた地にどれほど足を踏み入れたかったか、
彼は神にそのように願いましたが、神の答えは異なるものでした。
神の計画は別にあり、
モーセの次の世代のリーダーであるヨシュアが引き継ぐべきプロジェクトだったのです。
モーセはこれを受け入れ、
自らの役割を悟りました。
Burnsという人は、
「神が御心を行うために用いられる最大の道具は人間である」
と言っています。
神の御用を委ねられている私たち信者も、
神と顔と顔とを合わせる交友から、
その御心に生きるものとさせていただきましょう。
本日お会いした友人のYさんから嬉しいお知らせを聞きました。
近く、結婚されるというのです。
二人の子供を抱えるシングルマザーとして長らく頑張って来られました。
フルタイムの仕事との両立には困難なことも多かったはず。
しかしそんなことは微塵も感じさせずに
いつも笑顔を絶やさない美容師として活躍されていらっしゃいます。
まだ若い彼女にふさわしい伴侶者が与えられれば、、、
そう密かに願っていました。
この日お会いして、来年7月に結婚予定である事を告げてくれました。
その時の彼女の笑顔はまさに幸せそのもの。
新居へ引っ越す準備も始まって多忙のようですが、
将来への楽しみや希望のある時、どんな苦労も苦労で無くなってしまう様子が見て取れます。
神様は時に私たちに試練の中を通らせなさいますが、
そこを通過してさらに大きな祝福へと招かれるのです。
「あなた方の会った試練はみな人の知らないようなものではありません。
神は真実な方ですから、あなた方を耐えることができないような試練に
会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることの出来るように、
試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」
第一コリント10章13節
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