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つれづれなるままに

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「神のからくり」

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ヨルダン、ペトラにある岩石の砂... ヨルダン、ペトラにある岩石の砂粒で作られているデザイン




詩篇77篇


1,私は神に声をあげて叫ぶ。私が神に声をあげると神は聞いてくださる。
2,苦難の日に私は主を求め夜もすがらたゆまず手を差し伸ばした。けれども私のたましいは慰めを拒んだ。
3,神を思い起こして私は嘆き悲しむ。思いを潜めて私の霊は衰え果てる。セラ
4,あなたは私のまぶたを閉じさせません。私の心は乱れてもの言うこともできません。
5,私は昔の日々遠い昔の年月について考えました。
6,夜には私の歌を思い起こし自分の心と語り合い私の霊は探り求めます。
7,「主はいつまでも拒まれるのか。もう決して受け入れてくださらないのか。
8,主の恵みはとこしえに尽き果てたのか。約束のことばは永久に絶えたのか。
9,神はいつくしみを忘れられたのか。怒ってあわれみを閉ざされたのか。」セラ
10,私はこう言った。「私が弱り果てたのはいと高き方の右の手が変わったからだ」と。
11,私は主のみわざを思い起こします。昔からのあなたの奇しいみわざを思い起こします。
12,私はあなたのなさったすべてのことを思い巡らしあなたのみわざを静かに考えます。
13,神よあなたの道は聖です。私たちの神のように大いなる神がいるでしょうか。
14,あなたは奇しいみわざを行われる神。国々の民の中で御力を現される方。
15,あなたは御腕をもって贖われました。ご自分の民ヤコブとヨセフの子らを。セラ
16,神よ水はあなたを見ました。水はあなたを見てわななきました。大いなる水も震え上がりました。
17,雨雲は水を注ぎ出し雷雲は雷をとどろかしあなたの矢もひらめき飛びました。
18,あなたの雷の声は戦車のように鳴り稲妻は世界を照らし地は震え揺れ動きました。
19,あなたの道は海の中。その通り道は大水の中。あなたの足跡を見た者はいませんでした。
20,あなたはモーセとアロンの手によってご自分の民を羊の群れのように導かれました。


「神のからくり」


⑴苦難の日に


①初めて人は根源的な究極的な問いを抱く

切実な
「声を上げる」
「たずね求める」
「手を差し伸べる」
と言う姿勢が見える

②自分自身にも向けられた問い

自らの過失であり愚かさであり汚さが起こした渦巻きか、
不可解で不条理な暗黒に一人置かれた孤独

それまで教えられてきたことと異なる疑問
神ご自身に対する信頼の揺るぎ 6ー9節


⑵主の御業を思い起こそう


①天地創造からイスラエルの出エジプトに至る人知を超えた神の偉大な業。
ご自身の民に対する変わらない普遍のまなざし。

②翻訳上の課題
「いと高き方の右の手が変わったことによる」(10)
「変わった」(シェノース)は、「年々」とも訳せる。

その場合なら「右の手の年々のゆえに」と翻訳可能。
文語訳、NIV.


問題の根源が右の手が変わったと誤解したことによることか
変わらない右の手があることを想起したことが問題解決へと向かったのか。



⑶「あなたの足跡を見たものはない」


①出エジプト体験から道が海の中に、水の中にあることを経験した。
万策尽きた時に神の御業が現れる

よって結論は「あなたの道は聖です」
ー絶対他者性

②地にあるものが聖なるものと交渉する際に
必要な事はただ1つ信頼である。

どのように助けられるかの方法を見出すことではない。
#メッセージ

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「あなたがあなたになるために」

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「あなたがあなたになるために」



あなたはあなたで良い。

人が幼少の頃から教育され訓練される。

つまり、しつけられて行く。

家庭や学校ときには国家が理想とする型枠に人を当てはめるのだ。

もちろんそこには宗教と言う型枠もある。

その型枠に押し込まれて形成された人間は、
誰も同じような顔をしている。

家長や教師、聖職者や独裁者にとって都合の良い人間ではあろう。

だがそれと同時に笑顔は失なわれ、生気も吸い取られ生きた屍が完成する。

「いいえ、レールの上を走ってきた者たちにも生き甲斐や喜び、笑顔がありますよ」

そう反論してくる人もいる。

しかしその時の笑顔がまた、他者と同一のものであったりする。

生きることと自由とは、本来どちらも尊いもので、
どちらも同じような価値を持っているものではないか。



「真理はあなたを自由にする」


主イエスはそのように言われた。


人が真の自由に生きる時

その人の本来の持ち味が発揮されて

顔にもにじみ出てくるようである。



#メッセージ

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「イエスとともにいたのだ」

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「イエスとともにいたのだ」 「イエスとともにいたのだ」 「イエスとともにいたのだ」



「イエスとともにいたのだ」

使徒の働き4章5節〜18節

「5,翌日、民の指導者たち、長老たち、律法学者たちは、エルサレムに集まった。
6,大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレクサンドロと、大祭司の一族もみな出席した。
7,彼らは二人を真ん中に立たせて、「おまえたちは何の権威によって、また、だれの名によってあのようなことをしたのか」と尋問した。
8,そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。
9,私たちが今日取り調べを受けているのが、一人の病人に対する良いわざと、その人が何によって癒やされたのかということのためなら、
10,皆さんも、またイスラエルのすべての民も、知っていただきたい。この人が治ってあなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることです。
11,『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石、それが要の石となった』というのは、この方のことです。
12,この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」
13,彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。
14,そして、癒やされた人が二人と一緒に立っているのを見ては、返すことばもなかった。
15,彼らは二人に議場の外に出るように命じ、協議して言った。
16,「あの者たちをどうしようか。あの者たちによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムのすべての住民に知れ渡っていて、われわれはそれを否定しようもない。
17,しかし、これ以上民の間に広まらないように、今後だれにもこの名によって語ってはならない、と彼らを脅しておこう。」
18,そこで、彼らは二人を呼んで、イエスの名によって語ることも教えることも、いっさいしてはならないと命じた。」





(序論)
私たちクリスチャンは外部の人達にどのような印象与えているか。
イエスと共にいたということをわからせるものだろうか。



⑴人に依拠するものでは無い


①無学な普通な人であったペテロとヨハネ(12)〜他者の彼らに対する認識

ラビ専門教育を受けたものでもないのに神殿において群衆を教え男の数で5,000人もの人々が信仰に入った。

彼らは誰特別な才能があるのではないガリラヤ出身の漁師である。


②自分の力とか信仰深さによるものではない(3:12)〜自らの認識

生まれつきの男を歩かせたと言う偉大な奇跡は、イエスの第一弟子として偉大な信仰があったからだと言う自負はなかった。



⑵単純、占有的な福音理解


①イエスの御名が男を立たせた(4:10、7)

それはイエスご自身がした御業であるとの宣唱だった。

「家を建てる者たちに捨てられた石が礎の石となった」
詩篇118:22にあるこの予言がイエスにおいて成就した。

②「この方以外には誰にあっても救いはない」とする占有された世界観。

それはこの世的には受け入れられなくても聖書的なものである。



⑶イエスの霊(聖霊)に満たされていた

①弟子たちに「大胆さ」(4:13)が与えられたのは2章冒頭にあるペンテコステの経験を経た後である。

その時にイエスと一体化し

そのからだなる教会に連なり

イエスの霊に満たされるものとされた。


②聖霊の満たしを継続するために

継続したメソジカルな宗教的営みがあった。

「ペテロとヨハネは午後3時の祈りの時間に宮に上っていった」(3:1)

新しく誕生した教会の群れは、

弟子たちからの教えを受け

交友をし

聖餐式を重んじ

祈りを共にしていた(2:42)


#メッセージ

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「見ないで信じるものに」

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サンフランシスコ・マーケットス... サンフランシスコ・マーケットストリートにて


「見ないで信じるものに」


ヨハネ福音書20章24〜29節

「24,十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
25,そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
26,八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
27,それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
28,トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」
29,イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」





⑴実証主義者トマス



①懐疑主義者とレッテルするよりも実証主義者であった。
興奮して話す他の弟子らの証言、
主の復活を目撃した体験談を聞いたとしても
自ら経験しなくては気がすまなかった。

②一途に真摯に真理を追求する学者タイプ。

殉教死を覚悟する一途さ(ヨハネ11:16)
真理を突き詰めるまでは休まない真剣さ(ヨハネ14:5)



⑵求道探検者トマス


①弟子たちの群れにとどまり続けた。

他の弟子たちのような信仰体験はなく
引け目を感じたとしても群に留まり続ける幸い。

②求める者には応えられる。

デドモと言う別名の意味は双子。
片方の兄弟に関しての聖書の言及がない。
信仰継承は地縁や血縁によらず神からの応答のみによる




⑶礼拝者トマス



①主イエスの圧倒的な顕現に触れて

不信仰の言葉の一語一句はすべて聞かれていた(25節と27節を比較)
目前の主を神ご自身と認めた礼拝の行為


②「見ずに信じるものは幸い」

感覚やご利益を土台とする信仰は常に不安定
御言葉に啓示されている主の人格と御業に信頼しよう


























#メッセージ

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「この道はいつか来た道」

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サンフランシスコ・アルカトラズ... サンフランシスコ・アルカトラズ島 そこにはかつて極悪人の入る連邦... そこにはかつて極悪人の入る連邦刑務所がありました アルカトラズからサンフランシス... アルカトラズからサンフランシスコを眺めて

時に私たちは日常の試練が重たく敵に攻め滅ぼされてしまうかのような感覚に陥ることがあります。


もちろん敵とは戦場で会う対戦相手のことではなく、

私たちの健康問題、経済問題、そして将来の見通しから人間関係に至るまでのあらゆる試練のことです。


そんな時これまでの歩みの中でどのようにして守られ支えられてここまで来たかを思い出してみるのもいいかもしれません。


ヤコブと言う人は近隣の都市国家に住む人たちの攻撃を恐れているときに神からの声を聞きました。

ベテルに家族とともに引っ越してそこに祭壇を築けと言うものです。

ベテルはかつて彼が家庭内の問題から家出をし異国へ1人旅立つ時に孤独の中で現れた神の顕現の場でもありました。



新たな危機意識の中で信仰の原点に立ち返るようにとのメッセージです。



「私たちは立ってベテルに上って行こう。
私はそこで私の苦難の日に私に答え、
私の歩いた道にいつも私と共に居られた神に祭壇を築こう」(創世記35:3)


そこのベテルに着いた時、
神が再びヤコブに現れて祝福され言葉をかけられています。

その言葉は、アブラハムに約束された契約の再更新となっています(9ー12節)。


あなたが孤独を感じる時、
決して1人ではないことを思い出してください。

いくつもの危険や絶体絶命のピンチを乗り越えてあなたはこの年まで生き延びてきたのです。

それは偶然がもたらしたものではなく、

あなたを形作り

あなたを生かしてこられた

大いなるお方の計画であり目的にかなった事でした。



この大いなるお方が

永遠に変わらない契約の中にあなたを置き

その契約に生きるようにとあなたを招いておられます。

#メッセージ

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イースターおめでとうございます

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イースターおめでとうございます イースターおめでとうございます イースターおめでとうございます

イースター㊗️おめでとうございます
#メッセージ

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打ち傷ゆえに癒された

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打ち傷ゆえに癒された 打ち傷ゆえに癒された 打ち傷ゆえに癒された




受難週の金曜日。
英語でグッドフライデーと呼ばれている本日は
キリストの十字架の苦難を記念する日であった。
700年ほど前に記されたイザヤの予言の通りに
自ら進んでその命を捧げられたイエス。
ローマが生み出した最も残念な処刑方法である十字架。
その打ち傷ゆえに私たちが癒された。
それ以外にはなかった癒し。
完璧な癒しがここにある。
十字架には、
①罪から離れさせる力があるから
②神の義に生きることを得させるから
③心身をケアしてくれる優しい牧者のの元に帰れたのだから
④逸脱から守る監督者の指導の元にあるのだから


イザヤ53:5-6

しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。



Ⅰペテロ2:24-25

キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。

あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。









#メッセージ

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なおも、ほめたたえる

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なおも、ほめたたえる



詩篇42篇5節

「わがたましいよ。なぜおまえはうなだれているのか。
私のうちで思い乱れているのか。
神を待ち望め。
私はなおも神をほめたたえる。
御顔の救いを」

私たちの日常生活には、
心がうなだれ、失望するようなことが時に起こります。

その時の対処法ですが、


⑴自分を知れ

そんな時まず大切なのは、

客観的にそして俯瞰的に

自らのその姿を正確に揃える事です。



「わがたましいよ。

なぜ、お前はうなだれているのか」



少し前の新改訳聖書では、
「なぜ
お前は絶望してるのか」とあります。



絶望している自分をまず知ることから
脱出への糸口が掴めます。


絶望している自分を否定すると

いよいよストレスがかさみ、

やがてはパニックとなり

良くない決断をしてしまって

さらなる傷口を広げることになりかねません。





⑵過去のデータベースを掘り起こせ




絶望して思い乱れている心であることを認めた上で


「神を待ち望め」と自らに問いかけています。


なぜならかつて神がどのように祝福し

祭りを喜びをもって祝い

栄誉と勝利を経験した基盤となる経験値があったのです。


「私は自分のうちで思い起こ

私のたましいを注ぎ出しています。

私が祭りを祝う群衆とともに喜びと感謝の声をあげて

あの群れと一緒に

神の家へとゆっくり歩んで行ったことなどを」

(42:4)





⑶人格との出会いがある 「私の救い、私の神を」



アブラハム・イサク・ヤコブの神は

イスラエルの歴史の中で出エジプトと言う

輝かしい奇跡を持って民を贖い救い出されました。


民族を救われた神は、

私たち一人一人と出会い

その窮状を知り

そこから引き上げてくださることができるお方です。









昨日の夜、長女から緊急連絡が入りました。

車のタイヤをパンクさせ

アルバイト先から帰れずに

スーパーの駐車場に車を乗り捨ててきたと言うのです。

翌日は私が学校まで送って行くことになったのは良いこととして

牽引トラックの手配

新しいタイヤの調達

保険を使うかどうかなど

面倒な懸案事項が湧き上がりました。



翌朝、彼女を起こそうとベッド脇で唸っている最中にも

電話が入りました。

すでに牽引トラックが現場に到着しているとの事。

予定より15分早いのですが

私がそこにいなければならないのです。


そんなことで私にもストレスがかさんでいました。

さらにその間に長男を朝食を食べさせ

彼の学校に送らねばならない。

ところがその途中、彼が携帯電話を忘れたため

家にまで引き返したりという

トラブルが重なりました。



こういったうなだれる、絶望する要因は

私たちの日常には事欠きません。


そんな自分を10メートル上空から客観的に把握することができたならば


心を憔悴させることから幾分か解放されて行きます。


必ず解決がある!


必ず脱出の道がある!


必ず勝利が待っている!


過去ののデータベースからそう確信できたら幸いです。

それは私自身に根拠あるのではなく


私を生かし

今も支えて下さっている方が

そばおられ、

必要な助けを与えて下さる事実から。




「私はなおも神ををほめたたえる。

私の救い、私の神を」(42:11)



結果的には

トラック会社がタイヤショップに車を牽引してくれ

長女も学校の授業に間に合い

すべては半日で解決してしまいました
#メッセージ

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「どうしても必要なたった一つのこと」

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今年1月ベタニア村にあるマルタ... 今年1月ベタニア村にあるマルタ、マリヤ、ラザロの家の跡地に行ってきました 彼らの家の跡地にはカトリック教... 彼らの家の跡地にはカトリック教会が立っています その家から2軒離れたところにラ... その家から2軒離れたところにラザロの墓がありました



「どうしても必要なたった一つのこと」
ルカの福音書10章38節〜42節


ルカの福音書
10章38
,さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
39,彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
40,ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
41,主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
42,しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」




⑴ベタニア村の二姉妹



①ベタニア村にある平凡な家。


そこは主のエルサレム伝道旅行途上にあり、

しばし立ち寄られた憩いの家であった。

マルタ、マリヤ、ラザロの仲良し三兄妹がいた。


②タイプの異なる姉妹。



静思型マリヤ

行動型マルタ


③異なる賜物は異なる奉仕のあり方となって現れた

台所仕事のもてなしの奉仕

御言葉に生きているのもまた奉仕である


⑵姉マルタのつぶやき


①噴出したストレス

13 +3の食事や宿泊の山積した仕事

妹への不満を口にしその境遇に置かれている自己の憐憫、主への不満となって現れた


②イエスの人間性への思いやりと理解

主はマリアを叱責されたのでなくやさしく呼びかけられた

「マルタ、マルタ」と個人名が神ご自身によって呼ばれた例は他にも例がある

アブラハム、サムエル、ペテロ、パウロに。

個人はもとより歴史上の重大転機に呼ばれている

マルタの場合は他愛の無い日用生活の一コマ

限りなく人間の弱さに寄り添っておられる主の姿がここにある



⑶どうしても必要なこととは何か


①なぜ御言葉に「聞く」ことが重要か

キリスト教は聖書による啓示宗教である

啓示された真理を理解し信頼することから信仰が生み出される実践へと繋がる


②聞く奉仕に徹したマリアが得たものとは?

主の死と埋葬の苦悩を共有しナルドの香油を注ぐ至った(ヨハネ12:3)


③主のために働く OR. 主に働いてもらう

主のために忙しく活動する〜私の出来る奉仕やささげもの

主が私のためになされる御業〜新たな知識と体験



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国境の町・ベエルシェバ

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サンフランシスコダウンタウンの... サンフランシスコダウンタウンのホテルはとても小さな部屋なのですが快適に過ごせるよう工夫されています。 明日は5時半には起床して6時に... 明日は5時半には起床して6時には出立しなければなりません。その日大切なメモリアルサービスがあるのです。


創世記46章1〜6節


1,イスラエルは、彼に属するものすべてと一緒に旅立った。そしてベエル・シェバに来たとき、父イサクの神にいけにえを献げた。
2,神は、夜の幻の中でイスラエルに「ヤコブよ、ヤコブよ」と語りかけられた。彼は答えた。「はい、ここにおります。」
3,すると神は仰せられた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民とする。
4,このわたしが、あなたとともにエジプトに下り、また、このわたしが必ずあなたを再び連れ上る。そしてヨセフが、その手であなたの目を閉じてくれるだろう。」
5,ヤコブはベエル・シェバを出発した。イスラエルの息子たちは、ヤコブを乗せるためにファラオが送った車に、父ヤコブと自分の子どもたちや妻たちを乗せた。
6,そして、家畜とカナンの地で得た財産を携えて、ヤコブとそのすべての子孫は、一緒にエジプトにやって来た。



このときのヤコブにとりベエルシェバは、

人生を画するする重大な意味を持っていた。


⑴歴史の転換点となった地。


70人程のヤコブ一家は

約束の地を出てエジプトに向かおうとしています。


そのエジプトでは400年間を過ごすことになりますが

彼らはその地で人口2百万人を超える一大民族に成長します。


つまり1部族が1民族に脱皮するのがエジプトであり

そこへ至る国境の町がベエルシェバなのです。


ヤコブ一家とっても人類全体の歴史にとっても転換点となるその瞬間、

神は「ヤコブ、ヤコブ」と2回も名を呼んで語っておられます。




⑵恐れを克服した地。


ヤコブにとってエジプト行きは、

心の整理がつかないままの葛藤を覚えたものでした。


そんな彼に「恐れるな」と神は語られましたが、

彼の恐れにはどのような理由があったでしょうか。


130歳という高齢は新しい環境と気候、仕事を恐れた。

アブラハム契約継承者としての神の使命に合致しているかの不安。

エジプト文化の中で民族的アイデンティティーを失って同化してしまうのではないかとの懸念があったことでしょう。

エジプトでの生活が困難であるとの預言から将来への不安。


「あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、

彼らは奴隷として400年の間、苦しめられよう」(創世記16章13節)



約束の地を離れて祝福があるだろうかとの不安。



かつても飢饉の時にアブラハムが、

イサクが約束の地を離れ失敗をしています。

イサク自身もパダンアラムへ逃れたことがありました。


これらは自分の都合による移動であり、

神からの許しを得ずに他国行ったときには痛い目に遭ってきたのです。



⑶神の語りかけによる決断の地。

夜の幻の中で神はヤコブに直接語りかけています。

これで6回目の顕現となります。


①アブラハム契約を結んだ神である。


②恐れなくても良い。

それが神の御心であり一大民族とさせる。


③神自身がヤコブと共にいる。


④ヨセフに見守られ天寿を平安の内に全うする。


これらの神の言葉があったゆえにヤコブは決心ができ

旅立ちを完成させた。

ベエルシェバは国境(境界線)の町であった。

私たちが人生の岐路に立つ時、

決断力はどこから生まれるだろうか。

それは神の言葉に親しみ、その御心を確信するところから生まれてくる。

日々聖書を読み
祈りながら導きを仰ぐ時に

神の御旨が徐々に分かるものである。

#メッセージ

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