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【勇気が出る20の言葉】
①望む現実を創るとは望む自分を創ること
②すべての壁は自分の内にある
③できるかできないかではなく
やるかやらないか
④やる人は「時間」を作り
やらない人は「理屈」を作る
⑤他人に期待すれば不満になり
自分を信頼すれば自信になる
⑥人は欲しいものではなく
自分と同類のものを引き寄せる
⑦だから素敵な恋人を求める前に
素敵な自分になろう
⑧愛を求める前に愛に生きる人になろう
⑨問題は「彼ら」が何をするかではなくて
「自分が」何をするか
⑩人間関係とは他人を通して
自分自身との付き合い方を学ぶ機会
⑪他人を変える一番良い方法は
自分の視点を変えること
⑫転ぶものほど転び方がわかる
⑬自分の苦しんだ経験が他人の役に立つ
⑭「辛い」+「-」=『幸』
⑮人は賛成意見に勇気づけられ
反対意見で成長する
⑯自分の短所を受け入れるとき
自分らしさという魅力が生まれる
⑰最大のピンチは最大のチャンス
⑱大変とは大きく変わる事
⑲うまくやるより本気でやる
⑳出来ない理由は出来る理由は。
藤本満先生を講師としたインマヌエル綜合伝道団主催のe-learning8週間コースが終わりました。テーマが、「現代的コンテキストで十戒を読む」。
自ら主体的に考えることを基本に据えた講座でした。
講師の動画講義はもとより受講生のレスポンスのそれぞれの体験談から醸し出されてくるユニークなコメントが洞察深く、それまでにいだいたことのない概念へ触発されることが多かったです。
8週間最後週のテーマが、これまた今日的であり論争の多い同性愛問題。聖書を表面的に字面だけの文言を取り上げて解釈することの危険性。
いったい主イエスなら涙と血の通う現実の人間を前にどのように接しだろうか?との、より根幹的な視点に立つ重要性。
さらに一見同性愛を弾劾する厳しい言葉を聖書に記させた当時の文化的習俗的な背景を知った上で、そのテキストを含んだ書簡が全体として何を伝えようとしているかの文脈をわきまえなくてはならない点も確認することができました。
その週の課題である私の投稿文をここに紹介して本講座の紹介とさせていただきます。
講師の藤本先生と鈴木先生、そして今回もまたお世話になった大津さん。
有意義な学びとなったこの機会を心より感謝しています。
(以下が私の投稿文書です)
藤本先生
本講座の最後に現在最もホットでありかつ何が正しいかとても断言できないかのような微妙な題材を取り上げてくださいました。
そればかりでなく先生ご自身のお考えも余すところなくお伝えくださり嬉しく存じます。
先生がこのように同性愛についてお考えになるのは、親しい友人との出会いが大きく関係していると伺いました。その中で主イエスであったらマイノリティーに対し、社会から阻害されていると感じてすでに悩んでいる者に対してさらに聖書の言葉を盾に断罪するとは思えないとの聖書全般に対する基本的な考え方がベースにあると伺いました。同性愛に対しての私の基本的な考え方を形成したのもまた同様なプロセスがあったことを認めます。
同性愛的志向があることをある方は幼少期から感じていたのですが保守的なクリスチャンホームの中で育てられる中でそれを正直に認めることができないまま宣教師にもなっていました。40歳を超えたときその人は同性愛の友人たちとの付き合いの中でそのことに目が開かれていったのでした。そのような世界が存在すること、そしてそれは神が与えた性の賜物であること、それに正直に生きることが誠実な生き方であるとの信念を持ち、離婚した上で同性のパートナーと同居を始めました。私から見てその人はとても真面目で良識的な信仰者です。
このような実際的なLGBTの方との出会いがなければ私も同性愛に関する聖書箇所をそのままストレートに受け取っては許容することができなかったでしょう。小学生がするような表面的に聖書の文言をそのまま解釈しては彼らを断罪していたと思います。今回の講座で解説してくださった聖書の解釈方は大変考慮するべきものであり、正当に扱われるべきものと考えます。
イスラエルは選ばれた民族として他の民族とは異なるアイデンティティーを確保するために様々なタブーがあり、その社会的祭儀的習慣の枠組みの中で独自の共同体を保ってきたとする視座。主イエスによってモーセ律法が完成し、信仰生活の規範としての効力を失った新約時代、それらのタブーがあらゆる面で崩壊し覆してきたのがキリスト教の歴史であったとの解説。
どれも1つの聖句からだけでなく聖書全巻を見渡す広い文脈の中で導き出される視座であろうかと思います。
さらに創造の秩序を理由に同性愛を否定する人たちに対しては、次のように考えることができないでしょうか。
神が人を男と女とに創り、一心同体となって家庭を造るのが御心であるのは間違いありませんが、それは一般的に、マジョリティに対してあてがわれるものであり、例外を排除するものでは無い。性的不能者として生まれてくる場合、遺伝子異常による性同一性障害、さらにそのような性的少数者ばかりでなくても手足を失ったまま生まれてくる身体的なハンディの場合、知能や精神にハンディを持って生まれてくる場合などもあるでしょう。それゆえに家庭生活を形成出来ないからといって神の御心に反しているは言えないはずです。それらを失敗や堕落として排除するならナチスドイツの優生保護法につながる恐ろしい考え方であり、むしろそれらハンディ(障害)と一般に思われるものは、各人に与えられた個性として、神の愛と御守り中にあるものとしてリスペクトするものではないでしょうか。
「神のわざがこの人に現れるためです」(ヨハネ9章3節)
ローマ書1章や他のパウロの書簡でも同性愛や男色を罪深い行為として取り上げている事例について。
これらの聖書箇所が罪深い行為として同性愛行為を咎めている文脈は、神を認めない反抗的な人間が欲望と情欲を自らの神とし偶像礼拝を積極的に行った結果、自制のきかない性的逸脱の中で最終的に同性愛や獣淫と言う不自然な性行為に淫乱に陥ったとしているところのものです。その具体的事例が創世記にあるソドムの街の様子です。旅人の男性らを強姦目的で家に侵入しようとする街中の男たち。それに対して未婚の娘を身代わりに差し出そうとする父親ロトの落ちた倫理観。淫乱の極みに陥り理性を失った人々は当然さばきの対象となるものですが、それと本来同性愛的志向を持って生まれた人として倫理観と良識とを備えている一般市民、まして信仰を持っているクリスチャンらとを同列に扱うことはできません。
ここで同性愛的志向と性行為とを分けて考える教団があります。
性的志向は神からの賜物として先天的なものでゆえ個人が変えることができないことを認めるとしても、同性同士の結婚や同居、性行為までは認めないとする考え方です。私の最も信頼を寄せている米国のあるメジャーなプロテスタント教団がそのようなスタンスに立っています。私もこれについては白黒決めることはできませんし、聖書も沈黙しているように思います。ただ同性愛の存在を認めてもその行為や同居を認めないと言うのは異性愛者のマジョリティーとしての論理であって少々横暴ではないかなぁとも考えます。パートナー以外との性的関係を否定し、貞操を守る良心的信仰的な同性愛カップルに対して教会として門戸を閉ざすことが果たして許されるのでしょうか。彼らを罪人として断罪し、のけ者にすることが果たして主イエスの教えと合致してるのかどうか甚だ疑問です。神はありのままの、あらゆる個性をその人のままのかたちで受け入れてくださるお方であると信じるからです。
「割礼を受けているかいないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です」(ガラテヤ6章15節)
以下がブルースリーが残した言葉だそうです。
映画では多くを語りませんが、そのカリスマ性が一目でわかってしまうほど、特異な存在でした。
まさに映画の中の役者と言うよりも彼自身の武道に対する哲学をそのまま表現したのが「燃えよドラゴン」の映画だったと言えそうです。
そんな彼がいかにも残したような言葉です。
賛成も反対もしない。
決して他者を比べることをしない、孤高の人でした。
(1)
常に自分自身であれ、自分を表現し、自分を信じろ。成功者を探し出してきて、その人と同じことをやろうとするな。
(2)
パンチとは目標を「打つ」のではない。「打ち抜く」のだ。
(3)
簡単な人生を願うな。困難な人生を耐え抜く強さを願え。
(4)
失敗は、それを認める勇気さえあれば、いつでも許されるものだ。
(5)
誰が正しくて誰が間違っている、誰が誰より優れているなどと考えるな。賛成も反対もするな。
(6)
私が恐れるのは、1万通りの蹴りを1度ずつ練習した者ではない。たった1つの蹴りを1万回練習した者だ。
(7)
武術家の肉体は武器である。にもかかわらず、武器の手入れを怠る人間が、なんと多いことだろう。
(8)
境遇なんかクソくらえだ。俺は自らチャンスを創りだす。
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(9)
重要なのは日ごとに技量が増えることではなく、減らすのを心掛けることだ。つまり実質に関係ないものはどんどん捨てることである。
(10)
物理的であれ、なんであれいつも自分のやることを制限してしまうとそれはあなたの行動、人生にも広がってしまう。限界などない、停滞期があるだけだ。そこに留まってはいけない。
(11)
敵と戦うとき、勝敗は意識のなかから消し去るべきである。 状況に応じて動けばいい。
(12)
あなたが思い描くように、あなたはなっていく。
(13)
知るだけでは不十分。応用しなくてはならない。決意するだけでは不十分。実行しなければならない。
(14)
馬鹿な人間が賢明な答えから学ぶよりも多くのことを、賢明な人間は馬鹿な質問から学ぶ。
(15)
行動した者だけが学ぶことができる。
ホサナキリスト教会の日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「植えて水を注いで」
コリント人への手紙 第一 3章1~9節
"兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。
私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。
あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。
ある人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っているのであれば、あなたがたは、ただの人ではありませんか。
アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。
私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
植える者と水を注ぐ者は一つとなって働き、それぞれ自分の労苦に応じて自分の報酬を受けるのです。
私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。"
⑴世界の畑にいる3種類の人たち
①「御霊に属する人」〜「成人」(2:6)
②「肉に属する人」 「キリストにある幼子」〜その現れは「ねたみや争い」
③「ただの人」(3)〜「生まれながらの人間」(2:14)
⑵畑を耕作する者たち
①コリントは畑、そこで労した二人の農夫
②開墾者としてのパウロ〜使徒18:4-11
③農務者としてのアポロ〜使徒18:24-28
④役割は違えどそれぞれは、「信仰に入るために用いられた僕」(5)に過ぎない
⑶育てたもうは神
①作物は種、苗、結実と太陽光を浴びながら自ら発芽し成長して行く
②耕作者は神の協力者(9)。それぞれの働きにはやがて報酬を受ける時が来る。
③「成長させたのは神」(6)
(結論)
人が気になるか?
一切の源泉は神にあり、神へのの絶対的な信頼を一貫させよ。
「訓練・隠遁生活がもたらすもの」
マタイの福音書 4章1~11節
"それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。
すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」
イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」
すると悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
こう言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」
イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、
こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」
そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」
すると悪魔はイエスを離れた。そして、見よ、御使いたちが近づいて来てイエスに仕えた。"
⑴モーセのミデアンでの40年間〜出エジプト3章1〜6節
①それまで宮廷での40年間であらゆる学問と武術を習得したモーセは、解放者としての自負心や他者への優越感を持っていた。それがミデアンの荒野において単調な羊飼い生活を40年間過ごした今、敗北感と劣等感の中に置かれている。
②そんな彼に神は思いがけないミッションを授けられた。己ではなく神により頼むことを伝えた。新たな自己認識を形成する期間となった。
⑵パウロのアラビア生活〜ガラテヤ1章15〜17節
①エリート意識と自己義の塊であったパウロが太陽より輝く光に打たれキリストの言葉を聞いたとき、それまでの行き方が崩され、過去のあらゆる価値観がご破算となった。
②キリストに出会うときに私たちの世界観と生き方のパラダイムが大きくシフトされる。
古い過去の精算と新たな目標の整理期間であった。
⑶イエスの荒野での40日間〜マタイ4章1ー11節
①執拗に迫り来る悪魔の誘惑と攻撃に、神の言葉を用いて撃退されたイエス。
富と名誉と権力と言うあらゆる地上にある誘惑を経験された上で勝利された。
②私たちが自らの生きる目的と使命とが確立されるには神の言葉を学び、咀嚼し、蓄え、実生活に適用するまで親しまなくてはならない。
(結論)
私たちに必要なのもこれらの3点である。
神の前の静止の時、己を知り、キリストを新たに発見し、そして使命は御言葉によって確認させていただこう。そのためにも深く隠遁しようではないか。
"ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の訴えは私の神に見過ごされている」と。
あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない。
疲れた者には力を与え、精力のない者には勢いを与えられる。
若者も疲れて力尽き、若い男たちも、つまずき倒れる。
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。"
イザヤ書 40章27~31節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
「飛翔の時」
⑴ヤコブのつぶやき
①人間一般の落胆と嘆き(27)
人は不条理や理不尽な仕打ちを受ける時に
誰も自分のことを理解してくれるものはいないと投げやりになる時がある。
②そんなあなたへの問い(28)
この問いを聞いたことがあるか無いかで人生は二分されてしまう。
人がどれほど栄華と富を蓄えたとしてもつかの間のことであり(7-8)、
変わらない永遠の存在者がいることを知っているか。
「なぜ」(27節に2回)
「知らないのか」「聞いていないのか」(28)、(21)
⑵永遠者のつぶやき
①測り知れない英知
天地の万象や微小な日被造物に至るまで全てを統制し生かしておられる方がおられる。
「一つ一つ、その名をもって、呼ばれる」(26)
「名前」はヘブル的に実態を表し統御・支配していることになる。
地球球体説が確証されるマゼラン以前に既にそれは啓示されている。
"主は、地をおおう天蓋の上に住む方。地の住民はバッタのようだ。主は、天を薄絹のように延べ広げ、これを天幕のように張って住まわれる。"
イザヤ書 40章22節
「天蓋」とは原語で「地の円」であり、地上が球体であることを教えている。
②疲れることも、たゆむことのない方
疲れを知らないとされるエネルギッシュな若者と対比(28-29)。
そんな若者でも疲れて倒れることがある。
⑶飛翔の時
①「新しい力を得る」(30)
つぶやきしか出てこなかった者に
永遠者なる方の無限エネルギーが注入される。
よって、人は、
飛翔し(永遠の世界への眺望)
疾走し(危機からの脱出と克服)
徒歩する(日常生活での同行)
②「主を待ち望む者に」
天地の創造者なる方の働きかけを認めるもの
その方の犠牲と語りかけを信じるものに
今、私の人生でのチャレンジに応答する者に。
この5月14日、米国はそれまでテルアビブにあった大使館をエルサレムに移転しました。
米国のこの決断は中東紛争に新たな火種を起こすものとして警戒されていました。
ガザの国境付近で民衆デモが起こり、
それが発砲事件へとつながった事は痛ましい限りです。
その一方で多くのアラブ諸国は冷静を保ったまま、
特に対抗措置を講じようとしていないようです。
エルサレムの政治や司法、また学術の中枢機関はエルサレムに集中しています。
各国の大使館員たちはエルサレムに来て外交交渉をしており
すでに実質的な首都機能をエルサレムが持っています。
ただオイルパワーを持つ中東諸国を恐れてエルサレムを首都と認定していなかったのが各国のこれまでの実情です。
つまりトランプ大統領は
「王様は裸だ」と事実を言ったに過ぎません。
ダビデが都をエルサレムに定めた紀元前1千年から
エルサレムは変わらずにイスラエルの首都です。
ただこの現世的な世界情勢の延長線上に「ダビデの子」であるメシアがエルサレムで新たな王国を統治するのではありません。
国際紛争が頂点に達し世界連合諸国がイスラエルを抹殺するために侵入した時、
メシアが再臨し王国を完成すると言うのが聖書予言のシナリオです。
この日、エルサレムの平和を祈りながら
エルサレムカフェで1人食事をしました。
29 yet I tell you, even Solomon in all his glory was not arrayed like one of these.
- Matthew 6:29
"しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。"
マタイの福音書 6章29節
この聖書の真理をどうやって娘に伝えたら良いだろうか。
出かける直前、彼女はメイクに数十分を費やす。
学校に遅刻することなんて屁とも思っておらずに鏡に向かう。
「もう充分綺麗だよ」
「あなたほど綺麗な人はいないんだから」
その父親の声も耳に入っていない。
かつて彼女を学校まで送り届ける際、
揺れ動く助手席に座りながらもパタパタと顔に塗り付けるその鮮やかな業には舌を巻いた。
Bumpを乗り越える時に口紅をしてたが、口裂けお姉さんにはならないように絶妙のタイミングをわきまえている。
黄金と真珠に輝くソロモンの玉座と宮殿。
その時代の栄華を極めたそのソロモン宮殿と比べて野に咲く1輪の百合の花。
自生した百合は芸術の結晶と言える。
そのバランスある花びらの重なり具合と屈折。
その色合いや芳香。
その美しさは確かにソロモン宮殿よりも優れものだ。
私たちは百合よりも精緻に造られ、
神の愛の対象であると教えられたイエス。
こんな単純だけど大切な真理を日常的に気付いていないのは、
娘だけではない。
今年の夏も子供らと日本に一時帰国する時、
奥山に分け入る滝巡りのキャニオニングを計画している。
そこで百合の花を見つけたら、うんと説教してあげよう。
「シオンに生きる者」
2018-05-06
詩篇87篇
1,主の礎は聖なる山にある。
2,主はシオンの門を愛される。ヤコブのどの住まいよりも。
3,神の都よあなたについて誉れあることが語られている。セラ
4,「わたしはラハブとバビロンをわたしを知る者として記憶しよう。見よペリシテとツロクシュもともに。『この者はこの都で生まれた』と。」
5,しかしシオンについてはこう言われている。「この者もあの者もこの都で生まれた。いと高き方ご自身がシオンを堅く建てられる」と。
6,主が「この者はこの都で生まれた」と記して国々の民を登録される。セラ
7,歌う者も踊る者も「私の泉はみなあなたにあります」と言う。
「シオンに生きる者」
⑴シオンにある礎
①聖なる山とされたシオン
直訳は「山々」、尊厳複数形という文学形態である。
そこは神の都であり、王の住まい、統治の中心地、また歴史的に神と人との契約が更新されて来た地である。
②選ばれたシオン
全イスラエルの地域からエルサレムが選ばれ神の都とされた。
それが「愛される」の意味。
⑵シオンにある登録
①神の登録文書がある(詩篇9:5、69:28)
それは神の国を受け継ぐ人名リストであり人物判別帳である。
②登録される人々
異邦人諸国〜「ラハブとバビロン」「ペリシテとツロ、クシュ」
彼らがネイティブとして登録されると言う事はなんだ分け隔てない霊的祝福を享受することの約束である。
「この者はこの都で生まれた」
イスラエル人〜世界中に離散していてもその残りの者はすべて相続者となる。
「この者もあの者もこの都で生まれた」
⑶ シオンにある泉
①住民たちの歓喜と踊り
シオンとは神の都であり、そこに君臨される王なるイエスである。
生命に欠かせない水の湧き出る源がイエスにあるとは、
新約的には信者の内から流れ出る水である聖霊を意味している。
「わたしが与える水を飲むの誰でも、決して渇くことがありません。
わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」
(ヨハネ4:14)
②命の源泉はシオンにある
イエス以外の源泉から原動力を引き出しているとしたら、それは真摯な信仰生活ではない。
自分が無力で乏しいことの現実に目が覚める時にキリストにある富に目が開かれていく。
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