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「からし種ほどの信仰」
ルカの福音書 17章4~10節
"一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て『悔い改めます』と言うなら、赦しなさい。」
使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増し加えてください。」
すると主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があれば、この桑の木に『根元から抜かれて、海の中に植われ』と言うなら、あなたがたに従います。
あなたがたのだれかのところに、畑を耕すか羊を飼うしもべがいて、そのしもべが野から帰って来たら、『さあ、こちらに来て、食事をしなさい』と言うでしょうか。
むしろ、『私の夕食の用意をし、私が食べたり飲んだりする間、帯を締めて給仕しなさい。おまえはその後で食べたり飲んだりしなさい』と言うのではないでしょうか。
しもべが命じられたことをしたからといって、主人はそのしもべに感謝するでしょうか。
同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」"
⑴信仰を増してください(5)
①弟子たちの願い
主のの行動と行いについていくには信仰が必要であると感じた
②到底実践的出来そうにもない教え
1日に7度許しなさい
罪を犯しているものを戒めなさい
⑵からし種ほどの信仰(6)
①ユダヤ的文学表現〜巨大な困難の比喩
その困難の克服は信仰の大小ではなく有無による
②信仰による偉大な業績
その資源はすべて神から来るので私どもは無益な僕であるとの立ち位置を保たねばならない
⑶信仰がいやしたのです(19)
① 10人のうち1人(サマリヤ人)だけが感謝のために戻ってきた
9人はどこにいるのか(17)〜彼らの信仰はイエスを利用するだけのご利益信仰
②サマリヤ人はイエスへの人格的な信頼があった
それ故肉体的救いばかりでなく霊的な救いにも預かっている。感謝と言う行為は信仰の表れ
(結論)
神の前における自分の分をわきまえなくてはならない。神の資本を使用させていただいている私たちは、決して「何かを仕上げた」と言う意識に立ってはならない。
「すると彼の目は輝いた」
サムエル記 第一 14章24~30節
"さて、その日、イスラエル人はひどく苦しんでいた。サウルは、「夕方、私が敵に復讐するまで、食物を食べる者はのろわれよ」と言って、兵たちに誓わせていた。それで兵たちはだれも食物を口にしていなかったのであった。
この地はどこでも、森に入って行くと、地面に蜜があった。
兵たちが森に入ると、なんと、蜜が滴っていたが、だれも手に付けて口に入れる者はいなかった。兵たちは誓いを恐れていたのである。
しかし、ヨナタンは、父が兵たちに誓わせたことを聞いていなかった。彼は手にあった杖の先を伸ばして、蜜蜂の巣に浸し、それを手に付けて口に入れた。すると彼の目が輝いた。
兵の一人がそれを見て言った。「あなたの父上は、兵たちに堅く誓わせて、『今日、食物を食べる者はのろわれる』とおっしゃいました。それで兵たちは疲れているのです。」
ヨナタンは言った。「父はこの国を悩ませている。ほら、この蜜を少し口にしたので、私の目は輝いている。
もしも今日、兵たちが、自分たちが見つけた敵からの分捕り物を十分食べていたなら、今ごろは、もっと多くのペリシテ人を討ち取っていただろうに。」"
⑴父はこの国を悩ませている
①サウル王の抜擢とその能力
容姿、謙遜の美徳を兼ね備えていた〜Ⅰサム10:23
②宗教的儀式や形式には熱心である
戦いの前のいけにえや祈り〜13:9-10
⑵私の目はこんなに輝いている
①2世としてのヨナタンの素養
父の宗教的束縛には陥っていない
ノルマや罰則を定めることで部下からの成果を期待するサウルの目論見(24)
②ひたむきで純粋なヨナタンの信仰(13:6)
指導者の言われるままの思想に染まり、自分の頭で考え判断できないカルト信者の犠牲者と比較。
⑶この蜜を少し味見して見ただけで(29)
①信仰の杖を取り蜜(聖書の言葉)を味わえ
②エネルギーに溢れたヨナタン
疲労した人達との比較(30)
(結論)
御言葉に生かされてゆくその経験値が力を生み出し勝利へと
す
「わたしの顔はいつもあなたとともに」
出エジプト記 33章14~23節
"主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」
モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。
私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」
主はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」
モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」
主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」
また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」
また主は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。
わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。
わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」"
⑴行くべき道はどこに
①誰がイスラエルの民を導くのか分からない不安(12)〜神ご自身ではなく御使いを代わりに立てるとされて(2-3)
②「わたしが道である」(ヨハネ14:6)
その道がわからないとのトマスの疑問(ヨハネ14:5)
知っているはずだ、と仰せらた主。
⑵わたしは神にかなっているのか
①お心にかなっているのだろうかとの不確かさ(13,16,17)
②失敗を預言されたペテロ(ヨハネ13:37-38)
なおも主はその彼を「友」と呼ばれ、選ばれたことを確かな事とされた(ヨハネ15:15-16)
⑶神ご自身を見てみたい
①栄光を見せてくださいとの求め(18)
あらゆる善をあなたの前に通らせるとの約束
「善」とは栄光のことであり、ご自身の名誉と存在をかけての誓い
②「私たちに父を見せてください」とのピリポの要求(ヨハネ14::8)
私を見たものは父を見たのです(完了形)とイエス様
(結論)
「わたし自身が一緒に行ってあなたを休ませよう」
この直訳は、
「わたしの顔がいつもあなたと共にある」となる。
人の持つ究極的な求めであるこれら3つは、このお言葉に解決を見出せる。
「安息を与えよう」
出エジプト記 33章12~19節
"さて、モーセは主に言った。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。
今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」
主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」
モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。
私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」
主はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」
モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」
主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」"
⑴道をお教えていただくことによる
①荒野の中に道はない
これまでは雲の柱が行くべ道に導いてくれた
②「わたしが道である」(ヨハネ14:6)
イエス様をより深く知ることが安息につながる
⑵みこころにかなってる事を確認して
①「名指しで選び出した」(12、17)
②救いの1側面として神の選びによって信仰に立ったこと。マタイ11:27。
⑶栄光を仰ぎ見ることで
①主の名を宣言された
ヘブル的に名は実態実質を著している
主ご自身を啓示されること
②日々の信仰の更新であり刷新の営み
(結論)
新年を迎えるにあたって私たちも新たな決意を持って臨みたい。主が与えて下さる安息に憩うものとされ、この約束に生きるものとされよう。
ホサナキリスト教会朝礼拝のメッセージ・アウトラインです。
「伝道者に対する遺言の書」
Ⅱテモテ2章3-12節
"私は夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こし、先祖がしてきたように、私もきよい良心をもって仕えている神に感謝しています。
私はあなたの涙を覚えているので、あなたに会って喜びに満たされたいと切望しています。
私はあなたのうちにある、偽りのない信仰を思い起こしています。その信仰は、最初あなたの祖母ロイスと母ユニケのうちに宿ったもので、それがあなたのうちにも宿っていると私は確信しています。
そういうわけで、私はあなたに思い起こしてほしいのです。私の按手によってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。
神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。
ですからあなたは、私たちの主を証しすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。
神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自分の計画と恵みによるものでした。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられ、
今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされました。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不滅を明らかに示されたのです。
この福音のために、私は宣教者、使徒、また教師として任命されました。
そのために、私はこのような苦しみにあっています。しかし、それを恥とは思っていません。なぜなら、私は自分が信じてきた方をよく知っており、また、その方は私がお任せしたものを、かの日まで守ることがおできになると確信しているからです。"
⑴直弟子テモテへの遺言の書
①1章:信仰者としてどうあるべきか
②2章:伝道者としてどうあるべきか
③3章:困難な時代にどうあるべきか
④4章:死を前にしてどうあるべきか
⑵情熱を燃え立たせる事(6)
①パウロの祈りによって与えられたもの
②現在時制〜「絶えず注意喚起したい」
③それは神からの賜物であり、家系の良い伝統が寄与しているもの
⑶与えらた賜物(7節、アオリスト時制)
①力〜10節
②愛〜9節
③健全な判断力〜3:14-15
(結論)
既に与えられている神からの賜物を確認し、
それを燃え立たせる事で、職を全うしよう。
カリフォルニア・ウオルナッツクリークにあるお気に入りのタイレストランでランチ。クリスマス時期になるとこの店はクッキーの詰め合わせなどのプレゼントしてくれる。
1時間ほどの所用を終えて建物を出てすぐ歩き出したところで、気がついたことがあった。
「あれ、どこに車を停めたんだっけ?」
右に行って良いのか、左に行って良いものか、さっぱりわからない。目の前の道路を車で走ったことは確か。そこまでの経路を思い出そうとする。
右のような気がして歩きながらリモコンキーの開錠ボタンを押す。近くにあればテールランプが光ってくれるはず。
2ブロックほど進んで気がついた。
あの時、左に行くべきだったんだ。
来た道を引き返しながら、これって徘徊老人の始まりなのかなぁ、とやや不安になる。こんな事は初めてだった。
iPhoneマップには車を降りた地点を地図上に示す時が度々ある。
どうするとそのような設定になるのか、IT音痴の私にはわからない。
ところで、
たとい痴呆が進んで認知能力が衰えたとしても、大いなる方のスピリットが指し示す道を捉える霊性は失いたくはない。
生活の細々としたところ、また将来の進路を決する判断をし続けるのが私どもの生涯ですが、そのすべてにスピリットが示す道を選んだなら間違いない。
"あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを、あなたの耳は聞く。"
イザヤ書 30章21節
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「契約の箱を担いで」
ヨシュア記 3章14~17節
"民がヨルダン川を渡ろうとして彼らの天幕から出発したとき、契約の箱を担ぐ祭司たちは民の先頭にいた。
箱を担ぐ者たちがヨルダン川まで来たとき、ヨルダン川は刈り入れの期間中で、どこの川岸にも水があふれていた。ところが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際の水に浸ると、
川上から流れ下る水が立ち止まった。一つの堰が、はるかかなた、ツァレタンのそばにある町アダムで立ち上がり、アラバの海、すなわち塩の海へ流れ下る水は完全にせき止められて、民はエリコに面したところを渡った。
主の契約の箱を担ぐ祭司たちは、ヨルダン川の真ん中の乾いたところにしっかりと立ち止まった。イスラエル全体は乾いたところを渡り、ついに民全員がヨルダン川を渡り終えた。"
⑴2千キュビトの距離を置く(4)
①契約の箱は神の臨在の象徴であり、新約の光からはキリストご自身
②契約の箱は先頭を進む(3)〜これまで通った事のない道。摂理を飛び越えて先回りしてはならない。
⑵祭司の足が水際に達したとき(15)
収穫時のヨルダン川は満水〜超える事の出来そうにない人生の大問題。健康、経済、事業の課題に直面して
② 「信仰の創始者・完成者」であられる主がすでに通られた道
⑶川の真ん中にしっかりと立つうちに(17)
①内住されるキリストを自覚しているか。
問題の只中で尚も臨在の主を礼拝し賛美しているか。
②その時の祈りがキリストの祈りとなっているか。
(結論)
私たちはヨルダン川渡河と言う前代未聞の劇的な奇跡に心奪われる。しかしここでちゅうし注目すべきは、
①主の御心の中に居続けているのか
②主に祈りの成就の時と方法とを委ねているのか
③主の祈りと同一化されているのか
「嫌われる勇気」からの抜粋
アドラー心理学にある「原因論の誤り」
〜人間の行動の全てには原因があるのではなく、あるのは結果だけ〜
何のことかわからないでしょうから、実例を挙げて解説します。
ある神学生が牧師からひどい剣幕で怒られていました。
その牧師はその神学生の頬を拳で殴り付けることまでしました。
「今どうして殴られたのかは貴方には分からないかもしれない。
でも数十年後にわかるようになるでしょう。」と声を上ずらせながら、何が起こっているか分からずにいるその神学生に牧師は言い放っていた。背後では事の成り行きを心配そうに見つめている牧師夫人が外階段の上に無言のまま立っていた。
大抵の場合、その神学生がひどいミスをやらかした原因があったので激しく叱られたのだと人は思うことでしょう。ところがアドラーによれば、神学生に原因があったのではなくその牧師の側にある結果がすごい剣幕になって現れたと言うのです。
会社でも上司が部下に対して怒るのは、今後、自分が上でお前が下だと見つけ見せつけるためのものである場合があります。違う部下であるならば同じミスであったとしても、そこまで声を上げることもないからです。相手を威嚇してその場を丸め込んでしまおうとするのは、自分の過去に禍根やストレスがあり、それを発散しなくてはならない結果として現れたと言えます。
私たちは相手に原因を探したり、自分の暗い過去に縛られるところから解放されなくてはならないのです。イライラや怒りの感情、あらゆるネガティブな行動は自らのうちに蓄えてきた結果から現れるものです。
例の神学生は確かに数十年経って後、なぜあそこまで怒りの鉄拳を食らったのか分かるようになりました。神学生がやらかした事と言えば、あるクリスチャンホームの家庭に居座り教会への帰宅が夜の8時か9時ごろになったことでした。
あの牧師は教会員を「私の羊」であるとして囲いたかったのです。
若い神学生が自分から人望をさらう羊泥棒のように見えて、「今か、今か」と遅い帰宅を待ちきれずにしびれを切らして爆発してしまったのでしょう。
その牧師だったか確認は出来ていませんが、その教団内であった実例です。
かつて教会員が地方出張時に同じ教団の地方教会に日曜礼拝のために出席する時には、所属教会牧師の許可を得なくてはならないとの暗黙の決まりがあったようです。その牧師はある時、許可を与えなかったがために、その人は日曜礼拝にも出席できなかった例があったとのこと。
牧師は羊(教会員)を真の牧者であられる主イエス様につなげるためのサポート役であり、羊飼い自体ではありません。
"わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。
牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。
彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。
わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。"
ヨハネの福音書 10章11~14節
"するとイエスは彼らに言われた。「さあ、あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。」出入りする人が多くて、食事をとる時間さえなかったからである。"
マルコの福音書 6章31節
安息。
それは心を鎮まらせて神との対話を始めること。
私たちはなかなかこれができない。
おしゃべりをしたり活動したりすることの方がよっぽど簡単で楽ちんである。
教会では礼拝前の数分間、黙して神を待ち望むことが勧められる。
これに慣れてないと久方ぶりの方や友人に近況報告のおしゃべりが始まる。
なぜ神の前に静まらなくてはならないのか。自らの立ち位置を神の前に調整するため。
そうでないなら「羊飼いのいない羊」(6:34)のように目標のなく彷徨出してしまう。
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