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ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージノートです。
「大胆に恵みの御座に近づこう」
ヘブル人への手紙 4章14~16節
"さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。"
⑴主イエスを知ろう(14)〜その職能を把握せよ
①「もろもろの天を通られて偉大な大祭司となられた」
かつて大祭司アロンは贖罪の日に会衆の面前でさまざまな仕切りを通り至聖所にまで至った(レビ16:15、17)
②本書が論述している「優れた方」
預言者より
天使より
モーセより
ヨシュアより
アロンより
⑵主イエスとともに(15)〜その方は低いところに降って来られた
①人との自己同一性を開拓された主
完全な人間として肉体、感情を備えられ喜怒哀楽を経験して来られた
②自己同一性が成立して始めて「同情」が可能となる
*イチロー選手の引退。
「アメリカに来て、外国人になったことで、人の心をおもんぱかったり、人の痛みを想像したり、今までなかった自分が現れた」「孤独を感じて苦しんだことは多々ありましたが、その体験は未来の自分にとって大きな支えになると、いまは思います」。
国民栄誉賞授与を3回目にして拒否〜「人生の幕を降ろす時に」
⑶主イエスに近づこう
*新しい元号「令和」時代の華やぎと希望
『初春(しよしゆん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぎ、梅は鏡前(きやうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、〜』(万葉集)との文言から引用。
「この令和には人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められております。万葉集は1200年あまり前に編纂された日本最古の歌集、我が国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書であります。悠久の歴史と香り高き文化、四季折々の美しい自然、こうした日本の国柄をしっかりと次の時代へと引き継いでいく、厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人一人の日本人が明日への希望とともにそれぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本でありたい」(安倍首相談話)
新しい時代を感じさせる、希望を見据えた元号改元である。
春という季節や日本古典からの典拠と言う雰囲気に依拠するのではなく、
私たちが希望を失わずに済む確固とした土台があることを知ろう。
①あわれみと恵みとをいただくために
②折にかなった助けを受けるために
③恵みの御座に近づこう
(結論)
私たちの側には俊敏なユダヤ人弁護士(イエス)が常時ついていることを知ろう。この方は、大祭司として私たちのために執り成しをしておられる。
半日間失っていた財布。
数百ドルの現金やクレジットカード数枚、それにドライバーズライセンスや教会堂アクセスの鍵まで入っている。
机の周りや部屋中探しても、またあらゆるポケットを探しても出てこなかった。
息子に打ち明けてみると、
「車の中を探したか」
「助手席に置いてないか」
とのたもう。
そんなとこに置くわけないよ、と言いながらも行ってみると車の窓越しにちゃっかりと財布が助手席に座ってるのが見えた。
その時の喜び、開放感、満たされた思い(^^)
昨夜息子に運転させて自らが助手席に座った時どうやら財布を持ち出したのを忘れていたらしい。
聖書の次の言葉を思い出しました。
"また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくしたら、明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。
見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。
あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」"
ルカの福音書 15章8~10節
財布が見つかるまでは食事をしても美味しくなかったし、息子とバスケットボールをしても気にかかって楽しめなかった。
財布がどれだけ貴重かと言えば、百ドル少々の現金と後は時間と手間をかければ回収できるものばかりのはず。
もしも悪用された場合カード会社は補填してくれるし、運転免許証だって再発行すれば良い。
考えてみれば全て取り返しの効くものばかり。
それでもあの半日間は空虚な気持ちでそわそわして生きた心地がしなかった。
「生きるって辛いな〜。こんなことも耐えねばならないなら死んだ方が楽か?」
少々大げさだけど、そんなふうにも思った。
失われた私たちに対して神がどんな思いでいらっしゃるかを主イエスが例えにして教えられた。
上記にある女性が銀貨を失った際の慌てぶりと発見の際の喜びの例え話。
銀貨も財布も取り返しのきくものである。
ところが私たちの命には取り返しがきかない。
そこで神は自らの命を差し出すことを決意された。
私たちが神によって発見されるために、
主イエスが十字架でその命を差し出さねばならなかったのだ。
神の目から見て私たち一人ひとりの命はそれほど重い。
「人の命は地球よりも思い」
ある政治家の言った言葉らしいが確かにその通り。
神のひとり子を犠牲にする程の重さだったのだから。
ナザレにある聖誕教会
ナザレのバザール
「ナザレのイエス」
ナザレ〜それは辺鄙な片田舎であり、
当時の聖書には一度も言及なく
「ナザレから何の良いものが出よう」(ヨハネ1:46)と言われるほど蔑まれたところだった。
そのナザレ出身の学歴なし支持基盤なしの30歳の青年イエス。
数ヶ月前、なぶりものにされた上、
十字架で死を遂げられたばかり。
さらに死から復活されたという知らせは、
弟子たちの間に広まっている。
生まれてこの方、足がなえていて歩いたことない男にとって
突然「歩きなさい」とのペテロの命令はあまりに唐突でハードルが高かったに違いない。
エルサレム神殿の美しの門に物乞いのために置かれていたこの男は、当然のことながらこれまでイエスの噂を耳にしていたはず。
そのイエスに賭けてみることにした瞬間だった。
ナザレのイエスと言う方が行なっていた、
病を癒し目の見えない者を開眼させていた他人事話を、
この時、自分にも適応してみたのだ。
つまりイエスと言う方が聖書に予言されたメシアであり、
神ご自身であり、
不可能はない救い主であられるとの信仰を抱いて自らの足で立ち上がった。
いや立ち上がろうと、決意して意思を動かした。
ペテロはその時、彼を助けて「右手をとって立ち上がらせた」(7)とある。
その瞬間、神の力が彼の全身を貫いてその足は飛び上がるほどまでに頑丈に癒されたのだった。
私たちも同様にしてナザレのイエスと言う方が
死なれたこと
復活されたこと
その前にも、イスラエルの地で様々な奇跡を行われたことを
聖書の中から知ることが出来る。
クリスチャンの知人から友人から聞いたこともあるでしょう。
これが単なる昔話、おとぎ話の段階から
自分自身に適応するときに神のみわざが始まる。
ペテロはその直後、その神のみわざがどうしてこの男に実現したかをまとめている。
"このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。"
使徒の働き 3章16節
①この男を癒した直接要因〜「イエスの名」。
ヘブル的に名前はその人自身を表す。
すなわちイエスご自身。
②この男を癒した間接要因〜「その名を信じる信仰」その男がイエスに対して抱いたメシアとしての信仰のこと。
③信仰の起源〜「イエスによって与えられる信仰」
それ故私たちは自らの敬虔に根拠を置かない。
永久に保証されている救いをいただいているのである。
ホサナキリスト教会日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「ナザレのイエスの名によって」
使徒の働き 3章1~16節
"ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来た。この人は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた。
彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。
すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
そして彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。
人々はみな、彼が歩きながら神を賛美しているのを見た。
そしてそれが、宮の美しの門のところで施しを求めて座っていた人だと分かると、彼の身に起こったことに、ものも言えないほど驚いた。
この人がペテロとヨハネにつきまとっているうちに、非常に驚いた人々がみな、「ソロモンの回廊」と呼ばれる場所にいた彼らのところに、一斉に駆け寄って来た。
これを見たペテロは、人々に向かって言った。「イスラエルの皆さん、どうしてこのことに驚いているのですか。どうして、私たちが自分の力や敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。
アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたはこの方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。
あなたがたは、この聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、
いのちの君を殺したのです。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。
このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。"
⑴足の萎えた男にとって
①施しに頼った生き方
「生まれつき」ゆえに人々の哀れみと善意とに頼る他なし。
「美しの門」に置いてもらう
②賛美する生き方
「躍り上がってまっすぐに立ち、歩き出した」(8)
この受け身から能動への抜本的な生き方改革はイエスの御名を信じる信仰ゆえに与えられたもの(16)
⑵ペテロとヨハネにとって
①午後3時の祈りの時間
ペンテコステの御霊の傾注を受けた直後であるが
規則正しいメソジカルな生活態度が敬虔を修行
②栄光をことごとくイエスに帰している
イエスの名によってなされたいやし(6、12、16)〜直接要因
イエスによって与えられる信仰〜間接要因
⑶地の諸民族(異邦人)にとって
①「子孫」によって祝福を受ける(25)
アブラハムによって確立された契約。
その「子孫」とはイエスのこと(ガラテヤ3:16)
②メシアなるイエスが再び来られる(20-21)
イスラエルにとり「回復の時」であり、
全世界にとって「万物の改まるとき」である
(結論)
ペテロとヨハネが施しを求める男に与える金銀は無かった。彼らにあったもの。
それは、「ナザレのイエスキリストの名」=イエスご自身であり御霊の内住であった。
その方は死と復活を遂げられ(13-15)、
再び天から来られ世界を一新される((20-21)。
これらは代々の預言者らにより定められた契約に基づくものである(24-26)。
"あなたの大滝のとどろきに淵が淵を呼び起こしあなたの波あなたの大波はみな私の上を越えて行きました。
昼には主が恵みを下さり夜には主の歌が私とともにあります。私のいのちなる神への祈りが。"
詩篇 42篇7~8節
神との交わりが絶たれた孤独の中にあって、
初めて熾烈な渇望を抱く。
最暗黒と思える時にこそ崇高な魂の叫びが始まる。
人の頭を越えていく水や波は、
聖書の中においては侵略軍による蹂躙や激しい試練を表した例えです。
詩人はそのような苦難の中で神から見放されたと感じ、人々からも見放されていると感じます。
唯一の慰めは昔のことで、
共に神殿へ祭りを祝いに行った楽しい日々を思い出すこと他無かったのです。
"昼も夜も私の涙が私の食べ物でした。「おまえの神はどこにいるのか」と人が絶えず私に言う間。
私は自分のうちで思い起こし私のたましいを注ぎ出しています。私が祭りを祝う群衆とともに喜びと感謝の声をあげてあの群れと一緒に神の家へとゆっくり歩んで行ったことなどを。"
詩篇 42篇3~4節
ある時そのようなただ中にあってふとした瞬間がありました。
それは自らとそれを取り巻く世界を客観的に捉えることができた瞬間でした。
いわば地上の視点から、
高い空を舞う鷲からの鳥瞰的な見方と言えるかもしれません。
水の渦巻きに翻弄され気づかないでいたけれども、神は確かに私に恵を施されていたと言うものでした。
"昼には主が恵みを下さり夜には主の歌が私とともにあります。私のいのちなる神への祈りが。"
詩篇 42篇8節
私たちが気付こうと気付かまいとにかかわらず、
神は私たちに変わらない恵み(へセド)を送り続けてくださっています。
それゆえ私たちは顔を上げて、詩人と共に祈りを申し上げようではありませんか。
"わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。なぜ私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い私の神を。"
詩篇 42篇11節
アルバムの写真を整理していたらこんなものが出てきました。
娘が生まれてまだ1歳になるかならないかの写真だと思います。
16年の歳月があっという間に過ぎ去りました。
僕は白髪混じりの立派なおじさんに。
そして娘は容姿が気になる思春期のレディーに成長してくれました。
この日はまた美容院に行って髪型を変えたことを写真を送って報告してくれたのです。
私たちの全てのものは過ぎ去っていくものです。
懐かしい思い出も限り無かった体力と健康も
そして若い力や美貌も
人生も
何もかも.......
聖書は
「人はチリからできたのだからチリに帰らねばならない」と告げます。
人間が物理的動物的生命のだけの存在だとしたらなんと虚しいことでしょうか。
あらゆる人間関係も、積み上げたものも、財産も、業績も
チリとなって胡散霧消するだけの人生であるとしたら。
しかし聖書は死後の世界を語ります。
そして死から復活された主イエスという方を通してそのことの確証を私たちに与えてくれています。
それゆえ、
いつまでも残るものがあると聖書が教えるのです。
"こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。"
コリント人への手紙 第一 13章13節
ホサナキリスト教会。
本日の日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
使徒の働き 13:42-52
"二人が会堂を出るとき、人々は、次の安息日にも同じことについて話してくれるように頼んだ。
会堂の集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちがパウロとバルナバについて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みにとどまるように説得した。
次の安息日には、ほぼ町中の人々が、主のことばを聞くために集まって来た。
しかし、この群衆を見たユダヤ人たちはねたみに燃え、パウロが語ることに反対し、口汚くののしった。
そこで、パウロとバルナバは大胆に語った。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければなりませんでした。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者にしています。ですから、見なさい、私たちはこれから異邦人たちの方に向かいます。
主が私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを異邦人の光とし、地の果てにまで救いをもたらす者とする。』」
異邦人たちはこれを聞いて喜び、主のことばを賛美した。そして、永遠のいのちにあずかるように定められていた人たちはみな、信仰に入った。
こうして主のことばは、この地方全体に広まった。
ところが、ユダヤ人たちは、神を敬う貴婦人たちや町のおもだった人たちを扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、二人をその地方から追い出した。
二人は彼らに対して足のちりを払い落として、イコニオンに行った。
弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。"
⑴神の言葉の開陳
教理でなく歴史物語(ストーリー)としての紹介 16ー25節
主イエスの死、埋葬、復活、昇天に見る預言成就 26ー37節
私への適用 38ー41節 〜罪が赦され義とされるのがこの方による。裁きから逃れよ
⑵神の言葉への渇き
①次週の安息日にも神の言葉を話してくれるようにと求めた(42)
②神の言葉が人を新生され、救いに導かせた(42.44.46.48.49)
そこにはまた父なる神の先行的な恩寵と御心があった(48)
⑶神の言葉の拡大と拒絶
①伝道が御心に従って進展していくと必ず2方向の結果が生じる
② 異邦人世界への拡大(49)と反抗するユダヤ人(50)
(結論)
神は今でも神の言葉/聖書を通じて私たちに語られる。
真理に渇く者に対してみ言葉が開かれ、生き働いて私たちを救いに導くのである。
その御言葉を携え人々に紹介する者の幸い(52)
"こういうわけで、私たちもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。"
テサロニケ人への手紙 第一 2章13節
ホサナキリスト教会日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「神に対する富」
ルカの福音書 12章13~21節
"群衆の中の一人がイエスに言った。「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください。」
すると、イエスは彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのですか。」
そして人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
それからイエスは人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』
そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。
そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』
しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」"
富んだ農夫の誤った人生観とは何であったか。
⑴能力(賜物)の源泉を誤解
賢さや有能さ成功は自分自身によるものと勘違いした(18)。
市場原理による価格変動、コスコパフォーマンス、原価償却に対する利益率の確保などを素早く計算し正しい判断ができたと自認。
その才能をも与えたお方がいらっしゃることを計算していなかった。
「豊作であった」ー天候の良し悪しや賜物の相違はすべて神が決められたこと。
⑵時間の観念に対しての誤解
①平均寿命から割り出した人生設計しか持っていない(19a)。
今日1日今年数年先の時間は自己の快楽のために自由に使えるものと考えていた。
②「今夜お前の命が要求される」(20) 直訳
私たちには生かされた命を持っており許された時間しか与えられていない。
⑶富の観念に対しての誤解
①富こそが人の人生を豊かにするものと考えていた(19b)。
「お金があれば何でも買える」と言った芸能人がいたが、一見するならそのような価値観で世間は動いてるようである。
② 財産の豊かさは保証にならない(15)。
富自体を否定しているものではなく富を用いて楽しむことのできる命(生き方)は、その命を造られた方との関係の中に存在する。
(結論)
この世に生きているつかの間の間、私たちには多くの良きものが与えられている。
そしてゆだねられた裁量のゆえに自由に使えて、自分のものであると錯覚している。
時間、才能、健康、財産、仕事など。
これらを永遠のために用いるときにこの世においてもまた楽しむことができる。
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