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「その夜、神がソロモンに現れて、彼に仰せられた。
あなたに何を与えようか。願え」
(第二歴代1章7節)
ソロモンが父ダビデから王位を継承し、その王位就任の際、1千頭のいけにえを捧げた日の夜の事でした。
神がソロモンに現れて言われたことが冒頭の聖句です。
神は、何でも良いからあなたの心にある願いを言ってみろ、と言われたのです。
⑴彼が願ったものは、知識と知恵でした。
それが彼の心にあったものです。常に心にあるものが言葉になって言語化されます。明瞭な必要感が彼にはありました。
神はその心を喜ばれ、富も財宝も誉も敵の命も長寿も求めなかったことを喜ばれています(11節)。現代の教会指導者に置き換えてみるならばこれらのリストは、車も豪邸も教団内地位も宣教の成功も健康も求めずに、聖書の知識とそれを人々に適応する能力を求めた、となるでしょうか。
⑵使命を遂行するための願いでした。
王としての立場と職責を全うするために、国民を正しく裁き指導するために知恵と知識とが必要であると痛感していたのです。神に委ねられた責任を果たすための賜物とそれを運用する力、神の働きを成すために必要な力を求めました。そこには私利私欲のない清められた動機を見ることができます。
⑶ 100%以上叶えられた願いでした。
神は気前の良いお方です。彼が求めた知識や知恵はもちろん、求めなかった富や誉までも与えると約束くださいました(12節)。
私たちの心が神の前に正しい位置にあり、目指す方向が御心にかなうものであるならば、私たちが願い求める以上の祝福を神はお与えになられるお方です。
(1)
器の大きい人は、怒りを優しさで表現する。
(2)
いらいらして言い返すと、相手と同じレベルになる。
(3)
焦ったとき、目をつぶって3秒息を吸った後10秒かけて吐く深呼吸を、3回繰り返す。
(4)
口にする前に深く考え、一度口にした言葉には責任を持つ癖。
(5)
器の大きい人は「笑顔」と「怒り」の両方を自在に操る。
(6)
器の大きい人は、余裕を味わう。
器の小さい人は、ぎりぎりを味わう。
(7)
ささいなことにとらわれすぎず、重大なことに焦点を合わせる。
(8)
器の大きい理想の人物を思い浮かべ、手本にする。
(9)
いらいらするはずの瞬間に笑顔になると、器の大きさを感じる。
(10)
どんなに知識や知恵があっても、臨機応変がないと、うまく生きていけない。
(11)
器の大きい人は、どんな言葉でも一度は受け入れる。
(12)
つまらない冗談に笑おうとしない人こそ、つまらない人間だ。
(13)
ユーモアは、楽しく、脳を活性化させる。
(14)
あらゆる発言に対して「なるほど」「いいね」を前向きに発言する。
(15)
海外旅行に行くことほど、許容範囲を広げるいい勉強はない。
(16)
短所は長所として活用し、長所はさらに伸ばせば、最高の自分を発揮できる。
(17)
痛みを味わうことで、見えてくる解決策がある。
(18)
成長とは、背伸びの繰り返しだ。
(19)
経験量を増やし、涙もろくなる。
(20)
厳しいコメントを言ってくれる友達を、大事にする。
(21)
理解できない考え方こそ、興味や好奇心を持って歓迎する。
(22)
限られた人生で豊かになるために、範囲を絞って、精通する。
(23)
感謝の言葉がなくても、むっとしないようにする。
(24)
言い訳しながら謝ると、気持ちが半減する。
(25)
許せば許すほど、表情は柔らかくなる。
(26)
失敗してもいい。
大切なことは前向きに行動すること。
(27)
器の小さい人は、人の失敗を笑いの材料にする。
器の大きい人は、人の失敗を反省の材料にする。
(28)
貯金の量は、器の大きさへと変わる。
(29)
直線コースより回り道コースのほうが、人生は豊かになる。
(30)
いらいらしたときこそ、作法を大切にする。
信仰生活には2つの側面があります。
ビジョンに生きる面と現実に足を地につけて生きる面です。
この両者がバランスを保ってなければ健全な霊的生活は成り立ちません。
ビジョンは霊的生活の超自然的側面、現実はその自然的側面です。
ビジョンを通じて神を見、そのお言葉を聞き、臨在の中を生きるのです。
同時に現実生活においては健康や経済、人間関係などでの様々な問題に直面するものです。
ヘルモン山の山頂で主イエスの御姿が変わり、父なる神からの声がかけられた時、弟子たちはその光景の中で宗教的な高揚感、喜悦に満たされました。
その直後、山から降りた山麓にあって悪霊に憑かれた子供に悩む父親に嘆かれた弟子たちは、挫折感とフラストレーションに満たされたはずです。
ビジョンと現実、山頂と山麓、これら両者が1つとなるのは、イエスにおいてです。
山頂で光輝く雲やモーセとエリアが消えて行った時、そこに残ったのはイエスのみお一人でした。
弟子たちに助けることができないでいる時、「その子をわたしのところに連れて来なさい」と言われたイエスにおいて問題が解決されていきました。
ビジョンに接しながら、現実を生きる。
現実に生きながらビジョンに触れ続ける。
イエスとの交わりが深まるにつれてこの両者に均衡が保たれ、信仰生活が健全なものへと成長して行きます。
「光」「いのち」「ことば」であられるイエスを歓迎してお迎えしようではないですか。
「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血は全ての罪から私たちをきよめます」(第一ヨハネ1章7節)
「わたしは、あなたがわたしの名をとこしえまでもここに置くために建てたこの宮を聖別した。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある」(Ⅰ列王記9章3節)
私が高校時代から35年以上もお付き合いのある大先輩の牧師から言われました。
「毎朝、あなたのために祈っています」
衝撃的な言葉です。
私はその方が社交辞令で言っていないことを知っています。
毎朝、私のために祈っているいる方がおられる。
なんと尊い宝物を私はいただいてることでしょうか。
先日帰国した時にその方とお会いしたのは、実に8年ぶりでした。
それほど時節がかけ離れているにも関わらず、
「毎朝」祈りの中で覚えておられる。
わたし自身は?
その先輩牧師だけでなく一体誰かの為に毎朝祈ってきただろうか。
恥ずかしい気持ちでいっぱいです。
今朝の聖句は、ソロモンがエルサレムに神殿を建立し奉献式を終えた後に
神ご自身が彼に現れて語られた箇所です。
エルサレム神殿には、常に神ご自身の目と心とが注がれている。
さらにイエスが教えられたことがあります。
イエスの霊が私たち自身の心に宿り、共に住んでくださると。
すなわち神ご自身の配慮と祈りの心が毎朝、いや常に私たちに向けられていると。
かつて神の霊である聖霊がソロモン神殿に宿ったように、
今や信者の心に聖霊が宿り、イエスの臨在される王座が設けられているのです。
これもまた、かたじけない限りである。
「あなた方の体は、あなた方のうちに住まわれる神から受けた聖霊の宮である」(Ⅰコリント6章19節)
「キリストイエスの立派な奉仕者」
「これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたはキリストイエスの立派な奉仕者になります。信仰の言葉とあなたが従ってきた教えのことばとによって養われているからです。俗悪な年寄り女がするような空想話を避けなさい。むしろ敬虔のために自分を鍛錬しなさい。肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今の命と未来の命が約束されている敬虔はすべてに有益です」(第1テモテ4章6ー8節)
大先輩のパウロが若い伝道者テモテに牧師としてのあり方をアドバイスしたのがこの書簡でした。
⑴養われ続けよ
「信仰の言葉」は、the truth of the faith と英語訳ではなっています。
つまり聖書に啓示されてある真理を学び続け、それによって世界や自己、時代についての知恵や洞察力を得よ。
⑵避けるべきものがある
Worldly and old women legends を避けよ、とあります。
年老いた女性だけをターゲットにするのは差別だなって突っ込まれるかもしれませんが、どうでも良い意味のない話をぐだぐだと繰り返すことが時に見られます。噂ウワサ話や愚痴、または空想や占いの話等に関わって時をしなうことからの警戒です。
⑶自らを鍛錬せよ
肉体の健康を保持するためには、食事の節制や規則正しい生活習慣が欠かせません。さらに敬虔の修行が有益であると説きます。
神を愛し従うためには、自らの行いを省みてその思考や時間、金銭の使い方に至るまで注意深さと適格性が必要なのです。
「またわたしは、あなたが私にくださった栄光を、
彼らに与えました。それはわたしたちが1つであるように、
彼らも1つであるためです」
ヨハネ福音書17章22節
この節の2回目の解説は、
②「与える」についてです。
本17章には数多くのこの言葉が現れます。
父なる神が御子イエスに与えられたもの、
父なる神や御子イエスが信者に与えたもの。
この語は、実はヨハネの福音書全体にもわたって頻出するキーワードの1つであり、
実に76回も出てくるのです。
22節をもう一度注目してみましょう。
「わたしはあなたがわたしに下さった(have given)栄光を彼らに与え(gave)ました。」
「栄光」とは、十字架を極致とする奉仕と謙遜であり、同時に統治と栄誉のことでした。
御子イエスが父なる神から賜った栄光が、信者にも同様に与えられたと言うのです。
ここで「与える」の時制が、原語では完了形となっていることに注目します。
信仰ゆえに私たちは謙遜であることを学び、やがて与えられる栄誉の約束に生きているものですが、その約束はイエスが保証してくださってている故に確かであります。
よって未来に関する事であるにもかかわらず、すでに与えられているものとして完了形が使われているのです。
「もし私たちが彼(イエス)とともに死んだのなら、彼と共に生きるようになる。
もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる」
第二テモテ2章11〜12節
「またわたしは、あなたが私にくださった栄光を、
彼らに与えました。それはわたしたちが1つであるように、
彼らも1つであるためです」
ヨハネ福音書17章22節
聖書は驚くべき本です。
私たち人間がどういう存在であるかを初めて明らかとする言葉です。
この17章は、弟子らのために祈り、またその弟子たちの語る使信を聞いて信者になる後の世の人々のために祈った言葉が記録されています。
いつものように短いポイントだけを簡潔に上げてみます。
①栄光について
不思議なことにイエスの受ける「栄光」とは、人間の知れる限りの最も低い屈辱と悲惨さを伴う十字架を意味していることが17章1節からわかります。
さらに謙遜を基調とする人としての働きを全うされた地上での奉仕のことをも意味します(4節)。
さらに不思議なことに人知の及ばない神々しい栄誉を意味していることも確かです。
「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。
全地が存在する前にご一緒に持っていましたあの栄光で輝かせてください。」(5節)
主イエスのおいて、奉仕と謙遜さは統治と栄誉であり、両者が同類項であり、ともに栄光であると言うのです。
主イエスのメッセージが伝えられる国では、人民を統治する王は引き下げられてきました。
大名行列を組んでは民・百姓を跪かせる大名は今日存在し得ないのです。
ミニスター(MINISTER)とは、大臣とも訳せるし、奉仕者とも訳せる言葉です。
大陸から日本に渡った渡来人の中で日本の政治文化に決定的な影響与えた一族に秦氏がいる。
なんでも機織りを伝えたのも秦氏だったそうで、その「機織り」の当て字は本来「秦」から来ているのだと言う。
秦氏は景教と言う東回りのキリスト教を信じていた一派で、中央アジアに住んでいた民族。
彼らがシルクロードを通り中国朝鮮を伝わって日本に来たとされています。
その途上、文字のない民族には独自の文字を開発し与えてきたともされているらしい。
イロハの文字やそのアルファベットの歌を作ったのも彼らであるとされ、そこにキリスト教の影響が残っていると学びました。
イロハの最後尾の文字を繋ぐと「とかなくてしす」=「咎無くて死す」となり、それは神の子イエスを意味していることになる。
また「イエス」の文字がイロハのアルファベット一覧に隠されているともされる。
この写真の黒板に記された右上角、左上角、左下角にある3つの文字を繋ぐと「イエス」となります。
今年7月、105歳の天寿を全うされた日野原重明さん。
言わずと知れた日本を代表するクリスチャン・ドクターです。
その死の直前まで約1ヵ月間にわたり取材した様子をNHKで放映されていました。
千件以上の死を看取ってきたドクターであり熱い信仰持っておられる日野原さんが、死は怖いですか、と単刀直入に尋ねられたときのその返答に私は驚きました。
曰く、
「怖いね。聞くと嫌になるね」
「おろおろすること以外で何もできない自分を感じてね」
そんなおろおろする本当の自分との出会いを評価する点にも驚かされました。
「人間は病むことによって本当の人間が現れてくるんだなと」
「自分との出会いがあって初めて自分が分かる」
姿勢を保つことができずお顔を手で支えながら力を振り絞るようにして話される一言一言はまさに黄金の言葉のように聞こえます。
「苦しみがあって初めて私の苦労の多い旅が報われるのではないか」
そのように言われる究極の境地には悟り達した哲人のような響きがあります。
さらに、
「辛さ以上に喜びはその中にあることを私は考えるべきだと今更深く感じ取る」
最後は残される私どもにKeep on Going ー前進せよと励ましてくださいました。
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