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つれづれなるままに

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サンマテオの吉田邸に

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19歳のセイイチさんが描いた収... 19歳のセイイチさんが描いた収容所でのバスケに興じる人々。
昵懇にさせていただいているサンマテオの吉田ご夫妻をこの日に訪問。

かつてここでも紹介したがご主人のセイイチさんはいわゆるNo No Boy.

太平洋戦争中に日系人強制収容所に入れられ、米国に忠誠を尽くすかを問われた二つの設問にNo と答えた。

それで日本へ強制送還される。

Yesと答えた人は戦地へ送られた。

有名なのが欧州で戦績を上げた精鋭の日系442部隊。

戦後、その日本で結ばれたのがまる子さん。現在の御夫人である。

まる子さんは昨年の暮れに喉のガンへの放射線治療を2ヶ月間も耐えて

現在はその回復・リハビリ期間。

まだ舌には味覚が戻って来なくて、何を食べても味が分からない。

この日、セイイチさんが70年以上も昔に描いた油絵の写真を見せていただいた。

収容所時代にスポーツを楽しむ一風景。

この時、セイイチさんは19歳。

こんなに絵の才能があるだなんて、、、驚きでした。

それにしてもNo No Boy で良かったと思う。

戦地に送られて生還できる可能性の方が低かった。

生還したらヒーローとなり得ても、
死んでしまえば現在の家庭もなかったことになる。

セイイチさんにとっては、ご自分の選んだ道が正しかった。

他の人には他の生き方がある。

ヒーローとなって生還しても、

戦地で屍を晒すヒーローであったとしても、

その各人には各人の生き方があり、

それぞれにとって最善だったのではないだろうか?

創造者の各人への召はそれぞれ違う。

他者と比べるだなんてナンセンスだったんだ。






#メッセージ

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バション島へ

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ウエストシアトルからフェリーで15分ほどのバションへ行ってきた。

その途中、高速インターチェンジ、90号線から5号線への合流地点でのこと。

私の運転する車の隣にぴったりとついた車が
そのまま合流から一つの車線へと譲ることせずに走り続ける。

本線は私側にあるし、若干だが私の方が先に合流地点に達して頭一つとびぬけている。

優先権は私にある。

それでも譲らない隣の車。

このままでは側面接触する。

ブレーキをかけて、「お先にどうぞ」と譲ってあげる。

でもそれに鼻をかけられては相手のためにもならない。
抗議の意思表示としてクラクションを鳴らす。

ここでイライラしたり、腹を立てるのが私の通常。
しかし最近、その応答は私自身が自分に許した結果であるのを知った。

相手や環境が私をイラつかせるのではない。
相手がどうであっても、どのようにそれを受け止めるかは私自身にかかっている。

その受け止め方を練習する良い舞台となった。

フェリー乗り場につくと、フェリーは出航寸前。
ブースで支払いを済ませると、そのまま船の体内へ吸い込まれた。

ついている、ヤッタ~。

帰りのフェリーでも同様で最後尾について
私の車が乗り込むや否やゲートが閉じられた。

あらゆる状況を支配されている大いなる方からのメッセージであると受け止めた。



「あなたは覚えられている。
わたしから捨てることはない。

こんなにも良くしている。
あらゆる恵みを与えつくしている。

試練か?

それはさらに成熟するための学科である。
さあ、上を見上げてごらん」
#メッセージ

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「神の人」

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「神の人」 イスラエルでの夕陽 イスラエルでの夕陽 「神の人」
「しかし、神の人よ。
あなたはこれらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心にもとめなさい」(Ⅰテモテ6:10)

「神の人が、すべての良い働きのためにふさいわしい十分に整えられた者となるため」
(Ⅱテモテ3:17)

聖書が「神の人」と呼びかけている対象がある。

広義としてはクリスチャン全体であるといえようが、
ここでは第一義の宛先人である、テモテに呼びかけられた呼称である。

「神の人」とはどんな人か?

文脈からすると、ⅠでもⅡでも、聖書の教えから逸脱した人たちと対峙するところで使われている。

世の終わりの困難な時代に、真理をいつも学んではいるが真理に達しない人々。

高慢さに取りつかれ、金を追い求めたがゆえに信仰から迷い出てしまった人々。

つまり、神と己との垂直関係が確立されていない中で、他者との相関関係の間柄でしか信仰も、生き方も、自己認識もとらえていない人々。

神の前での自己が確立されていない人々。

それに対しての「神の人」とは、神との交友が確立されている人のことで
それが第一の資格であり、全体の根本であるといっていい。

何ができる、これができるという条件ではい。
これをやってきた、こんな地位にある、といったものでもない。

人からの評判がどうであろうと、
自己の名誉がどうなろうと、

それらに死んでいて
神と自己の甘美な関係に生きている、それで充足している人のことである。



#メッセージ

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波の上を歩く

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Christineと。 Christineと。



この日に出会ったのはChristine さん。

私の娘ほどの年齢の孫がいてそのサッカーの試合観戦に午後、出掛ける事になっている。

話の流れの中で長女が日本訪問の際にソロをしたビデオをお見せした。

簡単に歌詞の意味も説明。


………………………


Jesue (イエスさま)が水の上を歩くようにと導くことがある。


そこは深い大洋の真ん中で足も届かない。


信仰が試される時。


波風に翻弄される私たちの手を主が握り、引き上げて下さる。

いつもそうだった。

私は主のものとされており、
主は私のものとなってくださった。


………………………………


長女の歌声を聴きながら涙ぐむChistine


先月、実の息子さんを病で失ったばかりだという……




……………………………………




私たちのJesusは、病や死を乗り越えたお方。

私たちをその彼方にまで引き連れてくださる方である。


#メッセージ

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