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ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/23446-66
「最後の子羊吟味」
マタイ22章34~46節
~マタイ福音書連続講解説教66~
主イエスは、神の子羊としてその十全性を
ユダヤ人の各派閥から吟味させられている。
第一グループ(サンヘドリン)、
第二グループ(ヘロデ党)、
第三グループ(サドカイ人)からの挑戦・吟味を終えて、
今回はいよいよ最後の第四グループ・律法の専門家からの挑戦である。
それはパリサイ人の中で最も博識あると認められた、トップバッターであった。
専門的な聖書知識があったとしても、
真の宗教に至らない場合がありえることをこの箇所は教えている。
私たちは、
•分断された知識に対して、統合された聖書理解が必要であり、
•無機質の字句主義から、有機的・生命的な神把握が必要とされる。
言わば「論語読みの論語知らず」、
「聖書読みの聖書知らず」
に陥ってはならないのであり、
聖書はその書かれている主題と
目的を把握しながら統合したものとして理解せねばならない。
1.旧約聖書と新約聖書の関連性
主イエスは旧約聖書を最も大切な教えとして、
二つの聖句にまとめられた。
それは新約聖書の教えとなんら矛盾するものではない。
では旧約と新約との教えの違いとは何か?
その「最も大切な教え」(=愛)に到達するための方法なり、
到達の程度が異なるのである。
*教えを成就させる力は新約において初めて可能となった
*旧約時代には教えがあっても、人々にとり達成不能のことであった
*ゆえに「新しい契約」が待望された~ヘブル8:10、エレミヤ31:33
*すなわち「心に書き付け、律法を思いの中に入れる」ことである
*それは主イエスの復活と十字架を通じて
神が人との新しい契約を結ばれたがゆえの成就である
2.主イエスの人性と神性の関連性
メシアは「ダビデの子」であり、
同時に「ダビデの主」であると聖書が啓示している。
それは人として肉体を持ったダビデの子孫として誕生すると同時に、
人の存在を超越した神ご自身であられるとの預言でもあった。
「主」とは神ご自身を表しているものであり、
ダビデは未だ見ていないメシアをそのように読んだのである。
パリサイ人たちはメシアの人としての側面を認め政治的解放者として期待したが、
人を罪から救うところの神としての側面はなおざりにしていた。
3.ユダヤ教とキリスト教との関連性
しばしば一般的に、
ユダヤ教を凌駕する普遍的な宗教としてキリスト教が対峙され、説明されてきた。
ところが、主イエスは旧約の預言者の系譜に属し、
その契約を履行し、その預言を成就されたのである。
この両者もまた質の異なるものでなく、
連続された有機的な繋がりがあるのを見逃してはならない。
当時のパリサイ的ユダヤ教は逸脱したものであり、
本来の聖書的なユダヤ教ではない。
そして今日の一般的なユダヤ教もまたパリサイ派の流れを汲むものであり
聖書本来の教えから遠く離れている。
「聖書的ユダヤ教」(パリサイ主義でない旧約聖書の公正な理解と解釈)
がキリスト教であり、
「普遍的ユダヤ教」(ユダヤ人を超えて異邦人への福音宣教開始の時代)
がキリスト教であるといえる。
序論
人は死んだらどうなるのであろう?
存在を失ってしまうのだろうか。
それとも霊魂(非物質的な部分)は肉体を離れて生き続けるのだろうか?
ある人は、見てきた人がいないのだから結局の所は明瞭には証明出来ない、
と結論付ける。
それは各宗教によって異なる見解・教えに過ぎず、
各宗教人による創作(フィクション)だ、と言う。
もし聖書がフィクションであるとすると仮定するなら
上に書いた推論は正しい。
しかし
もし聖書が神が人に与えた啓示の書であるとするなら
フィクションとしてでなく、多少は襟を正して聞くことも必要であろう。
約1500年間に40人程の著者によって66巻の書が記されて来た聖書。
その膨大な分量に加えてバラエティ富む文学形式満載の書。
その各66巻が互いに調和を保ち、
一つだけのテーマに貫かれ、
矛盾点や誤りが一点でも見出されていないとしたら、
どうであろうか。
聖書が神の霊感による誤りのない啓示の書であると科学的に弁証出来るが
それが本稿の目的ではない。
いずれ項を改めてそれを記すこともあるかもしれない。
今回は、
その聖書が
人の死後の世界についてどう語っているかをまとめて見たく思っている。
本稿はハーベストタイムが2012年に開催したフルクテンバウムセミナー
「聖書が教える死後の世界」
をテキストとして多いに参考・抽出させていただいている。
ハーベストタイムが発行している同セミナーのテキストブックや
CDや DVDを用いればより詳細な学びに益するはずである。
聖書の前提 : 不滅
人が死んだらそれっきりでは無いと聖書は教える。
「不滅」であると明確に教えてくれている。
死とは、霊魂(非物質的な部分)と肉体との分離のことで
その霊魂自体は消滅しない。
不滅を定義すればこうなる。
「霊魂が肉体から分離した後、
永遠に、継続して、意識を持って存在することである。」
「 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、
死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、
「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。」
(1コリント 15:53-54 )
ここでは人の肉体が不滅であるとの教えである。
この文脈では、
死後に失われていた肉体が、「朽ちないもの」「不死」のものとして
霊魂に与えられるそのときが
主イエスの再臨・教会の携挙の時であると教えている。
ゴラン高原に咲くアイリス
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「サドカイ人からの挑戦」
マタイ22章23~33節
~マタイ福音書連続講解説教65~
主イエスが神の子羊としての十全性を吟味させられている場面が続いている。
すでに第一グループ(サンヘドリン)
第二グループ(ヘロデ党)からの挑戦・吟味を終えて、
今回は第三グループ・サドカイ人からの挑戦である。
サドカイ人についてまとめてみる。
1.その教理の特徴
•口伝律法の権威を認めていない
•トーラー(モーセ5書)のみが霊感を受けた正典であるとした
•死者の復活も死後の命も信じていない現世主義者
•天使、悪霊の存在や霊的な世界を認めない
2.その職種
•神殿を基盤とする祭司たちであり、貴族階級
•神殿境内での両替商やいけにえの動物販売で巨利を得ている
•少数であるが、サンヘドリンの有力な構成メンバーであった
3.その運命
•紀元前二世紀のハスモン期に起こった
•神殿のあるエルサレムにしか活動の基盤がない
•それゆえ主のガリラヤ伝道においては姿を現していない
•AD70エルサレム崩壊とともに消滅した
サドカイ人らの質問(23~28)
「23 その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、
イエスのところに来て、質問して、
24 言った。「先生。モーセは『もし、ある人が子のないままで死んだなら、
その弟は兄の妻をめとって、兄のための子をもうけねばならない』と言いました。
25 ところで、私たちの間に七人兄弟がありました。
長男は結婚しましたが、死んで、子がなかったので、
その妻を弟に残しました。
26 次男も三男も、七人とも同じようになりました。
27 そして、最後に、その女も死にました。
28 すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。
彼らはみな、その女を妻にしたのです。」 (マタイ22:23-28)
これはレバリット法といわれるもので、
死んだ長男の名前を残し遺産相続を分散させないために
広く他の東洋民族も踏襲していた慣習でした。
復活を認めていないサドカイ人が
パリサイ人をやり込めていた問いでもあったのです。
主イエスはサドカイ人らに対して
「思い違いをしている」と単刀直入で答えられ、
その質問自体の前提に誤りがあるのを指摘されました。
① 「神の力を知らないゆえ」に思い違いをしている。
復活は神の力によるもので、
人の想像や常識を超えるものである。
その際には結婚、出産、死亡はもやはなく
天の御使いたちのようなものであるという。
ここで人間の女たちと結婚してネフィリムというアイノコを生んだ
創世記6章に出現する堕落した天使たち(すわなち悪霊たち)と
「天の御使いたち」とを区別しなくてはならない。
彼らは、
「自分の領域を守らず、自分のおるべきところを捨てた」(ユダ6節)
ものたちで、
現在では「暗闇の下」(タータルス)永遠の束縛をもって閉じ込められている。
やがての主の再臨が起こる時、
人間や世界のありようは根底が変えられるのであり
そこには推し量られない神の力が働いているのを見ることになる。
② 「聖書を知らないゆえ」に思い違いをしている。
復活を教える聖書を読んだことがないのか
と主はサドカイ人たちに問われた(31)。
復活を教える旧約聖書の代表的な聖句が3つある。
ダニエル12:2
イザヤ26:19
ヨブ19:25~26
サドカイ人らはモーセ律法しか権威を認めていないので
これらの聖書箇所には触れられずに、出エジプト3:6を引用された。
「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」
当時のモーセ時代、3人の族長たちは死後400年程が経過している。
ここで神は現在形で
「わたしは⃝⃝⃝⃝の神である」ということは
神が「生きている者の神」であらねばならない前提があるので
彼ら族長たちには永世が与えられている論理的な結論に至る。
そして死後の永世は、やがての地上での復活に通じるのである。
③ サドカイ人の「パン種」に注意せよ
かつて主は弟子たちにそのように訓戒を与えられた(マタイ16:6)が
その「パン種」とは何のことであろうか?
1.現世利益の宗教
•サドカイ人らは神殿宗教から利益を吸い取っていた祭司・貴族階級であった。
•私たちの宗教とは利益、成功、自己願望、自己実現のための信仰であるのか?
そうであるなら、サドカイ人と変わらないものである。
2.理性中心の宗教
•自ら経験、認識できることしか信仰しない態度が彼らの宗教であった。
•今日の自由主義神学者たちも人間理性中心の聖書理解にとどまり、奇蹟、主の復活も、再臨も信じることができない姿勢を貫いている。
3.真の宗教は生ける神との体験である
•霊感された神の言葉を通じて神に出会うことができる。そこには理性的に認知できる段階から信仰による飛翔が必要とされる世界である。
•仲介者であられるメシア(神人)を通じて、私たちは神に至る事ができる。
「19 こういうわけですから、兄弟たち。
私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。
20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、
私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」
(ヘブル10:19~20)
イスラエル・オファキームにかかるダブルの虹
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http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/21522-64
「カイザルのものはカイザルへ」
マタイ22章15~22節
~マタイ福音書連続講解説教64~
当時のローマ帝国はユダヤ人に対して人頭税を徴収していました。
ユダヤ人にとって異邦人の政府に納税せねばならないのは屈辱です。
そこには金銭的搾取という政治・経済的理由ばかりでなく
宗教的嫌悪感がありました。
納税の際に使われるコインはデナリ貨であり、
それには皇帝ティベリウスの頭像とラテン語で次の銘が刻まれてあったのです。
「神として崇められるアウグストスの子、カイザル・ティベリウス」
神として祭られているカイザルに税を支払うことは
聖書が堅く禁じている偶像崇拝につながるのではないかとの危惧感から、
パリサイ派を始め保守的ユダヤ人は納税を毛嫌いしていたのです。
❶カイザルものはカイザルへ
この納税問題においての主のお考えはここにある短い言葉に要約されています。
時の地上権力が法令で定めた納税義務を課すなら、
それを果たしなさいというものです。
神の国の国籍を持つクリスチャンは、
地上の権威の下にも置かれているとパウロやペテロも教えています。
神の権威の下に服し、
地上政府の権力の下にも服しているのが信仰者だと言うのです。
地上政府は、
人民の平和と秩序のために神から権力の委託を受けたものであると
聖書は教えます。
それであるなら、政府はその神からの委託に応じなくてはなりません。
無条件の白紙委任ではないのです。
その委託を正しく行使しているかを監視しなくてはならない責任が
我々人民の側にあるし、
もし神からの委託に応えず神の御心に反する政策を政府が行使するなら、
権力乱用でありそれに従ってはならないことなります。
❷神のものは神に返しなさい
この主の言葉を聞いて彼らは「驚嘆した」とあるので、
その言葉の持つ重みを彼らが十分に理解ていたことが分かります。
旧約聖書文化の蓄積のない我々異邦人には説明が必要です。
そこには、人間とは神の刻印が押された存在であり、
神が真の人間の所有者であるとの共通理解がありました。
彼らは創世記にある人間創造の記事を熟知していました。
人は土地のチリを原材料にして造られたとあり、
さらに「神のかたち」に造られたとあるのです。
ここで主が言わんとしていることは
パウロがローマ12:1で言っていることと同じです。
「 あなたがたのからだを、神に受け入れられる、
きよい、生きた供え物としてささげなさい。 」
(ローマ 12:1 )
「からだ」とは全身全霊、あなたの存在の全てを意味しています。
神の御心を知りながらも因循姑息な口伝律法に凝り固まり、
自己義を捨て切れないでいる彼らは
「神の所有」という立ち位置から相当かけ離れた所にいる現実を自覚させられて、
そこから逃げるようにして立ち去ったのでした。
❸ ささげものについて
地上政府や神に対しても返すべき負債・義務を負っているとの教えの原則は、
教会でのささげもの(献金)についてもそのまま当てはまります。
私たちが日常所有していると認識している
私の財産、
私の時間、
私の賜物、、、
どれ一つ取ってみても実は自分のものでなく神の所有物なのです。
地上生涯のしばらくの間、私たちはそれらを委託されているに過ぎません。
真のオーナーは神であり、我々はマネージャーです。
やがて神の前に立つ時に、
それらの委託物をどのようにマネジメントして来たかの収支報告書を
提出しなくてはならないと聖書は教えます。
政府への納税義務には強制力が伴っています。
義務を履行しないのなら懲罰されます。
ところが、教会には強制の献金や懲罰は今日ありません。
それは私たちが神の前における自由人として判断を任されている分野です。
献金は強要からでなく一人ひとりが心で決めるものである、
と聖書は明快です。
「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、
心で決めたとおりにしなさい。
神は喜んで与える人を愛してくださいます。」
Ⅱコリント9:7
ここで、
自由裁量に任されているものこそが、
やがて神の前での評価の対象となり、
報酬が決定される選考基準となると言えるでしょう。
プリムの祭りの日に子供の入院している病院に現れたサプライズ
⑸結論 ローマ3:9
「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。
決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、
すべての人が罪の下にあると責めたのです。」
私たち(ユダヤ人)は特権を持っているので、
他の異邦人達よりも優れているというのか、という論点。
そんなことは決してない、と言うのが答えである。
ユダヤ人も異邦人も神の義には到達しなかったのを確認してきた。
それゆえ、全ての人は信仰を通じてのみの恵みによる救いという
同じ方法が必要なのである。
(まとめ)
ここまで2:17-3:9を長く扱って来た目的は、
2:28-29を正しい文脈に位置付けて理解するためであった。
この文脈では、パウロは
異邦人クリスチャンが霊的なユダヤ人になったと教えているのでなく、
全てのユダヤ人が真のユダヤ人になったのではない
と教えるのである。
ここにある区別とは
ユダヤ人と異邦人ではなく、
イスラエルと教会でもなく、
それは
レムナントとノンレムナントの区別であり、
信仰のあるユダヤ人と信仰のないユダヤ人の区別なのである。
イスラエルでは3月16日にプリムの祭りがありました。
エステル記に起源を持つ祭りで大人も子供も仮装します。
⑷ユダヤ人に与えられた約束 ローマ 3:1-8
「1ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。
割礼にどんな益があるのですか。
2 それは、あらゆる点から見て、大いにあります。
第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。
3 では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、
その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。
4 絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、
神は真実な方であるとすべきです。
それは、 「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、
さばかれるときには勝利を得られるため。」
と書いてあるとおりです。
5 しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。
人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。
6 絶対にそんなことはありません。
もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。
7 でも、私の偽りによって、
神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、
なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。
8 「善を現すために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか
--私たちはこの点でそしられるのです。
ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。
--もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。」
❷ユダヤ人の不信仰は神の約束を無効とするのだろうか。 3ー4節
言葉を言い換えるなら、
ユダヤ人が信仰に欠如したら
神の真実性までもが疑うものとなってしまうのか
という点である。
ここでパウロは全てのユダヤ人が不信仰に陥ったとしてるのでなく、
彼らのうちのあるものたちが不信仰に陥った点をあげているのに注目しよう。
ユダヤ人の中には救いに至る信仰を持つものたちが
これまでにいつの時代にも存在していたし、
今後も少数であるが存在し続けるであろう。
それでは、不信仰なユダヤ人ゆえに、
神の約束の真実性が損なわれるのだろうかという点はどうであろう。
答えはNOであり、
ギリシャ語の中で最も強い否定形の用例が用いられている。
「絶対そんなことはあり得ない」というもの。
神の真実性は人間の不信仰によって左右されるものでないのである。
パウロがここで言っている「神は真実な方であるとすべき」とは、
神はご自身の約束の言葉をお守りになられる方であると教えるものである。
「全ての人を偽り者としても」とは、
ユダヤ人に対する神の約束は成就しないと教える
全ての人の事を指摘した聖句である。
❸人々の不信仰にも関わらずに神の真実性が保たれるなら、
神は人を裁くことが出来るだろうか。5-8節
神の真実性がいよいよ現されるために
人は罪を犯し続けても許されるのではないか、
という論点についてパウロは再び厳しい調子で否定している。
その議論の行き着く結論は、
神は誰をも裁かれないことになる。
その教えは、全ての人がやがて世の終わりに神の裁きに服するという
古からの明瞭な聖書の教えと明らかに矛盾することになる。
7ー8節は人間の視点からの論点であり、
ある人々がパウロ神学を誤解して攻撃しているところである。
彼らはパウロがモーセ律法とは異なる義を伝えている道徳廃棄論者
であると結論づける。
それは誤解であり、ここでの答えは次のようになる。
律法を守ろうとしてもそこに至らない点で裁かれるのと同様に、
道徳廃棄論ゆえの積極的な悪行もまたもちろん裁かれるのである。
神はとにかく罪を公正に裁かれるお方であられる。
ヘルシーなイスラエル料理
⑷ユダヤ人に与えられた約束 ローマ 3:1-8
「1ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。
割礼にどんな益があるのですか。
2 それは、あらゆる点から見て、大いにあります。
第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。
3 では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、
その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。
4 絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、
神は真実な方であるとすべきです。
それは、 「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、
さばかれるときには勝利を得られるため。」
と書いてあるとおりです。
5 しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。
人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。
6 絶対にそんなことはありません。
もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。
7 でも、私の偽りによって、
神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、
なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。
8 「善を現すために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか
--私たちはこの点でそしられるのです。
ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。
--もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。」
この箇所は、
パウロが2:17-29で展開してきた
ユダヤ人もまた神の義に至らずに裁きの下にあるという論を踏まえている。
もしそれが正しいとすると、
当然予想される反論とそれに答えたパウロの言葉の箇所である。
もし罪深い異邦人と同じレベルに罪深いユダヤ人がいて
ともに神の怒りの下にあるというのなら、
神がユダヤ人達に与えてきた特権はどうなってしまうというのか?!
という反論に答えるのである。
ここでの答えとは大変短いものであるが、
9ー11章にては、相当詳細な分量の答えとなっている。
ここでの基本となる答えは次のように要約できる。
パウロはユダヤ人と異邦人との区別の全てが
帳消しとされてしまったとは教えていない。
彼が教えているのはそうでなく、
救いの方法に関してのみ、
両者の違いがもはや存在しないということである。
ユダヤ人は異邦人が罪深いのと同様に罪人である。
両者ともに神の義の基準に達することはあり得ない。
ゆえに両者は同様の救いに至る方法が必要となってくる。
人の付け入る隙のない、ただただ神の側における恩寵による救いである。
すなわち、信仰による恵みが身代わりの死において現されていること、
イエスの死と復活がメシアとしての人を救う根拠となっている点などである。
この箇所でパウロは予想される3つの反論と
それに対する答えをそれぞれに3つ用意している。
❶ユダヤ人の契約の民としての立場はどうなってしまうのか? 1ー2節
もはや契約の民族としての特権を失ってしまったのか。
こたえはNOである。
ユダヤ人に対しての神の約束は
現在でも多くの点で有効であるとパウロは告げている。
ここでは1つだけを上げているが、
9ー11章にかけてはさらに多くの特権を論じている。
ここでの主な特権とは、ユダヤ人には神の言葉が委ねられている点である。
神はご自身を啓示するためにユダヤ人だけを選ばれた。
ゆえに聖書記者は全てがユダヤ人なのである。
時に医者ルカが異邦人であったと見なされることもあるが、
その論拠とするものは弱いものだ。
この特権性からして、彼もまたユダヤ人であると見なされるのが適当である。
救いに関する以外の領域では
キリストの体の中(教会)においても
ユダヤ人と異邦人には明確な区別が存在している。
未だ成就していないアブラハム契約の土地条項については
ユダヤ人だけに与えたれているものである。
物質的なこの祝福は彼らだけのものであり、
異邦人が共通して参与できる祝福とは
ユダヤ人に約束された霊的な祝福の分野のみである。
死海南部。年に数日しか雨の降らない地域に雨雲が広がっているのは実に珍しい。
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/2114-63
「招待された宴会」
マタイ22章1~ 14節
~マタイ福音書連続講解説教63~
サンヘドリン「祭司長、民の長老たち」(23)からの吟味・論争に
主がたとえ話を持って答えている箇所が続いている。
彼らの問いを再度確認して見よう。21:23。
①一体何の権威があって
神殿から両替商やいけにえ用動物を追い出したりしたんだ!
②お前にその権威があるというなら、それを与えたラビとは誰なんだ!
主は彼らからの詰問を直接答えるのを拒否された。
しかし、たとえ話から間接的に答えておられる。
本日はその3回目、最後のたとえ話である。
この3回目は、第1と第2のたとえ話の展開後の時系列順としてのものである。
つまり連続小説の最終回と言える。
さらに、第1と第2のたとえ話を包括してまとめているとも言える。
この第3のたとえ話も、内容から3つに区分される。
❶ 第一のたとえ:ユダヤ人のメシア拒否の罪とその結果(2~7)
•「王」は父なる神、「王子」はイエス、「招待しておいたお客」はユダヤ人
•「披露宴」が原語で複数形なのは、約7日間ほど続くユダヤ式披露宴ゆえ
•宴会の準備が整うとしもべを遣わして招待客に伝えるのがユダヤの習慣
•最初のしもべたち(3)とは、B.ヨハネとその弟子たちであろう
•別のしもべたちとは、その後の12弟子たちであろう
•宴会の準備が「何もかも整いました」とは、
メシア的王国が樹立されるためのあらゆる準備が完了されたことを示す。
•B.ヨハネも、主イエスの宣教メッセージも同様に
「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」であり、
それは旧約聖書預言成就としてのメシア的王国(千年王国)が
今や到来しようとしている緊迫感の中でのものであった。
•ところが招待客(当時のユダヤ人)は畑や商売に多忙で、
メッセージに応答しない。
それは既得権益や自己保身のために神の言葉を受け止めなかった、
パリサイ人やサドカイ人達の姿であった。
•「王は怒って、兵隊を出して、人殺しどもを滅ぼし、町を焼き払った」
とはAD70年エルサレム陥落を預言している。
•ここまでは、第1と第2のたとえ話が教えている
ユダヤ人指導者の歩みとその結果の裁きとを描いているところと重複する。
❷ 第二のたとえ:神の国への招待が異邦人へ及ぶ(8~10)
•「大通り」とは町の境界線にある四方へと伸びる道の分岐点。
そこは各国へと連なる幹線道路のジャンクションであり、
色取り取りの民族が行き交っている。
•「出会ったものをみな宴会に招け」とは、
選民だけでなく全ての異邦人への宣教が始まる預言となっている。
その時代は使徒10章から開始される。
•「良い人」でも「悪い人」でも、とにかく道端で出会った者達をみな集めた。
•聖書には、信者が「悪い人」であると言及される箇所は一つもない
•それは不信仰者のことであり、「毒麦」のことである(マタイ13:25)
•ここで信者の中で善人・悪人と二分するものではないことに注意。
良い行いがどれほど積まれたか、といった人側の功績が救いを与えるのではない。
•人は、信仰により誰もが義とされる。
•そこに行いの入り込む隙間はない。
「 こういうわけで、
ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、
ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、
いのちを与えられるのです。 」(Rom 5:18 )
❸ 第三のたとえ:王が祝宴会場に到着する場面:最後の審判(11~13)
•今や披露宴が始まろうとするその時、
それまで見えなかった王が宴会場に姿を現す。
それは千年王国成就直前に、
人は神の前に立って裁きを受けねばならないことを教える預言である。
•そこには「礼服を着ていない者が一人いた」
~当時の宴会会場には礼服が客人のために備えられていた。
•それを拒否したとは、侮蔑行為である。
神の備えられた救いを拒んだ不信仰者の行為である。
•「礼服」とは、イエスへの信仰による義の衣であると言える(イザヤ61:10)
•また、天においてはメシアとの婚礼の場で聖徒らに
「光り輝く衣」が与えられると約束されている。(黙示19:8)
•「外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ」とは、
不信者達が最後の審判を受けて後、火の池に投げ込まれること。マタイ8:12
•それは信仰のない者(義の衣を着ていない者)の結末であり、
救いをどこまでも拒んだパリサイ人たちの行く末である。
主はパリサイ人らとの問答の中で、
これら第1から第3までのたとえを即興で作られて教えられた。
そこにはユダヤ人によるメシア拒否の今日的事象、
近未来に異邦人宣教が開始せられること、
そして歴史の最後の終末預言までが網羅されてある。
その現実把握力、
数十年後の未来予測術、
世の最終章を預言したメシアとしての知恵と力。
一流の作家なら、
一晩かけて一つのたとえ話を組み立てられることもあるかもしれない。
しかし主は、数十分の短時間内にこれら全てを淀みなく話された。
それによりご自身の権威とその出処とを明らかとされた。
つまり、神殿の主としてのメシアの権威であり、
父なる神から託された権威であった。
カイザリア
「28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、
外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、
文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。
その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」
(Rom 2:28-29)
この聖句を真に理解するために
ローマ2:17-3:9 の文脈を確認している作業の第三回目である。
⑶外側の従順と内なる従順さとの対比 ローマ2:25-29
「25 もし律法を守るなら、割礼には価値があります。
しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、
あなたの割礼は、無割礼になったのです。
26 もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、
割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。
27 また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、
律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、
さばくことにならないでしょうか。
28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、
外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、
文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。
その誉れは、人からではなく、神から来るものです。
(Rom 2:25-29)
ここでパウロが論じているのはパリサイ的な視点、
つまり「全て割礼を受けた者には神の国へ入れる保証があるとする神学」
についての反駁である。
確かにパウロは割礼が特権であると言及するが、
割礼が契約を完成させるものであるとは認めていない。
むしろ、割礼はすでに成就している契約のしるしなのである。
割礼は契約を成就するものではなく、従順に基づく祝福を与えるに過ぎない。
もし律法の全てを守っていないのなら、
割礼を受けているだけで裁きを間逃れることはできないのである。
割礼そのものがユダヤ人を救いに至らせないのはちょうど、
洗礼が異邦人を救いに至らせないのと同様である。
洗礼はイエスを信じたゆえのしるしであり、
それに従うことで祝福に与るのも相似形にある。
預言者エレミヤは
実体のない割礼は無割礼と何ら変わらないと指摘している。
儀式が人を神の義に至らせないので、割礼が人を救うことにはならないのである。
そこで28-29節で、
なぜ割礼そのものが役に立たないものかを論ずるのである。
肉体の誕生だけでは人は救いに至らない。
肉体に割礼を受けただけでも救いに至らないのである。
割礼は外形上のことに過ぎないが、
神が要求しているものは内なる心に施術される割礼である。
肉体に施術する割礼は外形上の儀式に過ぎないが、
肉体と心に割礼が施術されるなら
外形上も内なるものも双方に割礼が施術されることになる。
そして「その誉れは、人からではなく、神からくるものです。」と言うのである。
ユダヤ人の原意は「誉まれ」である。
そこで「ユダヤ性は、人からではなく、神からくるものです。」
とも置き換えられるのである。
真のユダヤ人とは、内側も外側も割礼を施術された者達のことである。
ここの箇所で、
異邦人が霊的なユダヤ人になったとは教えていないことに注目しよう。
異邦人についてはすでに1:18-2:16で論じており、2:16で結論を出しているのである。
2:17-3:20ではユダヤ人に関する質問を扱っている。
ここでしていることは、やがて9ー11章で彼が論じている手法と同じである。
信じたユダヤ人と信じていないユダヤ人を区別しているのである。
それはユダヤ人と異邦人の区別でもなく、
ユダヤ人と教会の区別でもない。
それはレムナントとノン・レムナントの区別であり、
信仰のあるユダヤ人と信仰のないユダヤ人の区別である。
信仰のないユダヤ人とは、そのユダヤ性が外側だけのものであり
神の義に至らないゆえに神の裁きから逃れることが出来ない。
このところは文脈で理解されねばならない。
彼が論じている点は、ユダヤ人であるだけでは完成されたユダヤ人では無いこと。
完成されたユダヤ人とは、外側にも内側にも両方割礼を受けたものであるという点。
アブラハム契約に従って外側の割礼を受けて後に、
新しい契約に従って心に内なる割礼を受けた者のことを言うのである。
本当のユダヤ人、完成されたユダヤ人とは、
外側にも内側にも割礼を受けた者のことである。
外側の割礼とは、肉体に施術されたもので、文字と思考に関するものに過ぎない。
内側の割礼とは、心に施術されたもので、聖霊と神とに関わる事柄である。
外側というのは、律法の文字をどう理解してそれに従順に従うかという点であり、
内側というのは、律法の精神に関してであり、
律法が要求している義に内なる従順をもって対応することである。
外側で人は理解した律法を表面的に遵守することはできる。
しかし内側に施術されて初めて人は聖霊の力により神に仕える者とされるのである。
ハイファでのランチ
「28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、
外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、
文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。
その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」
(Rom 2:28-29)
この聖句を真に理解するために
ローマ2:17-3:9 の文脈を確認している作業の第二回目である。
⑵神の義の基準にまで至らないユダヤ人の行い ローマ 2:21-24
「21 どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。
盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。
22 姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。
偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。
23 律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。
24 これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている」
と書いてあるとおりです。」
(Rom 2:21-24)
ここでパウロが発している質問はすべて修辞的で、
全てにYESと答えが用意されねばならない文法構造となっている。
これらの質問を発しながらパウロが言っているのは、
先に指摘したユダヤ人としての数々の特権に伴う
責任を彼らは果たしてこなかったというもの。
彼はユダヤ人が特権を持った民族であるのを否定はしなかった。
事実、特権は彼らのものだ。
特権には責任がとなうのであるが、
その責を果たしてこなかったというのである。
ユダヤ人であっても異邦人と同様に神の義に達するに成功しなかったのである。
ここでパウロが論じているのは、エゼキエル36:20-21を土台としている。
「20 彼らは、その行く先の国々に行っても、
わたしの聖なる名を汚した。
人々は彼らについて、
『この人々は主の民であるのに、主の国から出されたのだ』と言ったのだ。
21 わたしは、イスラエルの家がその行った諸国の民の間で汚したわたしの聖なる名を惜しんだ。」
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