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❹ヘブル7:11〜19
「11 さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら、--民はそれを基礎として律法を与えられたのです--それ以上何の必要があって、アロンの位でなく、メルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか。
12 祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりませんが、
13 私たちが今まで論じて来たその方は、祭壇に仕える者を出したことのない別の部族に属しておられるのです。
14 私たちの主が、ユダ族から出られたことは明らかですが、モーセは、この部族については、祭司に関することを何も述べていません。
15 もしメルキゼデクに等しい、別の祭司が立てられるのなら、以上のことは、いよいよ明らかになります。
16 その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。
17 この方については、こうあかしされています。 「あなたは、とこしえに、 メルキゼデクの位に等しい祭司である。」
18 一方で、前の戒めは、弱く無益なために、廃止されましたが、
19 --律法は何事も全うしなかったのです--他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。」
モーセ律法は、レビ系祭司制度の法的根拠を与えていて、
いわばモーセ律法とレビ系祭司職の間には不可分の関係が構築されていた。
上記の聖句が教えているところは、
新しい法律の下にあって、初めて新しい祭司職が機能出来る、という点にある。
ある一つの法体系の下では、一つの祭司制度しか存続が許されないのである。
モーセ律法の下ではそれがレビ系祭司制度であった。
そのレビ系祭司制度では、完全をもたらさなかった。
その見解はヘブル9:11〜10:18において論述されている。
動物の捧げられた血(レビ系祭司制度)は人を完全としなかった、と明快である。
ただメシアの血(メルキゼデク系の新しい祭司制度)だけが完全な救いを与えるものであると説明されている。
今やレビ系祭司制度は終わって、新しい祭司制度に取って代わったのということは、
それを執行するための法律も変えられなければならない、ということだ。
モーセ律法が機能しているとするなら、
それに準拠しているレビ系祭司制度を除いて他の如何なる制度も無効である。
それなら、法体系は変わったのだろうか?
「前の戒め(モーセ律法)は、弱く無益なために、廃棄された」(ヘブル7:18)
もはやモーセ律法が効力を失ってしまったので、
メルキゼデク系列の新しい祭司制度とそれを支える新しい法体系が必要となったのである。
もし今もモーセ律法が有効であるとするなら、
主イエスは祭司として働くことはできない。
結論はこうだ。
新しい法体系ゆえに、モーセ律法は廃棄されねばならなかった。
メルキゼデク系列の祭司制度を成立させるための新しい法律が機能し始めるために。
❸ガラテヤ3:19
「では、律法とは何でしょうか。
それは約束をお受けになった、この子孫が来られる時まで、
違反を示すためにつけ加えられたもので、
御使いを通して仲介者の手で定められたのです。」
3番目の論考は、律法は永遠に存続する掟として想定されていなかった、という点。
それは一時的なものであり、いわば時限律法なのだ。
ガラテヤ書の「来られる時まで」という条件節に注目していただきたい。
この部分の文脈で、パウロはモーセ律法とはアブラハム契約に「つけ加えられた」ものであると解説している。15-18節
「15 兄弟たち。人間の場合にたとえてみましょう。人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません。
16 ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。
17 私の言おうとすることはこうです。先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがないということです。
18 なぜなら、相続がもし律法によるのなら、もはや約束によるのではないからです。ところが、神は約束を通してアブラハムに相続の恵みを下さったのです。」
(ガラテヤ 3:15-18)
人々に罪を明確に認識させる目的として
律法は「つけ加えられた」ものである。
これによって、全ての人は、誰もが神の義の基準には達しないことを知るのだ。
律法は一人の子孫(メシア)が来られる時まで、
一時的に付け加えられたものであり、
そのメシアが来られた今となっっては、
律法は終了した。
「付け加えられたもの」は、
十字架の役割が始動し始めたことにより廃止となったのである。
❷ローマ10:4
「キリストが律法終わらせたので、信じるものはみな義と認められるのです」
「終わらせた」は、ギリシア語で「テロス」である。
この語は「終了」とも、「目的」とも双方に翻訳の可能な語句である。
古典ギリシア語辞典の権威であるThayer's Greek-English Lexicon of the New Testamentでは、
テロスの第1義的な意味を「終了」としている。
その上、ローマ10:4をその用法例として取り上げている。
それで「終了」とした方が通常のギリシア語用法からして相応しい、となる。
しかしながら、どちらの意味にとっても結局のところ構わない。
聖書は両方を教えているからである。
メシアは律法の指し示した目的であられたが、
同時に律法を終わらせた方でもあられる。
律法によって私達が義に至ることはない(ガラテヤ2:16)。
そればかりでなく、
律法によって聖化されることも、
栄光のからだを受けること(栄化)もない(ヘブル7:19)。
「19 --律法は何事も全うしなかったのです--
他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。
私たちはこれによって神に近づくのです。 (ヘブル 7:19 )
義認、聖化、栄化はメシアにとって与えられる恵みであることからすると、
メシアは律法の目的であったとしても良いはずである。
繰り返すが、
律法はこれらの祝福を教えているが、
成就には至らなかったのである。
そこでメシアの死によって律法は「終了」し、
現在では義認にも、聖化にも役立たないのである。
特に信者には無効とされている。
さらにつけ加えるなら、
ローマ10:4は、
ローマへの手紙のもっと広い文脈で解釈されなくてはならない。
そこにはローマ7:1-6も含まれている。
そこでパウロは「律法からの解放」を高らかに宣言しているのである。
首尾一貫した読み方をしようとすれば、
ローマ10:4は、「目的」でなく「終了」と解釈する他ない。
「教会内での罪の処理」
マタイ18章15~ 20節
~マタイ福音書連続講解説教48~
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/8152048
❶「奥義としての御国」であるキリスト教会
「御国」(Kingdom)とは何であるか?
聖書には5つの概念が見て取れます。
「キリスト教会」がその一つであるのですが、
それは旧約聖書には啓示されておらず、
マタイ13章に至って初めて明らかとされました。
マタイ16章と18章には「教会」という言葉が出て来ましたが、
福音書ではそこだけで使われています。
「教会」という「御国」では、
その王であるメシアは天にあって統治されています。
王国の臣民である我々信者は、地上に王が不在ですので、
王の遺された言葉と聖霊が導いて書かせた言葉、
つまり新約聖書を頼りにして王の御心を実現して行くのです。
マタイ18章では、
教会内での統治(政治)の有り様を王が示してくださった所と言えます。
今回の箇所は、もしその教会内に罪の問題が起こった際に、
どう対処すれば良いのかを王が教えてくれた箇所です。
王を悲しませる罪を放置せず、除去せねばならないのですが、
それには方法があります。
私達は、往々にして罪の問題に対処するよりも、
人との対立を避けるがために罪をウヤムヤにしがちなのです。
あるいは、噂話やゴシップに流されてしまう悪癖に傾きやすいのです。
そこで王が示された4つの対処法を学んで見ましょう。
❷罪を犯した人への対処方法(15~17節)
1. 個人的な直接交渉:「行って、あなたと彼だけの間で責めなさい」
先ず、傷つけられた人は、
罪を犯した人と直接面談して話し合うように勧められています。
レビ19:17が旧約聖書にある背景です。
「責めなさい」(エレンワソン)とは、
「認めさせる」(ヨハネ16:8)のことであり、
罪を弾弓するのが交渉の目的でありません。
2. 証人を同行する:「ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい」
申命記19:15の教えと合致します。
これも個人的中傷の類でなく、客観的な証拠を確認するためのものです。
3. 教会の裁定:「教会に告げなさい」
それでも当人が罪を認めずに改めることをしないのであれば、
教会という秩序ある組織に訴えねばなりません。
ここにある教会とは、物理的に存在している各地方教会のことです。
それに対して16章にある教会は、
目に見えなず、時代を超越し、全世界で霊的に新生した信者をメンバーとしたもの、目に見えない普遍的な組織を意味しています。
4. 追放する:「異邦人か取税人のように扱いなさい」
教会の裁断にも従わない場合は、最後の手段として、
その交友から切り離すことが教えられています。
具体的には除名などの処分であり、
のちになってパウロがコリント教会のあるメンバーに対して執行しました(Ⅰコリント5:11)。
❸主イエスの同席と承認(18~20節)
しかしこれらのステップを踏むのは何と困難なことでしょうか。
しかし主の言葉を踏襲して行く時に、
そこに主も同行してくださる約束が記されてあります。
「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、
わたしもその中にいるからです。」
(マタイ 18:20 )
この聖句は多くの場合、文脈を無視して取り上げられて来ました。
まるで2ー3人の信者の集まりでも、
主が臨在してくださっている、
そこも立派なキリスト教会だ、というような説明の仕方で。
それは当ホサナ教会のような小さな群れには
励ましとなる解釈には違いありませんが、本意を得ていません。
ここでの「2ー3人」とは、その直前に出てくる証人や当事者たちのことです。
同様に
「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」 (マタイ 18:19 )
とある聖句は、複数者での祈りの効用を教えたものではありません。
たとい2人でも3人でも、
当事者達が真実になってその困難極まる和解のプロセスに臨むのなら、
主はそこに同席され、
父なる神も祈りに応えられ、
交わりが回復されるという意味です。
新約聖書は、「モーセ律法はメシアの死によって無効となった」
と教えていることに疑問の余地はない。
換言するなら、
モーセ律法は新約時代を生きる現在の誰に対しても強制力を持っていない。
今後、このことを新約聖書自体の7つの証言から検証して行く。
❶ローマ7:1〜6
「1それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか
--私は律法を知っている人々に言っているのです。--
2 夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。
しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。
3 ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。
4 私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、
律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。
5 私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。
6 しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」
夫が死亡すれば妻は未亡人となり、
「夫に関する律法」から自由になれる(1〜3節)
その女性は自由に再婚できるようになり、
姦淫の罪を犯すことにはならない。
なぜなら、夫の死は夫に関する律法から彼女を解放したからである。
この説明を終えたあとでパウロは神学的適用に入る。
その適応でも、ある人の死が話題となっている。
それは、メシアの死である。
信者はメシアの死によって、
「キリスト(メシア)のからだによって、律法に対しては死んでいる」者
と見なされているのである(4節)。
前章でパウロは信者はキリストと合一された者だ、
キリストの死と葬り、また復活に与った者なのだと言っている。
「3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。 」(ローマ 6:3-5)
ゆえにキリストの死は、
私達信者を死んだ者とするという理屈である。
何に対して? 律法に対して死んだものとするのである。
「そのように思いなさい(計算しなさい)」ローマ6:11
と結論付けられている。
ここで死んだ者とされるの相手は「律法」でなくて「罪」であると書かれている。
しかしこの文脈では「律法」が「罪」を意識させる、つまり生じさせると論じられているので、同格扱いにできる。
罪の性質は、
それまでのように律法を活動拠点として働けなくなっている(5節)。
罪は律法を橋頭堡のようにして私たちのうちに侵入し、
やがて私達を完全制圧する、と言うのが
罪に至る人間心理を巧みに描写しているパウロ神学の真骨頂である。
「7ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
8 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。
9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。
10 それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。
11 それは、戒めによって機会を捕らえた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。 」(ローマ 7:7-11)
上記の聖句に2回ほど現れる「機会」という原語は、
「アフォルメイ」というもので、
それは"Base of Operation"(橋頭堡)を意味する軍事用語である。
こうして厄介な「律法に対して死んだので、律法から解放されている」(7:6)
との結論に至る。
人は、律法かメシアかのどちらかに結ばれなくてはならず、
両方と結ばれることはできないのである。
モーセ律法の下に生きるか、
新しい契約によってメシアの律法の下に生きるかの
どちらかである。
二者択一は、この結婚の例えから明白である。
聖書はモーセ律法を一つにまとまったものとして扱っていることを
確認することから始めたい。
「律法」を意味するヘブル語は「トーラー」である。
もしそれがモーセ律法を指す場合、
聖書では必ず単数形で用いられていて、例外はない。
モーセ律法には613の命令があるが、必ず単数系で使われている。
新約聖書で律法を意味するギリシア語は「ノモス」であるが、
同様にして必ず単数形で用いられている。
モーセ律法を道徳法、市民法、祭儀法と3分割するのは、
多種多様の命令を理解する勉強の助けにはなるだろうが、
聖書自身にそのような分類はなかったし、ユダヤ教ラビの伝統にもなかったことだ。
多くのクリスチャンが信じているように、
613ある命令から十戒だけを取り出して、
これだけは今も有効であるとする主張にも何ら聖書的根拠がない。
613の全ての命令が集合して、モーセ律法という統一体が成立しているのである。
聖書自身の証言を見てみよう。
「 律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、
その人はすべてを犯した者となったのです。
なぜなら、「姦淫してはならない」と言われた方は、
「殺してはならない」とも言われたからです。
そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、
あなたは律法の違反者となったのです。」
(ヤコブ2:10-11)
ここで言わんとしていることは明白である。
613ある命令のどれか一つにでも違反したら、
モーセ律法全てに違反したことになる、との教えである。
これはモーセ律法が統一体であることを前提にして初めて成立する論理である。
市民法のどれか一つに違反したら、
その人は祭儀法にも道徳法の全てにも違反していることになる。
分かりやすく説明してみよう。
もし人がイカの寿司を食べたとしよう。(鱗のない魚は食物規定に違反する)
その時、その人は十戒の全てを犯したことになる。
十戒は寿司について何も言っていないが、
律法は分割できない一体性のものなので、
613の一つを破れば全ての613の違反者として責められるのである。
これは通常の世界にはない事例であるかもしれないが、
それがモーセ律法に対する聖書の論理である。
モーセ律法と我々信者の関係を論ずるには、
聖書が見るように律法を理解しなくてはならない。
つまり、律法のある箇所を指して
今でも有効なところ、別の箇所は無効となっている箇所だ、
というように分割できない統一体として見るということである。
また十戒のように律法の一部だけを取り出して、
これは他の603とは別格で今日でも有効であると主張することもできない。
モーセ律法
⑴序論
本日からしばらく、モーセ律法についての論考を書きたく思う。
私がどこへ行き、何を食べたかという、いつものお手軽な執筆はしばらくはお休みとなる。
キリスト教の専門性の高い話題となるが、読者の皆様にはお忍びいただきたい。
ここに著す多くの部分は、
アーノルド・フルクテンバウム博士による
"The Remnant Of Israel (Ariel Ministries)"
によるところが大きい。
フルクテンバウム博士は、
イエスを信じているユダヤ人団体の世界的権威であられ、
これまでにその講演や著作を通じて開眼を与えられて来た。
博士の聖書に対する姿勢は、
私の聖書信仰を試し、
揺さぶるものであった。
博士の聖書解説は、
私の聖書観の根底を変えた。
説教のスタイルまで変えるものとなった。
今後、博士の著作から学んだことを紹介して行きたく考えているが、
特に私自身が「目からウロコ」の衝撃的な経験となった、
聖書の深堀から探し当てた宝をお分かちしたいと思う。
紀元前2千年以来の重厚なユダヤ文化の内側から聖書を読み解く視点は、
我々異邦人が逆立ちしても追いつけないものだ。
第1回目シリーズとして取り上げたいトピックスは、
モーセの律法についてである。
我々クリスチャンと旧約聖書の関係、と言い換えることもできる。
モーセ律法は、狭義としては旧約聖書の最初の5つの書で、
創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を指している。
これらはモーセが著作であるとの伝承があり、
旧約聖書39巻中、最も権威ある書である。
それゆえ、ユダヤ人においては「モーセ律法」は
広義的に旧約聖書全巻を指す言葉としても用いられてきた。
新約聖書においても、そのような扱い方が見られる。
さて、このモーセ律法、つまり旧約聖書は
どの程度現在のクリスチャンに拘束力を持っているのだろうか。
今も有効な権威の書なのであろうか。
このような疑問を巡る背景には、
私達が西洋神学から受け継いできた2つの考え方がある。
一つは、モーセ律法を道徳法、市民法、祭儀法の3つに分類する考え方。
市民法と祭儀法はすでに過去のものとなり、
私達が守るべきものでないが、
道徳法は今も将来も有効な権威であるとするものである。
旧約聖書の道徳的な教えは、今も守るべきと考える信者は多い。
もう一つは、
モーセ律法を十戒とその他のすべての律法とに分けるもので、
十戒だけは現在も有効であるとするものである。
モーセ律法は613の命令からなるが、
603が無効となったとするクリスチャンも多い。
十戒は有効であると主張するその人が、セブンスディ・アドベンチストの信者に
「安息日を守れとのモーセ律法の第4戒をあなたは守っているのですか」
と問われると、たちまち返答に窮してしまう。
土曜日が安息日であった当時の暦を守っている彼らから見れば、
日曜に礼拝をしているクリスチャンはモーセ律法に従っていないことになるからだ。
このように新約聖書時代に生きるクリスチャンが
モーセ律法とどう折り合いをつけていくのか、
という点は大問題である。
ところが、ほとんどのキリスト教会でこの問題に整理ができていないままであるのが実情でもある。
モーセ律法について聖書自体が何と言っているか、
今後検証して行きたい。
結論だけを先に言えば、先述の二つの考え方は大ウソである。
それらはユダヤ的背景を離れたキリスト教が、
異邦人神学者によって勝手に分類したものであり、
聖書本来の指向とはかけ離れたものである。
新約聖書と旧約聖書との関連付けというテーマ、
この基本中の基本概念も、
ユダヤ的な視点を持たずに紐解くことはできない。
「教会で偉大な者とは誰か」
マタイ18章1~ 14節
~マタイ福音書連続講解説教47~
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/811447
マタイ福音書には、主イエスの語る説教が5つにまとめられて編集されています。
① 5章~7章:山上の説教
② 10章:12弟子たちへの訓話
③ 13章:奥義としての御国のたとえ
④ 18章:キリスト者の新しい共同体=教会
⑤ 24章~25章:オリーブ山の説教
18章では、主の昇天後に発足するキリスト教会が、
どのように自らを律して行くのかを教えている章であると言えます。
その時、御国の王であられる主は天におられて地上にはおられません。
にもかかわらずに主の御心を体現しなくてはなりません。
キリスト教会を率いて行くリーダーにはどういう資質があるべきか、
どういう人材が偉大であると評価されるのか、
こうした重要案件を今回の聖書箇所は扱っています。
❶一番偉い人とは子供?!
「まことに、あなたがたに告げます。
あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、
決して天の御国には、入れません。
だから、この子どものように、自分を低くする者が、
天の御国で一番偉い人です。
(マタイ18:3-4) 」
子どもは自らの無力さを知っていて、
父親に依存、委任するより他ありません。
同様に救いのためには
自らの限界や無能をわきまえ、
神にしか依存する他ないのを知っている
「自分を低くするものが、一番偉い人である」
と教えるのです。
これは誰が一番となるか、
という話題で持ちきりだった12人の弟子たちには衝撃となる教えでした。
❷世界は競争&比較社会
私達の住んでいる世界では、
能力や実績が評価されます。
まるでその評価が当人の価値を決めるとまで言わんばかりの勢いです。
そこから自己尊大感や優越感が生じて来ます。
さて、旧約聖書で最も偉大な業績を残したのは誰でしょう?
モーセです。その彼が最も謙遜であったとも記されています。
「さて、モーセという人は、
地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。
(民数 12:3)」
では新約聖書での最大功績者とは誰でしょうか?
もちろん主イエスです。
「わたしは心優しく、へりくだっているから
あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。
そうすればたましいに安らぎが来ます。 (マタイ11:29)」
その主が最も謙遜であられて、
ゆえに幼い子達にいつも取り囲まれていました。
その日も幼子たちを弟子たちの真ん中に進ませて、
この子供のような信頼の心を持たなくてはならないと実物教育をされているのです。
❸神様も評価している
神の前で評価されるのは、謙遜さです。
謙遜とは、あるがままの自己を正当に評価することに他なりません。
神の言葉という鏡でなく、
世間という鏡に照らされる自己を見つめていくところに、
本来の評価からの狂いが生じてしまいます。
Facebookで「いいね」が幾つ与えられたかが気になる。
米国でのある統計では、
5以上の「いいね」がないと心配になる人が多いのだそうです。
他者の華やいだパーティーやバケイション、
家族や友人達との親密な交友関係を知って
うつ病気味になる若い世代が多いのだそうです。
これを「Facebook症候群」と呼びます。
でも心配は要りません。
聖書の示す解決策があります。
創造者という永遠でかつ絶対者の目を通じて自己を知り確認することです。
そこでは、あなたの生産高、業績、成績などが評価の物差しにはなりません。
あなたの存在そのものが、「高価で尊い」(イザヤ43:4)と言われるからです。
「永遠の愛をもって、 わたしはあなたを愛した。
それゆえ、わたしはあなたに、 誠実を尽くし続けた。
(エレミヤ31:3)」
この夏のオレゴン・トリップから
「山麓で勝利するために」
マタイ17章19~ 27節
~マタイ福音書連続講解説教46~
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/7192746
山麓では、9人の弟子たちが戦いに巻き込まれていました(9~18節)
今回は、その世界にある現実問題にどう対処して行けば良いのか、という観点から
主イエスの教えを学んで見ましょう。
私たちは常に問題に取り囲まれてますが、
勝利のための秘策も用意されているからです。
Ⅰ 生きた信仰によります(19~21節)
「なぜ自分たちでは悪霊を追い出せなかったのか」
と密かに弟子たちは主に問いかけます。
かつて悪霊追放のための権威も与えられていて、
実績もあった(10:8)のに、
ここで律法学者たちとの議論にも破れて面子を失っているのです。
主イエスのお答え(20)は、
「信仰が薄いから」という、直球できびしいお言葉でした。
彼らは、活性化されていない信仰状態にあり、
過去の経験や、
優位な立場・肩書きに頼っても、
霊の世界では意味がないのです。
「からし種ほどの信仰があれば」と主は言われます。
これは最も小さなものを表すユダヤの格言です。
小さな「信仰」であっても、
種の中には命があるように
それが生きた信仰であるなら
そこに神からの命が通い、
「山」をも動かす、と言われます。
「山」とは、克服困難な大問題を比ゆ的に表現するユダヤの文学形態です。
マタイ21:21
すなわち「山を動かす」とは、
神にしかできない大問題を解決することで、
ここでは、口の聞けない悪霊を追放することでした。
神には不可能は一つもないのです(ルカ1:37)。
処女降誕も、
死からの復活も、
罪の赦しも
神にしか実現不可能な「山」です。
その神の力を引き出すパイプ役が信仰です。
その信仰を抱いて、世界の山と対峙するのです。
Ⅱ 御心への献身(22~23節)
主は、本拠地・カペナウムへ帰ってこられました。
そこで2回目の主の受難告知をされます。
初めての受難告知がピリポ・カイザリヤでのリトリートの最中でした。
いわば非日常での思いがけない啓示でしたが、
ここ彼らの生活の場にあっても、
主の定められたゴール(十字架)は、
変わらないことが示されます。
主イエスは父なる神の御心に献身しているのです。
弟子たちには不評ですし、多くの群衆にも理解できないことでした。
しかしそれは、旧約聖書預言の成就の道であり、
主が地上に来られた目的でもあったのです。
ここに不遇の境遇にあっても勝利する秘訣があります。
人の感心や自己の都合ばかりでなく、
最後のところで父なる神の御心に追従するかどうかです。
Ⅲ 他者への愛の配慮(24~27節)
徴税人たちは弟子のペテロに詰問します。
「あなた方の先生は、宮の納入金を納めないのか」
連続したリトリートゆえに、神殿税の納入期限が過ぎていたのです。
ここで神殿税とは、
20歳以上のすべてのユダヤ人が過ぎ越しの祭りの際に
神殿経費として納めていたものでした(出30:13)。
主は口伝律法をことごとく無視されました。
安息日の詳細な仕事をしない決まりや、食前の清めの儀式などです。
ただしモーセ律法はことごとく守り、一度も破られたことはないのです。
既成権威のパリサイ人達とは衝突されること多く、
ラディカルに見えた主でしたが、
本来の旧約聖書の権威にはことごとく従われていることを見逃してはなりません。
世の王たちはその家族・子供たちから税を徴収しないことをたとえに、
主イエスには納税の義務はないことをペテロに教えられます。
主こそ、神殿の主人であられるからです。
ところが、
「彼らにつまずきを与えないために」湖で釣りをするように命じて、
その口にあるスタテル1枚を
ペテロと合わせた二人分の神殿税とするよう命じられます。
福音の本質的な事柄でないなら譲歩して、
時に権利も放棄された主の姿から学びましょう。
真理を曲げてまで世の風潮に追随はできませんが、
どちらでも良いことなら、
相手がつまずきとならないための最大限の配慮をしましょう。
川の左側にそびえる岩山が、Smith Rock。
その右側の岩山にこれから上るところです。
都市部から数時間のドライブで、このような広大な荒野が手付かずのまま残されています。
この日の聖書広場には、
明治大学で教員をされていらっしゃるS氏がお出で下さいました。
毎年S氏は8月のこの時期に、
教員仲間や大学生を伴ってシアトルに数週間、滞在されます。
学生たちをクリスチャンホームに滞在させながら、
「米国のキリスト教に触れることで、その文化の根底を理解してもらう」
というコンセプトがあるようです。
その学生たちは、
米国の地元教会に出席されるのですが、
S氏とすでに社会人となられた教員の皆様は毎年、
当ホサナ教会に出席して下さいます。
毎週続けているマタイの福音書の学びは、
突然のゲストの方にはハードルが高いはず。
そこでこの日は、
私が高校時代にどのようにして信仰に導かれたかを、
お話しさせていただきました。
すでに30年を経過した出来事ですが、
昨日のことのように鮮明に記憶に残っています。
数日後に帰国された皆様の上に、
神様の祝福が豊かでありますように。
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