我が家の家族写真を始めると、最後に残るのが、ポコリン ポコの写真は少ないのです、まずリンから。写真とって楽しいのは、リン 独特の目をしています。かわいい中に威風堂々、チルにもちょっかいだします。リンがはしゃぎはじめると、ほかの住人 さめた目で 見ています。
一眼レフで 自動焦点じゃないと撮れない写真じゃないでしょうか。動く被写体を瞬間で撮るのは技術じゃなくて道具のような気がします。デジカメでは、もっとマルチシャッターを使ってもいいのかもしれませんが。銀塩写真フイルムのときからのもったいないが先にたち、使わないままにきています。あとで選ぶのが疲れるのも理由の一つでしょうか。
芦屋南浜の埋立地にある人工浜、前にこんなもの必要かとも書いたのですが、ワンちゃんの散歩には必要です。カテゴリも自然と入れてみて、人工なのに自然かとも思います。 写真に小さく見えるのですが渡りの鳥が100羽以上浮かんでいます。太陽が昇ってきて、チルとアヤメがシルエット。 この写真もう少しどうにかならんのかね? と言いたくなるような写真ですが、自然な光景としましょう。
ブログを続けている理由の一つ。愛護協会から保護されたチルを預かり、その後どんな状態かを報告するツールでもありました。今日は昨年12月のチル かっこいいです。3年経過しました。ここまでくると愛護協会で見ている 見ていないは別問題。まだ子供の声は怖がりますが、ほかの態度は申し分なしです。 そう チルは定期的に載せなければ。愛護協会新しい出来事で忙しいから見てくれていないかな!!
この話題今日で最後にしようと思います。15年前の17日の早朝でした。明日の朝は特別な朝に感じます。なにも変わらないのですが。やはり鎮魂の日にしなければいけません。街全体も少し違って感じます。 ハイチと違って、神戸の場合大阪以東、岡山以西、普通の日常生活でしたから。全国の警察 消防 駆けつけていただきました。いま改めて、お世話になった方々へ感謝の気持ちでいっぱいです。15年たって やっと落ち着いて考えられるような気がします。 街はきれいになりました。壊さないときれいにならないと言いますが、まさにそのとうり、ほとんどの民家が立ち替わりました。人間のほうは急には変われませんからまだ時間がいるかもしれません。 普通の日常生活感謝 平凡な生活感謝です。
ハイチのニュースが入り、復興までの15年とあわせて考えてしまいます。 ・瓦礫をつんだダンプの列、エンエンと続いていました。 ・阪急電車の線路の上を皆さん歩いて目的地へ行かれていました。 ・我が家は、マンションザクツ全壊扱いで、マンション再建、何回会合もったことでしょうか。2重ローンになる方も多く合意するまで大変でした。 ・和泉市に住居借り、避難生活に入りましたが、芦屋との往復、車大渋滞、夏の暑い時期本当に大変でした。 ・母は 地震のときのおでこの傷も影響あったのでしょう、避難先で亡くなりました。阪神大震災の死者6400人には入っていませんが、こんな方も多かったと思います 断片的にしか 出てこないのですが、被害にあわれた皆さん本当によく頑張ったと思います。
今 思い出すと、色々ありました ・マンションの部屋から出られない、ドアを外から開けました。(郵便受けから鍵もらい、外からあけるとあく場合がありました) ・部屋から芦屋市内見渡せましたが、その日の朝から、3ケ所のマンションから火が上がりましたが、次から次部屋が延焼するのが、3日間見えました。消防車がまったく来ない火事、見たのははじめてです。 ・私のマンションの非難場所は、すぐ近くの警察学校の教室でした。講堂は死体の入った棺で埋まりました。外には使っていない棺が何百と積み上げられました。 ・私たちは高齢の母がいましたから、その半壊の家にじっとしていました。困ったのは母の水洗用の水の確保とわれわれの便所、遠くの仮設便所に行きました。 ・市役所におにぎりもらいに行き、来た人の分だけと母の分もらえず、かえって分けて食べました。 ・お風呂 学校の校庭にできた自衛隊のテント風呂うれしかった。 本当にたくさんの方が、応援に来ていただきました。いやなことは忘れてしまえとブログ書いたことありましたが、いろいろやっていただいたこと記憶にとどめて、次はわれわれが応援できなければいけません。
月曜あたりから、阪神大震災から17日で15年のニュース多くなって気ました。午前5時47分でしたが、私はドン(ヨークシャー)の散歩の為起きていました。とにかくすごい揺れのあと、私が寝ていた枕のところに、1mは離れていたテレビが転がっており。廊下側の壁に穴があき、部屋の中はあらゆるものが倒れ、床は割れたガラスで歩けない状態、まだ真っ暗でした。このあと2時間ぐらいのニュースでも、死傷者7〜8人の報道でした。我が家幸運だったのは、電気は切れませんでしたので、テレビは見れました。すぐに暗闇を母の家にバイクで行きましたが。道路のデコボコひどく大変でした。安否確認だけしてまたマンションに戻りました。今日はここまで、15年たっても覚えています。生き方を変えさせた出来事でしたから。