今夜は、クリスマス イブ。 ひっそりと、お友達4人でイブを祝いました。
私の担当はお肉の用意。ローストポークとチキンです。ローストポークの下味ベースは、お醤油、砂糖、はちみつ、赤ワイン、オレンジです。お友達は、サラダ担当。赤のサラダと緑のサラダ、バルサミコとオイルベースで作ったドレッシングでとっても美味しかった。クリスマスケーキはペコちゃんケーキです。もう不二家さんは大丈夫ですよ。
10月の5日に父の退院。結局、私は父の退院にも向えに行かなかった。
でも、もちろんその後も一日に一回は家に電話を入れる日々。悪いとは思っていても、もう年末に帰るチケットは買ってある。ひと時の平和を過ごしていました。11月23日の金曜日、何時ものように、「おはよう」の電話をかける。 また母さんの声が変!! 昨夜39度8分の熱をだしたらしい。「ちょっと待って、もうすぐ帰るから」と言い残し、午後からのお客さんを午前に来てもらい、駅に向う道中で薬局に寄り風邪薬を買い、1時の新幹線に乗って変える。
連休で東京駅はごったがえしている。倉敷駅には幼なじみが待っていてくれた。母はうつろな顔で、「帰って来てくれたの」と言う。さっそく風邪薬を飲ませ一晩、氷で冷やす。あくる日はすっかり熱も下がり、少しだけ食べてくれた。母は何時も私が帰ってくると髪の毛をカットして欲しいと言う。私のカットが好きらしい。今も寝ていても、「帰るまでにカットしてくれる?」と言う。私は、「うん!」 もっと食べないと体力がつかないから」と勧める。母の体重は38キロ、ほんとに細くて小さくて可愛い。 あくる朝、母を見に行くと、真っ赤な顔をして目がまわっている様子。熱を測ると39度1分、「もう救急車呼ぶから」「そうして」の一言でした。よほど辛かったのでしょう。父を残して、病院に向う。診断の結果、肺炎でした。そのまま入院です。私はどうしても撮影の仕事とお客さんのアポが入っていたので3日間でとんぼ帰りをしました。それから東京に着いてからの3日間、格闘でした。帰宅した私は父がどうしているかチェックの電話をいれるのですが、父がいない。父は母が寂しがっていると思い車で病院に行くのですが、何時まで経っても帰って来ない父を心配して、叔父と叔母が病院に迎えにいく。父は途方にくれたように立っている。 置いた駐車場が分からない。2時間と捜してようやく父の車を見つける。叔父が運転する父の車を遊動して家に連れ戻す。この間の私と叔父、叔母の電話の回数は何回だろう。叔父が父を納得させて、車のキーを没収する。 次の日、また父が・・・ スペアキーで病院へ・・・ また2時間車を捜す。叔父は車屋に連絡をして取りに来てもらい、叔父の車で家路に。 母は今も微熱を出したまま父に、「来ないで」の電話を何回もしつづけてる。
このままでは、母が死んでしまう。あと2日、あと1日と数えながら、明日、倉敷にやっと帰れるのです。
私がこの日記を書いた理由は、父のアルツハイマーと診断を受けて、私の一時の気持ちが、父への攻撃になったり、善悪のつかないような考えになったからです。私を生んでくれたのは父と母、何があっても二人を見捨てたりしない、私の出来る限り二人を見守ってあげたい気持ちを今、自分に約束したからなのです。
父と母を愛しています。
今度帰って来た時は何時もの私・・・
今度は、父の番。
父は昔から心臓の狭心症・不整脈の持病を持っています。
何時ものように電話をかける。母との会話の中で父の様子を伺う一週間、毎回 「寝てるよと母の頼りなさそうな声。また何か変な予感がする。長年の会話で感が鋭くなっている。
また急いで飛行機で帰る。幼なじみが空港で待っていてくれて、その足で家まで直行してくれるのです。
スーツケースを玄関の置いたまま父さんの顔を見に行く。
父は青白い顔をして、「お父ちゃんは大丈夫どこも痛くない」と・・・ 父の顔は腫れて、足もとを見ると、ゾウのように晴れ上がって、指も甲も骨が見えてない。
また私のドタバタ劇が始まるのです。叔父の車で病院へ直行―\r
取り合えず検査入院という事で、部屋が決り入院の準備のため売店に行って帰ったところ、さっき新しいベッドを作っていてくれたのに、看護婦さん達がシーツを直している。
父の失禁でした。初めての父の失敗、もう訳が分からない。
ここ一年位、父の物忘れが激しい。うすうす感じていても、それは無かった事にしようとか、まだ大丈夫とか心の中で言いきかせていた母と私。病院の中で現実を見た私達でした。
主治医が、ここ2.3日様子をみて、夜中に心拍数が20以下になったら手術をしなければいけないと言う。父は相変わらず、「大丈夫、大丈夫」と言ってくれるのです。それならばこんな仕事が忙しい時にもうNGは出せない。2.3日あるなら明日、東京に帰って撮影に出て、またすぐ帰ってきたらいいと、少し安心して東京にその日戻ってしまいました。
翌朝、現場に出てさほど時間が経ってはいない、主治医から直接電話がかかってくる。
マナーモードにしていた電話を取って、トイレに向って走っていく。
やな予感・・・
「昨日の夜中、心拍数20以下になりました。今、手術しないと3日後になります。3日後では体力がなくなっているので手術は不可能になります」の返事でした。お願いします以外の言葉はない。私の決断や時間はない。20年前も父が手術をする時も、私は広告の仕事で海岸にいました。何でこんな時の青い海にいるんだろう、まぶしい太陽はちっとも明るくしてはくれく、むしろ腹立たしい。今でもその時の事は忘れません。
乗り越えてくれた父に電話をする。父の声を聞いたとたんに泣いてしまう。「お前が決めた人生だから自分で切り開け」と言った父。それからの私、男の人生かも・・・
そんなこんなで手術も無事成功。父は左の鎖骨あたりから、ペースメーカーを入れている。顔色も良くなり足の腫れも徐々にひいたらしい。結局、私は術後の父を迎えに行ってあげなかった。これで二回も父を見捨てたようだ。大丈夫の一言が私の甘んじさになってしまったかも。私は父より母に比重をおいてるようだ。
その後、退院の直後に脳神経科で診察をしてもらうことになり、結果はアルツハイマーの初期だと言われました。やはりと今後のことが交差する。
父は左の肩に何が入っているか分からない。「何か硬いものが入っている」と言っている。
この後は明日にしたいと思います。
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