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聖書会の後には、こうして心尽くしの愛餐会。
レギュラーの方々が半分ほど集われました。
タコマ南部での聖書家庭集会へ行ってきました。
ホストの家が改築中だったため、
この数ヶ月間お休みしていた家庭集会でしたが、
この1月から再開となります。
レギュラーの方々の元気そうにしておられる様子に安心しました。
今年の初会合となるグループでは
「明けましておめでとうございます」
との挨拶も交わされます。
再び正月気分を再浮上出来ました。
カイザリア
イスラエルとキリスト教会❺〜区別されるその聖書的論証
④教会が「新しいひとりの人」と呼ばれている。エペソ2:15
「15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。
敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。
このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、
平和を実現するためであり、
16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。 」
(エペソ 2:15-16)
パウロはエペソ2:11-3:6において3つの共同体組織に言及している。
イスラエル、
異邦人、
そして「新しいひとりの人」である。
この「新しいひとりの人」とは、
イスラエルや異邦人とは明確に区別されながら
両者の信者達を構成メンバーとするものである。
この新しいひとりの人がすなわち教会なのである。エペソ2:16,3:6
イスラエルとキリスト教会❻〜区別されるその聖書的論証
⑤これら3つの共同体はそれぞれが互いに区別されるものである。
「32 ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、
つまずきを与えないようにしなさい。」
(1コリント 10:32)
イスラエルとキリスト教会❼〜区別されるその聖書的論証
⑥教会という用語は決してイスラエルに使われたことがない。
これは次章で詳しく学ぶ。
この年末に雪で覆われたエルサレム
イスラエルとキリスト教会❹〜区別されるその聖書的論証
③教会の奥義的な性格
聖書で「奥義」とは、
旧約聖書には啓示されずに新約聖書に至って初めて啓示された真理のことを示した専門用語である。
エペソ3:3-5
教会それ自体は奥義とは呼ばれていないのであるが、
教会に関する数ある性格が奥義と呼ばれているのである。
⑴教会のからだ概念が奥義。
ユダヤ人信者と異邦人信者とが結合して
一つのからだとしての教会を形成するというのは
旧約聖書に存在していない概念である。エペソ3:1-12
⑵信者の内にキリストが宿るという概念が奥義。
コロサイ1:24-27,2:10-19,3:4,11
⑶教会はキリストの花嫁である。エペソ5:22-32
⑷携挙。Ⅰコリント15:50-57
信者が復活して新しいからだを受け継いだ後に天に引き上げられて主と会うというのも奥義である。
これら4つ奥義は何れも教会と深く関わったものであり、
教会自体が奥義であるとも言えるし、
イスラエルとは明確に区別されるべき存在であるのが分かる。
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/0202856-1
「天の御国の恵み」
マタイ20章29~ 34節
~マタイ福音書連続講解説教57~
① 天の御国は、恵みと信仰とによる
4つの福音書には、時に一致しているとは見えない共通記事がある。
今回の盲人のいやしの記事においても、
マタイでは、エリコを出た時(20:29)のことであるとしているのに対して、
ルカでは、エリコに近づかれたころ(18:35)であるとしている。
聖書の権威を認めない人達は調和がないとしてその無誤性を攻撃して来るが、
むしろそれは異なる目撃者情報をソースとして取り入れた記者がいる事を示し、
歴史的史実を裏付けるものである。
観察者の視点によって異なる描写がなされるのは通常の事であり、
むしろ全く同様の文書ならフィクションをコピーしたものであると見なされてしまう。
それでは、ルカが「エリコに近づかれたころ」とした編集上の理由とは何か。
学者達が多くのものを紹介しているが、
その中から最も説得力あると思えるものを紹介したい。
ルカ19:1~27は、ザアカイ物語を初めとするエリコ市内での記録であり、
ルカにしかない二つの独自記事が記されている。
その後に今回の盲人いやし記事を持ってくるよりも、その前に配置することで、
エリコ入城直前の物語との関連性を重要視したかったのではないか、
との推論である。
エリコ入城直前のルカ18:15~43には、
マルコやマタイ共に共通している3つの記事がある
•18:15~17:幼子たちが神の国に入ること
•18:18~30:裕福な役人は神の国に入れなかった
•18:31~34:受難予告と弟子たちの無理解
邪魔者扱いされた幼子達の純真な信仰こそが神の国に入る手段となるものであり、
一方神の国エリートと目されていた金持ちの役人や
出世競争を意識していた弟子たちは遠いもの達であるとされた。
そして道端に座り込んで物乞いをしている盲人の物語である。
宗教民族ユダヤ人の考える最右翼でなく、
主と旅を続けていた弟子たちでもなく、
この捨てられたかのような盲人が、神の国の恵みを最も重厚に体験したのである。
何というどんでん返しであり、皮肉であろうか。
② 主の働きの転換点
そのいやしのプロセスを見るならば、
主は彼から信仰を引き出しているのが分かる。
イエスがメシアであるという信仰があるのを確認し、
その告白に至ってからいやしの奇跡が行われている。
この順序は初期のガリラヤ伝道にはなく、
その際には相手の信仰あるなしにかかわらずに奇跡を行っている。
一体、何がその方針を大きく変えるものとなったのか?
福音書の中で明らかに主の働きの性格が一変している時点がある。
それは、マタイ12章でのユダヤ人による正式なイエスのメシア性拒否の時点。
•それは彼らにとって、「赦されない罪」となった
•Point of no returnであり、AD70のエルサレム崩壊とユダヤ人の大虐殺は不 可避となった
•メシア的な王国は将来の世代へ延期された
•「奥義としての王国」時代(ほぼキリスト教界時代と時を同じくする)が始まった。
ここで主の働きが劇的に変化した4つの点を挙げてみよう。
❶奇跡の目的が変化
メシア性を証明するために群集を相手にしていたところから、
→個人の必要のために、また弟子訓練のための奇跡となった
❷相手の信仰が要求されるようになった
信仰のない群集にいやしを行っていたのに対して
→先ず信仰を確認してからいやしを行うようになった
→さらにいやされたことを他言しないよう戒められた
❸メッセージ自体も変化
主イエスがメシアであることをご自身も弟子たちもイスラエル国内で告知した段階
→沈黙を守るように戒められた
→ペテロの信仰告白後にも、メシアであることを他言するなと命じている(マタイ16:20)。これは復活後の大宣教命令まで続く。
❹教えの形態が変化
誰もが聞いても理解できるわかりやすい教え。(例)山上の垂訓
→たとえ話の多用。群集から真理を隠すために。それ自体が彼らへの裁きとなった。これはイザヤ6:9の預言の成就である。
ガリラヤ湖から北方にあるフーラ湖。
朝焼けに映える数千羽の鶴の群れ。
イスラエルとキリスト教会❸〜区別されるその聖書的論証
②メシアの生涯で特筆される出来事の後に、キリスト教会設立がある
その出来事の第一は、メシアの死である。
メシアの死により贖いが成就され、その血潮が教会誕生の根拠となった。
主が新しい新しい組織統一体としての教会誕生の預言を初めて語った(マタイ16:18)直後に、
やがて来るご自身の死をも預言された(マタイ16:21)のは偶然ではなかった。
第二の出来事は、メシアの復活である。
「20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、
キリストを死者の中からよみがえらせ、
天上においてご自分の右の座に着かせて、
21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、
また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、
すべての名の上に高く置かれました。
22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、
いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
23 教会はキリストのからだであり、
いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 」
エペソ1:20-23
教会がからだであり、メシアはその頭である。
ここで、復活によってのみ「頭」となり得たと教えている。
第三は、メシアの昇天である。
「 7 しかし、私たちはひとりひとり、
キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。
8 そこで、こう言われています。
「高い所に上られたとき、 彼は多くの捕虜を引き連れ、
人々に賜物を分け与えられた。」
9 --この「上られた」ということばは、
彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。
10 この下られた方自身が、
すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです--
11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」
(エペソ4:7-11)
キリスト教会がその組織の働きを始動させる唯一の条件として
聖霊が人々に賜物を与えなくてはならなかった。
これらの聖句は
主の昇天によってのみ聖霊の賜物がもたらされたのを教えている。
ゆえに、
主の十字架による死、
復活、
昇天。
これらの出来事の後に
教会の設立がなくてはならないことになる。
夕日に照らされるガリラヤ湖
「あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」
聖書でこのみ言葉が繰り返されているが、
その意義を知り、深く味わってみよう。
1) 申命記31:6 :モーセが主の言葉として民に伝えた
「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。
あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。
主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。 」
2) ヨシュア1:9 :神がヨシュアに語られた
「わたしはあなたに命じたではないか。
強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。
あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」
3) 1列王記8:57 :ソロモンが神殿奉献の際、民を祝福した言葉
「私たちの神、主は、私たちの先祖とともにおられたように、
私たちとともにいて、私たちを見放さず、私たちを見捨てられませんように。 」
4) 1歴代誌28:20:ダビデが神殿建築をソロモンに委任した際に
「それから、ダビデはその子ソロモンに言った。
「強く、雄々しく、事を成し遂げなさい。恐れてはならない
。おののいてはならない。
神である主、私の神が、あなたとともにおられるのだから--。
主は、あなたを見放さず、あなたを見捨てず、
主の宮の奉仕のすべての仕事を完成させてくださる。 」
5) ヘブル書13:5 :全ての信者に対する神の言葉
「金銭を愛する生活をしてはいけません。
いま持っているもので満足しなさい。
主ご自身がこう言われるのです。
「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」
繰り返しこのように教えられているのには訳がある。
私たちは恐れにいとも簡単に取り付かれてしまうからである。
病や死、経済的な困窮、いや目の前の試験や仕事にも恐れを抱く。
だが、その必要はないと主はおおせられる。
主ご自身が私たちとともに歩いてくださるからだ。
イスラエルの国が置かれたその場所は、
地球上のどの場所にも勝ってストレスを感じざるを得ないところであった。
民は常に恐れと同居していた。
どうしてその場所が困難であるといえるか、大きな3つの理由を示そう。
① 地政学的見地
イスラエルの地は「乳と蜜の流れる」一等地であることには間違いなくても、
アフリカ・ヨーロッパ・アジア3大陸の接点、陸の回廊に位置している。
ゆえに古代から戦争の絶えない場所であり、
有力な帝国が勃興すると他の国々を蹂躙するための通り道となってきた。
バビロン、アッシリア、エジプト、ギリシア、ローマ、トルコ、イスラム、イギリス、、、
これらの大国に占領されて来たのは、
その戦略の上で重要な地に位置しているからに他ならない。
② 地理的状況
この地には大きな川がない。
隣接する大国は、
ナイル川やチグリス・ユーフラテス川が年中大地を潤していて
大規模な灌漑農業による大生産地となっていた。
ところがイスラエルに灌漑農業は不可能であり、
冬季の降雨に頼るしかなかった。
人為的な方法で水の確保ができないとき、
人々は天を仰ぎ、不安な気持ちを押し殺して神に祈るほかない。
現在のイスラエルでも雨量は国民の大きな関心事となっている。
③ 民族的宿命
ヨシュアによって約束の国に定住した時から、
その周囲には敵対的な諸国家が隙あらば攻め込もうと目を光らせていた。
その中でもイスラエルと親戚関係にある民族が執拗な悪行を繰り返していた。
死海東方や南部に広がる国はエドムであり、
それはヤコブの双子の兄弟エサウを先祖に持つ民族である。
ヨルダン川東方には、アモンとモアブがいるが、
それらはアブラハムの甥であるロトの二人の娘たちが
近親相姦によって設けた民族である。
このように、イスラエルの与えられた約束の地とは、
決して安閑としていられるところではなく、常に緊張を強いられている地である。
日本は水と安全はタダと言われるが、彼らにはそれが根底から欠如していた。
ゆえに天を仰いで神を求めるより他に、
自力では解決不能な困難をやり過ごす方法はなかったのである。
いわば、信仰心を発揮せざるを得ない道場に置かれていたといえよう。
イスラエルとキリスト教会❷〜区別されるその聖書的論証
①教会は歴史的に使徒2章のペンテコステの出来事(AD30)で誕生した。
ところがイスラエルとは、
紀元前2千年に遡るアブラハム、イサク、ヤコブを先祖に持つ
民族グループのことである。
キリスト教会は、聖霊のバプテスマによって誕生したことが
預言、史実、そしてパウロ書簡の叙述から明らかである。
「教会はキリストのからだである」と教えられている。
「また、御子はそのからだである教会のかしらです。
御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。
こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。」
(コロサイ1:18)
そしてこの「キリストのからだ」に加わるためには、
聖霊によるバプテスマを受けなくてはならないとも教えている。
「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。
神の御霊によって語る者はだれも、
「イエスはのろわれよ」と言わず、
また、聖霊によるのでなければ、
だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。」
(1コリント12:3)
主が天へ帰られる前、
その聖霊のバプテスマとは
その時点では将来に関わることであると教えられた。
「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、
もう間もなく、あなたがたは
聖霊のバプテスマを受けるからです。」
(使徒1:5)
それでは「聖霊のバプテスマ」とは、一体いつから始まったのか?
答えは使徒2:1-4にあるペンテコステの日の聖霊の傾注なのであるが、
問題はその箇所には「聖霊のバプテスマ」という語が出て来ないのである。
「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、
彼らのいた家全体に響き渡った。
また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、
他国のことばで話しだした。」
(Act 2:1-4)
それでも使徒11:15-16に
当時を振り返ったペテロがその出来事を
「聖霊のバプテスマ」であると呼んでいる。
「そこで私が話し始めていると、
聖霊が、あの最初のとき私たちにお下りになったと同じように、
彼らの上にもお下りになったのです。
私はそのとき、主が、
『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、
あなたがたは、聖霊によってバプテスマを授けられる』
と言われたみことばを思い起こしました。」
(Act 11:15-16)
ペテロは異邦人達に聖霊のバプテスマがあった(使徒10:44-46)様子は、
ちょうど初めの日にユダヤ人達に聖霊の傾注があったのと同様であった
と、ここで述懐している。
そして使徒1:5の主イエスの預言を取り上げて
それが使徒2:1-4において成就したのであるとの解釈を進めているのである。
聖霊のバプテスマがキリスト教会の設立に不可欠なものであり
聖霊のこの傾注が初められたのは使徒2:1-4のみであると聖書が語っているのなら
キリスト教会はそれ以前には存在していなくて
使徒2章で初めて存在するようになったことになる。
旧約聖書のアダムやアブラハム、
どの時代でも教会が始まられたとする言及はないし、
マタイ16:18には教会設立預言が未来形で語られていることから
福音書時代にもあり得なかった。
「ではわたしもあなたに言います。
あなたはペテロです。
わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。
ハデスの門もそれには打ち勝てません。 」
(マタイ 16:18 )
イスラエルとキリスト教会❶〜その問題提起
「イスラエル」と「キリスト教会」についてこれからしばらくの間話を進めて見たい。
と言うのも
プロテスタント教会の中の多くの部分、
特にカルビン派の学者達は
両者が同一であり、
新約聖書時代以降は
「イスラエル」が「教会」に取って代わり
これらは相互変換できるものであると論じているからです。
これを「置換神学」と言います。
明治後に西洋のキリスト教会を通じて日本にキリスト教が浸透して来た経緯から、
日本のキリスト教会は、この神学の影響を強く引きずって来ました
果たして聖書はそのように教えているでしょうか?
契約神学の立場の3大神学校では
「教会が新しいイスラエルになった」と教えており
その聖書的根拠として、どの神学校でも
ガラテヤ6:16、ローマ9:6-8を取り上げている。
「どうか、この基準に従って進む人々、
すなわち神のイスラエルの上に、
平安とあわれみがありますように。」
(ガラテヤ 6:16)
「6 しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。
なぜなら、イスラエルから出る者がみな、
イスラエルなのではなく、
7 アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、
「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」のだからです。
8 すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、
約束の子どもが子孫とみなされるのです。」
(ローマ 9:6-8)
そこから
「教会が霊的なイスラエルになった」
「異邦人信者は霊的なイスラエル人である」
という結論に至ろうとしている。
しかし聖書を比喩的に解釈せず
書かれた通りに、字義通りに解釈するなら
両者は明確に区別されていることが分かる。
そこでイスラエルと教会が
明確に区別されて存在するそれぞれの統一体であることを
今後6つの聖書箇所から論証して行きたい。
主イエス降誕の地、2013年末のベツレヘム
「天の御国での地位」
マタイ20章20~ 28節
~マタイ福音書連続講解説教56~
聖書本文とメッセージノートは、
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/0202856
エルサレムに向かう主イエスの一行は今や目的地を目前に控え、
目の前に迫るそれぞれの期待値がクライマックスに達しようとしていた
~主の期待しておられたことと、
弟子たち・群集のそれとは大きく異なるものではあったが。
主は受難のメシアとしての十字架での死を覚悟し、
弟子たちは王なるメシア即位としての世界統治を夢見ていた。
2013年、最後の日曜礼拝を迎えた。
新年に向けて抱負や希望を語ることの多い時期であるが、
私たちの抱く野望と主の御心とは、果たして一つのものであるだろうか。
それとも当時の弟子たちのように、開きのあるものだろうか。
Ⅰ 歴史には初めがあり、終わりがある。
「わたしはアルファであり、オメガである。はじめであり、終わりである」
と言われた主。
天地を創造されて人間歴史をエデンの園から創始された神は、
歴史の終わりまでをもプログラムされておられる。
人類の救済プログラムをさらに一歩前進させるために、
今や購いの代価(奴隷の身代金)として
ご自身のいのちを差し出されようとしておられた。
それはあらかじめ神に予定されていたことであり、
預言者たちにより語られていたことであっても、
当時の人たちには弟子たちにさえ理解できないことであった。
今年に初めがあったが、今や暮れである。
この人間歴史もまた、やがて閉じられるときが来るのを
私たちは今、弁えねばならない。
Ⅱ 突然、不可抗力を持って進展
その歴史の収束時点とは、
主イエスが再びこの地上にお出でになられるときである。
「主は、号令と、御使いのかしらの声と、
神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。」(Ⅰテサロニケ4:16)
そしてそれは、何の前触れもなく突然起こる。
「主の日が夜中の盗人のように来るということは、
あなた方自身がよく承知しているからです。」(Ⅰテサロニケ5:2)
いったんそれが起これば、誰も神のプログラムを後戻りさせることはできない。
どれほど祈りや断食、努力や犠牲が捧げられたとしても、
神の訪れのときの前に人は無力でしかない。
まるで洪水が突如として襲ったノアの日の出来事のようだ。
またそれはちょうど、
主が「過ぎ越しの祭りの大いなる日」に
「木に掛かって」受難の死を遂げられねばならず、
これを人的な力で遮ることが出来なかったのと同様である。
ユダの裏切りがあってもなくても、
ユダヤ人のねたみやピラトの優柔不断があってもなくても、
その時と方法を目指して主の歩みは続けられた。
誰もその歩みを止められる者はいなかったのである。
Ⅲ 新しい時代での報酬・地位
ヤコブとヨハネらは、メシア的王国で右大臣、左大臣の地位を懇願した。
彼らの求めたものは間違ってはいないが、そこに至る道程を理解していなかった。
神の国での立身出世は血縁関係によらず、
「杯」(試練や苦難、さばきを意味する)を経た者にしか与えられない、
という原則を。
しかも、どんな地位に昇進するかは、
主イエス様でさえあずかり知らないものであるという。
「それはこのわたしの許すことではなく、
わたしの父によってそれに備えられた人々がある」
神の国での人事権は、父なる神による専権事項であるのだ。
ここで私たち自身、「どんな願い」(21)を抱いているのか、主の前に問われている。
私たちには、主の「杯」(22)を受け取る用意はあるだろうか。
私たちは新しい年に与えられる、神から許されている時間、賜物、
そして運命なるものを父なる神の御心にゆだねられるであろうか(23)。
たとい、あなたに関わる父なる神の使命がどのようなものであったとしても。
その使命がもたらす結果や、人による評価、報酬がどうであったとしても。
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