ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/23446-66
「最後の子羊吟味」
マタイ22章34~46節
~マタイ福音書連続講解説教66~
主イエスは、神の子羊としてその十全性を
ユダヤ人の各派閥から吟味させられている。
第一グループ(サンヘドリン)、
第二グループ(ヘロデ党)、
第三グループ(サドカイ人)からの挑戦・吟味を終えて、
今回はいよいよ最後の第四グループ・律法の専門家からの挑戦である。
それはパリサイ人の中で最も博識あると認められた、トップバッターであった。
専門的な聖書知識があったとしても、
真の宗教に至らない場合がありえることをこの箇所は教えている。
私たちは、
•分断された知識に対して、統合された聖書理解が必要であり、
•無機質の字句主義から、有機的・生命的な神把握が必要とされる。
言わば「論語読みの論語知らず」、
「聖書読みの聖書知らず」
に陥ってはならないのであり、
聖書はその書かれている主題と
目的を把握しながら統合したものとして理解せねばならない。
1.旧約聖書と新約聖書の関連性
主イエスは旧約聖書を最も大切な教えとして、
二つの聖句にまとめられた。
それは新約聖書の教えとなんら矛盾するものではない。
では旧約と新約との教えの違いとは何か?
その「最も大切な教え」(=愛)に到達するための方法なり、
到達の程度が異なるのである。
*教えを成就させる力は新約において初めて可能となった
*旧約時代には教えがあっても、人々にとり達成不能のことであった
*ゆえに「新しい契約」が待望された~ヘブル8:10、エレミヤ31:33
*すなわち「心に書き付け、律法を思いの中に入れる」ことである
*それは主イエスの復活と十字架を通じて
神が人との新しい契約を結ばれたがゆえの成就である
2.主イエスの人性と神性の関連性
メシアは「ダビデの子」であり、
同時に「ダビデの主」であると聖書が啓示している。
それは人として肉体を持ったダビデの子孫として誕生すると同時に、
人の存在を超越した神ご自身であられるとの預言でもあった。
「主」とは神ご自身を表しているものであり、
ダビデは未だ見ていないメシアをそのように読んだのである。
パリサイ人たちはメシアの人としての側面を認め政治的解放者として期待したが、
人を罪から救うところの神としての側面はなおざりにしていた。
3.ユダヤ教とキリスト教との関連性
しばしば一般的に、
ユダヤ教を凌駕する普遍的な宗教としてキリスト教が対峙され、説明されてきた。
ところが、主イエスは旧約の預言者の系譜に属し、
その契約を履行し、その預言を成就されたのである。
この両者もまた質の異なるものでなく、
連続された有機的な繋がりがあるのを見逃してはならない。
当時のパリサイ的ユダヤ教は逸脱したものであり、
本来の聖書的なユダヤ教ではない。
そして今日の一般的なユダヤ教もまたパリサイ派の流れを汲むものであり
聖書本来の教えから遠く離れている。
「聖書的ユダヤ教」(パリサイ主義でない旧約聖書の公正な理解と解釈)
がキリスト教であり、
「普遍的ユダヤ教」(ユダヤ人を超えて異邦人への福音宣教開始の時代)
がキリスト教であるといえる。
迫力の開演、Tradition
アマチュアとは見えないキャストの迫真演技と生の40名オーケストラによるミュージカル。
昨夜に続いての2回目の公演。
この日は数百台収容の教会駐車場が満車状態。
もちろん上演会場は満員御礼で、おおよそ六百名ほどは集まっていただろうか?
早めに座席を家内が確保してくれたため、
最前列の中央席というこれ以上はない特等席を得た。
長女はこの日、村人の一人としての役をおおせつかっていた。
序論
人は死んだらどうなるのであろう?
存在を失ってしまうのだろうか。
それとも霊魂(非物質的な部分)は肉体を離れて生き続けるのだろうか?
ある人は、見てきた人がいないのだから結局の所は明瞭には証明出来ない、
と結論付ける。
それは各宗教によって異なる見解・教えに過ぎず、
各宗教人による創作(フィクション)だ、と言う。
もし聖書がフィクションであるとすると仮定するなら
上に書いた推論は正しい。
しかし
もし聖書が神が人に与えた啓示の書であるとするなら
フィクションとしてでなく、多少は襟を正して聞くことも必要であろう。
約1500年間に40人程の著者によって66巻の書が記されて来た聖書。
その膨大な分量に加えてバラエティ富む文学形式満載の書。
その各66巻が互いに調和を保ち、
一つだけのテーマに貫かれ、
矛盾点や誤りが一点でも見出されていないとしたら、
どうであろうか。
聖書が神の霊感による誤りのない啓示の書であると科学的に弁証出来るが
それが本稿の目的ではない。
いずれ項を改めてそれを記すこともあるかもしれない。
今回は、
その聖書が
人の死後の世界についてどう語っているかをまとめて見たく思っている。
本稿はハーベストタイムが2012年に開催したフルクテンバウムセミナー
「聖書が教える死後の世界」
をテキストとして多いに参考・抽出させていただいている。
ハーベストタイムが発行している同セミナーのテキストブックや
CDや DVDを用いればより詳細な学びに益するはずである。
聖書の前提 : 不滅
人が死んだらそれっきりでは無いと聖書は教える。
「不滅」であると明確に教えてくれている。
死とは、霊魂(非物質的な部分)と肉体との分離のことで
その霊魂自体は消滅しない。
不滅を定義すればこうなる。
「霊魂が肉体から分離した後、
永遠に、継続して、意識を持って存在することである。」
「 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、
死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、
「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。」
(1コリント 15:53-54 )
ここでは人の肉体が不滅であるとの教えである。
この文脈では、
死後に失われていた肉体が、「朽ちないもの」「不死」のものとして
霊魂に与えられるそのときが
主イエスの再臨・教会の携挙の時であると教えている。
「屋根の上のヴァイオリン引き」
ベルビュー・ニューポート地区の恒例ミュージカルがいよいよ今週から開演。
http://www.nsoarts.com/Pages/default.aspx
3月28日、29日、30日。4月4日、5日、6日。
70人ほどのキャスト、40人ほどのオーケストラによるライブ演奏です。
長女は毎夜出演しますがShprintzeという主人公の4番目の子役としては、
3月28日、30日、4月5日の出演となります。
入場は無料で任意の自由ドネイションがあります。
本日も彼女は放課後の5時から教会へリハーサルに駆けつけ、
帰宅は10時半を回ってました。
通学路にある桜は三部咲きといったところ
毎日ここを通るのが楽しみ
今朝のNHKニュースで横浜での桜の開花宣言を知った。
東京ではその宣言を報じるための報道機関各社のカメラマンたちが
代々木公園(だったと思う)の桜並木に数百人集まっているのを生中継していた。
1本の木に6輪ほど開花していれば、その宣言が発せられるという。
こちらワシントン州べレビューでは先週から開花している。
小学校への通学路にも幾らかの吉野桜があって
毎朝楽しませてもらっている。
COGの教職者たち
ゴラン高原に咲くアイリス
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://hosannamin.org/whatsnew/view/22333-65
「サドカイ人からの挑戦」
マタイ22章23~33節
~マタイ福音書連続講解説教65~
主イエスが神の子羊としての十全性を吟味させられている場面が続いている。
すでに第一グループ(サンヘドリン)
第二グループ(ヘロデ党)からの挑戦・吟味を終えて、
今回は第三グループ・サドカイ人からの挑戦である。
サドカイ人についてまとめてみる。
1.その教理の特徴
•口伝律法の権威を認めていない
•トーラー(モーセ5書)のみが霊感を受けた正典であるとした
•死者の復活も死後の命も信じていない現世主義者
•天使、悪霊の存在や霊的な世界を認めない
2.その職種
•神殿を基盤とする祭司たちであり、貴族階級
•神殿境内での両替商やいけにえの動物販売で巨利を得ている
•少数であるが、サンヘドリンの有力な構成メンバーであった
3.その運命
•紀元前二世紀のハスモン期に起こった
•神殿のあるエルサレムにしか活動の基盤がない
•それゆえ主のガリラヤ伝道においては姿を現していない
•AD70エルサレム崩壊とともに消滅した
サドカイ人らの質問(23~28)
「23 その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、
イエスのところに来て、質問して、
24 言った。「先生。モーセは『もし、ある人が子のないままで死んだなら、
その弟は兄の妻をめとって、兄のための子をもうけねばならない』と言いました。
25 ところで、私たちの間に七人兄弟がありました。
長男は結婚しましたが、死んで、子がなかったので、
その妻を弟に残しました。
26 次男も三男も、七人とも同じようになりました。
27 そして、最後に、その女も死にました。
28 すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。
彼らはみな、その女を妻にしたのです。」 (マタイ22:23-28)
これはレバリット法といわれるもので、
死んだ長男の名前を残し遺産相続を分散させないために
広く他の東洋民族も踏襲していた慣習でした。
復活を認めていないサドカイ人が
パリサイ人をやり込めていた問いでもあったのです。
主イエスはサドカイ人らに対して
「思い違いをしている」と単刀直入で答えられ、
その質問自体の前提に誤りがあるのを指摘されました。
① 「神の力を知らないゆえ」に思い違いをしている。
復活は神の力によるもので、
人の想像や常識を超えるものである。
その際には結婚、出産、死亡はもやはなく
天の御使いたちのようなものであるという。
ここで人間の女たちと結婚してネフィリムというアイノコを生んだ
創世記6章に出現する堕落した天使たち(すわなち悪霊たち)と
「天の御使いたち」とを区別しなくてはならない。
彼らは、
「自分の領域を守らず、自分のおるべきところを捨てた」(ユダ6節)
ものたちで、
現在では「暗闇の下」(タータルス)永遠の束縛をもって閉じ込められている。
やがての主の再臨が起こる時、
人間や世界のありようは根底が変えられるのであり
そこには推し量られない神の力が働いているのを見ることになる。
② 「聖書を知らないゆえ」に思い違いをしている。
復活を教える聖書を読んだことがないのか
と主はサドカイ人たちに問われた(31)。
復活を教える旧約聖書の代表的な聖句が3つある。
ダニエル12:2
イザヤ26:19
ヨブ19:25~26
サドカイ人らはモーセ律法しか権威を認めていないので
これらの聖書箇所には触れられずに、出エジプト3:6を引用された。
「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」
当時のモーセ時代、3人の族長たちは死後400年程が経過している。
ここで神は現在形で
「わたしは⃝⃝⃝⃝の神である」ということは
神が「生きている者の神」であらねばならない前提があるので
彼ら族長たちには永世が与えられている論理的な結論に至る。
そして死後の永世は、やがての地上での復活に通じるのである。
③ サドカイ人の「パン種」に注意せよ
かつて主は弟子たちにそのように訓戒を与えられた(マタイ16:6)が
その「パン種」とは何のことであろうか?
1.現世利益の宗教
•サドカイ人らは神殿宗教から利益を吸い取っていた祭司・貴族階級であった。
•私たちの宗教とは利益、成功、自己願望、自己実現のための信仰であるのか?
そうであるなら、サドカイ人と変わらないものである。
2.理性中心の宗教
•自ら経験、認識できることしか信仰しない態度が彼らの宗教であった。
•今日の自由主義神学者たちも人間理性中心の聖書理解にとどまり、奇蹟、主の復活も、再臨も信じることができない姿勢を貫いている。
3.真の宗教は生ける神との体験である
•霊感された神の言葉を通じて神に出会うことができる。そこには理性的に認知できる段階から信仰による飛翔が必要とされる世界である。
•仲介者であられるメシア(神人)を通じて、私たちは神に至る事ができる。
「19 こういうわけですから、兄弟たち。
私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。
20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、
私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」
(ヘブル10:19~20)
ポートランドからシアトル方面に向かうのに難関が一つある。
大河コロンビアに掛かる橋である。
車線が制限されているわけでもなく、高速5号線を走っていれば
いつの間にか橋を通り越してしまのであるが、そこが大難関なのだ。
難関の理由は渋滞。
ワシントン州とオレゴン州を結んでいるこのあたり唯一の橋なので、
常に交通が密集している。
特に3時以降から7時ころまではひどいものとなる。
週末の土曜だから大丈夫かな、と思っていかが甘かった。
時速10マイルほどのノロノロ運転が続き、
オレゴン州を脱出するまでに40分ほどかかってしまう。
橋を超えればタコマドームまでは渋滞はない。
この地域が州として合衆国に編入された150年ほど前は、
道なんてなく、荒野を幌馬車が進むしかなかったのだから
それと比べたら、文句は言えない。
今日も無事に帰れて感謝。
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