ホサナキリスト教会・聖書広場からの引用です。
聖書本文とメッセージノートとはこちらから:
http://www.hosannamin.org/whatsnew/view/31324-68
「子羊の反撃②~偽善のパリサイ人たちへ」
マタイ23章13~24節
~マタイ福音書連続講解説教68~
マタイ23章は子羊によるパリサイ人への反撃の書でした。
今回の箇所から主はパリサイ人たちへ直球の弾劾を始められます。
7回の「忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち」と語られる。
なぜなら、彼らは
① 偽りの教えで人々を天国への救いから遠ざけている(13~15節)
② 本末転倒した宗教の実践をしている(16~24節)
そんな彼らは「人一倍ひどい罰」(14節)を神から受ける運命にあり、
「ゲヘナ」に落とされるのは避けられない(15節)と言われる。
愛と赦しのイエスが、
いわゆる地獄での苦しみや裁きを明言した上に
「お前たちはそこへ行くことになる」と直接人に対して語られただなんて
私たちの理解を超えるものであるかもしれない。
ここで、ゲヘナとは「火の池」とも言わている最終的に罪人が落とされる
いわゆる地獄であるが、
それに関して聖書が何と教えているか整理してみよう。
先ず、そこは「よみ」とは別の世界である。
Ⅰ 「よみ」について
死後に人間の行く世界であり、
信仰者(義人)も不信仰者(罪人)も共に行く場所である
OTの義人:創世記37:35、42:38
OTの罪人:民数16:30,33
原語でそれは、「ハデス」(ギ)、「シェオール」(へ)
と固有名詞として使われている
ハデスとシェオールとは同じ場所である。
それは詩篇16:10が使徒2:27で引用された際のギリシャ語訳から
そのように結論付けられる
イエスも死後にハデス・シェオールに行かれた:使徒2:27、31
ハデス・シェオールには2つの区分された領域があることが分かる
信者と不信者との間には越えられてない断絶された谷が存在していた
ルカ16:19~31の実話からそう結論される(これはたとえ話ではない)
信者の行く場所は「アブラハムのふところ」(比ゆ的な表現)と呼ばれている
そこはまた「パラダイス」とも呼ばれる(ルカ23:43、Ⅱコリント12:4)
不信者の行く場所は狭い意味でのハデス・シェオールである
その場所は地球の地底深部にある:創世記37:35、Ⅰサム2:6、ヨブ7:9
そこにある霊魂には意識がある:イザヤ14:9~10、ヨナ2:2
広義のシェオールとして、OTでは広義に信者も含めた
全ての死者が行く下界であると教える
NTでは、主イエスの十字架・復活・昇天により、
信者住居部分の狭義のハデス・シェオールが第3の天
(=「パラダイス」、「アブラハムの懐」)に引き上げられた:エペソ4:8~9
イエスの昇天以降のNT信者は、
死後すぐに天(=「パラダイス」、「アブラハムの懐」)へ行く:Ⅱコリント12:4
千年王国後の将来、第3の天にあるパラダイスは、
「新しいエルサレム」に存在するようになる:黙示2:7、22:2
Ⅱ 「ゲヘナ」について
ベン・ヒノム(ヘブル語)のことで、エルサレム南端にあったゴミ焼却場
そこでは人身供養が偶像の神々にささげられた:Ⅱ列王23:10、イザヤ30:33
そこは常にウジとくすぶる火が燃え続けていたところ
聖書には12回出現するが、そのうちの11回が主イエスによって使われている
マタイ5:22
マタイ5:29
マタイ5:30
マタイ10:28
マタイ18:9
マタイ23:15
マタイ23:33
マルコ9:45
マルコ9:47
ルカ12:5
イエス以外の使用例はヤコブ3:6のみである
それらの引用例から霊魂と肉体の両方が永遠に苦しむ場所であるのが分かる
ゲヘナとハデス・シェオールとは異なる
ハデスとシェオールは
一時的に死者を閉じ込めておく下界である
それは千年王国まで続く:黙示20:14
霊魂のみが存在して苦しむ場所である
「火の池」(比ゆ表現)とゲヘナとは同じである
黙示19:20、20:10、20:14、21:8
そこは失われた者たちすべて(罪人も悪霊も)の永遠の住まいである
千年王国の後にサタンは解き放たれ、不信者も復活する
「白い御座の裁き」の場が開かれる(黙示録21章)
それは刑罰の段階を判定するもので、救われているかどうかではない
彼らはゲヘナに送り込まれる
肉体と霊魂の双方が裁かれる場所である
「それから死とハデスとは、火の池に投げ込まれた」(黙示20:14)
「死」とは肉体に関すること
「ハデス」とは肉体と霊魂に関すること
そこでは火とウジの苦しみ・不快が永遠に続くところである
肉体と魂を持っていながらの存在であるので、
ゲヘナでの苦しみの度合いはさらに大きい
霊魂が不滅であるという聖書の教えを確認することには
どんな意味があるのか?
それは大いにある。
少なくとも以下の3つの利益があると言える。
① 将来さらに優れたところがあるとの保障は
現在に喜びをもたらす。
「私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。
私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。
実はそのほうが、はるかにまさってい ます。」(ピリピ 1:23 )
② 地上生涯が一時的であり、永遠の世界がある希望を与える
「けれども、私たちの国籍は天にあります。
そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、
私たちは待ち望んでいます。
キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、
私たちの卑しいからだを、
ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。
(ピリピ 3:20-21)
③ 義なる生活を送る動機を与える
「もし、私が人間的な動機から、エペソで獣と戦ったのなら、何の益があるでしょう。
もし、死者の復活がないのなら、
「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」
ということになるのです。
思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。
目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。
神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。 」
(1コリント 15:32-34)
危険を感じる木登りは親として冷や冷や
晴れの日がお似合いのユニオンレイクのハーバーにて
自宅でのヴァケイション後半はベーリンハムへ。
もちろん子供らと家内の日帰り旅行旅行。
そこはおしゃれでニートな小さな街で
我が家から高速5号線を北上すること1時間半ほどで到着。
家内が卒業した大学のちであり
多くの友人たちもいる。
家内たちを送り出したあと、
私はシアトルのユニオンレイクに繰り出した。
1年以上もご無沙汰していたのだが、
ドアを開けた瞬間
「あなたが来るのを待っていたのよ〜!!」
そう言って大歓迎してくれる方々にお会いできた。
湖の畔に位置しているその場所は
水面からの照り返しによっていつも明るい。
人の気持ちまで明るくしてしまっているようだった。
数日前の「屋根の上のヴァイオリン弾き」最終公演の直後
昨年旅行したグランドキャニオン
こよなく晴れたこの日、家内と子供達はDiscovery Parkにあるビーチへ。
20分もドライブすれば見晴らしの良い、
広大なピュージェトサウンドの入江が見渡せる。
それは海と岩地の違いこそあれ、
有名なグランドキャニオンと比べて決して引けを取らない大自然のシンホニー。
昨年の春休みには初めてグランドキャニオンへ家族旅行した。
今年は自宅から通える範囲の小旅行。
食事も休憩も、それにTVなどのアクセスにも
自宅で思いのままできてとても便利!!
この日のビーチへ私も同行しようかと最後まで迷ったが、仕事を選んだ。
「出かける所があるから」と言ったのち、自宅でのデスクワークを始める。
ランチを済ませてさあ出勤だ、として時計の針が午後2時を回った時だった。
ビーチから彼らが帰って来た。
「まだ家にいたの〜」
「一緒に来れたのに〜」
思いのままにスケジュールが管理できる自宅ヴァケイションはやはりいい(^O^)
テルアビブ
聖書は、人が死んだとしてもその存在が無くなってしまうことはない、
と教えている。
それが「不滅」である。
先回は、8箇所の聖書箇所を取り上げてその論拠とした。
今回が最後であるが、
8箇所の聖句を取り上げて論証してみよう。
⑨永遠を思う心が人には存在する
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。
神はまた、人の心に永遠を与えられた。
しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。 (伝道3:11)
10. サウルの前に現れたサムエル
「サウルは、変装して身なりを変え、ふたりの部下を連れて、
夜、その女のところに行き、そして言った。
「霊媒によって、私のために占い、私の名ざす人を呼び出してもらいたい。」
すると、この女は彼に言った。
「あなたは、サウルがこの国から霊媒や口寄せを断ち滅ぼされたことをご存じのはずです。それなのに、なぜ、私のいのちにわなをかけて、私を殺そうとするのですか。」
(Ⅰサムエル28:8-9)
11. 神は生ける者の神である
「しかし、イエスは彼らに答えて言われた。
「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。
復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。
それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、
あなたがたは読んだことがないのですか。
『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」 (マタイ22:29-32)
12. 人は死んでも生きる
「イエスは言われた。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。
わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。
このことを信じますか。」
(ヨハネ11:25-26)
13. 将来の栄光に変えられる約束がある
「今の時のいろいろの苦しみは、
将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、
取るに足りないものと私は考えます。
(ローマ8:18)
14. 将来の命の約束がある
「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、
私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。 (1コリント15:19)
15. 霊魂が新しくされる
「ですから、私たちは勇気を失いません。
たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、
重い永遠の栄光をもたらすからです (Ⅱコリント4:16-18)
16. 不死は福音によって明らかとなった
「それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。
(Ⅱテモテ1:10)
17. 死後の将来には報酬や裁きがある
「それから、イエスは、数々の力あるわざの行われた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。
「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行われた力あるわざが、
もしもツロとシドンで行われたのだったら、
彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。
しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、
さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。
カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。
ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、
もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。
しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、
さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」
(マタイ11:20-24)
ローマ2:5-11
Ⅱテモテ4:7-8
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ゴラン高原の桜も満開
先回、序論のところで
聖書が教えている「不滅」という概念を紹介した。
復習してみるとこうなる。
人は死んだらそれっきりでは無い。
「不滅」であると明確に聖書は教えてくれている。
死とは、霊魂(非物質的な部分)と肉体との分離のことでその霊魂自体は消滅しない。
不滅を定義すればこうなる。
「霊魂が肉体から分離した後、
永遠に、
継続して、
意識を持って
存在することである。」
今回から本論に入る。
「不滅の証拠」その1
聖書記述の中から
不滅を聖書は教えている論拠を紹介しよう。
17通りの記述例がある。
①「自分の民に加えられた」
この表現はその先祖の霊魂が存在している場所に引越しをした、という意味である。
「アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、
自分の民に加えられた。」(創世記 25:8)
アブラハム以外にも同様の表現に
イシュマエル・創世記25:17
イサク・創世記35:29
ヤコブ・創世記49:29、49:33
②「先祖のもとに行く」
「あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、
長寿を全うして葬られよう。」 (創世記15:15)
神からアブラハムへの預言の中に彼の霊魂の不滅が教えられている。
創世記47:30もまた、ヤコブのヨセフへの遺言で同様の表現がある。
③エノクはいつまでも存在している
アダム以降の先祖たちは死を経ているが、
エノクは死を経ずに「移された」とある。
異なる次元世界への引越しが示唆されている。
「エノクは神とともに歩んだ。
神が彼を取られたので、彼はいなくなった。 (創世記5:24)
ヘブル11:5
④ヨブの肉体の復活の保証
「 私は知っている。 私を贖う方は生きておられ、
後の日に、ちりの上に立たれることを。
私の皮が、このようにはぎとられて後、
私は、私の肉から神を見る。 (ヨブ19:25-26)
⑤復活の教理
肉体が復活するためには霊魂が不滅せずに継続していなくてはならない。
旧約聖書:イザヤ26:19、ダニエル12:2-3
他に、
「わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、 彼らを死から贖おう。
死よ。おまえのとげはどこにあるのか。 よみよ。おまえの針はどこにあるのか。」
(ホセア13:14)
新約聖書:ヨハネ5:25-29
他に、
「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。
そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。
また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに
首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、
その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。
彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。
そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。
これが第一の復活である。
この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。
この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。
彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。
(黙示録20:4-6)
⑥死後の霊魂には意識がある
「しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、
目ざめるとき、あなたの御 姿 に満ち足りるでしょう。」 (詩篇17:15)
(ダビデの信仰)
「しかし私は絶えずあなたとともにいました。
あなたは私の右の手を しっかりつかまえられました。
あなたは、私をさとして導き、 後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。
天では、あなたのほかに、 だれを持つことができましょう。
地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。
この身とこの心とは尽き果てましょう。
しかし神はとこしえに私の心の岩、 私の分の土地です。」(詩篇73:23-26)
(アサフの信仰)
伝道12:7
Ⅱコリント5:1-8
ピリピ1:22-24
⑦死者のところへ行く
「しかし今、子どもは死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。
あの子をもう一度、呼び戻せるであろうか。
私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない。」
(Ⅱサムエル12:23)
:ダビデの言葉
⑧よみ(シオール)にいる霊魂には意識がある
「下界のよみは、 あなたの来るのを迎えようとざわめき、
死者の霊たち、 地のすべての指導者たちを 揺り起こし、
国々のすべての王を、 その王座から立ち上がらせる。
彼らはみな、あなたに告げて言う。
『あなたもまた、私たちのように弱くされ、 私たちに似た者になってしまった。』
あなたの誇り、あなたの琴の音はよみ(シオール)に落とされ、
あなたの下には、うじが敷かれ、虫けらが、あなたのおおいとなる。」
(イザヤ14:9-11)
:バビロンの王はシオールの地獄の部分に行っている
「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、
金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。
犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。
さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。 (ルカ16:19-22)
(金持ちとラザロに見る実話)
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ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
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「子羊の反撃①~弟子と群衆への教え」
マタイ23章1~12節
~マタイ福音書連続講解説教67~
マタイ21~22章はユダヤ各派が子羊を吟味している場面であり、
4つのユダヤ人派閥からの尋問・論争を受けてきました。
彼らは主イエスに論駁された結果、
もはや質問の勇気すらなくなったようです。
「 それで、だれもイエスに一言も答えることができなかった。
また、その日以来、もはやだれも、イエスにあえて質問をする者はなかった。」
(マタイ 22:46)
パリサイ人は、常に論争相手として主の前に立ちはだかりました。
彼らの説く口伝律法の教えは、
ユダヤの民衆に会堂を通じて深く入り込んでいたイデオロギー
とも言うことができます。
彼らはなぜ事あるごとに主と対立せねばならなかったのでしょうか。
両者ともに旧約聖書の権威を認めているのに。
それゆえ外部からは「ユダヤ教」と括られて、
その違いは見えにくいのです。
彼らのパリサイ主義と
真の聖書的な信仰(主イエスの教え)とは、
何がどう違うのでしょうか。
1. 自力本願か他力本願か
律法遵守に厳格になるほど救いから遠ざかることになります。
自らに厳格になればなるほど
欠陥や欠点だらけの自分自身に敏感ともなるからです。
律法を守ることによる、
つまり自己努力によっては完全(義)へ至らなかったとパウロが告白しています。
「 しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、
ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、
ということを知ったからこそ、
私たちもキリスト・イエスを信じたのです。
これは、律法の行いによってではなく、
キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。
なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、
ひとりもいないからです。」
(ガラテヤ 2:16)
クリスチャンとは、自己に破産した者たちのことです。
義なるものなんて自らの内にはないことをつぶさに知り、
罪の塊でしかなかったと悟ったものが、
その罪をかぶって十字架に死に、
よみがえったお方にのみ
望みを託した者のことです。
イエスという一人だけの絶対他者にすがるほか
救いはないことを経験した者たちのことです。
2. 他者(自己)を意識するか、神のみを見上げるか
パリサイ人たちの世界には常に序列があり、
より高い位に上ることが人生の全てであったようです。
そこに他者との比較の世界となりました。
他者が自分よりも宗教的に優れていると判断されるなら劣等感、
その逆なら優越感を抱くかのどちらかでした。
他者をそのように意識することは、
すなわち自己を必要以上に意識すること、
自意識過剰に陥ります。
それゆえパリサイ人らは祈るときは人目のある大通りに出て行きました。
献金のときは多額のコインをささげるのが衆目にわかるように音を立てて
(ラッパを鳴らして)献金箱に投げ入れました。
人からの評価が全てである彼らは
「先生」
「わが父」
「師匠」
などというタイトルで呼ばれることを求めていたのです。
かつて神はアブラハムに
「わたしの前を歩んで、全き者であれ」
(創世記17章1節)
と言われました。
真の信仰は、
あなたを命を捨ててまで愛したお方を
罪とその結果からあなたを救い出す神のみを見上げて歩むものです。
誰の評価よりも、
「隠れたところで見ておられるあなた方の父」(マタイ6:4、6、18)
からの評価と報いとを期待するものです。
3.不安と恐れからの宗教実践か、満ち足りている所からの感謝行為か
パリサイ人らの律法主義には常に恐れが伴っています。
厳しい神の掟にどこまで届いているのだろうかという不安感。
他者は私をどう見ているのだろうかという猜疑心。
これは強迫観念の信仰と言えます。
奉仕するのも、献金も集会主席もそうしないと怖いと感じるのです。
神の裁きや評価にもれてはしないかと、
恐れるところからの宗教の行いと成り下がります。
ところが一方で
主イエスの無代価の救いをいただいた者には喜びがあります。
彼らは信仰による有難い思いを抱いています。
そこから自主的な奉仕やささげ物という実践が伴うのです。
「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。
私たちは何一つこの世に持って来なかったし、
また何一つ持って出ることもできません。」
(Ⅰテモテ6:6-7)
JFKでシアトルへの登場ゲイト入口
アメリカン航空を今回は利用
先回みたいな「走れメロス」は演じたくはないので、
時間的余裕をしっかり組み込んで空港へ行く。
時間通りの乗機となったが、離陸を滑走路で1時間ほども待たされてしまう。
お陰でシアトルまでは直行であっても7時間ほどの所要時間となってしまった。
それなら日本へ帰国する際の時間とたいして変わらない。
でも、料金で4倍もの差があるのはどうして??
特に今年の夏シーズンの日本行き航空料金は高過ぎない?!
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