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つれづれなるままに

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夕餐会と聖書のメッセージ

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美味しかった! 美味しかった!


ホサナ教会での聖書広場ではこの日、
「夕餐会と聖書のメッセージ」と銘打って、
普段とは志向を変えた集いとなった。

普段はマタイ福音書の連続講義をかなり精密にこなしていることから
新しくお出でになる方々にはだいぶ敷居が高いと思われる。

そこでポトラックを共に楽しみながら、
その後は簡単な聖書からのお話をさせていただこう、というもの。

残念ながら新しい方はお見えにはなられなかったが、
それぞれが持ち寄った心尽くしのお料理を堪能した宵でとなった。
#救済

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日本の大雪に比べれば

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カナダから帰宅して翌日、
今度は南のタコマという街へ行く。

月に一度の聖書の学び会を主宰している。

この日はこの辺りには珍しい「豪雨」に近いほどの激しい雨に打たれた。

そのために途中で何カ所の渋滞に巻き込まれて
1時間以上のドライブ時間となってしまう。

日本からのニュースを知れば、そんなもの可愛いものである。

かの地では大雪に道路が至る所で寸断され、
身動きが全く取れない方々が車中泊を3日も強いられていると言う。

速やかな復旧をお祈りします。

聖書会では約1年ぶりにSさんが来会された。

土曜日は大抵、コスコ店内での試食販売員の仕事のため欠席が続いていた。

その仕事を通じて友人となった日本人主婦の方もお連れしての来会。
#バイク #ボート #車 #鉄道 #飛行機

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携帯電波が住み分けている国境線

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カナダと米国との国境には
白亜の巨大アーチがモニュメントとして屹立している。

その手前の1キロくらいのところで、携帯電話が電子音を鳴らした。

留守電が入っていることを知らせるもので、
カナダ国内では入電出来なかった。

入国管理局への車列に並びながらそのアーチを10メートルほど過ぎた時、
さらにもう一つの電子音がした。

Rogerというカナダの通信会社から、
AT&Tという米国の会社に接続が変わったことを知らせるもので
同時に数十のメールがダウンロードされて来た。

入国管理局の審査はまだ数百メートルも先であるが、
国境をまたいだそこはすでに米国領であり、その電話会社の管轄に代わったのだった。

電波の受信をどうやって選別しているのだろう?
#旅行

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行くにも帰るにも守られている特権

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シアトルから運転して3時間以内で外国に行ける。

これは日本にいては決して体験できない感覚であった。

南樺太を失った今、外国と陸続きで繋がっている場所は日本に一つもない。

外国にあっては命の次に大切なものが一つある。

パスポートである。

部屋の中で見ていないなあ、と気になったので探して見た。

ない…

デスクの周囲にも、スーツケースの中にも。

このままで寝ることも出来ないので、0時を過ぎていたが車まで行って探す。

どこにもない。

カナダで申請してから発行までどのくらいの日数が必要なのだろう?
今週は帰れなくなるのか?
礼拝はどうしよう?

そんな疑問がグルグル回り出す。

トランクの中を探した後に閃いた。

脳の中で電球が光った感じ。

入国時に審査官に見せたパスポートを助手席に置いたままだとすると、、、
確かどこかのカーブの際に助手席から書類がずれ落ちる音がした、、、

助手席ドアを開けて下方を見たら、
あった!!

シートとドアの間の隙間にズレ落ちていたのだった。

同じ日、友人のNさんがニューヨークから日本へ帰国する際の飛行機搭乗前にグリーンカードを無くしたが、待合室の椅子の上にあるのを直後に発見したのをFBで知った。

自分自身の記憶や注意深さなどに頼っていられない。

そんなもの、この私には生まれつき持ち合わせていない。

「行くにも帰るにも、今よりとこしえまであなたを守る」
と約束される主に感謝する。
#旅行

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バンクーバーには美味い日本食レストランが多い理由

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バラードとホービーの交差点 バラードとホービーの交差点


バンクーバーでは、I宣教師と会食。

地元に住んでいる人からの現地情報は、新鮮で正確。

彼女は聖書を教えるだけでなく、ワーホリでカナダに来ている日本人の萬(よろず)相談役でもある。

ワーホリとは、ワーキングホリデー・ビザの略称で、
日本人なら1年間の就業ビザが与えられる。

それで来ている25歳以上の彼らのほとんどは夢の中を生きていらっしゃるとのこと。

「日本では就職先も無いので何とかならないかと、取り敢えず外国で働いて見たかった…
英語は外国に出れば何とかなるのだろう…
英語を教えてくれる職場を世話して欲しい…」

そう考えている人が実に多いそうです。

結局給料の出る仕事が与えられない彼らは、
日本食レストランのキッチンで働くことになるようです。

現実逃避して外国に出たところで、現実は常に自分自身について回る。
現実からは誰も逃れようがない。
たとい外国へ行ったとしても。

その現実を知っただけでもワーホリでの1年は価値があったとも言えるのでは?
#政治 #歴史 #環境 #社会 #経済

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イスラエルとキリスト教会10~その4

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イスラエルとキリスト教会10~その4「アブラハムの子孫」


ここで、「アブラハムの子孫」
という聖書で大切な概念が出て来たので解説しておこう。

聖書には4つの異なる意味で使われている。

⑴ アブラハムの肉体的な子孫

第一義的にアブラハムの肉体的な子孫といえばユダヤ人を意味するが、
アラブ人もそこに含まれるのである。

いやむしろ、人数の上からすればアラブ人の方が圧倒的に多いことになる。

しかし旧約聖書ではその語句はユダヤ人に限定されて用いられている。

ただ「アブラハムの子孫」はユダヤ人だけでないことを覚えておかねばならない。

⑵ メシア〜特別な個人としてのアブラハムの子孫である

「16 主は御使いたちを助けるのではなく、
確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。
17 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、
主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。
それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。 」
(ヘブル2:16〜17)

⑶ 今日の信者であり、教会がアブラハムの子孫である

「29 もしあなたがたがキリストのものであれば、
それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。 」
(ガラテヤ3:29)

この時の「子孫」には、アブラハムの肉体的な子孫であるユダヤ人と、
肉体的には子孫でなく信仰によって子孫と見なされた異邦人たちが含まれている。

ここで大切な質問がある。

アブラハムのこれら霊的な子孫(異邦人信者)はイスラエルであると、
聖書が一度でも呼んだことがあっただろうか?

答えはNOである。

霊的なアブラハムの子孫は、ユダヤ人の霊的な契約の共同相続人ではあるが、
契約の他の側面、肉体的、物質的、民族な面での相続人とはなり得ないのである。

⑷  「イスラエルの残りの者たち」と同義語で用いられ、
  霊的なユダヤ人として現される事もある

イザヤ書41:8、
「 8 しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。
わたしが選んだヤコブ、 わたしの友、アブラハムのすえよ。 」
(Isa 41:8)

ローマ9:6、
「6 しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。
なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、」
(Rom 9:6)

ヘブル2:16
「16 主は御使いたちを助けるのではなく、
確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。」
(Heb 2:16)

少数の霊的な子孫だけが本当のユダヤ人と呼ばれている。

彼らはユダヤ人信者のことであり、民族イスラエルの一分部であり、
ガラテヤ6:16においては、「神のイスラエル」と呼ばれる群れである。

しかし「霊的なアブラハムの子孫」が一まとめにイスラエルと見なされることは
聖書には決して無い事を覚えていなくてはならない。

全ての肉体的なアブラハムの子孫がユダヤ人なのでななく、
ヤコブの肉体的な子孫がユダヤ人である。

イスラエルという語句そのものも、
ヤコブの変名として彼自身にに起源を持つものであってアブラハムからではない。

もし「教会」が「ヤコブの子孫」であると教えている一つの聖句でも見付け出すことができるなら、
契約神学者達の抱いている中心となる神学を樹立させることができる。

ところが、それができないままにいる。

彼らがその神学体系構築のために頼りとしている聖句は「アブラハムの子孫」であるが、
それでは不十分なのである。












#救済

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コーチの意外な眼識

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コーチの意外な眼識


長男のサッカーシーズンが終わり、昨日はその打ち上げパーティーがあった。

ピザでの夕食パーティーとなるのが、この国の定番。

その夜、4つのセレクト(選抜)チームの選手たちとその父兄たちが集まって、
シーズンを振り返ったり、コーチからの薫陶を受けたりした。

このコーチの選手への視点には驚いてしまったので紹介したい。

チームの内から一人の選手がMVP(最優秀選手賞)に選ばれて光栄を受けるのだが、
その選抜は誰もが意外と思う選手であったのだ。

彼のその時のスピーチはこんなものであった。


「さて、これからMVPの選手を紹介しよう。
彼は小さな選手だ。
決して目立つ選手ではなく、いわゆるヒーローではない。
得点をゲットする者でもなかった。
だが、彼のプレイはチーム全体のモチベーションを常に引き上げてくれた。
彼がいるからこのチームはここまでやって来れた。
チームメイトを信頼してボールを回す彼の役割が
他のプレイヤーを刺激してチームを支えたんだ。
誰のことを言ってるか分かるかい?

…………………(子供達からある1-2の名前が上がる)

MVPは、@@@のものだ。
私は彼をGeneral(将軍)と呼んでるよ。」


MVPは普通、得点王やキャプテンなど、
最も目立った働きをした花形選手に贈られる。

ところがこのコーチは、チームのモチベーションを引き上げた役者を評価した。

それは子供達の目からしても意外だったようだ。

彼は米国ナショナル・チームを指導した経験をもつ。
幾つものセレクトチームの指導を専門にする
プロフェッショナルのコーチである。

現象や結果だけを追わず、
「動機付け」がどこにあるを評価する彼の眼識に教えられること大であった。
#子育て

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「祈りって本当に聞かれるの?」

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ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です
聖書本文とメッセージノートはこちらから:

http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/1217-60

「証明されるメシア性」
マタイ21章18~ 27節
~マタイ福音書連続講解説教60~

信仰の本質とは何であろうか?

信仰に入るとは、信仰を持つとはどういうことであろうか?

信者となった者がさらに信仰を成長させたり、
この箇所にあるような「山をも動かすほど」の完全な信仰とはどういうもので、
どうしたらそこに至るのであろうか?

ここのマタイ21:21-22の聖句もまた多くの場合、誤解されて解釈されて来た。


  イエスは答えて言われた。
「まことに、あなたがたに告げます。
もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、
いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、
たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、
そのとおりになります。

あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。
(マタイ21:21-22)


この聖句だけを豆カードに抜き出して、
5回でも唱えてみたらどうなるか。

本来の聖書が教えんとしている所から大きくはみ出して
偽りの教理が完成する可能性が高い。

それは貴方の人生経験という文脈で読み解こうとしているからだ。

聖書は「聖書の文脈」で読まねばならない理由がここにある。

その聖句だけを取り上げて判断するのでなく、
その主の言葉に至った経緯を考慮しなくては正しい解釈ができないのである。


 1.それは自力本願ではない

熱心さ、気合、あるいは傾倒や犠牲で「信じ込む」こととは違う。

東洋の宗教に頻繁に見られるような悟りや修行。
それに慣れている我々の思考パターンから
この聖句を紐解こうとする時に陥りやすい錯覚である。

精神統一を遂げてある種のイデオロギーだけに傾倒し、
それ以外の思考や可能性を拒否せよと教えている聖句ではないのだ。

「疑うことがなければ」とは、聖書に疑問を抱くことを禁止するものではない。

我々の知性をフル回転させて理性をもって神の言葉に取り組み、
その統一性や無謬性に畏怖の念を禁じ得ないことが私にはこれまでに何度もあった。

「信じて祈り求めるなら、何でも与えられる」
これも、打ち出の小槌を保障しているものではない。


 2.文脈から聖書を読み解く

この聖句はいちじくの木が枯れたという視聴覚教育の一環の中で
主が話をされている箇所である。

枯れたいちじくの木が象徴しているのは、イスラエルの崩壊と滅亡である。

当時のイスラエルは大した国であった。

荘厳華麗な神殿を誇り、
世界中からユダヤ人を回帰させる過越祭という盛大な式典、
それにローマ法よりも厳格・細微に人々の生活を束縛している
口伝律法とパリサイ主義
〜世界一の宗教民族であったのだ。

そのユダヤ人とその首都機能が壊滅するとは
当時の人々に到底考えられないことである。

世界帝国樹立目前との人々の期待値が高まる中で
その王たるべきメシアが十字架での死を遂げるとは、
彼らの理解や想像をはるかに超越するものであった。

「山」とは、ここでは理解困難な聖書箇所であったり神のお心のことである。

「山が動いて海に入る」とは、
それが理解され解決されることを示しているユダヤ的な格言である。

人間歴史には、神の力と意思とが働いている。

当時の弟子たちが主の預言も十字架も到底理解できなかったように、
私たちもまたそれを認知出来ないでいる。

世界を動かしているのは経済力や軍事力であると多くの人たちは見聞している。

やがて主の再臨があって、
千年間の神の国がイエスによって樹立されるとの神の歴史プログラム
をどれほどの人が信じているのだろう。

もしそれを信じることが出来るとしたら、山を動かすほどの快挙となる。


 3.信仰の本質について

「信仰を持ち、疑うことがない」とは、
自らの願望を主張・反映させることではない。

自分の願望の強さや犠牲の大きさが祈願を成就させるとは
異教の教えであってキリスト教ではない。

バアル預言者達の自傷行為や日本に見られた御百度参りを見よ。

それらの成就如何は、祈願者の行為次第によると教えるものである。

では、何であろうか?

それは神の約束と世界への経綸が100%完全に成就するとの確信である。

そのために必要なことは、
冷静な思考力を働かせながらこれまでのアブラハム以来4千年間、
どれほど確実に聖書預言が一字一句成就して来たかを知り、理解し、納得することである。

つまり聖書に対する知識と理解の深まりが必要なのであり、
至って自然科学的なアプローチなのである。

その時、聖書預言成就の芸術的とも言える正確性は、
今後の世界の行く末に関する主の預言も
確実であるのを認めないわけにはいかないのである。

私たちに主の言葉への絶対的な信頼を惹起させるのである。

それはまた、神の御心に肉薄することに他ならない。

「祈り求めるもの」が神の御心に添ったものであるとき、
貴方のその祈りは成就するほかないことになる。


#救済

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イスラエルとキリスト教会10~その3

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②ガラテヤ3:29

「29 もしあなたがたがキリストのものであれば、
それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」
(ガラテヤ 3:29)

ガラテヤの信者は「アブラハムの子孫」とされたのであるなら、
それは霊的なユダヤ人とされたことに他ならないのではないか、
という議論がこの聖句から起こっている。

これも先程と同じ理由で答えはNOである。

ユダヤ人でなくとも、肉体的にアブラハムの子孫である人達はたくさんいるのである。

そのまま霊的な領域にも同様のことが言える。

この聖句を理解するために最も役立つのは
エペソ2:11-13、3:6と比較することである。

「11 この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。
みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、
私たちはあらかじめこのように定められていたのです。
12 それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、
神の栄光をほめたたえるためです。
13 この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、
あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、
約束の聖霊をもって証印を押されました。
(Eph 1:11-13 )

「6 その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、
異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、
ともに約束にあずかる者となるということです。」
(Eph 3:6 )

これらエペソの聖句は、
約束の相続者となる事について教えているガラテヤの聖句が
意味しているところのものを明確にしている。

ガラテヤ人が神秘的な方法でユダヤ人となるのではなく、
ユダヤ人に与えられた契約の一部である
霊的な祝福に
共同に預かるものとされることを教えている。

その特権は信仰によって得られるものであるという。

この事は、彼らをして霊的なユダヤ人とはせずに、霊的な異邦人とするはずである。

契約の共同相続者としてさえも、
異邦人はそのユダヤ人の特権のすべてを相続できるのではない。

祝福に関わる契約の条項だけに異邦人は預かれるのである。

土地の約束や割礼など、
その他にも多くのユダヤ人だけに関わる契約条項があるが、
それらは異邦人には関係せず、ユダヤ人だけのものである。


#救済

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イスラエルとキリスト教会10~その2

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ゴラン高原 ゴラン高原
Ⅱ 聖書の用法からの検証

多くの人々はこれらは単なる意味論の範疇のことに過ぎず、
聖書のある箇所を取り上げては
霊的な変貌により(新生)、異邦人が新しいユダヤ人になったのは確かだ、
と主張する。

その論拠としている聖句を取り上げて検証してみよう。

①ガラテヤ 3:6-9

「6 アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。
7 ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。
8 聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。
9 そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。 (ガラテヤ 3:6-9 )」

もし異邦人が信仰によってアブラハムの子供になったんだとしたら、
それは霊的なユダヤ人になったことではないのか、という反論である。

答えはNOである。

身体的な範疇を考えてみても、
すべてのアブラハムの子供たちがユダヤ人ではない。

例えばアラブ人たちはユダヤ人たちと同じほどにアブラハムの子孫であると言えるのであるが、
彼らはユダヤ人と言うカテゴリに入りようがない。

身体的なことでの真理は霊的な事柄においてもまた真理である。
つまり信仰によるアブラハムの子孫というだけでは、
ユダヤ人になるわけではないのである。

それでは、この聖書箇所は何を伝えようとしているのか。

これに答えるためには文脈を検証しなくてはならない。

ここで問われていのは、
救いが人の行いによるのか信仰による恵によって与えられるものであるのか
という議論である。

ヘブル語の「子供」とか「子孫」とかいう言葉には「従者」という概念がある。

重要なのは、
アブラハムは行ないにはよらず信仰に基づいて義と認められたという点である。

同様に救いを得るためには行いではなく信仰による、
信仰によってのみ義とされた人たちこそが真のアブラハムの従者となるのである。


異邦人のガラテヤ人たちは、アブラハムの子孫であると言われているのであって、
決してユダヤ人になったと言われているのではない。
アブラハムの子孫になることが、ユダヤ人になることではない。

ユダヤ人として認定されるためには、ヤコブの子孫でなくてなならないのだ。

旧約聖書において、神がユダヤ人と交わした契約をアピールするときには
「アブラハム・イサク・ヤコブの神」としてご自身を啓示されて来た。

「アブラハムの神」はユダヤ人ばかりではなく、
イスラム教徒のアラブ人の神でもあるのである。


「アブラハム・イサク・ヤコブの神」がユダヤ人の神である。
#救済

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