ヴァションへはウエストシアトルから10分ほどのフェリー
シアトルは朝から濃霧にスッポリ覆われていた。
たいていは9時頃には晴れ出すのだが
この日は一日中白い雲が低く垂れ込めていた。
ヴァション島まで行ってきたが、
晴れの日ばかりでなく、そんな濃霧の船旅も味わいがあって良かった。
パンフレット
長女は村人役
今日も長女の学校が午後3時に終わるにを待って迎えに行き、
そのままEverettにまで送る。
そこでミュージカルの練習が午後4じから9時まである。
週の4日はそのようなスケジュール。
昨年の12月から親も子も往復1時間半ほどのEverettまでの運転を2往復して来た。
そして今日はスポンサーとなってくれた方々を対象とした初めての本番ステージ。
彼女自身をはじめ、舞台の皆さんも上出来だったようだ。
そんなこともあって、この日に走行した距離は165マイル(265キロ)となっていた。
10時前の帰宅となり私も疲れを感じた。
朝の7時から登校している彼女は、15時間労働というところか。
だが自分自身を表現出来るその練習が気に入っているようで
生き生きとしている。
カイザリア
イスラエルとキリスト教会❺〜区別されるその聖書的論証
④教会が「新しいひとりの人」と呼ばれている。エペソ2:15
「15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。
敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。
このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、
平和を実現するためであり、
16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。 」
(エペソ 2:15-16)
パウロはエペソ2:11-3:6において3つの共同体組織に言及している。
イスラエル、
異邦人、
そして「新しいひとりの人」である。
この「新しいひとりの人」とは、
イスラエルや異邦人とは明確に区別されながら
両者の信者達を構成メンバーとするものである。
この新しいひとりの人がすなわち教会なのである。エペソ2:16,3:6
イスラエルとキリスト教会❻〜区別されるその聖書的論証
⑤これら3つの共同体はそれぞれが互いに区別されるものである。
「32 ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、
つまずきを与えないようにしなさい。」
(1コリント 10:32)
イスラエルとキリスト教会❼〜区別されるその聖書的論証
⑥教会という用語は決してイスラエルに使われたことがない。
これは次章で詳しく学ぶ。
この年末に雪で覆われたエルサレム
イスラエルとキリスト教会❹〜区別されるその聖書的論証
③教会の奥義的な性格
聖書で「奥義」とは、
旧約聖書には啓示されずに新約聖書に至って初めて啓示された真理のことを示した専門用語である。
エペソ3:3-5
教会それ自体は奥義とは呼ばれていないのであるが、
教会に関する数ある性格が奥義と呼ばれているのである。
⑴教会のからだ概念が奥義。
ユダヤ人信者と異邦人信者とが結合して
一つのからだとしての教会を形成するというのは
旧約聖書に存在していない概念である。エペソ3:1-12
⑵信者の内にキリストが宿るという概念が奥義。
コロサイ1:24-27,2:10-19,3:4,11
⑶教会はキリストの花嫁である。エペソ5:22-32
⑷携挙。Ⅰコリント15:50-57
信者が復活して新しいからだを受け継いだ後に天に引き上げられて主と会うというのも奥義である。
これら4つ奥義は何れも教会と深く関わったものであり、
教会自体が奥義であるとも言えるし、
イスラエルとは明確に区別されるべき存在であるのが分かる。
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/0202856-1
「天の御国の恵み」
マタイ20章29~ 34節
~マタイ福音書連続講解説教57~
① 天の御国は、恵みと信仰とによる
4つの福音書には、時に一致しているとは見えない共通記事がある。
今回の盲人のいやしの記事においても、
マタイでは、エリコを出た時(20:29)のことであるとしているのに対して、
ルカでは、エリコに近づかれたころ(18:35)であるとしている。
聖書の権威を認めない人達は調和がないとしてその無誤性を攻撃して来るが、
むしろそれは異なる目撃者情報をソースとして取り入れた記者がいる事を示し、
歴史的史実を裏付けるものである。
観察者の視点によって異なる描写がなされるのは通常の事であり、
むしろ全く同様の文書ならフィクションをコピーしたものであると見なされてしまう。
それでは、ルカが「エリコに近づかれたころ」とした編集上の理由とは何か。
学者達が多くのものを紹介しているが、
その中から最も説得力あると思えるものを紹介したい。
ルカ19:1~27は、ザアカイ物語を初めとするエリコ市内での記録であり、
ルカにしかない二つの独自記事が記されている。
その後に今回の盲人いやし記事を持ってくるよりも、その前に配置することで、
エリコ入城直前の物語との関連性を重要視したかったのではないか、
との推論である。
エリコ入城直前のルカ18:15~43には、
マルコやマタイ共に共通している3つの記事がある
•18:15~17:幼子たちが神の国に入ること
•18:18~30:裕福な役人は神の国に入れなかった
•18:31~34:受難予告と弟子たちの無理解
邪魔者扱いされた幼子達の純真な信仰こそが神の国に入る手段となるものであり、
一方神の国エリートと目されていた金持ちの役人や
出世競争を意識していた弟子たちは遠いもの達であるとされた。
そして道端に座り込んで物乞いをしている盲人の物語である。
宗教民族ユダヤ人の考える最右翼でなく、
主と旅を続けていた弟子たちでもなく、
この捨てられたかのような盲人が、神の国の恵みを最も重厚に体験したのである。
何というどんでん返しであり、皮肉であろうか。
② 主の働きの転換点
そのいやしのプロセスを見るならば、
主は彼から信仰を引き出しているのが分かる。
イエスがメシアであるという信仰があるのを確認し、
その告白に至ってからいやしの奇跡が行われている。
この順序は初期のガリラヤ伝道にはなく、
その際には相手の信仰あるなしにかかわらずに奇跡を行っている。
一体、何がその方針を大きく変えるものとなったのか?
福音書の中で明らかに主の働きの性格が一変している時点がある。
それは、マタイ12章でのユダヤ人による正式なイエスのメシア性拒否の時点。
•それは彼らにとって、「赦されない罪」となった
•Point of no returnであり、AD70のエルサレム崩壊とユダヤ人の大虐殺は不 可避となった
•メシア的な王国は将来の世代へ延期された
•「奥義としての王国」時代(ほぼキリスト教界時代と時を同じくする)が始まった。
ここで主の働きが劇的に変化した4つの点を挙げてみよう。
❶奇跡の目的が変化
メシア性を証明するために群集を相手にしていたところから、
→個人の必要のために、また弟子訓練のための奇跡となった
❷相手の信仰が要求されるようになった
信仰のない群集にいやしを行っていたのに対して
→先ず信仰を確認してからいやしを行うようになった
→さらにいやされたことを他言しないよう戒められた
❸メッセージ自体も変化
主イエスがメシアであることをご自身も弟子たちもイスラエル国内で告知した段階
→沈黙を守るように戒められた
→ペテロの信仰告白後にも、メシアであることを他言するなと命じている(マタイ16:20)。これは復活後の大宣教命令まで続く。
❹教えの形態が変化
誰もが聞いても理解できるわかりやすい教え。(例)山上の垂訓
→たとえ話の多用。群集から真理を隠すために。それ自体が彼らへの裁きとなった。これはイザヤ6:9の預言の成就である。
ガリラヤ湖から北方にあるフーラ湖。
朝焼けに映える数千羽の鶴の群れ。
イスラエルとキリスト教会❸〜区別されるその聖書的論証
②メシアの生涯で特筆される出来事の後に、キリスト教会設立がある
その出来事の第一は、メシアの死である。
メシアの死により贖いが成就され、その血潮が教会誕生の根拠となった。
主が新しい新しい組織統一体としての教会誕生の預言を初めて語った(マタイ16:18)直後に、
やがて来るご自身の死をも預言された(マタイ16:21)のは偶然ではなかった。
第二の出来事は、メシアの復活である。
「20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、
キリストを死者の中からよみがえらせ、
天上においてご自分の右の座に着かせて、
21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、
また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、
すべての名の上に高く置かれました。
22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、
いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
23 教会はキリストのからだであり、
いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 」
エペソ1:20-23
教会がからだであり、メシアはその頭である。
ここで、復活によってのみ「頭」となり得たと教えている。
第三は、メシアの昇天である。
「 7 しかし、私たちはひとりひとり、
キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。
8 そこで、こう言われています。
「高い所に上られたとき、 彼は多くの捕虜を引き連れ、
人々に賜物を分け与えられた。」
9 --この「上られた」ということばは、
彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。
10 この下られた方自身が、
すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです--
11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」
(エペソ4:7-11)
キリスト教会がその組織の働きを始動させる唯一の条件として
聖霊が人々に賜物を与えなくてはならなかった。
これらの聖句は
主の昇天によってのみ聖霊の賜物がもたらされたのを教えている。
ゆえに、
主の十字架による死、
復活、
昇天。
これらの出来事の後に
教会の設立がなくてはならないことになる。
オークランド空港でレンタカーを返却した際、
先日のサービストラックを利用した費用が請求されると腹を括っていた。
が、
その請求はなく、当初のレンタル料金が請求されたままだった。
え~?
いいの~?
今後請求書が届くの?
分からないままだったが、そのままにしてシャトルバスに乗り込み、空港へ向かう。
毎回借りるときに、数ページの契約約款にサインしているが、
そんなものいちいち読んだ事ない。
事故や故障でサービストラックを依頼したときの支払いはどうなっていたか?
それにしても今回もFOXというレンタカー会社を利用したが
安くて仕方ない。
一日のレンタル料金が$22である。
他の会社では$100を超えるところもある。
同じ車種で、同じ空港からの利用なのにどうしてこうも料金に差が出るのだろう?
こんなに安くて利益が出るのだろうかと、心配にもなる。
この日のサンフランシスコは珍しく雨。
ゴンドラが走るパウエル通り。
今週はアクシデントが多い。
不可抗力の中でどうにもならない状態に追いやられた。
予定通り、計画通りに事が運ばないと
かつては大きなストレスを感じ、失望し、時には自暴自棄となった事もあったと思う。
そんな自分は、完璧主義者だったのだと思う。
いつの頃からか、その完璧主義を捨てることができるようになって
気持ちに余裕が出るようになった。
「100%でなく、80%でも出来れば良いんだ。それで合格点。」
そんなつもりでいる。
人のすることに完全なんてあり得ないし、
他者にそれを求めるのは、さらにナンセンス。
もし上手く事が運んだら、もちろんうれしい。
だがたとい上手くいかなかったとしても、
その失敗なり不出来さを、十分に味わってみよう、
そんな構えが最近出来上がって来たような感じがする。
マイナスと感じる状況下でも、神様は私にレッスンを与えることのできるお方。
その中からでしか与えられ様のない恵みがあるはずだから。
今まで確かにその恵みを経験してきた。
順調な時よりも、逆境の時に絶大な恵みが与えられて来たのだから。
ベイブリッジからの眺め。
見えにくいが、多くのタンカーや貨物船が密集していた。
日本からやって来た貨物船もあるはず。
今日も思わぬアクシデントに見舞われた。
ベイブリッジの料金所までは順調な流れのハイウエイ。
そこを過ぎた途端、全車はやがて動かなくなった。
前方の電光掲示板にトンネル内での事故の知らせがあり、
理由を知って取り敢えず安堵。
近頃出来たばかりの新しい橋はモダンな照明灯がタワーとなって林立。
左手にこれまでの古い橋が見えて、その撤去作業が進んでいるのが分かった。
数十年前のサンフランシスコ大地震の際、
二段構造となっているブリッジの上部橋桁が崩落して
下を走っていた車をサンドイッチにしてしまった。
新しい橋には二段構造がない。
大地震が起きたら橋桁がズレて、海まで転落するだろうなあ。
落差は100mはありそうだから助かる見込みはないだろうなあ。
そんなことを考えていたら、渋滞なんて大したアクシデントにならないと思えてきた。
「強くあれ。雄々しくあれ。
恐れてはならない。おののいてはならない。
あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、
あなたとともにあるからである。」
ヨシュア1:9
先日はこの聖書の言葉が
イスラエルの人々にとっていかに重厚な意味を持ったものであったかを述べた。
彼らに取ってそれは観念でなく、生死存亡を賭けた言葉である。
私たちも危急のとき、恐れに取り付かれ、心くじけそうなとき
天を見上げることは、単なる気休めでなく実態となる。
数日前もそんな試練の場に立たされたことがあった。
オークランド空港に降り立ったのだが、
預けたスーツケース2個のうち1つが届かないのである。
それがなければカリフォルニアにやって来た意味はなくなる。
仕事は何一つできない。
事務室で紛失手続きを終えてから、
レンタカーを手配しに行き、
再び戻ってきてシアトルからの最終フライトの手荷物を探してみた。
やはり、出てこない。
「主よ」
「主よ」
「主よ」
言葉短く、天を仰ぐ他できない。
午前12時を過ぎてホテルにチェックイン。
午前2時07分に携帯電話が鳴り響く。
手荷物事務室のCLIFFからで、スーツケースが見つかったと言う。
発見次第、至急連絡をくれとお願いしていた通りに彼は動いてくれた。
彼は申し訳なさそうに、私といっしょに荷物を探してくれもした。
これまでの経験則かれすれば例外だ。
空港で顧客の紛失荷物を依頼通りに扱ってくれたことはない。
ヨルダンのアンマン空港では持っていない振りまでされた。
さらに翌朝のことだ。
早速空港まで荷物を受け取りに行く際、
トランクに車の鍵を残したまま扉を閉めてしまった。
あっ!!!!!!!
と気づいたときにはすでに遅く、
どうあがいてもどこのドアも開かない。
もちろんそのような初歩的ミスを避ける方法を通常はしている。
このときも、トランク・ドアの蝶番のところにカギを置いたのだった。
自分の車ならたといドアを閉じようとしても、カギがあるので閉じれない。
だが、このレンタカーはすっぽりと閉じてしまった。
ここのときも、
「主よ」
「主よ」
「主よ」
ただ天を見上げるばかり。
サービストラックが来て、
カギを取り戻してくれるまで2時間ほどのロス。
その時間的損失はこの場合、大きなものであった。
先回のカリフォルニア遠征では腰痛のため亀のような動きしかできず、
今回はこうしていくつものアクシデントに見舞われた。
その度に天を仰ぐしかない。
恐れているからこそ、
「恐れるな」との言葉が響く。
一人ぼっちで頼りなく感じるからこそ、
「わたしがあなたとともにいる」との約束が力となる。
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