とにかく、この腰痛をどうにかせねばどんな仕事も出来ない。
薬局に走り、鎮痛剤、湿布、そして杖を購入。
人生で始めて使う杖。
歳を取ったものである。
先日、長良川河畔のホテル支配人が示してくれた腰痛対策を考えている。
彼は70歳だというのに、完璧な股割りを披露してくれた。
40歳代から約2年程かけて練習して、
現役の相撲選手のような見事な股割りを完成させた。
以後、腰痛知らずという。
私は開脚姿勢で、
今のところ上体が45度ほどしか曲がらない。
彼曰く「畳の目ほどの進歩を繰り返す」のだそうだ。
この腰痛から解放されるなら、それも実験して見る価値があるかもしれない。
一度座わってしまうと、起立に移行するのに激痛が走るため、
本稿も立ったまま書いています。
この朝、ホテルのジムでウエイト・トレをした。
腰に違和感があったため、軽く流した。
部屋に戻り、シャワーをして、ソックスを穿けない。
こ、腰が痛い!!!!!!
しばらくすると、歩くのもままならず、
赤ちゃんのようにつたえ歩きをして、
3m進むのに、1分ほどかかるようになっていた。
特に運転して座る姿勢から、
運転席から立ち上がる際の激闘はどうにもならない。
。
駐車場のおっさんの怪訝そうな顔を横目にしながらも、
足を15cm程づつ進めながら10分ほどかけて車を後にする。
持病の腰痛が再発したキッカケは数日前、
重たいクリスマスツリーを運んだことにある。
かなりがっしりとしたモミの木を選んだため
腰への負担が大きすぎた。
ロボットのように歩を小刻みに進めながら歩く私の姿勢に
人々は滑稽さを通り越して警戒心を抱いたようだ。
顧客のフロントでは、
私を知らない受付係は他者に相談することもなく
追い払うようにして"No Thank You"を連発してきた。
それは悲しさを通り越して愉快であった。
妻にコレを連絡しながら
二人で爆笑してしまった。
第1回目〜新約聖書時代の日曜日が安息日なのか?
日曜日にキリスト教会が礼拝を始めるようになったのは、いつの頃からか。
321年、コンスタンティン法令による日曜休日が制定されて以降であると教えられることが多い。
ところが2世紀初頭には、キリスト教が広められて行った地中海沿岸の世界ではすでに広く日曜礼拝が一般化されていた記録がある。
しかも大切なことにこの初代教会時代、
日曜日は礼拝の日として見なされてはいたが、
安息日であるとは見なされいなかったことである。
その当時、日曜日が休みの日であるとは考えられていなかった。
時代が進むに連れて、
旧約聖書の安息日に関する規定が日曜日に適用されるようになり、
それが今日にまで至っている。
それで日曜日が
「クリスチャン用安息日」とか、
「日曜安息日」
とか呼ばれるようになった。
多くのディスペンセイションの学者達も次のように見解している。
「安息日が神の創造の業の休息を記念しているように、
週の最初の日(日曜)は、キリストの復活を記念している。
7日目は創造の完成を記念し、
最初の日は贖いの完成を記念しているのだ。
従って現在の恵みの時代では、
人間の7日の内の1日は、神に属する時間であり、
それが日曜日なのである。」
何と無く説得力を感じる理論であるが、
果たして聖書の教えに照らしてどうであろか?
(つづく〜「救済」タグをクリックしてください)
「受難予告~天の御国のプログラム」
マタイ20章17~ 19節
~マタイ福音書連続講解説教55~
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/011654
主はご自身の死とその後の復活を預言されます。
今回で3回目の受難予告です。
弟子たちをはじめユダヤの群集は、
主イエスがエルサレムにてメシア王国を樹立されるのを期待していました。
旧約聖書が数百年かけて預言してきた
神の約束をメシアが今や成就してくれるものと考えていました。
彼らの想定外のことが起こったのです。
神であられるメシアが十字架で死ななくてはならなかったとは?!
それとともに、
異邦人にも福音が伝えられていく「世界宣教」の時代が始まります。
旧約聖書にはなかった奥義としての「教会時代」が始まります。
主イエスが
エルサレムにて王として全世界を統治されるのは将来に「延期」されて、
教会と言うものが歴史に「挿入」してきたのです。
これらは人の目にはことごとく斬新的に見えます。
当時の弟子たちも理解するのには困難を極めました。
3回も主ご自身の受難を聞いていながら、
彼らには理解できていなかったと、聖書は記録しています。
人の目には斬新的に見えても、神のご計画に何一つ狂いはありません。
神の目から見たならば、これらすべてはすでに想定されていたことなのです。
これらが預言されている箇所として、
イザヤ49:1~13を注意深く学んで見ましょう。
49:1「 島々よ。私に聞け。 遠い国々の民よ。耳を傾けよ。
主は、生まれる前から私を召し、 母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。
*イザヤがあたかもメシア自身の言葉として、
預言的に語っているところである。
ここには人間の父の言及なく、
母のみが言及されているのは処女降誕の預言も想起される。
2 主は私の口を鋭い剣のようにし、
御手の陰に私を隠し、 私をとぎすました矢として、 矢筒の中に私を隠した。
*メシアは神から委ねられている任務のために訓練され、準備される。
*主イエスの公生涯に立たれる30歳までの預言である。
3 そして、私に仰せられた。
「あなたはわたしのしもべ、イスラエル。
わたしはあなたのうちに、 わたしの栄光を現す。」
*メシアが真の意味でのしもべ、真のイスラエルと呼ばれているのは、
モーセ律法の要求を完全に満たした唯一のユダヤ人であるからである。
*主イエスの生涯で神から声がかかった場面(ゴットバル)が3回あるが、
何れも神の栄光が現れ出た瞬間であった。
• 洗礼の時:マタイ3:17 ~ミニストリーの開始期に
• 変貌山 にて:マタイ17:5~ミニストリーが弟子たちに受け入れられない時に
• 受難の直前:ヨハネ12:28 ~ミニストリーの完成間近に
4 しかし、私は言った。
「私はむだな骨折りをして、 いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした。
それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、 私の報酬は、私の神とともにある。」
*この節からメシアの落胆色が濃くなる。
3年余りの公生涯は、そしてその結果は
同胞ユダヤ人からの拒絶、排斥に彩られている。
5 今、主は仰せられる。
--主はヤコブをご自分のもとに帰らせ、
イスラエルをご自分のもとに集めるために、
私が母の胎内にいる時、 私をご自分のしもべとして造られた。
私は主に尊ばれ、 私の神は私の力となられた。--
*だがその拒絶にもかかわらず、メシアを通じてイスラエルの復興が約束される。
それは世界離散のユダヤ人が、約束の国に集合されることと関連している復興であるのが分かる。
6 主は仰せられる。
「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、 ヤコブの諸部族を立たせ、
イスラエルのとどめられている者たちを 帰らせるだけではない。
わたしはあなたを諸国の民の光とし、
地の果てにまでわたしの救いを もたらす者とする。」
*約束の国への集合は、
イスラエルの物理的な復興、繁栄を伴うものである。
さらにそればかりでなく、
メシア拒絶に結果する第3の目的があると告げている。
それは異邦人に救いが届けられることである。
*この異邦人の救いはこの旧約預言に見られるように、
当初からの神の計画であった。
上記の二つの目的(ユダヤ人の集合と復興)を脇に置いて、
時が満ちるまで続けられる。
世界宣教のときが終わったとき、これら二つが成就するときである。
7 イスラエルを贖う、その聖なる方、主は、
人にさげすまれている者、 民に忌みきらわれている者、
支配者たちの奴隷に向かってこう仰せられる。
「王たちは見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す。
主が真実であり、 イスラエルの聖なる方が あなたを選んだからである。」
*「人にさげすまれている者、 民に忌みきらわれている者、 支配者たちの奴隷」
とはメシアの初臨の際の拒絶を預言したものである。
*その拒絶は一時的なものであり、
やがてメシアはユダヤ人ばかりでなく、すべての異邦人に崇められ、
受け入れられるときが来る。
8 主はこう仰せられる。
「恵みの時に、わたしはあなたに答え、 救いの日にあなたを助けた。
わたしはあなたを見守り、 あなたを民の契約とし、
国を興し、荒れ果てたゆずりの地を継がせよう。
*「あなた」とはメシア。イスラエルとの契約の締結者として
その復興をメシアゆえに実現するとの預言。
それは、異邦人に対するメシアの働きが完成するときである。
9 わたしは捕らわれ人には『出よ』と言い、
やみの中にいる者には『姿を現せ』と言う。
彼らは道すがら羊を飼い、
裸の丘の至る所が、彼らの牧場となる。
10 彼らは飢えず、渇かず、 熱も太陽も彼らを打たない。
彼らをあわれむ者が彼らを導き、 水のわく所に連れて行くからだ。
11 わたしは、わたしの山々をすべて道とし、 わたしの大路を高くする。
12 見よ。ある者は遠くから来る。
また、ある者は北から西から、 また、ある者はシニムの地から来る。」
13 天よ。喜び歌え。地よ。楽しめ。 山々よ。喜びの歌声をあげよ。
主がご自分の民を慰め、 その悩める者をあわれまれるからだ。」
*世界に離散し、
苦労の中に置かれているユダヤ人が
約束の国に集合され復興されることが繰り返し預言されている。
*「シニム」とは現代へブル語では中国を指すが、
イザヤ時代のヘブル語がどこを指していたかは不明である。
アジアのどこかの箇所が、
ユダヤ人復帰活動のセンターとして用いられるのであろう。
伐採したツリーを一晩、バケツの水を吸わせてから台座を取り付けた。
そして部屋の中へ。
早速子供たちが飾り付けをしてくれる。
私にも手伝うよう誘われたが、
美術で50点以上とったことのない私は自制した。
数週間前のシアトル・ダウンタウン。本日の記事とは直接関係ありません。
数週間振りの雨となったシアトル。
秋の帳が下りるのも早くなり、暗さとあいまって車の流れは悪くなる。
長女は学校を終えるなり、Everrettまでミュージカル練習に通う日が週に数日ある。
本日のアッシイはアッシが担当。
先回は1時間で行けたが、今回は1時間20分かもかってしまった。
夕刻のI 405の渋滞は凄まじいばかり。
帰路の8時台には渋滞も解消されていて、35分で帰宅。
夕食の弁当はshebellから
腹ごしらえをしてからセミナーが始まります
12月のシアトル・オーナー会の幹事役は私。
初めての幹事役となり、
緊張しながらも会場や夕食の確保、出欠の確認等をしてきた。
会場はホサナ教会にお越し頂いた。
セミナー講師も私自身が務め、
「ユダヤ教・イスラム教・キリスト教について」お話させていく。
活発なご意見や質問が多く寄せられて、実に有意義な時を持たせていただいた。
気づけば、1時間半を超えて話したことになる。
普段は考えることも少ないだろうと思っていた宗教について、
少なからぬ関心を持っておられる方々が多いとは意外な発見であった。
秀吉は棄教しなかった26名のキリシタンを捕えて長崎に連行。
彼らの殉教の地は、長崎駅から歩いて10分程の所にある。
今月4日付き朝日新聞に「恐怖の記憶・精子で子孫に継承」という記事が掲載された。
米国の研究チームが科学誌に発表した論文だそうだ。
オスのマウスにサクラの匂いを嗅がせると同時に脚に電気ショックで苦痛を与える。
やがてそのオスは、サクラの匂いだけで脅える仕草を見せるようになる。
その後メスとつがいにさせて子供を産ませる。
その子供マウスは父親が恐怖を感じたサクラの匂いをかいだ時に、
同様の脅えた反応があったという。
そして孫の世代にも同様の実験結果が得られた。
彼らの精子DNAを調べてみると、
嗅覚を刺激する遺伝子に変化の跡が認められたという。
我々一般の日本人は宗教に対し、特にキリスト教に対して警戒感や恐れの様なものを感じていないだろうか?
それはおそらく豊臣秀吉から始まったキリシタン迫害の277年間と関わりがあるんではないかと。。
先日長崎で出島を訪問して外国人に警戒した仕組み、
踏み絵や5人組制度と言った江戸幕府創出のキリシタン撲滅のための制度、
直視できない残酷極まる拷問から守るために隠れキリシタンとなって潜伏した五島列島、、、
これらに思いを馳せていると、この新聞記事が無関係でない様な気がしてくる。
我々日本人は江戸期の鎖国を通じて
キリスト教信仰に対する抵抗し難い恐怖感を醸成し続けたのだ。
その民族DNAは現代の世代にも引き継がれているのでなかろうか?
そんなことも「日本人のキリスト教に対する一般認識」として
明日のオーナー会でお話することになりそうです。
ホサナキリスト教会・聖書広場から
「ぶどう園のたとえ話」②
マタイ20章1~ 16節
~マタイ福音書連続講解説教54~
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/011654
聖書学の大原則
「聖書とは、一体何か。
それをどのように読んで、解釈・理解し、
さらにその上で自らに適用・実践すれば良いのか」
という視点からの体系化された学問を「聖書学」と言う。
意識してないかもしれないが、全て聖書を専門的に学んだ者たちは皆、
聖書学を実践しているはずである。
ここでその聖書学の原則について確認して見たい。
❶聖書を文学作品として読む
つまり書かれている通り、字義通りに読む。
あなたの国語で読解力を総動員して理性的に読む。
その点で他の文学書や雑誌を読む時と別段変わらない。
ただし、ユダヤ的な背景を理解し、文脈や文学的手法にも留意する。
聖書は2千年前にユダヤの地で、ユダヤ人によって書かれたものであるから、
その時間的・民族的な壁があることを前提としなくてはならない。
日本文化 の掛かったフィルターで、
貴方の常識や認識方法を前提として解釈するなら
本来意図されているメッセージを失うことになりかねない。
聖書時代の読者が、どういう意味として受け取ったかを探索して行くのが解釈学の王道である。
今日の聖書広場では、
「たとえ話には何が書かれているのか」
を解説してあるポイントⅠがこれに当たる。
メッセージ・ノートを参照。
❷聖書のメッセージ(神と聖書記者の意図するもの)は、一つである
聖書は神の霊感によって書かれ、
その66巻が調和と一つの意図を持った完結した書である。
一つの聖句が伝えようとしているメッセージは一つしかない。
二つの聖句が互いに異なって矛盾してしまうかのような解釈は
あり得ない(正しいものでない)。
その一つの箇所の解釈のためには、
その前後の文脈やその書全体、引いては聖書全巻からの裏付けが必要となる。
ゆえに聖書全巻の知識と合わせて、
これをどのように読み取るべきかの
聖書全巻の体系への理解が欠かせないものとなる。
今日の聖書広場では、
「たとえ話からどんなメッセージが引き出せるのか」
を解説してあるポイントⅡがこれに当たる。
メッセージ・ノートを参照。
かいつまんで言うと、そこでは、
①憐れみによって召された者の幸い
②自らの行いや実績に頼る者の不満
③神の与える報いは報酬(給料)ではなくて賜物(ギフト)であり、
気前の良いものである
とういうメッセージが引き出せる。
❸聖書の適用はいく通りもあり得る
その内容を正しく把握して解釈し、そこからメッセージを引き出した後に、
その教えの実践のために自らに適用しなくてなならない。
その適用は、状況や時代によりまちまちとなる。
そこに説教者の資質やセンスというものが反映される。
適用のためには❶と❷とに習熟してなくてはならない。
今日の聖書広場では、
「私たちへの適応」を解説してあるポイントⅢ がこれに当たる。
メッセージ・ノートを参照。
結論 :
奉仕は「気前のよい」(アガソス)お方に対してのものであり、
他者の評価や自己満足のためのものではない
私たちは多くの場合、この世の(特に儒教的)価値観に慣れ親しんでいる。
そこで教えられてきたことといえば、
「もっと頑張れ」
「もっと働け」
「成果を挙げよ」
という成功志向型の哲学ではないだろうか。
救いは、恵みによってただで与えられたと信じてはいても、
信仰を維持したり、また信仰を評価されるには
働き如何によると考えているのが多くの教会人の現実ではないか。
本来私たちは与えられた賜物で奉仕するよう勧められていて、
頑張りではない。
知識や知恵の言葉、奉仕や癒し、哀れみや献金の賜物、教えや助ける賜物、、、
これらは霊的な賜物でありそれぞれが神から与えられたものだ。
故に、神が貴方に備えられた能力を使い、
教会の中でバランスよく用いることによって教会は建て上がって行く。
もし貴方が頑張りで奉仕するなら、御霊の働きを妨げることになりかねない
頑張りは人を疲れさせ、愚痴や不満が出てくる元になる。
安息日とは、主イエスによって成就された平和・平安・調和
のひな型となるものである。
「信じた私たちは安息に入るのです。
『わたしは、怒りをもって誓ったように、
決して彼らをわたしの安息に入らせない。』
と神が言われたとおりです。
みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。」
(ヘブル 4:3 )
「休みなさい」、「神に仕えるとはすなわち休むことである」
というのが新約的な安息日理解である。
さあ、リラックスして信仰生活を楽しませていただこうではないか。
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