イスラエルとキリスト教会10〜その1
ユダヤ人信者に関する2つの誤り
2つの誤った見解が、今でも多くのクリスチャンたちの間に席巻している。
1つは異邦人達がキリストを信じた時点で、
彼らは霊的なユダヤ人になったと言う見解。
もう一つが、異邦人でもユダヤ人でもキリストを信じた時に
両者の垣根は取り払われて、1つのものにされたというものである。
新約時代には、もはやユダヤ人の特殊性と言うものはなく、
異邦人と言う言葉すら相応しくないとする考え方である。
信者はキリストにあって1つの家族となったのであり、
特定の民族や選民思想、ユダヤ人の特権性というものは消滅してしまったのだ
と言うのである。
果たして本当にそうだろうか。
そのような考え方は、契約神学の人々に決まって共通していることである。
また現在のイスラエルに対する乏しい思索ゆえに
一部のディスペンスセイショナリストたちも抱いている考え方である。
①異邦人の信者が霊的ユダヤ人なのか?
しばしばそのような言い方がされてきたのだが、
この考え方に賛同している聖書箇所は存在しない。
聖書が「霊的」という言葉を使用する際には3つのことが包含されていると
Dr. Charles Ryrieは指摘する。
それは、「新生」と「聖霊と「時間」である。
信者が霊性と関わりを持つことは、
聖霊によることであり
神との関係が創始せられる新しい誕生であり
そしてそれ以後に続く成熟と言う観点を考慮すると時間にも関わることであろう。
ドクターが指摘しているように
聖霊との関わりの成長・成熟が「霊的」Spiritualityと言う言葉の意味である。
要するに霊的な人物とは、聖霊のコントロール下にある人のことである。
もし異邦人がキリストを信じて聖霊のコントロールに自らをゆだねるなら、
彼は霊的な異邦人と呼ばれる。
同様にユダヤ人が信者となって聖霊のコントロール下にあるなら、
彼は霊的なユダヤ人と呼ばれるのである。
しかし、これから両者の民族性が交差されることはない。
ユダヤ人信者はユダヤ人のままであり、異邦人信者は異邦人のままにとどまり、
それぞれの霊性とは、それぞれが聖霊様との関係の上に築く属性の事である。
Mikuniレストラン3号店
この日の夕食は
サクラメントのミッドタウンにあるmikuniレストラン3号店に。
「いらっしゃい まーせ〜」
というどことなく哀調を帯びた独特の掛け声で歓迎される。
ここ3号店のその掛け声は、他店と比べて小さいのが以前から気になっていた。
丁度昨年の今頃、
シアトルに講演に来られたオーナーの太郎さんにそのことを伝えたことで、
以来改善されたのかな?
火曜日であっても大抵は満席を誇るmikuniレストランなのに、
この日は空席が目立ち、気になってしまう。
味の方はもちろん、手早いサービスもグッドでした。
生花が水に浮いていたあるレストランの玄関
ようやく待ち望んでいた雨が降った。
ここサクラメントだけでなく
北カリフォルニア一体に恵みの雨が降っているようで
私も州民たちと一緒に一安心。
これまでサクラメントで雨になんて見舞われたことなく
レインコート等用意したことはなかった。
おかげで、車外に出るたびに頭が濡れてしまう。
人々には必要な雨なのだ…そう言い聞かせて喜ぶようにしている。
昨年の秋に初めて関ヶ原を訪れた際から読んでいる
司馬遼太郎の「関ヶ原」をようやくこの日に読了。
読み応えのある大作。
今後読後感など、
機会を見つけてUPしようかとも思う。
なぜだか早朝に目覚めてしまい、夜明け前からジムに。
現在カリフォルニアには雨が降らず、
貯水の湖には例年の半分ほどしか水がない。
知事は非常事態宣言を出して、州民に節水を呼びかけている。
雨の多いノースウエストからサクラメントに来れば
カラッと晴れた青空と陽気にいつも励まされているのだが
今回は喜んでばかりいられないようである。
至るところにシーホークス応援のサインが
スーパーボウルとは、
年に一度のアメリカンフットボールの全米チャンピョン決定戦の祭典である。
この日のTV視聴率が毎回、年間を通じて最高を記録する。
その祭典に初めてシアトルのシーホークスが駒を進めたというのだから、
この街も黙ってはいない。
友人たちで揃っては大型TVの前でコーラとポテトチップスを方張りながら歓声を上げるのが定番の過ごし方となる。
我が家はどうであったか?
一人を除いて全く関心なし。
私は直前までシーホークスが勝ち進んでいることも知らなかった。
その日、弟の家でも典型的なTV観戦が友人たちを集めて続けられていた。
3歳になる双子の姪たちは、相手チーム・ブロンコのファンであるという。
ゲーム当初からシーホークス有利のゲーム展開に、
ついに彼女らは泣き出してしまったそうな(^_^)
こうしてアメリカンになるための教育が幼児期から始められる。
私は何年かけても到底アメリカンにはなれそうにない。
この週末、二日間の期間限定・羽田ー成田往復航空チケットが発売された。
通常は$1400もするのが、$960であるという。
この機会に是非とも購入したく、準備開始。
日本の滞在先に電話したり、家内とのディスカッション、夏の子供のスケジュールや彼らの意向を尋ねたり。
中学生となる長女に今夏も体験入学は許されるのだろうか?
そんなことを数時間かけて話し合っているうちに明くる日の土曜日となってしまう。
家内ともようやく意見調整が出来て、訪日の日程が決定。
そこで旅行会社へチケット購入のための電話をしたところ、
昨日でその格安料金は終わってしまい、この日の朝から通常料金に戻っているとのこと(≧∇≦)
「二日間」と言っておいて初日でそのディールを終えたのは、
利用者が多かったためらしい。
デルタ航空の判断によるもので、どの旅行会社も同じ扱いであり、どこも責めることは出来ない。
昨年の場合、2月1日にだけ格安販売が行われて以降、夏までの格安でのチケットは売り出されなかったと言う。
もしこの先そんな販売があったら、迷わずに即刻で購入する事にしよう。
ついにリリース、明美シザーズ!
ハサミに付ける名称は日本的なものでなくてはならない。
今までにも、
「リョウマ」
「バンブー」
「美濃」
そんな名前を付けてきた。
昨年「カイ」と言うのを付けてから、
お姉さまはご機嫌ナナメ。
「私の名前を付けてくれない〜(≧∇≦)」
「今度、今度」と言っていて
その度に彼女をがっかりさせて来たけれど
この度ようやく約束を果たすことが出来た。
また、それとは別に
長女は名案の名前を考えてくれた。
「夕方シザーズ」
これには節があって、彼女の歌を聞かないと意味をなさない。
CMに流せといって、ソングまで作ってくれた。
こんな感じとなる。
「You gotta scissors, You gotta scissors, You gotta!, You gotta sci-ssors!!」
(ユーガタ シザーズ) : (ハサミを買ってよ)
本日も小雨が降り続くノースウエスト特有の空模様となった。
「毎日がどんよりとした曇りで雨ばかり」だなんて贅沢を言っていられない。
米国の南東部はたった今、大寒波に見舞われている。
ハイウェイが凍結していて、あちこちで事故。
何時間待ってもビクとも動かない車列に、諦めて車を乗り捨てて徒歩で帰る人が続出しているとのこと。
ジョージアに住む私の友人も仕事からの帰り道にその渋滞に巻き込まれた。
数時間かけても動かない渋滞に、生命の危険を感じた彼女は意を決して歩くことに。
何と8時間もかけて帰宅出来たとのこと☆〜(ゝ。∂)
彼女は翌日、放置した車のところまで行くのだが、
数千台の規模であちこちに放置されたままの車を見たそうだ。
それと比べたらこちらの雪は、
ままごとのようだ。
積もる程の降雪は年に一度か二度だけ。
数センチの雪は翌日にはスッカリ解けている。
竜巻やタイフーンに遭うこともあり得ない高緯度地方。
マイルドな気候の恩恵をいただいている。
テルアビブの夜明け
イスラエルとキリスト教会❾その2
ガラテヤ6:16
「どうか、この基準に従って進む人々、
すなわち神のイスラエルの上に、
平安とあわれみがありますように 」
この聖句にある二つの組織体・グループとは
異邦人信者とユダヤ人信者の二者であり
二つのグループに祝福を述べたものであると解釈できる
大きな理由は次の通りである。
①解釈学の原則から
新改訳聖書のようにギリシャ語Kaiを「すなわち」と訳すのは
文法上誤りではないが、それは圧倒的に稀なケースである。
ほとんどの場合は、ANDと訳されるのである。
「釈義や神学上の明らかな矛盾がない場合で、
通常訳出される語句が意味をなすものならば、
より稀な語句を訳語として採用してはならない」
この解釈学の原則に立つなら、ANDと訳出されるのがふさわしいことになる。
もし契約神学者が言うように、
「神のイスラエル」が「基準に従って進む人々」と等しいとするなら
パウロは、Kaiをここで記さなかったはずである。
その方が文法にかなっている。
だが、事実は明記されているのである。
②用法と文脈に照らしての釈義から
先ず、用法について検討してみよう。
聖書記述の中で先回確認したように、
「イスラエル」が「教会」の意味として使われたことはない。
「異邦人」は、ノンクリスチャンを指して使われた言葉でなく、
ユダヤ人以外の人々を指したものとして聖書の中では一貫して使われている。
「使徒の働き」書の中では「教会」と「イスラエル」とが調和をもって扱われている。
誕生したばかりの教会は、
歴史的イスラエル のすぐ隣に存在していたのであり、
両者は明確に区別されていた。
契約神学者の一部は、
ローマ9:6をもって霊的なイスラエルがクリスチャンのことである
と主張するのであるが、
注意深くここを読むならば、
信者であるユダヤ人と
信者ではないただの民族的ユダヤ人とが
「霊的」と言う語によって区別されたものである事が分かる。
「6 しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。
なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、
7 アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、
「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」のだからです。」
(Rom 9:6-7)
次に文脈を再度確認して見よう。
パウロはユダヤ主義者によって誤った福音が導入されたガラテヤの教会を
矯正するためにこの書簡を書いているのである。
彼らはモーセ律法に従い、
割礼を受けなければ救われず、
救いの維持もないと教えて、
大きな混乱を与えていた。
パウロはその点を論ずるに当たって、
当時のイスラエルと異邦人という
明確に区別されていた民族グループを
意識しないでおくことはできなかったのだ。
恵みの選びによって教会内にレムナントと呼ばれるユダヤ人信者があった。
パウロは、ユダヤ人とギリシャ人、
女性と男性、
自由人と奴隷、
こうした区別を教会内で認めているし、識別している。
パウロが言っている「キリストにあって一つとなる」というのは、
性別や社会的相違を同化する事でなく、霊的な事柄であったはずである。
同様に、異邦人とイスラエルの民族的相違は歴然と教会時代も存続するのである。
③神学的理由から
イスラエルが教会と同一と見なされた記録は
どこを探してもAD160以前には
一つも発見されていない歴史的な事実がある。
パウロ時代から1世紀も経ているのに、
それらが同じものと考えられていた形跡が無かったことになる。
「神のイスラエル」との表現はおそらく
「肉によるイスラエル」(1コリント10:18)
と対照となっている語であると言えるのではないか。
つまり信仰のイスラエルと
不信仰のイスラエルが対比であり、
ローマ9:6でパウロが論じている二つのイスラエルである。
両者は共に民族としてのイスラエルではあるが。
この見方は文法上の理由から支持される。
Kaiは通常順接接続詞として「〜と」と訳されるべきものであり、
その一般的な用法を無視しなくてはならない理由はここにないのである。
さらに釈義からも支持される見方である。
「イスラエル」の語は、
パウロにとって常に自己を包含している民族的な概念である。
ここでパウロが攻撃型の激しい論調調子の書簡を締めくくるにあたり、
その結論もまた、鋭くユダヤ主義者たちを意識したものとなっている。
彼の通常の書簡の締めくくりには出現する感謝の言葉が
ここで忘れ去られているほどである。
同時にパウロは
忠実な信仰のイスラエル人への祝福の言葉をも忘れることはなかった。
彼らは、
人の功績が何ら役に立たず、
ただ神の恵みのみが贖いを完成させると理解していて、
巧妙なユダヤ主義者に追従し負けることの無かった人々であった。
彼らこそ偽りのイスラエルでなくて、
「神のイスラエル」であり、
他の箇所では
「恵による選びゆえのレムナント」
(ローマ11:5)
とも呼ばれる人々である。
神学的に見ても、
一つの神の民の中に二つの要素(異邦人とユダヤ民族)
があると教えていることから支持され得るのである。
ローマ11章はこの二つの組織体の相互関係を扱ったものであった。
族長達と交わされた偉大な無条件契約が
今日までどのように推移して来て
将来にどのように完成されるかが記されてあるところである。
こうしてみるならば、
ガラテヤ6:16には、
二つの組織体が意識されたものであると結論できる。
つまり、
「この基準に従って進む人々」=異邦人信者
(と=KAI=AND)
「神のイスラエル」=ユダヤ人信者
の二つである。
ゴラン高原
イスラエルとキリスト教会❾〜ガラテヤ6:16ついて
Galatians 6:16
「どうか、この基準に従って進む人々、
すなわち神のイスラエルの上に、
平安とあわれみがありますように 」
全ての契約神学者が、
「教会が霊的なイスラエルとなったのだ」
または
「異邦人信者が霊的なイスラエルである」
と結論付ける根拠としてあげる聖句はこれ一つである。
果たしてこれが正しい解釈であろうか。
先ず、ガラテヤ書全体の文脈を概観してみよう。
そもそもこの書は、
モーセ律法によって救いを得たり、
これを維持しようとしている異邦人信者に関心を払って書かれたものである。
15節では救いに重要なのは信仰であり、
れが「新しい人(直訳)」に至る、とある。
さらにそこに至るには2つの要素があり、
一つが割礼、他が非割礼である。
それは二つのグループを意識したもので、ユダヤ人と異邦人のことである。
「7 それどころか、ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、
私が割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました。
8 ペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、
私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。
9 そして、私に与えられたこの恵みを認め、
柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、
私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。
それは、私たちが異邦人のところへ行き、
彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。」(ガラテヤ2:7-9)
16節では、信仰によってのみ救いが得られるという基準に従う
二つのグループに祝福を述べるのである。
最初が「人々」と訳されているグループで、異邦人のことである。
次が「神のイスラエル」、つまり信仰のあるユダヤ人のことである。
これら二つのグループを新改訳聖書は「すなわち」と訳して
同一グループと見なしているのは、
契約神学の視点からの読込みであると言わざるを得ない。
そこにはKaiという接続詞が用いられてあって、
その主要な意味はANDであり、並列に訳されるべきものである。
口語訳聖書はその点で正しく訳出してある。
「 この法則に従って進む人々の上に平和とあわれみとがあるように。
また、神のイスラエルの上にあるように。 」
(Gal 6:16 口語訳)
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