義父は段々弱って行く。
アルツハイマーと脳血栓を併発してナーシング・ホームに
入居してからすでに1年以上が過ぎた。
子供達の様子や
昨夜は寒かったのでウサギを室内に入れたことなどを話す。
しばらくすると義母が現れて夕食をサポートする。
自力では食事もできず、話もできない義父。
その義父は私たち家族に大きなレッスンを与えてくれている。
人の価値は、何ができる・できないの評価から決められない事を。
毎日2回の食事サポートを含めた義母の健診的な介護から、
アガペー(愛)とはどういうものであるのかを。
聖書の教える「神の愛」はアガペー。
それは見返りを求めないで、
自らを与え尽くすもの。
ミュージカル・オーディションで受け入れられた長女は
週に4日間の練習が今日から始まった。
彼女をエバレットに連れていかねばならないのだが、
夕刻のI405北路は渋滞が酷すぎる。
日本と違って電車のないここでは、
どんな習い事でも車で送迎せねばならない。
最初の一回目を終えて、
良いインストラクターや友人たちに恵まれたようで充分に楽しんだようだ。
往復数時間にもなる交通クレジットをしっかりと挽回してくれよ、
あけみちゃん!
「ぶどう園のたとえ話」①
マタイ20章1~ 16節
~マタイ福音書連続講解説教53~
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/011653
20章の分解を「天の御国」をキーワードに整理すると次のように分解できる。
1~16:ぶどう園のたとえ話 ~天の御国の賃金形態
17~19:主イエスの受難予告 ~天の御国のプログラム
20~28:ゼベダイの母の懇願 ~天の御国の地位
29~34:二人の盲人のいやし ~天の御国の恵み
今回は有名なぶどう園で働く労務者たちのたとえ話であるが、
ここのメッセージを汲み出すために、意外な話の展開点に着目する。
1 5時に雇われた者の喜び
能力別に雇用される5つの階層があった。
明け方6時、9時、12時、3時、そして夕刻の5時に主人から声をかけられて
ぶどう園へ派遣されて働く日雇い労務者の話である。
夕方5時まで仕事せずに市場をウロウロしているのは、
「誰も雇ってくれないから」(7節)という理由であった。
働きたくともあぶれてしまった者たちの悲しさ、悔しさはいかばかりであろうか。
現在も就活に苦労している若者たちが世界中に溢れている。
日没までわずか1時間しかないのに声をかけてくれたものがあった。
5時からの労務者を雇うなんて、今でも当時でも有り得なかった話の展開である。
「あたながたも、ぶどう園に行きなさい」~意外性①
彼はその1時間を賃金のために働かなかったはずである。
声をかけてくれた主人への感謝の気持溢れる労働となったはずであった。
ここに、自分の行い・実績や能力に頼る者(朝早くから雇われた者)と
主のあわれみだけに頼る者との違いが見られる。
2 早くから働いた者の不満
「一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです」(12節)
行列の先頭で1時間しか働かなかったものが1デナリを得ているのを見て、
朝6時から10時間以上も働いた者はもっと多くの報酬があると期待するが、
報酬をもらう番になったとき得たのは同じ1デナリであった。
彼は不満いっぱいで主人に詰め寄って言ったのが冒頭の言葉である。
当時のぶどう棚は足元に広がっていた。
それで文字通り「焼けるような暑さ」の日射を全身に受けて重労働を耐えたのだ。
5時に雇われた者と比較したら、彼らは汗さえ流していない。
なぜ同じ報酬なのだ!~意外性②
しかしこの点にこそ、
「天の御国」がこの世にある原理とは異なるもので回転していると
教えるたとえ話のポイントがある。
「より大きな犠牲を払ったものが、より大きな報酬を得るのがフェアであり、
現実の労働世界は、実力・実績主義であるか、年功序列主義である」というのが、
この世の世界の価値観。
人間理性に実に納得しやすい。それは地に属する原理だからである。
ところが、天に属している原理はそうではない。
だから分かり難い。
それゆえ、聖書から啓示されている真理を学ぼうとしない限り
発見できない原理なのだ。
この世のどこにもないのだから。
3 気前の良い主人の言葉
「ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。
それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。」
(マタイ 20:14-15)~意外性③
「気前がいい」=「アガソス」(19:17)~19章にある青年との会話から、
永遠のいのちの報酬に関する教えの延長線上にこのたとえ話があるのが分かる。
このアガソスとは、神にのみ用いられる「尊い」、「美しい」
という意味の語句(19:17)である。
神の究極的な気前の良さは、
我等の救いために最も大切なひとり子を与えられたことの中にある。
この言葉は、天の御国での報酬の原理原則を教えるものとなった。
気前良く報酬を5時からのものに与えられた。
朝から働いたものにも不正はされていない。約束通りのものを与えたのである。
もしあなたが天国での報酬目当てに奉仕をしているとしたなら、
そして人の評価も得られる「先の者」であり、
朝早くから働いている能力も実績もある人なら、
おめでとうございます。
あなたはいままでのあなたの賜物と時間とを神の国のために投資して来ました。
そしてその間、主とともに有意義な時を過ごして来たのです。
やがての時、その投資に見合うリターンを主から受け取ることが出来ます。
もしあなたが箸にも棒にも引っかからなかった「後の者」であり、
夕方5時になるまで仕事にあぶれていて
最後の段階になって主から声をかけられたのなら、
あなたの視線は報酬ではなく、主人にあるはずです。
そして感恩の情に溢れて奉仕をしていることでしょう。
おめでとうございます。
あなたはご自身の無用さを充分に認識しながら、
奉仕も人生もただ主の恵みゆえであるのを知っています。
やがての時、与えられる報酬の大きさに驚かれることでしょう。
私たちの主は、私たちの想像を超えて遥かに気前のよい方でございます。
「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、
どうして、御子といっしょにすべてのものを、
私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」
(ローマ8:32)
簡略審査に選ばれた
最新式の搭乗機は新しく快適で、足元も広いスペース
オークランド空港で保安検査の列に並ぶ時、
電子モニターの矢印が指す方向へ進むようにと係員に言われた。
無作為に選ばれたその列に並ぶ時者たちは
審査の時靴やジャケットを脱がなくて良く
PCをカバンから取り出す必要なく
3・11前の簡略審査で良いのだという。
これは試験期間で、
しばらくすればすべての乗客を対象に簡略審査が始まるのだそうだ。
審査ゲイトを通過する時「ビッー」と電子音が鳴った。
これも無作為による選り分けで、手のひらを探知機の様なもので検査された。
「今晩はとても恵まれました。
二重の選びに与ったんですから」
と係員に言ったところ、
「その通りだ」と言いながら、腰を曲げて笑っていた。
彼は多分クリスチャンだろう、と見越してのジョークであった。
サンフランシスコ・ユニオンスクエア付近のレンタル自転車
先日ニューヨークで初めて見たレンタル自転車が
サンフランシスコでもお目見え。
報道によれば試験的に導入したところ市民の活用率が良好とのことで
今後はさらに多くのステイションの設置と
5千台までの自転車が市内を走ることになるのだそうです。
全米でもポートランドについで
自転車フレンドリー度数が2位のサンフランシスコならではの
交通環境がなせる業
これが渋滞緩和に役立つのならさらに歓迎。
今日の渋滞はこれまでで一番酷かった。
信号が青になっても車一台分も進まず、完全駐車場の有様。
いつもは5分ほどのユニオンスクエアからベイブリッジまでが、
何と50分もかかってしまったのだから!
先日、長女の明美がリサイタルに出場しました。
そのためのリハーサルをピアニストとバイオリストと一緒にした動画です。
http://www.youtube.com/watch?v=w2bzr-w1vLY&list=UU26uMvfyUATgPu50CA9AJfg&feature=player_detailpage
"You Raise Me Up"
When I am down and, oh my soul, so weary;
When troubles come and my heart burdened be;
Then, I am still and wait here in the silence,
Until you come and sit awhile with me.
You raise me up, so I can stand on mountains;
You raise me up, to walk on stormy seas;
I am strong, when I am on your shoulders;
You raise me up... To more than I can be.
You raise me up, so I can stand on mountains;
You raise me up, to walk on stormy seas;
I am strong, when I am on your shoulders;
You raise me up... To more than I can be.
There is no life - no life without its hunger;
Each restless heart beats so imperfectly;
But when you come and I am filled with wonder,
Sometimes, I think I glimpse eternity.
You raise me up, so I can stand on mountains;
You raise me up, to walk on stormy seas;
I am strong, when I am on your shoulders;
You raise me up... To more than I can be.
You raise me up, so I can stand on mountains;
You raise me up, to walk on stormy seas;
I am strong, when I am on your shoulders;
You raise me up... To more than I can be.
You raise me up... To more than I can be.
❻罪を明らかとする役割
「 さて、私たちは、律法の言うことはみな、
律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。
それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。
なぜなら、律法を行うことによっては、
だれひとり神の前に義と認められないからです。
律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」
(ローマ 3:19-20)
「律法によって誰も義に至ることはない」ということは、
律法は罪の知識を人に提供するものであり、
罪とは一体何であるかを示す役割を持つものなのである。
さらに、違反行為を明らかとする役割を担うこととなった。
「律法が入って来たのは、
違反が増し加わるためです。
(ローマ 5:20)
律法は何が許される行為であり、
何が許されない行為であるかの詳細を教えているので、
人はその境界線を踏み越えた時に罪を認識できる。
その境界線として、律法の613が明確としてあるのである。
❼人がさらに罪を犯す機会を与える役割
「律法が入って来たのは、
違反が増し加わるためです。
しかし、罪の増し加わるところには、
恵みも満ちあふれました。 」
(ローマ 5:20)
「肉の性質」つまりは罪の性質とは橋頭堡を必要としている。
さらには罪の性質は、律法を橋頭堡として利用してしまうのである。
「律法のないところには違反もない」とパウロが教えた時、
それは律法が与えらる以前には罪がなかったと言っているのではない。
「違反」と訳されている言葉は、罪のある具体的な側面を現すものである。
律法が与えられる以前から人は罪人であったが、律法の違反者ではなかった。
違反であると測定させる基準がないのだから。
ところが律法がやってきた途端、
罪の性質は橋頭堡を得たこととなり、
人はこれらの違反を犯し、さらなる罪を犯すものとなった。
❽神の義に到達できないことを示す役割
「14 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。
しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。
15 私には、自分のしていることがわかりません。
私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、
自分が憎むことを行っているからです。
16 もし自分のしたくないことをしているとすれば、
律法は良いものであることを認めているわけです。
17 ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく
、私のうちに住みついている罪なのです。
18 私は、私のうち、すなわち、
私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。
私には善をしたいという願いがいつもあるのに、
それを実行することがないからです。
19 私は、自分でしたいと思う善を行わないで、
かえって、したくない悪を行っています。
20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、
それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、
その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
23 私のからだの中には異なった律法があって、
それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、
私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
24 私は、ほんとうにみじめな人間です。
だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。
ですから、この私は、心では神の律法に仕え、
肉では罪の律法に仕えているのです。」
(ローマ 7:14-25)
自分だけで人は神を喜ばすことはできないことや
律法を完全に守ることができないことを明らかとするのがモーセ律法である。
❾これらの役割が人をメシアへの信仰へと導く
「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。
私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。」
(ガラテヤ 3:24-25)
❻〜❽は必然的に人を律法の持っている最後の役割へと導く。
それは自力救済に失望した者を救いの信仰、メシア信仰へと導くのである。
❺イスラエルと異邦人とを分け隔てる中垣の壁となった
「 11 ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、
12 そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。
13 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。
14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、
16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」
(エペソ 2:11-16 )
モーセ律法はイスラエルを異邦人から隔てる壁の役割を果たした。
それゆえ異邦人は、
神の物質的なものでも霊的なものでもあらゆる祝福を受け取れなかったのである。
その祝福とは
イスラエルに対して与えられた4つの無条件契約を通じて流れ出てくるものであるが、
その流れを異邦人へいたるにストップさせる中垣となったのが
モーセ律法なのである。
12節にある「約束の契約」とは複数形であり、
その4つの無条件契約を意味している。
この無条件契約に一つ加算されたのが条件付きの契約のモーセ契約である。
モーセ契約にはモーセ律法が含まれていて、
15節ではそれが「さまざまな規定」「戒めの律法」であると紹介されてある。
それで律法の目的として、
異邦人が異邦人のままではユダヤ人に与えられている霊的な祝福を享受できない隔ての中垣となったことが示されてある。
この目的ゆえに異邦人は
「イスラエルの国から除外されて」
「約束の契約については他国人」
となった。
律法時代に、
異邦人がユダヤ人の霊的な祝福を楽しむための方法はたった一つしかなかった。
すなわちそれは、
律法のすべての義務を自分自身に課し、
割礼を受けて、
ユダヤ人の祭りや習慣のあらゆる特異な生活習慣に
倣わねばならなかったのだ。
主イエスが
「ご自分の肉において、敵意を廃棄」
(十字架による肉体の死)
されるまでは、
異邦人は異邦人として霊的な祝福を受けることができず、
ユダヤ教に改宗せねばならなかったのである。
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