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つれづれなるままに

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小さい秋見つけた

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これで7ドルちょっと これで7ドルちょっと かなりの大きさ。 かなりの大きさ。 ふんだん、ゴーカな松茸ご飯 ふんだん、ゴーカな松茸ご飯 一人で何杯も松茸丼を賞味 「あ... 一人で何杯も松茸丼を賞味
「あなたにも、チェルシー(松茸)、上げたい」


日系スーパーで、秋の味覚の代名詞、松茸を見つけました。

取り敢えず買ってきて、どうして料理してあげようと、しばらく思案。

先回はラーメンの具にして見た。

家族たちにはあの独特な芳香が理解できないらしい。

今回も一人で食べることになるだろう。

そこで松茸ご飯を思いつく。

レシピや作り方は、ネット検索で容易く入手。

炊飯器が炊き上げた蒸気から芳ばしい香りがしてきた。

我が家に秋の到来である。






#グルメ #バー #レストラン

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ホサナキリスト教会・聖書広場から

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「永遠の命を得るには①~人の功績か?」

マタイ19章13~ 22節

~マタイ福音書連続講解説教51~

聖書本文とメッセージ・ノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/911250

財産家(22)であり、役人(ルカ18:18)でもあった青年が主の下に来て尋ねた。

「永遠のいのちを得るためには、どんな良い事をしたらよいのでしょうか」

彼は、真面目な求道者でもあることがこの質問から知ることができる。

パリサイ神学では、ユダヤ人として生まれた選民であるなら
永遠の命は保証されていると教えていた。

彼はその教理に飽き足らず、
救いの確信を探していたのだ。

しかし、彼の思考の根底には
パリサイ神学が岩盤のようにどっしりと据えられていたことも、
「良いことをする」ことが命を得る=天国行きを保証する
という問いから窺える。


❶「良いことをする」事でなく、メシア信仰による

主は、良い行いによる救いでなく、
信仰による救いをここで彼にチャレンジされている。

マルコの並行記事では、
青年は主を「尊い先生」(マルコ10:17)と呼びかけている。

「尊い」とは「良いこと、良い方」(16,17節)と同じで、
アガソス(ギリシア語)である。

この語句は、ユダヤでは神のみしか用いられなかった。

人を形容する場合のそれは、カロスであった。

マルコの記事では、
なぜ私を「尊い」とするのか。
神のみが尊い方である(マルコ10:18)と、
主は尋ねられている。

ここは誤解を生み易い箇所である。
主の意図を理解した上で解釈する必要がある。

ここでは、
「あなたはわたしをメシア(神)であると信じるのか」と
彼に問うているのである。

ご自身が神ではない、と言っているのではなく、
メシア信仰へのチャレンジである。

17節にある質問と答えとの間には、沈黙の数秒間があった。

青年は、主への信仰告白が出来ずに沈黙してしまったのである。

ゆえに、主は「いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい」と、
彼の無言の返答に代わる言葉を続けられたのである。


❷モーセの十戒の役割

ここで主は、
青年の立つパリサイ神学という土俵へと降りておらるのを見逃してはならない。

「いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい」

ーこの言葉だけを取り上げて短絡的な結論を出すなら、
文脈を無視していることになる。

実にここは、
カトリック教会による功績による
救いの教理の根拠として用いられた聖句なのである。

ところが実際のところ、主はそれとは正反対のことを教えようとされているのだ。

「どの戒めか」と問う青年に、モーセの十戒を示された主。

「そんなことなら分かっているんだ、小さい時から守ってきた。
もっと斬新的な戒めを教えてくれよ」

そう彼は催促する。


分かったつもりになっている彼に、

主は彼の置かれている状況に即した実際的適応をして見せられた。

「あなたの隣人をあなた自身のように愛する」とは、一体どういうことか?

その適用例を聞いて青年は身がすくむような、
奈落の底を見せられた思い。

正しく律法を学び、それを自分自身に適用しようと努力するなら、

彼ならずとも私たちは、たちどころに不適格者であることが露呈される。

律法は、それを遵守することで救いに誰一人至らないことを教える役目がある。

「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。
私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」(ガラテヤ3:24)


❸完全になりたいのなら

「完全になりたいのなら」=「欠けたことが一つあります」(マルコ)とは、
「あなたの律法主義生き方を完全にしたいのなら」という意味。

青年の土俵に降りて来られた文脈の中での言葉であることに注意。
ここでも良い行いが完全をもたらすと教えているものではない。


21 イエスは彼に言われた。
「もし、あなたが完全になりたいなら、
帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。
そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。
そのうえで、わたしについて来なさい。」

22 ところが、青年はこのことばを聞くと、
悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。
(21~22節)


この聖句も多くの場合曲解されて来た。

一段上の完成された霊的エリートになるためには、
無一文となって修道院生活に入るようにと教えている、といった具合に。

主は彼に律法の具体的適用例を教えておられるに過ぎない。

彼は律法を実行できないジレンマに直面させられた。

彼自身のパリサイ神学の結果として、命が得られない結論に到達したのだ。

彼は「悲しんで去って行った」~永遠の命をあきらめざるを得なかったのだ。

富を選ぶか、神を選ぶかの選択を迫られた瞬間であったとも言えよう。




#ブログ

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モーセ律法は有効か〜まとめ❶

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モーセ律法の無効性のまとめ❶

モーセ律法は613の戒めからなる統一体であり、その全てが無効となっている。
メシアの十字架上での死以降、効力を保っている戒めは一つもない。

しかしながら、律法が廃棄されているからといって、
その教えの意味や目的が失効したのではないことに注意していただきたい。

律法には、依然として次のような役割があると新約聖書は告げている。

①高い神の義の基準が分かる
②人間の罪深さが分かる
③人が贖いを必要としているのが分かる
④人として来られるメシア予言を知る
⑤人をイエスへの信仰に導くことができる。ガラテヤ3:23ー25

しかし、今や個人への強制力を持った権威ある掟ではない。
信者の生活を規定する戒めでもない。

こう言うと、では道徳的な教えは守らなくて良いのか、
という質問が帰ってくる。

盗むな、殺すな、姦淫するな、人の物を欲しがるな、
といった道徳法からも解放かれたのか、と疑問にする人もいるであろう。

道徳法はモーセ律法で始まったのでもないし、
メシアの死で終わったのでもない。

道徳法はモーセ律法の前にすでに存在していたからである。

人が神と最初に結んだ契約、エデン契約にすでに道徳法が見出される。

そしてアダムはモーセが登場するよりもはるか以前に道徳法に違反してエデンの園から追放された。

さらにサタンはアダムよりもはるか以前に道徳法を破っていた。

モーセ律法は、メシアの律法と同様に道徳法を体現しているが、
モーセ律法で道徳法が始まったのでない。

真、善、聖なる神様は、
歴史の当初からご自身の性質に照らして、
尊重されなくてはならない道徳的な戒めを
私たちに啓示されておられるのだ。

そして現在の信者は新約聖書に啓示されてある
メシア律法の道徳法の権威の下に置かれていることになる。
#救済

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モーセ律法は有効か〜その❼

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❼Ⅱコリント3:2-11

「2 私たちの推薦状はあなたがたです。
それは私たちの心にしるされていて、
すべての人に知られ、また読まれているのです。

3 あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、
墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、
石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。

4 私たちはキリストによって、神の御前でこういう確信を持っています。

5 何事かを自分のしたことと考える資格が
私たち自身にあるというのではありません。
私たちの資格は神からのものです。

6 神は私たちに、
新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。
文字に仕える者ではなく、
御霊に仕える者です。
文字は殺し、御霊は生かすからです。

7 もし石に刻まれた文字による、
死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、
やがて消え去る栄光のゆえにさえ、
イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、

8 まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。

9 罪に定める務めに栄光があるのなら、
義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。

10 そして、かつて栄光を受けたものは、
この場合、さらにすぐれた栄光のゆえに、
栄光のないものになっているからです。

11 もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、
永続するものには、なおさら栄光があるはずです。


ここで扱っているのは、十戒である。
今も大抵のクリスチャン達が手放したくはないと考える律法の一部である。

モーセ律法のほとんどは無効であることは認めても、
ある一部のものは、
特に十戒は今も有効な神様から命令であると考えるクリスチャンは多い。

それでは、パウロがモーセ律法を何と呼んでいるかに注目してみよう。

「死の務め」(7節)
「罪に定める務め」(9節)

3,7節を見ればここで論じているのは十戒であるのが分かる。
「石に刻まれた文字」とは、十戒に他ならない。

ここでの要点は、十戒に代表されるモーセ律法は
「死の務め」
「罪に定める務め」
だということだ。

さらに、7,11節を見ていただきたい。
律法は「消え去るべきもの」とある。

ここで言われていることは一目瞭然でモーセ律法、
その中心であると目されている十戒はもはや効力を失ってしまっている、
ということである。

それとは反対に、メシアの律法は無効になることがないと言われていることから、
メシア律法の優位性を見ることができる。
#救済

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前に向かって

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昨年離婚を経験した40代のシングル・マザー。

1時間をかけて彼女の地域までドライブ。

本日の午後一番の面談となった。

現在はパートタイムで働きながら、キャリアアップのための学校にも行っているという。
そのような中で、何度も仕事場で盗難の被害を受けて

「もう、私考えるのもできなくなってるんです」と、髪を掻きむしる。

9歳の可愛い女子から面談中にも電話が鳴り、学校後の母親と会う場所を確認。

別れた元夫からは養育費の支払いがないという。

訴訟は?

弁護士は?

子供の教育のためにも養育費の請求だけは必要では?

そんなありきたりの質問をした私に、
彼女はゆっくりと、噛みしめるようにして答えた。

「もう、過去は終わったんですからいいのです。
それを考えだすと、ストレスがギューと上がって行ってしまんです。
…………

これからは、先のことを見つめて行きたいんです。
子供の教育だけは、しっかりしたものを残したいと考えています。
それで学校にも通い出したんですよ。」

彼女は流暢な日本語を話す韓国人。

日本でも、ここ米国でも試練を通り抜けてきた。

いや、たった今もその最中であるというのに、
卑屈になることのない前向きな姿勢は変わらない。

子供が待っているので駆け足でその場を去る彼女に
神様の平安と助けとを祈りながら見送った。
#エッセイ #コラム #本 #詩 #読書

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都会考

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都会考 都会考


サンフランシスコは坂の多い街である。

この街ではニューヨークで見たようなレンタルバイクは発展しないだろう。

坂なら歩くに限る。

下り坂を楽に降りたところで、直ぐに上りとなるのだから自転車は難儀するはずだ。

都会でありながら、マンハッタンとはかなり異なる空気を醸し出している街。

人々がフレンドリーなのは、気持ちにも余裕があるからだろうか?

道を行き交う人たちも、カフェの軒先でコーヒーをすする人たちも、
お互いが調和しているように見える。

「隣は何をする人ぞ? ワシャ、しらん」
こういったものでなく、異なる階層同士でも互いに支え合いながらやっている感じ。

きっとマンハッタンは東京世界によく似ているのだろう。
#政治 #歴史 #環境 #社会 #経済

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カリフォルニアの恵み

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完成した新たなベイブリッジは6... 完成した新たなベイブリッジは6車線あって、朝の渋滞も緩和された。隣の黒っぽい鉄橋が古いブリッジで使用はされていない。
トレジャーアイランドからはこれ... トレジャーアイランドからはこれまでのブリッジに合流


ここオークランドに来て、夏に逆戻りしたかのようだ。

長袖シャツでの外歩きは暑くて汗も吹き出てくる。

シアトルではひんやりとした秋の冷気に体がついていけないらしく、
風邪のような症状が続いていた。

ここに来てそれも収まってしまった。

毎朝、ホテルを出る時にきつい日差しと熱い陽気に歓迎される。

スイミングプールを横目にしながら駐車場までの間、
あの水へ飛び込んでしまいたい衝動を抑えるのに苦労する。

明日は早めに活動を始めて、早朝水泳と洒落込みますか?!

シアトルの朝は、冷気と濃霧にすっかりと覆われ、水泳だなんて狂気の沙汰。

カリフォルニアの太陽の恵みをいただいて帰る事にしよう。
#自然

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聖書とイスラム教

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「天使ガブリエルがマホメットに会ったのは何年だったか分かる?」

夕食の直前、長女がこんな質問を始めた。

「真実の事を言おう。天使ガブリエルは、
一度だってマホメットに会ってないよ。」
と私の回答。

「ウんーん」と、納得しない長女。

「学校の社会科の宿題をしているだけのことでしょ。
彼女たちは今、コーランとイスラム教の勉強をしているのよ。」
と、助け船を出す家内。

「コーランは人が作り上げたフィクションだ。
神が啓示された書である聖書とはそこが違う。
だから、コーランの中身は統一されてなく、矛盾点で溢れている。」

そのような私の偉大なレクチャーに耳を傾けることもなく、
長女は教科書を見ながらサッサと宿題の問題をこなして行く。
「へジュラが何年で、メッカは、、」と、独り言を言いながら。

「イスラム教徒のほとんどは、平和を求めるごく普通の温和な人たちよ。」
と家内。

「その通り。なぜなら多くのイスラム教徒は、コーランに忠実に従おうとはしないからね。コーラン通りを実践しようとする原理主義者は、殺人者にならざるを得ない。」と私。

「オー(T_T)」(また始まったか、という嘆息の家内)

「私たちは聖書を信じ、これを実践しようとする原理主義者であり、
その結果平和に生きる他ないね」と私。

「クリスチャンだって、
かつては聖書を持ち出して同じような殺戮の歴史があったよね」
と家内。

「それは聖書解釈が間違っていたからだ。正しい解釈ならそうはならないはずだ。
ところがコーランには、
"異教徒から土地を取り上げろ、イスラム教に改宗しない異教徒は殺してしまえ。
その戦いで殉死した者には天国が約束されている"
こんなことがはっきりと書いてあるんだ。」

いつの間にか私と家内との宗教談義となるが、それを尻目に問題用紙を進めて行く長女。

コーランには、聖書の教えもふんだんに取り入れてある。

マホメットが最後に現れた最大の預言者であると崇めている。

聖書時代から続く預言者の系譜に連なるものだと自称する。

もちろん、当時のキリスト教会はそれを受け入れることはできなかった。

激しく傷ついたマホメットは、キリスト教会への憎しみを募らせていった。

ところで、黙示録の最後には聖書を改ざんする者への厳しい警告の言葉がある。

聖書自体が、黙示録を最後に神からの啓示は終了していると告げている。

「天使からお告げを受けた」
「神からの言葉が降った」
「聖書以外にも、私に、ここに、神の啓示の言葉がある」

この様に語るものは全て、ニセ預言者である。
#政治 #歴史 #環境 #社会 #経済

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サックスホーン・コンサート

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サックスホーン・コンサート サックスホーン・コンサート サックスホーン・コンサート サックスホーン・コンサート


本日のホサナ教会では、特別ゲストとして岸義紘先生をお迎えしました。

サンフランシスコから、一人でレンタカーを駆使しておいで下さいました。

すでに当教会に来られる前に、
リンウッドとシアトルにある二つの教会でのご奉仕をその日に終えての強行軍。

しかし、微塵ほどの疲れも見せずに精力的な演奏と講演とをして下さいました。
先生はサックスホーン演奏の第1人者であられます。

「ふるさと」

「荒城の月」

「ダニーボーイ」

「アメイジング・グレイス」

「丘に立てる荒削りの」

「瀬戸の花嫁」…………

サックスホーンから流れ出る軽妙な音が作り出す異次元の世界。

時間の経つのを忘れながら、贅沢な秋の宵をじっくりと堪能。

これら有名曲の作詞者・作曲家たちのクリスチャンとしての信仰の歩みをも語っていただいて、
さらに味わい深くサックスの音色が心に浸透しました。

この後、岸先生はカナダ・バンクーバーまで行かれ、
そこで日曜礼拝のご用。

その後はカルガリー、トロントへとロッキー山脈を超えての
一人ドライブが続きます。

そしてニューヨークを中心にして東海岸一帯でのご奉仕。

ロサンゼルスまでの大陸横断もまた、同じレンタカーでの一人ドライブ。

70歳を過ぎているとは到底思えない溢れる力。

道中の安全と、巡回各地でのご奉仕の祝福をお祈りいたします。
#救済

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娘よ

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娘よ 娘よ
この日は家族総出のサッカー観戦日。

長女の女子サッカーチームの監督をしている家内は朝から気合が入っている。

そのゲームを見ながら、娘に言いたかったことをここで放言します。


我が娘よ。

センター・フオアードを毎回任せられるだけあって、
瞬時の状況判断力、躊躇ないシュートへの決断力は大したものだ。

自陣ゴール前から奪ったボールを一人でドリブルして
そのままシュートへ繋げた時は、マラドーナを彷彿とさせた。

相手プレーヤーを何人もごぼう抜きした見せ場では、
ついにオヤジも大きな歓声を挙げてしまった。

貴方がそのあとに見せた私へのしかめっ面はいただけない。

せっかく応援に来ているんだ。
我が子が活躍すれば親として喜ぶのは当然ではないか。

その辺りの十代の子供としての複雑な心境は、
オヤジには分からない。

いや、分からない訳でもない。

オヤジの日本語アクセントが奇妙に聞こえ、
友人たちの手前恥ずかしいのであろう。

年頃の君には無理もない。

だが、オヤジは何時もお前の背中を見守っているのを知っていて欲しい。

広い芝生の上で、安心してサッカーの試合を毎週できるなんて、
どれほど望んでも夢のまた夢でしかない現実が世界のほとんどであり、
貴方に与えられた環境は傑出したものであるのを知っておいてもらいたい。

その貴重な時間を、ボールを追うことだけに集中して欲しい。
#子育て

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