「永遠の命を得るには②~神の賜物である」
マタイ19章23~ 30節
~マタイ福音書連続講解説教52~
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ペレヤ伝道においては、「神の国」に関する主の教えが多くなります。
上京後のエルサレムで主イエスがメシア王国を樹立するはずだ、
という人々の期待値がウナギ登りだからです。
ペテロはメシア王国での自分たち12使徒の地位が気になり、
率直に主に尋ねました。
そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。
「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。
私たちは何がいただけるでしょうか。」
(マタイ19:27 )
主もまた、やがて到来しようとしているメシア王国での様相を
ペテロに率直に話して聞かせました。
「世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、
わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、
イスラエルの十二の部族をさばくのです 。」( 19:28 )
❶千年王国(メシア王国)の始まり
それは、メシアなるイエスがエルサレムで王座に着座する時に始まる 。
詩篇2:6~8、ルカ1:30~33
ダビデ契約がイエスが全世界の王となることを約束している。
Ⅱサムエル7:12~16
メシアによる統治は、民主形態ではなく専制君主制による統治である。
詩篇24:7~10
その統治の特徴として次の事を挙げることができる(詩篇72:1~19)。
•公正と正義であり、罪のないものは義とされ、罪びとは裁きを受ける(1~7)
•王の統治は普遍的で、イスラエルを越えて全世界に及ぶ(8~11)
•王は「鉄の杖」で統治して不義を正される(12~15)
•豊かな生産の約束(16)
•王による祝福と、人々の王への賛美(17~19)
❷異邦人部門の統治
メシアとともに世界を統治する聖徒たちのグループがいる(黙示20:4~6)
「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。
そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。①
また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに
首をはねられた人たちのたましいと、②
獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。③
彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。
そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。
これが第一の復活である。」 (黙示20:4-5)
そのグループを3つに分けることができる。
①携挙された教会時代の聖徒たち(4前半)
〜これら教会時代の聖徒たちは大艱難時代前の携挙で復活する。Ⅰテサ4:16
ここでの「裁き」とは、メシアの御座での裁きであり、
それは聖徒たちのおこなった業の評価であり、
これで御国での地位が決まる
②大艱難時代前半に殉教の死を遂げた聖徒たち(4半ば)
第5の封印箇所にも彼らへの言及がある(黙示6:9~11)
③大艱難時代後半に殉教の死を遂げた聖徒たち(4後半)
復活の時期について
•教会時代の聖徒たちは大艱難時代前の携挙で復活する。Ⅰテサ4:16
•旧約時代の聖徒(イザ26:19、ダニ12:2)と大艱難時代の聖徒は、
千年王国の直前に復活する。
•それは75日間の千年王国に至る中間期・移行期である(ダニエル12:11~12)
❸ユダヤ人部門の統治
王として、主イエスの下にダビデがいる。 エレ30:9、エゼ37:24~25
12部族を統治する12使徒
•メシアがダビデの王座に着く時、12の王座が立てられて12使徒が着座する
•12使徒たちはメシアの食卓に着き、王座からそれぞれ特定の部族を統治
ルカ22:28~30
イスラエルは異邦人諸国の上に立ち、イスラエルの僕となる。
諸国はイスラエルを約束の国に導く働きをする。イザヤ14:1~2
統治系統としては、
メシア→ダビデ→12使徒→首長やさばきつかさたち(イザ32:1、イザヤ1:26)
この日のサッカーゲームは長男だけ。
長女はミュージカルの練習と重なったため、ゲームを欠場して教会へ。
監督の家内までは欠場できないので、一人で試合会場に行ってもらう。
ニューポートカベナント教会主催の今年のミュージカルは、
「屋根の上のヴァイオリン引き」
長女は主人公の子役だそうだ。
そのミュージカル練習は日曜日の午後も4時間ほどかけてみっちりとあった。
私どもの礼拝が始まる時間帯には、
クラムチャウダーが練習参加者に振舞われていたので、私たちもそのお相伴に与ることになった。
値しない者にも、無条件で差し出される贈り物が「恵み」。
その恵みがあるのを知り、気前よくサーブしてくれるキッチンの白人男性から暖かなスープを受け取り、ただ感謝して食することが「信仰」である。
礼拝の直前、福音の真髄に与った。
二人三脚の日本語トレーニングは小学校の教科書を使って。
「ダディ、今日は柔道を教えて。そのあとは、日本語の勉強もするわ」
夕食後、長女が珍しく自分から求めてきた。
しばらく遠ざかっていた日本語の学習を再開する機会を窺っていたのだが、
これまで促すたびに、あっけなく拒絶されて来た。
来年、長女は日本では中学生。
これまで続けてきた山形での夏の公立学校体験入学を来年も続けるかどうか、
決めかねている。
勿論私としては続けて欲しいのだが、今の日本語のレベルでは中学の授業について行くのは至難の業のはず。
そこで日本語を家庭でも使う習慣を作ろうとしてきたつもりであるが、
連戦連敗が続いていた。
それがどうしたことか、彼女自らやる気をみなぎらせている。
「長い間使ってないのだから、先ず手始めとして、カルタをしよう!」と長女。
「そのあとは柔道よ。それは日本の伝統でしょ。
私はすでにクラスの男の子を何人も投げ飛ばしているのよ(^O^)」
受け身から始めて大外刈りの稽古まで一通り終える。
そしてホコリを被っていた小学校の教科書を引っ張っり出して
ともに勉強が始まった。
国語と理科。
まだまだ先は長い。
気長に日本語に接してくれれば良いと考えている。
モーセ律法は有効か〜まとめ❸
マタイ5:18を正確に解釈するために、
原文のギリシャ語、そして主な英語訳とを比較してみよう。
KJV Matthew 5:18
For verily I say unto you, Till heaven and earth pass,
one jot or one tittle shall in no wise pass from the law, till all be fulfilled.
NAS Matthew 5:18
"For truly I say to you, until heaven and earth pass away,
not the smallest letter or stroke shall pass away from the Law,
until all is accomplished.
BGT Matthew 5:18
ἀμὴν γὰρ λέγω ὑμῖν· ἕως ἂν παρέλθῃ ὁ οὐρανὸς καὶ ἡ γῆ, ἰῶτα ἓν ἢ μία κεραία οὐ μὴ παρέλθῃ ἀπὸ τοῦ νόμου, ἕως ἂν πάντα γένηται.
新改訳 Matthew 5:18
まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
日本語の新改訳とは大きく違う解釈が原文からは読み取れる。
新改訳を読む限り、
「天地が続く限り、
律法の中の一点一画でも廃れることなく、
(律法が)全部成就される」と解釈されてしまう。
ところがギリシャ語原文を英語訳を助けとしながら読めば、
以下のように釈義できるはずだ。
律法の中の一点一画でも、決して廃れることはない。
①天地が滅び失せないまでは(ἕως)
②全部が成就されるまでは(ἕως)
原文では2回現れているἕως (までは、Till, Until)という接続詞が
どの英語訳にも2回現れていて、上の解釈を可能としているのに対して
新改訳では1度きり現れてこない。
それにより、正反対の解釈をせざるを得ず、大きな混乱を招いてしまう。
つまり、新改訳の翻訳では
モーセ律法がとこしえまで続き、
一点一画も廃れることはないと読めてしまうのだ。
ところが、
「全部が成就されるまでは
一点一画も廃れることはない」、というのが
本来の原文が教えているものである。
では、「全部が成就したとき」とはいつのことか。
これまで論じてきたように、
もちろんそれは、メシアが十字架で死を遂げられたときである。
主が「完了した」と言われて「霊をお渡しになった」瞬間(ヨハネ19:30)、
モーセの律法は破棄されたのである。
イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、
「完了した」と言われた。
そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。
(ヨハネ 19:30)
シアトル近郊にて
秋も毎日深まりつつあります
先週、サンフランシスコ郊外のオークランドで
数年ぶりに早朝のジョギングをして見た。
冷水のプールで泳ぐために、体温を上げる目的があった。
早朝に体温や血圧を上げて一日を始めると、
その日一日中エネルギーレベルが上がっているのが感じられて
すこぶる体調が良くなった。
そこでシアトルに帰ってからもその習慣を取り入れようとして
数日間、早朝のジョギングをして見た。
結果は風邪を引く羽目となった( ̄▽ ̄)
朝もやに覆われた冷気に肌を晒すと、
その時は寒さを感じなくとも、
後になって体全体が冷えてしまうらしい。
早朝のジョギングはカリフォルニアだけで可能のようだ。
モーセ律法の無効性のまとめ❷
以上モーセ律法の無効性を論じてきたわけだが、
これに対する反論として引用されるのが、
次の聖句である。
「17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。
廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、
律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。
全部が成就されます。 (マタイ 5:17-18) 」
この聖句を引用しモーセ律法は今も効力を持ち続けていると主張している人の中で、
その主張の内容を一貫して自分に適用している人を私は見たことがない。
誰一人として自分が主張していることを実行していないのだ。
いや、現代ではモーセ律法が廃止されていると考えなければ
日常生活を送ることすら出来ない。
祭司やその衣服、いけにえに関する規定がその一例である。
その辺りの矛盾を、次にように苦し紛れに説明しようとの試みがなされてきた。
・その部分は新しい律法が取って代わったんだ
・もっと大きな文脈で実現している
・その真実の意味を汲み出す必要がある
しかし、今日では613の戒めを文字通りに適用することは
不可能だという点だけははっきりしている。
さらに19節には次のように書かれてある。
「だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、
これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、
天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。
しかし、それを守り、また守るように教える者は、
天の御国で、偉大な者と呼ばれます。 (マタイ 5:19) 」
モーセ律法の全てでなくとも、
道徳法だけは有効であると多くの人は言う。
だがここでは、
「戒めのうち最も小さいもの」でも破ってはいけないと言われており、
道徳法のみならず、613の全ての戒めを守ることに強調点がある。
つまり、全てが無効が、全てが有効であるのかの二者択一しかないことになる。
All or Nothing である。
この5:17-19は、主イエスが地上で生きている時に言われた言葉であり、
主は生きている限り、モーセ律法にことごとく従われた。
ただしそれはモーセが教えた通りのことであり、
パリサイ人の解釈通りということではない。
主はモーセ律法を成就するために来られた。
それは主の誕生や地上生涯をもってではなく、
十字架という死をもって成就したのである。
その時、同時に律法は廃棄されたのである。
マタイのこれらのお言葉は、
モーセ律法の永遠の不滅性を教えているものではなく、
主の来臨の目的を教えているのである。
人類史上初めてモーセ律法の100%をことごとく守り、
それを成就した方が、
死をもってそれを無効としたのである。
「永遠の命を得るには①~人の功績か?」
マタイ19章13~ 22節
~マタイ福音書連続講解説教51~
聖書本文とメッセージ・ノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/911250
財産家(22)であり、役人(ルカ18:18)でもあった青年が主の下に来て尋ねた。
「永遠のいのちを得るためには、どんな良い事をしたらよいのでしょうか」
彼は、真面目な求道者でもあることがこの質問から知ることができる。
パリサイ神学では、ユダヤ人として生まれた選民であるなら
永遠の命は保証されていると教えていた。
彼はその教理に飽き足らず、
救いの確信を探していたのだ。
しかし、彼の思考の根底には
パリサイ神学が岩盤のようにどっしりと据えられていたことも、
「良いことをする」ことが命を得る=天国行きを保証する
という問いから窺える。
❶「良いことをする」事でなく、メシア信仰による
主は、良い行いによる救いでなく、
信仰による救いをここで彼にチャレンジされている。
マルコの並行記事では、
青年は主を「尊い先生」(マルコ10:17)と呼びかけている。
「尊い」とは「良いこと、良い方」(16,17節)と同じで、
アガソス(ギリシア語)である。
この語句は、ユダヤでは神のみしか用いられなかった。
人を形容する場合のそれは、カロスであった。
マルコの記事では、
なぜ私を「尊い」とするのか。
神のみが尊い方である(マルコ10:18)と、
主は尋ねられている。
ここは誤解を生み易い箇所である。
主の意図を理解した上で解釈する必要がある。
ここでは、
「あなたはわたしをメシア(神)であると信じるのか」と
彼に問うているのである。
ご自身が神ではない、と言っているのではなく、
メシア信仰へのチャレンジである。
17節にある質問と答えとの間には、沈黙の数秒間があった。
青年は、主への信仰告白が出来ずに沈黙してしまったのである。
ゆえに、主は「いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい」と、
彼の無言の返答に代わる言葉を続けられたのである。
❷モーセの十戒の役割
ここで主は、
青年の立つパリサイ神学という土俵へと降りておらるのを見逃してはならない。
「いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい」
ーこの言葉だけを取り上げて短絡的な結論を出すなら、
文脈を無視していることになる。
実にここは、
カトリック教会による功績による
救いの教理の根拠として用いられた聖句なのである。
ところが実際のところ、主はそれとは正反対のことを教えようとされているのだ。
「どの戒めか」と問う青年に、モーセの十戒を示された主。
「そんなことなら分かっているんだ、小さい時から守ってきた。
もっと斬新的な戒めを教えてくれよ」
そう彼は催促する。
分かったつもりになっている彼に、
主は彼の置かれている状況に即した実際的適応をして見せられた。
「あなたの隣人をあなた自身のように愛する」とは、一体どういうことか?
その適用例を聞いて青年は身がすくむような、
奈落の底を見せられた思い。
正しく律法を学び、それを自分自身に適用しようと努力するなら、
彼ならずとも私たちは、たちどころに不適格者であることが露呈される。
律法は、それを遵守することで救いに誰一人至らないことを教える役目がある。
「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。
私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」(ガラテヤ3:24)
❸完全になりたいのなら
「完全になりたいのなら」=「欠けたことが一つあります」(マルコ)とは、
「あなたの律法主義生き方を完全にしたいのなら」という意味。
青年の土俵に降りて来られた文脈の中での言葉であることに注意。
ここでも良い行いが完全をもたらすと教えているものではない。
21 イエスは彼に言われた。
「もし、あなたが完全になりたいなら、
帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。
そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。
そのうえで、わたしについて来なさい。」
22 ところが、青年はこのことばを聞くと、
悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。
(21~22節)
この聖句も多くの場合曲解されて来た。
一段上の完成された霊的エリートになるためには、
無一文となって修道院生活に入るようにと教えている、といった具合に。
主は彼に律法の具体的適用例を教えておられるに過ぎない。
彼は律法を実行できないジレンマに直面させられた。
彼自身のパリサイ神学の結果として、命が得られない結論に到達したのだ。
彼は「悲しんで去って行った」~永遠の命をあきらめざるを得なかったのだ。
富を選ぶか、神を選ぶかの選択を迫られた瞬間であったとも言えよう。
モーセ律法の無効性のまとめ❶
モーセ律法は613の戒めからなる統一体であり、その全てが無効となっている。
メシアの十字架上での死以降、効力を保っている戒めは一つもない。
しかしながら、律法が廃棄されているからといって、
その教えの意味や目的が失効したのではないことに注意していただきたい。
律法には、依然として次のような役割があると新約聖書は告げている。
①高い神の義の基準が分かる
②人間の罪深さが分かる
③人が贖いを必要としているのが分かる
④人として来られるメシア予言を知る
⑤人をイエスへの信仰に導くことができる。ガラテヤ3:23ー25
しかし、今や個人への強制力を持った権威ある掟ではない。
信者の生活を規定する戒めでもない。
こう言うと、では道徳的な教えは守らなくて良いのか、
という質問が帰ってくる。
盗むな、殺すな、姦淫するな、人の物を欲しがるな、
といった道徳法からも解放かれたのか、と疑問にする人もいるであろう。
道徳法はモーセ律法で始まったのでもないし、
メシアの死で終わったのでもない。
道徳法はモーセ律法の前にすでに存在していたからである。
人が神と最初に結んだ契約、エデン契約にすでに道徳法が見出される。
そしてアダムはモーセが登場するよりもはるか以前に道徳法に違反してエデンの園から追放された。
さらにサタンはアダムよりもはるか以前に道徳法を破っていた。
モーセ律法は、メシアの律法と同様に道徳法を体現しているが、
モーセ律法で道徳法が始まったのでない。
真、善、聖なる神様は、
歴史の当初からご自身の性質に照らして、
尊重されなくてはならない道徳的な戒めを
私たちに啓示されておられるのだ。
そして現在の信者は新約聖書に啓示されてある
メシア律法の道徳法の権威の下に置かれていることになる。
❼Ⅱコリント3:2-11
「2 私たちの推薦状はあなたがたです。
それは私たちの心にしるされていて、
すべての人に知られ、また読まれているのです。
3 あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、
墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、
石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。
4 私たちはキリストによって、神の御前でこういう確信を持っています。
5 何事かを自分のしたことと考える資格が
私たち自身にあるというのではありません。
私たちの資格は神からのものです。
6 神は私たちに、
新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。
文字に仕える者ではなく、
御霊に仕える者です。
文字は殺し、御霊は生かすからです。
7 もし石に刻まれた文字による、
死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、
やがて消え去る栄光のゆえにさえ、
イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、
8 まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。
9 罪に定める務めに栄光があるのなら、
義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。
10 そして、かつて栄光を受けたものは、
この場合、さらにすぐれた栄光のゆえに、
栄光のないものになっているからです。
11 もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、
永続するものには、なおさら栄光があるはずです。
ここで扱っているのは、十戒である。
今も大抵のクリスチャン達が手放したくはないと考える律法の一部である。
モーセ律法のほとんどは無効であることは認めても、
ある一部のものは、
特に十戒は今も有効な神様から命令であると考えるクリスチャンは多い。
それでは、パウロがモーセ律法を何と呼んでいるかに注目してみよう。
「死の務め」(7節)
「罪に定める務め」(9節)
3,7節を見ればここで論じているのは十戒であるのが分かる。
「石に刻まれた文字」とは、十戒に他ならない。
ここでの要点は、十戒に代表されるモーセ律法は
「死の務め」
「罪に定める務め」
だということだ。
さらに、7,11節を見ていただきたい。
律法は「消え去るべきもの」とある。
ここで言われていることは一目瞭然でモーセ律法、
その中心であると目されている十戒はもはや効力を失ってしまっている、
ということである。
それとは反対に、メシアの律法は無効になることがないと言われていることから、
メシア律法の優位性を見ることができる。
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