「教会内での罪の赦し」
マタイ 18 章 21~ 35 節
~マタイ福音書連続講解説教 49~
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/8152049
18 章はキリスト教会内での統治原則を教えている章でした。
ここでは、罪の赦しについて主が「天の御国」のたとえで教えておられます。
❶7度を70倍するまで赦しなさい
最近日本のTVドラマにより「倍返し」なんていう言葉が流行っているようです。
理不尽な仕打ちを受けた立場の弱いサラリーマンが復讐を成功させる物語は、
多くの人達の溜飲を下げたようです。
それだけストレスの強い世界に私たちが生きている、ということです。
しかしながら、実際の世界で復讐が問題を解決することはあり得ません。
倍返しされた方は、さらにその倍返しすることになり、
終わりの無い復讐合戦に至り、
双方の被害は取り返しのつかないところまで進んでしまうからです。
現在の泥沼化しているシリア内戦にその例を見ます。
ペテロが主イエスに、
「兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきか。7度までですか」
と問います。
当時、限界が3度までと言われている中で、
7度までとはかなりの寛容さを示したと言えるのですが、
主はその7度を70倍するまで、つまり無限に赦しなさい、と教えられました。
「そ、そんな〜」
いぶかしがっているペテロに語ったのが、
王様としもべの負債を巡ってのたとえ話でした。
❷貴方はすでに神様から赦されている
王様から1 万タラント(1 タラントは6千デナリ)=6 千×1 万×1 万円=6 千億円の借金を背負ったしもべは「自分、妻子、持ち物全部を売って」も返済しようがないので、
その債務を全額チャラにしてもらった。
ところが、そのしもべは仲間の百デナリ=百万円の借金を赦せずに、
彼を獄屋に引き渡したという。
対比すれば、6千万円の借金を棒引きしてもらったのに対して、
百円の仲間の負債が赦せなかったのだ。
ここでは私たちの罪の大きさが教えられている。
神に対して膨大な罪の負債を抱えている私は、
いくら善行苦行を積んだところでその罪は帳消しにはならないのである。
それには血潮、つまり生命が必要とされた。
それも罪に汚れていない、純白な血潮でなければ贖いの効力はないのである。
罪のない神の小羊は一人だけ、主なるイエスであられる。
貴方の罪の負債は、すでに主イエスが十字架上で支払い済なのである。
❸「(他者を)赦さなければ、(貴方も神から)赦されない」とは、本当か?
たとえ話の最後は、
しもべ仲間を赦さなかった彼を捕まえて、牢屋にぶち込んだ王の話があり、
「心から兄弟を赦さないなら、天の父も、あなた方にこのようになさる」
との主の結語で終わっている。
似たような箇所としてマタイ 6:14 がある。
「14 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」 (マタイ6:14-15)
これらは、これまでに大きな誤解を生んできた聖句である。
あたかも私たちが他者を赦す度合いに応じて、神からの赦しが得られる、
もし赦さないなら赦されたことまで、
つまり救いそのものまでが取り上げられてしまうかのように読み込まれてしまう傾向にある。
聖書の言葉は、そこの箇所だけを取り上げて判断してならない。
どういう状況の下で語られたものかという、文脈を考慮せねばならない。
当時の社会的、歴史的、文化的なあらゆる側面の文脈を見出した上で、
始めて妥当な解釈が成り立つ。
誇張法や倒置法といった文学的手法があることも、わきまえねばならない。
そして聖書の他の多くの箇所で、広いスペースを割いた箇所で
明確に教えている教理と矛盾するかのような解釈を拾い出してはならない。
こられは解釈学の原則である。
この原則を無視してある特異な聖書箇所を取り上げ、
直接現在の自分たちに当てはめようとするのは危険であり、
恣意的解釈に陥る。
その過ちは繰り返されてきた。
たとえは千年ほど前、キリスト教国と言われる欧州諸国の十字軍派遣の根拠に、
また今日では、エホバの証人という異端が輸血を拒否して我が子を死に至らしめる教えも、
聖書の言葉を文脈を無視しての乱用によるものである。
もし人の救いが、上記のように人が他人を赦したかどうかにかかっているとするなら、善行により人は救われることになってしまう。
それは、人はただ神の恵みにより、一方的に救いが与えられるとする聖書全体の教えとは逆行するものである。
人の為せる領域は、その恵みを受け取る信仰だけである。
では、王なる神様が「獄屋に引き渡す」とはどういう意味か?
それは、神が備えておられる祝福に与ることが出来ない、
ということで救いが取り去られることではない。
ルワンダのジェノサイドの際、
暴虐と暴行から逃れた女性が、やがて犯人と和解する場面が先日紹介されていた。
その女性は犯人を赦さない限り、憎しみと怨念に苦しみ続けたという。
自分を解放して自由にさせる唯一の方法は、復讐ではなく、
主イエスによって犯人を赦すことだったと証言してくれた。
その赦しの超自然的な力と恵みとを主からいただいたのだと、証されていた。
長男は人工芝のコートで
長女は天然芝であるが綺麗に整えられている中学校の校庭で
本日は朝から激しい雨、雨、雨。
こんな日でも、二人の子供たちはサッカーの試合のために午前中から出て行った。
グランドは、泥んこではない。
整備された芝の上でプレーができるのだから恵まれている。
勝敗にこだわらずに、
サッカーのできるその瞬間を、二人とも喜んでいるようである。
特に長女のチームでは、
雨に濡れて凍えていたり、足を滑らせて転んだり、
いつもと違うボールのバウンドに戸惑っては、
その都度感激の声をあげる選手たち。
そこにも感動を見つけられる初々しさが、
何とも羨ましいと感じながら目を細めているオヤジなのでした。
❻ガラテヤ3:23-25
「信仰が現れる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、
閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。
こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。
私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。」
(3:23-25)
ここでは律法が、
未成年者をメシアへの信仰へと導く養育係、家庭教師と見なされている(3:24)。
それなら、メシアを信じた以上、その養育係の下にいないことになる。
我々はもはやモーセ律法の権威の下にはいないのである。
この箇所は、それ以上にはない明快さで、メシア到来により律法が無効になったことを論じている。
99号線からダウンタウンを眺めて。
この季節の晴れ間は貴重な瞬間です。
夏から秋への変化は、自然界で色彩だけではない。
それは雨季に入ったことを意味する。
日本のような豪雨でないが、いわゆる霧雨が数度も一日に降る毎日が、
翌年の春を迎えるまで続く事になる。
夏場の最盛期には夜も10時頃まで残照で明るいのであるが、
これからは暮れて行く時間も、日に日に早まって行く。
おまけに雨雲に閉ざされた空では、
お日さんが顔をなかなか出してくれない。
夏に蓄えた日光浴の貯金で、この雨期を乗り越えられるだろうか。
貯金をはたいてしまうと、鬱にもなりかねない。
ある美容店の入り口に飾られてありました
シアトルでは、この週からすっかりと秋らしくなった。
米国大陸には珍しくも、四季の変化が鮮やかなシアトル。
先週は残暑に「暑い」だなんていう言葉も飛び交う日もあったが、
もうそれは過去のものとなった。
秋になると、街中の装飾がいっせいに黄土色へ変わって行く。
夏の間、生命力溢れる緑の衣をまとっていた街路樹が黄色や橙に衣替えし、
やがてその衣を脱いで行く。
パンプキンのピックアップを宣伝する農場の看板も、
あちこちで目にするようになった。
すでに我が家の玄関には、パンプキンが3つほど置かれている。
そんな色彩豊かな秋は、11月末の感謝祭で絶頂を迎える。
❺エペソ2:14〜15
「14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、
隔ての壁を打ちこわし、
15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。
敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。
このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、
平和を実現するためであり、」
律法は隔ての壁といわれていたが、今やそれが取り去られた。
神様は、イスラエルと4つの無条件契約を結ばれてきた。
①アブラハム契約
②土地の契約(アブラハム契約の土地に関する条項が発展)
③ダビデ契約(アブラハム契約の子孫に関する条項が発展)
④新しい契約(アブラハム契約の祝福に関する条項が発展)
物質的なものであれ、霊的なものであれ神様の全ての祝福は
このユダヤ人の4つの契約を通じて与えられるものである。
神様はまた5つ目の契約を与えられたが、それは他の4つの契約とは異なるもので
条件付きで一時的なものであった。
それがモーセ律法を包含しているモーセ契約である。
モーセ律法は隔ての壁の役割を果たし、
異邦人をユダヤ人の霊的な祝福から切り離していた。
もしモーセ律法が今でも有効であるのなら、
それは異邦人を今でも分け隔てる壁となっていなければならない。
しかしその壁がメシアの死と同時に崩壊したのである。
「ご自分の肉において」とは、「ご自分の肉体によって」との意味であり、
つまり死を通じてとのことである。
この神学的な重要ポイントを象徴とする出来事が
メシアの死の瞬間に起こっているのを福音書記者は忠実に記録している。
「50 そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。
51 すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 」
(マタイ 27:50-51)
ここで「神殿の幕」とあるのは、
神殿内の聖所と至聖所とを隔てる厚手のカーテンのことである。
至聖所には大祭司一人が全イスラエル&人類を代表して
1年に一度だけしか入れなかった。
聖所には祭司しか入れず、さらにその周りを取り囲む境内の内庭には
イスラエル人男性しか入れないとモーセ律法は命じる。
男性と女性、異邦人とイスラエル人、一般人と祭司、祭司と大祭司、、、
これら人と人とを区別する掟があり、
神に近づく際にも隔たりがあるとモーセ律法は教えている。
上記の新約のエペソ書では、
隔ての壁とはモーセ律法であると明言されてある。
それはつまり、
モーセ律法がメシアの死と同時に無効となったと理解しなくてはならない。
隔ての壁が除去された今、
異邦人は異邦人のままで信仰の原理により、
メシアなるイエスにある約束をともに相続し、
ユダヤ人の霊的な祝福に与り楽しむことを許されている。
田村先生
知らなかった世界に目が開かれて行く想いでした
この日のホサナキリスト教会は、
日本国際飢餓対策機構で主事を務めておられる、
田村治郎先生をお迎えしました。
アフリカの知られざる実情の数々に
驚くことしきり。
我々の通常の感覚や常識の通じない世界で、
犯罪、レイプ、虐殺が起こったルワンダやコンゴ。
その暗闇に「光」を灯すために、
現地で活躍しているクリスチャンたち。
先進国の経済力や技術力が、
アフリカの豊かな資源を利用するのは良いが、
結果として
現地を貧困のままに留め置いている現実。
気の遠くなるような複雑な問題を抱えている国々の実情にあって
カギは、
はやり人作りにあることに気づかされました。
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