この日の息子のサッカー対戦相手は、ポートランドからの選抜チーム。
朝10時試合開始のために彼らは6時には現地を出発し、3時間のドライブを経てベルビューにやってきた。
そんな長距離移動の疲れの片鱗も見せずにキレキレの動き。
ボール支配率から言ったら6対4で息子のチームの方が勝ってるように見えたが最後の決定力が違う。
僅かなチャンスを活かした相手が後半に決勝点となるゴールを決め、1対0で勝利をもぎ取ってていった。
実力差はそんなに間違わないはず。
違いがあったとすればゴールに対しての執念だ。
ホームでの気安さと安逸さのあった我がチーム。
対して、厳しい長距離移動乗り越えてのハングリーさが違いが生んだように思えてならない。
シアトルは昨晩から雪が降りはじめすっかり雪景色に。
暖かなメッセージを送りします。
メリークリスマス
「その夜、神がソロモンに現れて、彼に仰せられた。
あなたに何を与えようか。願え」
(第二歴代1章7節)
ソロモンが父ダビデから王位を継承し、その王位就任の際、1千頭のいけにえを捧げた日の夜の事でした。
神がソロモンに現れて言われたことが冒頭の聖句です。
神は、何でも良いからあなたの心にある願いを言ってみろ、と言われたのです。
⑴彼が願ったものは、知識と知恵でした。
それが彼の心にあったものです。常に心にあるものが言葉になって言語化されます。明瞭な必要感が彼にはありました。
神はその心を喜ばれ、富も財宝も誉も敵の命も長寿も求めなかったことを喜ばれています(11節)。現代の教会指導者に置き換えてみるならばこれらのリストは、車も豪邸も教団内地位も宣教の成功も健康も求めずに、聖書の知識とそれを人々に適応する能力を求めた、となるでしょうか。
⑵使命を遂行するための願いでした。
王としての立場と職責を全うするために、国民を正しく裁き指導するために知恵と知識とが必要であると痛感していたのです。神に委ねられた責任を果たすための賜物とそれを運用する力、神の働きを成すために必要な力を求めました。そこには私利私欲のない清められた動機を見ることができます。
⑶ 100%以上叶えられた願いでした。
神は気前の良いお方です。彼が求めた知識や知恵はもちろん、求めなかった富や誉までも与えると約束くださいました(12節)。
私たちの心が神の前に正しい位置にあり、目指す方向が御心にかなうものであるならば、私たちが願い求める以上の祝福を神はお与えになられるお方です。
この日は子供ら2人を連れて雪国に行ってきました。
夏になるとハイキングに行くフランクリンフォールズと言う滝までの山道です。
その山道に至るかなり手前から雪のため通行止めとなっていて、長距離の車道を歩くことに。
1時間も歩いたら滝つぼに至る山道にたどり着いたのですが、その時はすでに体力を使いきり引き返すことに。
自宅付近は連日0度前後なのですが、雪が降るほどの事はありません。
自宅から30分も東へ高速を進めば、このような雪景色が広がる山岳地帯となっています。
シアトルもPortlandも、スキー好きの人には格好の場所のはずです。
(1)
器の大きい人は、怒りを優しさで表現する。
(2)
いらいらして言い返すと、相手と同じレベルになる。
(3)
焦ったとき、目をつぶって3秒息を吸った後10秒かけて吐く深呼吸を、3回繰り返す。
(4)
口にする前に深く考え、一度口にした言葉には責任を持つ癖。
(5)
器の大きい人は「笑顔」と「怒り」の両方を自在に操る。
(6)
器の大きい人は、余裕を味わう。
器の小さい人は、ぎりぎりを味わう。
(7)
ささいなことにとらわれすぎず、重大なことに焦点を合わせる。
(8)
器の大きい理想の人物を思い浮かべ、手本にする。
(9)
いらいらするはずの瞬間に笑顔になると、器の大きさを感じる。
(10)
どんなに知識や知恵があっても、臨機応変がないと、うまく生きていけない。
(11)
器の大きい人は、どんな言葉でも一度は受け入れる。
(12)
つまらない冗談に笑おうとしない人こそ、つまらない人間だ。
(13)
ユーモアは、楽しく、脳を活性化させる。
(14)
あらゆる発言に対して「なるほど」「いいね」を前向きに発言する。
(15)
海外旅行に行くことほど、許容範囲を広げるいい勉強はない。
(16)
短所は長所として活用し、長所はさらに伸ばせば、最高の自分を発揮できる。
(17)
痛みを味わうことで、見えてくる解決策がある。
(18)
成長とは、背伸びの繰り返しだ。
(19)
経験量を増やし、涙もろくなる。
(20)
厳しいコメントを言ってくれる友達を、大事にする。
(21)
理解できない考え方こそ、興味や好奇心を持って歓迎する。
(22)
限られた人生で豊かになるために、範囲を絞って、精通する。
(23)
感謝の言葉がなくても、むっとしないようにする。
(24)
言い訳しながら謝ると、気持ちが半減する。
(25)
許せば許すほど、表情は柔らかくなる。
(26)
失敗してもいい。
大切なことは前向きに行動すること。
(27)
器の小さい人は、人の失敗を笑いの材料にする。
器の大きい人は、人の失敗を反省の材料にする。
(28)
貯金の量は、器の大きさへと変わる。
(29)
直線コースより回り道コースのほうが、人生は豊かになる。
(30)
いらいらしたときこそ、作法を大切にする。
信仰生活には2つの側面があります。
ビジョンに生きる面と現実に足を地につけて生きる面です。
この両者がバランスを保ってなければ健全な霊的生活は成り立ちません。
ビジョンは霊的生活の超自然的側面、現実はその自然的側面です。
ビジョンを通じて神を見、そのお言葉を聞き、臨在の中を生きるのです。
同時に現実生活においては健康や経済、人間関係などでの様々な問題に直面するものです。
ヘルモン山の山頂で主イエスの御姿が変わり、父なる神からの声がかけられた時、弟子たちはその光景の中で宗教的な高揚感、喜悦に満たされました。
その直後、山から降りた山麓にあって悪霊に憑かれた子供に悩む父親に嘆かれた弟子たちは、挫折感とフラストレーションに満たされたはずです。
ビジョンと現実、山頂と山麓、これら両者が1つとなるのは、イエスにおいてです。
山頂で光輝く雲やモーセとエリアが消えて行った時、そこに残ったのはイエスのみお一人でした。
弟子たちに助けることができないでいる時、「その子をわたしのところに連れて来なさい」と言われたイエスにおいて問題が解決されていきました。
ビジョンに接しながら、現実を生きる。
現実に生きながらビジョンに触れ続ける。
イエスとの交わりが深まるにつれてこの両者に均衡が保たれ、信仰生活が健全なものへと成長して行きます。
「光」「いのち」「ことば」であられるイエスを歓迎してお迎えしようではないですか。
「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血は全ての罪から私たちをきよめます」(第一ヨハネ1章7節)
Portlandから自宅に帰ってみると、バスルームの改築工事がかなり進んでいた。
トイレの下水の水漏れと洗面台の排水管の未接続から大量の水が床に流れ込み床の木材はふやけてタイルを押し上げ、ドアも閉まらない状態が続いていました。
やはり床板から壁板を交換して、工事し直さねばはならない羽目に。。
出費は痛いですが、その工事ためにふさわしい業者が見つかりました。
丁寧に確実に仕事をしてくださるビルさん、今日も朝からご苦労様です。
Portlandから帰宅してみると、既に家の中にはクリスマスツリーが飾られてありました。
今年のツリーは、円錐の理想形からはほど遠く、円筒のズッシリタイプ。
これだけの枝振りなら山から切り採って担ぎ、さらに車の屋根にロープでくくりつけて運ぶのに難儀したことだろう。
聞いてみると、やはり近場の駐車場にある販売所から拾い上げてきたものだった。
かつて私が山頂でツリーを頭の上に持ち上げて運んだ時、
「ワー、すご〜い」とカイはガッツポーズを取りながら感動したものだった。
このサイズの上に体力の衰えた今となっては無理な曲芸である。
「わたしは、あなたがわたしの名をとこしえまでもここに置くために建てたこの宮を聖別した。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある」(Ⅰ列王記9章3節)
私が高校時代から35年以上もお付き合いのある大先輩の牧師から言われました。
「毎朝、あなたのために祈っています」
衝撃的な言葉です。
私はその方が社交辞令で言っていないことを知っています。
毎朝、私のために祈っているいる方がおられる。
なんと尊い宝物を私はいただいてることでしょうか。
先日帰国した時にその方とお会いしたのは、実に8年ぶりでした。
それほど時節がかけ離れているにも関わらず、
「毎朝」祈りの中で覚えておられる。
わたし自身は?
その先輩牧師だけでなく一体誰かの為に毎朝祈ってきただろうか。
恥ずかしい気持ちでいっぱいです。
今朝の聖句は、ソロモンがエルサレムに神殿を建立し奉献式を終えた後に
神ご自身が彼に現れて語られた箇所です。
エルサレム神殿には、常に神ご自身の目と心とが注がれている。
さらにイエスが教えられたことがあります。
イエスの霊が私たち自身の心に宿り、共に住んでくださると。
すなわち神ご自身の配慮と祈りの心が毎朝、いや常に私たちに向けられていると。
かつて神の霊である聖霊がソロモン神殿に宿ったように、
今や信者の心に聖霊が宿り、イエスの臨在される王座が設けられているのです。
これもまた、かたじけない限りである。
「あなた方の体は、あなた方のうちに住まわれる神から受けた聖霊の宮である」(Ⅰコリント6章19節)
431年エフェソス宗教会議で異端されたネストリウス派キリスト教。
どうして異端とされたかって?
キリストの母マリアを「神の母」と呼ぶことにネストリウスが反対したからだと言う。
さらにローマカトリックがしてるようなマリアに対して祈るとか、マリアの像を教会内に設置して崇めるとか言うことを一切拒否し、
マリアは人間にしか過ぎないことを主張したためであると言う。
これは至って聖書的な教えであり、現在のプロテスタントが実行している教えです。
そのネストリウス派が中国に入って景教と呼ばれるようになり、そこでは純粋な動機での福音宣教と社会の福音化が進められていた。
さらにそのずっと以前から、おそらく紀元52年キリストの12弟子の1人、Thomasがインドに入り新約聖書に忠実なキリスト教が伝えられた。
16世紀になってローマカトリックのイエズス会がそのインドに入った時、なんとその純粋なキリスト教徒を異端審問にかけては迫害•殺戮したと言うおぞましさ。
西洋から伝えられてきたキリスト教歴史は見直されなくてはならない。
コロンブスがアメリカ大陸を「発見」し、その後西部開拓団によって米国が「開拓」「発展」したと言う歴史観は西洋人からの観点であり、インディアンからしてみたら侵略と強奪・殺戮の歴史であったのと同様に。
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