オイルを補充し、プラグを交換してやっと動き出した芝刈り機
数年ぶりのエッジングで縁石が顔を出した
このところシオン国立公園、バンクーバー等への外出が続き
気が付いてみると我が家の庭の芝生は30センチほども伸び放題。
この日、ようやく芝刈りが出来た。数年ぶりにエッジングも。
ウィード・ラッカーでシツコイ雑草も絡め取る。
数週前からの夢が叶えられ、スッキリ気分。
おまけに床屋にも行ってきて頭までがスッキリ(^-^)
土や草を触る庭仕事は
人を落ち着かせリフレッシュしてくれるようです
ホサナキリスト教会
日曜礼拝・聖書広場から
ヨハネ21章1〜14節
「さあ来て、朝の 食事をしなさい」
主が復活されて2週後の
ガリラヤ湖畔での出来事であった。
❶対比
ペテロら7名の弟子たちが一晩中漁をしてみたものの、
「しかし、その夜は何もとれなかった」(3)
一方、主が言われる通りに「舟の右側に網を下ろし」再びやってみたところ、
「おびただしい魚のために網を引き上げることが出来なかった」
という大漁となった。
この違いはどこから来たものでしょうか?
人の側の努力や真面目さが違うのでしょうか?
いや、ペテロらは誠心誠意働いたはずです。
一晩中冷たい水や風にも耐えながら重労働に耐えたのでした。
それだけに収穫ゼロというのはキツかったはず。
肉体の疲労だけでなく、労働が徒労に終わった失意と虚無感に陥っていた弟子たちであった。
❷原因
ところで、主の言葉通りに再び網を投げ入れると
その失意は歓喜に変えられた。
朝もやに浮かぶ人影の正体が誰かを真っ先に見破ったのは
「主が愛されたあの弟子」と紹介されたヨハネだった。
不漁と大漁、失意と希望、成功と不成功、、、
両者を分け隔てているのは、
主がそこにおられるかどうかの違いである。
そして主のお言葉を聞いていたかどうか。
さらにその主のお言葉を通りに
信じて、行動に移したかどうかに違いがあった。
❸介入
「子どもたちよ。食べるものがありませんね」
困憊と挫折の只中にいる弟子らに声をかけられた主。
私たちがどんな理由で絶望しているのか、主はご存知であられる。
私たちのその惨めな只中に主は来られて同様に声をかけてくださるのです。
「さあ、来て朝の食事をしなさい」
疲労と空腹の中にいた弟子らのために、
炭火で焼いた魚とパンとが備えられた朝食。
主を否定したペテロ、同様に逃げ出した他の弟子ら。
彼らの傷心を癒し、主との絆を再構築する和解の食卓であった。
思いがけない失敗に沈むことがあったとしても
その現実の中に今も主は介入し、
私たちとの和解のテーブルを備えてくださっている。
バンクーバー
これは米国のパーキングメーター。
バンクーバーでは15分で4倍の1ドルがざら。
バンクーバーは入り江に囲まれた島の上に建設された街。
畢竟、人の居住空間は限られている。
人は上空に向かってしか居住地を広げるよりほかない。
狭い場所に林のようにコンドやオフィスビルがニョキニョキしている所以である。
ニューヨーク・マンハッタン島の縮図版と言っていい。
故に人の繰り出している数も、
車の数も単位面積比で言えばシアトルとは比較にならない程大きい。
それに比例するかのように
駐車違反の取締サービスも充実しているようだ。
わずか2分間、人と立ち話をしている間に
窓の向こうでそのサービスが開始されたのに気が付いた。
慌てて戻ったものの彼いわく、
「(決済が)もうおわったんだ」と言って取り付く島もない。
実際にはサービスは終わってなく、
パーキングメーターやナンバープレートを証拠としての写真を撮り続けている。
米国の事例ではそんな場合、
キャンセルしてくれていたのに、、、、
誠心誠意のサービスに敬服!
カナダのリッチモンドはバンクーバーの南、
車で20分ほどの距離
中国人街として発展して来た
神は人それぞれに賜物を与えられた。
時に異能と思えるほど
ある人に特別の才能や特技を与える場合もある。
本日お会いした日本人の青年男性。
流暢な中国語を中国人と交わしていた。
「もしや?」と思って聞いてみると
やはりそうだった。
彼は学校で中国語を勉強したわけではない。
中国人の友人と連んでいるうちに、自然と身につけてしまったと言う。
リッチモンドに3年間滞在した際に
多くの中国人と会う中でいつの間にか、会話のレベルに至ったのだと言う……
未だに英語で苦労している私には
羨ましいこと限りなし!!!
いや、あえて「羨ましい」とするのを撤回しよう。
神は私には必要でないから、その語学の賜物を与えられなかった。
また語学の天才と言われる人が、他の賜物ことで通常の人を羨望することもあるに違いない。
全ての賜物を持っていて、一人だけで完結している人は皆無。
全ての人には何かが欠けているので、他者の助けが必要なのである。
相互扶助するようにと、人は造られている。
教会内には異なる賜物を持った人がいて、互いに賜物を発揮して仕え合うことにより、
「キリストのからだ」が一つの有機体として
神の栄光のために機能するよう神は意図されていると第一コリントでは教えている。
「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」
(ガラテヤ6章5節)
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