タコマ・ダウンタウンの駅舎
古いレンガ造りに趣がある
タコマ在中のAさんに約半年ぶりにお会いして来ました。
ご主人は陸軍に長年勤められましたが、数年前に引退。
現在はIT関連のお仕事。
イラクにも従軍され、爆発に巻き込まれて背中を負傷。
幸い歩けるまでに回復しましたが、精神的なトラウマは癒し難く
事あるたびにフラッシュバックに悩まされているとのこと。
普段はTVかネットを通じての情報でしかないものが
こうして友人のご家庭が実際に遭遇したお話にはリアリティーがあって
そのイラク戦争是非について考えらされました。
ある美容店は絵画のギャラリーともなっている。
バラードにあるHabitudeという店には、たいていユニークな絵が掲げられる。
今回も見ていて楽しくなるものだった。
$200前後のお値段。
この日は3カ月に一度のシアトル地区牧師会が開かれました。
会場はシアトルダウンタウンの日本人バプテスト教会。
風邪や所用でお見えになれなかった数人の牧師方がいらっしゃっいましたが、
10名ほどの方々がお集いになられていました。
祈りと賛美の集いです。
本日が特別な牧師会となったのは、
会場のバプテスト教会の牧師であられる崎山先生が最後の出席となられたからです。
90歳を超えられた御母堂様の「帰ってきて欲しい」との言葉の背後に
神様の導きを感じられた先生は、
この3月で牧師を引退されるご決意をされ、
日本で御母堂様の介護をされることになりました。
シアトル在中14年、牧師となられて8年間、
幸いな主にあるお交わりが出来たことは私にとって実に宝となりました。
これまでの楽しく豊かなご交友に感謝します。
再会できるのを楽しみにしています。
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
メッセージノートはこちらから:
http://hosannamin.org/whatsnew/view/6143096
「過越しの食事」
マタイ26章17~30節
~マタイ福音書連続講解説教96~
ダビンチ絵画で有名な「最後の晩餐」の場面です。
ユダヤ的な視点からは、
あの長テーブルと椅子に腰かけたスタイルの食事は大いに疑問です。
当時のユダヤ人の風習からすれば
肩肘を床やクッションに乗せながら足を後方に伸ばして食事をしたからです。
それは奴隷でなく自由人となった証のためでした。
さらにその場面はユダヤ人の最大の祭りである過越しの祭りの食事の場面でした。
その食事の際の作法や儀式を知ると
席上で話された主の言葉の意味をや状況を深く理解することができます。
前菜の段階でカルパスと呼ばれている緑色野菜を摂ります。
多くの場合はパセリが使用されました。
数人が塩水の入った鉢をシェアして、そこにパセリを浸して食します。
紅海でのエジプトからの脱出を記念するものです。
この瞬間、主はユダの裏切りを預言しています。
「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。」
(マタイ26:23~24)
当時、主の右側にヨハネ、左側にイスカリオテのユダが席に着いていました。
主賓に対して上座、次席の位置にあたります。
アフィコーメンの儀式が続きます。
これはマツァ(種無しパン)という3つのパンがありまして、
それぞれ真四角の布製袋3つに区分されたそれぞれの袋に
パンがひとつずつ入っています。
それらのパンには打たれた傷跡と刺された穴が開いています。
ローマのむち打ちで打たれた主の背中の傷跡と、
十字架上で槍で刺された脇腹を象徴するものです。
真ん中のパンは取り出されて二つに割られます。
片方は袋に戻して、もう片方は亜麻布にくるんで部屋のどこかに隠します。
これは主が死なれて三日後に復活され、
弟子たちの前に現れなさったことを象徴するものです。
この隠された半分のパンがアフィコーメンと呼ばれているものでして、
デザートを意味します。
続いてハロセットです。
これは、リンゴ、ナッツ、蜂蜜、シナモンを混ぜ合わせた、
泥を思わせる色と形をしています。
エジプト時代に煉瓦作製した奴隷時代を記念しています。
マツァの上に載せて、マロール(苦菜)と合わせてそれぞれに配られます。
主がそれを配られたとき、
深い悲しみと憂いとに溢れてユダの裏切りを再度預言されました。
ハロセッとをユダに与える場面がヨハネ13:21~30にあります。
「それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・ユダにお与えになった」
主はマツァを取り、ハロセットに浸してから隣のユダにお与えになられています。
そのマツァを受け取った後、ユダは退室して行きます。
ここまでが前菜で、
その後は神殿でささげた子羊のローストをメインディシュとして食します。
子羊ローストの後、
隠されていた半分のマツァ(アフィコーメン)は取り出され、
細かく割ったのちに全員に配られます。
その時、主はアフィコーメンを配りながら「わたしの体」であると告げられています。
そして第三の杯(これは贖いの杯と呼ばれています)が配られますが、
出エジプトの際の子羊の血を象徴するものです。
その時には「わたしの血である」と言われながら配られました。
それは、新しい契約のしるしとなりました。
「記念として」「わたしを覚えて」行う聖餐式を制定された瞬間でもあります。
マタイ26:26~28
最後に第四の杯で賛美の杯と言われているものが配られます(マタイ26:30)。
この時に弟子たちの裏切りを預言しますが、
ペテロのはこれに反して豪語しています。
賛美とはハレル(詩篇117篇、118篇)と呼ばれている詩篇をを賛美するものです。
第四の杯は締めくくりとなるもので、これをもってすべての儀式が終了します。
ジェネラスなサーモンのダブル
大シアトル圏で私のお気に入り日本レストランといえば、
Koharu です。
http://www.koharusushi.com
フェデラルウエイに位置しているので
高速を飛ばしてベルビューから30分はかかる。
タコマ以南に遠出した時でないと立ち寄ることもない。
ポートランドからの帰途、ちょうど夕食時と重なったため
一人で打ち上げを行なう。
どうしてこのお店がお気に入りであるか?
①MSG(化学調味料)を使用せず、毎日だし汁からの味付けにこだわっている。
②サービスが良い。ウエイトレスの皆さんは全て日本人の上にお揃いの着物を召しておられる。笑みを絶やさずにてきぱき。必要以上に待たされたことはない。
③適正価格の上に気前の良い盛り付け。
この日はサーモン弁当をいただいたが、そのサーモンの切り身が二つも付いてきた。
私だけの特別サービスなのかと尋ねると、そうではなく通常のメニューだという。
ベルビューに進出してほしいものです。
以下はクリスチャニティトディからの引用です。
ローマ教皇フランシスコは17日、過激派組織「イスラム国」(IS)系のリビアの武装グループが、21人のエジプト人キリスト教徒を斬首したことを公に糾弾した。
「彼らが、カトリックであろうと、正教会であろうと、コプト正教会であろうと、ルーテル派であろうと、それはどうでもいいのです。彼らはキリスト教徒で、その血はみな同じであり、彼らの血がキリストへの信仰を告白しています」
教皇は声明でこう述べ、「きょう私は、21人か22人のコプト正教のキリスト教徒が殺害された記事を読みました。彼らのただ一つの言葉は、『イエス様、助けてください』だったことでしょう。ただ、キリスト教徒であることを理由として殺害されたのです。キリスト教徒の兄弟姉妹の血は、叫び声を上げる証です」と語った。
(ここまで)
昨日はコプト教会の主教が赦しを強調し、
今回はカトリックの代表が弾糾している。
一体、クリスチャンとしてどちらの姿勢を貫けば良いのだろう?
二つの立場は互いに対立点が際立っているように見受けられる。
それは表層的な見方であり、
それぞれにはそれぞれの視点からの主張なのである。
コプト側は、個人的な復讐心を抱いて、
心に憤りや怒りを溜め込むことの無意味さを解いている。
カトリック側は、正義が蹂躙されて
悪がのさばる事に耐えられない苦痛を表現した。
これら双方の視点からは
聖書がその通りに教えているところである。
人が個人的な復讐感情から報復に走ることを禁じている。
「自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。
それはこう書いてあるからです。
『復讐はわたしのすることである。
わたしが報いをする』と主は言われる」
(ローマ12章19節)
では、どのようにして神は悪に報いるのか?
最後の審判まで、遠くの将来まで待たねばならず、
その間どんな酷い悪行には立ち向かわずに泣き寝入りするしかないのか?
政府が神の代わりの正義の代行者として
神によって建てられているとローマ書13章は教えています。
「彼は(支配者)無意味に剣を帯びてはいないからです。
彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。」
時の政府が神の代行者として正義を執行するようになった経緯は
ノアの洪水以後のことです。
それ以前は政府というものがないため、
それぞれがわがまま放題で甚だしい逸脱社会となりました。
それで当時の世界を洪水で滅ぼし
それ以後の世界には地上政府を組織して正義と秩序とを維持するようにしたのです。
それがノア契約と言われるものでした。
「人の血を流すものは、
人によって、血を流される。
神は人を神のかたちにお造りになったから。」
創世記9章8節
現在でもこのノア契約は有効に機能しています。
人権を踏みにじり人命を搾取するテロリストらには
現在の段階から懲罰され、断罪されるべきものです。
詩篇には悪と暴虐が地に満ちた時、
神の介入ゆえの正義が回復する求めが随所に見られます。
「主は仰せられる。
『悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから
今、わたしは立ち上がる』」
(詩篇12:5)
祈りを捧げます。
主よ、急いで来てください。
現在もこの瞬間、イスラム国に捕らえられている方々を救出させてください。
そしてあなたの正義が彼の地に執行されますように。
悪に囚われて思いの儘にされているIS戦闘員たちの目を開いてください。
アンジェロス主教
21人の殉教者を描いたイコン(聖像)。コプト教徒のトニー・レズクさんが描いた。コプト正教会の米ロサンゼルス教区もウェブサイトでこのイコンを掲載している。
コプト教会の代表がイスラム国に虐殺された21人のコプト教徒について声明。
クリスチャニティトディは以下のように報じている。
「英国のコプト正教会主教が、過激派組織「イスラム国」(IS)が、21人のエジプト人キリスト教徒を斬首した動画を公開したことを受け、ISの戦闘員のために祈り、赦さなければならないと語った。
「私はキリスト教徒として、このことが私たちの義務で、なすべきことだと考えています。それほど難しいことではないと捉えています」と、アンジェロス主教は述べた。
「もちろん、私たちがなってほしいのと反対に物事が動くこともあります。しかし、キリスト教徒として、私たちは赦さなければなりません。私は、圧政下にある人々の権利を守るよう働き続けますし、自分で発言することのできない人々のために立ち上がります。しかし、それが私たちに対する犯罪という結果に至ってしまったときは、前進する道はただ一つ、赦すことです。もし私たちが赦さないなら、何を持っているのでしょうか。報復、憤り、怒り。そして、解決や終結を見ることはありません」
(引用はここまで)
IS戦闘員らに対して祈り、
赦さねばならないという……
確かに主イエスはそのように命じられた。
「自分の敵を愛し、
迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5章44節)
一方で自国民が犠牲となった報復として
エジプトやヨルダンでは即刻の空爆を行い、数多くの犠牲者を出した。
どちらの判断が正しく、
どちらの行為が英雄的で、
どちらの考えが理性的で近代的(進歩的)なのだろうか?
後日、この21人は聖人として列聖されたとの知らせがありました。
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