ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
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「永遠の秩序」
黙示録21章1~27節
~マタイ福音書連続講解説教92~
新しい天と新しい地の創造: 黙示録21:1~8
メシアの地上再臨後、千年続いた王国にも終焉を迎える時がやってきます。
その時、
私たちが現在住んでいる地と天とは消滅して、新しく創造された世界が出現します。
現在の天地とは、
サタンの堕落による地上が荒廃された闇に覆われた世界(創世記1:2)を
神が七日間かけて再創造されたものと考えられます。
歴史の最終章に出現する究極的な永遠の世界は、
新天新地であり、創世記1:1にて神が創造された原初の世界に対応する(近似した)ものであると類推できます。
すると、聖書の最初にある創世記記述から最後の黙示録世界が
一つの輪のように繋がっているのが解ります。
神は、罪と悪の力ゆえに汚され堕落した世界を再び原初に存在していた
完璧な神の栄光あふれる世界へと回復される、
そこに聖書の一貫した救済プログラムを見出せるのです。
その新天新地の特徴について
①海がない~海とは、裁きの結果生じたもので(創世記1:2)、
原初の世界にも存在していいなかったものです。
②「新しいエルサレム」
第3の天に、現在すでに存在している
花嫁の装いをして将来、天から降りてくる
「自由の街」と呼ばれる(ガラテヤ4:26)
「アブラハムが望んだ故郷」とも呼ばれている(へブル11:9~10)
「全て購われた者たちの永遠の住まい」(へブル12:22~24)であり、
そこに存在するものとは、
*三位の神
*全ての天使
*教会時代の聖徒・「長子たちの教会」
*旧約時代の聖徒・「全うされた義人たちの霊」
spirits of justmen made perfect
*ここに言及のない大艱難時代聖徒らと千年王国時代の聖徒らが含まれる
③「神の住まいが人とともにある」
dwell = to tabernade(ギリシア原語において同じ語幹)
かつて荒野に宿ったシャカイナ・グローリーが永久に存在することを意味する
④創世記3:16~19の全ての呪いが除去されている
古い地の消滅は、その地に連なっていた呪いも消滅したことを示す
ゆえに涙、死、嘆き、苦しみ、痛みは消え去る
⑤天の御座からの宣言(5~8)
永遠の秩序は確かなものである:約束されたお方が真実である故
いのちの水の泉の流れ
信者の群れの存在
不信者の永遠の住まいは、火と硫黄との池である
「新しいエルサレム」にあっては、
太陽も月もないと書かれています。
にもかかわらず、「夜がない」(黙示22:5)
この黙示録22:5は、ヨハネに啓示されたメッセージの最終節であり、
それ以後の節はヨハネ自身と御使いとの会話となります。
「神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。
彼らは永遠に王である」(黙示録22:5)
新しいエルサレムを常時照らすものは、神からの栄光の光、
それは専門的にシャカイナグローリーと言われるものです。
これは新しい概念ではなく、旧約聖書の昔から限定された時と場所、
機会においてイスラエルの歴史の中で現われてきたものでした。
•アブラハム契約の締結時に(創世記15:17)
•イスラエルの幕屋と神殿の至聖所に(出エジプト40:34)
•主イエスの誕生の時に(ルカ2:9)
•新天新地において完成される(黙示録22:5)
世界で最初に輝いたシャカイナグローリーは、
アブラハムよりはるか以前のことで、
天地の7日間での創造の最初の日の時のものです。
神が「光よ。あれ」と仰せられた。すると光ができた。
(創世記1:3)
「百に一つも成功せぬ。
必ず獄門首になる。君はわかっているのか」
「わかっている」
松陰は明るすぎるほどの顔色で言った。
「私はむしろ、鈴ヶ森の獄門台に首をさらされることを望んでいる」
……
「武士の本願は、獄門首ではあるまいか」
…………………………………………………………………
ペリー艦隊に乗り込み密航を企てた松陰がその決行前夜、
長州藩や熊本藩の同志らに集まってもらい、
これから彼が行おうとしている暴挙を打ち明けて意見を求める場面。
これはドラマには出てこない。
司馬遼太郎の「世に棲む日日」に出て来る場面である。
松陰は本気でそのように考えていたらしい。
己の死を通して強烈にメッセージを世に発信しようとしていた。
同志の一人であった宮部鼎蔵は彼の話を聞きながらたまりかねて大声を発し、
「狂ったのか」
と反論している。
が、松陰の人柄とその決行計画に変更がないことを知るようになると
呆れ果てるほかなくなる。
「君には、そういうところがある。
自分の死をもって詩を作ろうとしているところが」
…吉田松陰は、時代の生んだ狂人である。
密航が失敗したからといって何も番所に自ら自首せずとも良いのに。。
未だ20代の前半。
今なら大卒で社会人入り口に差し掛かったばかりの年齢だった。
再起を図って異国を知るという志を後日に遂げれば良いではないか。
死んだら、何もかもが終わりではないか!
常識人ならそう考えるはず。
松陰してそうは考えらせなかったのは、
当時の時代が煮詰まるため触媒を必要としていたことと関係するらしい。
その実直さ、真摯さに惹かれた若者らがやがて囚人の松陰の元に馳せ参じて松下村塾を形成し
維新の原動力になっていく。
使徒パウロの晩年がオーバーラップしてくる。
パウロもまた地中海伝道の志半ばで幽囚の身となり、
暴君ネロによって処刑されてしまう。
その幽閉中に著した各教会への書簡が新約聖書の内の数巻を形成している。
彼の幽閉と死は、より大きな影響と遺産をキリスト教会に遺すことになる。
I pad よりも小さいんです
クリスマス商戦のとき、Dellのラップトップを買った。
カーソルがフローズしてしまうことが多くて返却。
コスコにてこの日に買ったのがACERブランド。
とにかく安い。300ドル代で1年間のオフィスが搭載されている。
メモリーがわずか2MBしかないのが気にかかるところだが、
私のPC作業なんてたかがしれたもの。
まあいいか〜
小さければ機内持ち運びにも便利だし〜
その使い勝手のほどは、後日レポートしますね。
West Portal Ave.
この通りもアジア系の経営するお店が多く立ち並ぶ。
本日最初にお会いし方は、忘れ難い。
「まさこ」というお名前は私の実姉の名と同じである。
さらには一人息子が「かい」というが、私の息子と同じ。
さらに驚いたのは、二人のカイくんは同じ年の同じ日に生まれている。
そんなことって、あるんだ〜(^.^)
そんなこともあり、結びつきを感じた私は
マサコさんが引越しをされた新しい街を訪問。
West Portal というサンフランシスコでは未踏の場所であった。
ダウンタウンは何度も訪れていて詳しいが、
私が知らない街にも人々の暮らしがあり、ビジネスが回っている。
当たり前のことだけれど。。。
イスラム国に人質として捕縛されている邦人二人。
身代金の2億ドルの支払い期限72時間が、
刻一刻と過ぎ去ろうとしている。
これまでその身代金を政府が支払うべきかどうか議論が沸騰した。
自己責任でかの地へ行ったんだから…
人道上、命の値段には変えられない…
テロリストに援助することつながる…
避難民救済支援金の2億ドル拠出を保留すべきだ…
どの論ももっともであるだけに
簡単に結論が出て来るものではない。
ジャーナリストの後藤さんは私と同年代で
ご家庭には私の娘とどう年齢の娘さんがいらっしゃる。
決して他人事とは思えない。
ああ、本日何時手を休めて神に祈ったことだろう…
「彼らを救出させてください」
「テロリストたちが誤解と過ちに気がつきますように」
「救出活動に関わっている全ての人たちに知恵と判断力が与えられますように」
「主からの平安と守りとが今この時、与えられますように」
「福音を知らない湯川さんに永遠の希望の知らせが届きますように」
安部総理は
「テロには屈しない」
「人命救助を最優先する」
と言って奔走しておられる。
私もこのスタンスに賛成します。
両者はテロリストにとって両立できないもののように見えます。
が、神に不可能なことはないのです。
人事が尽きた時、私たちには天を見上げることしか出来ません。
約半年前ぶりにお会いしたYさん。
すっかりお母様になっておられた。
長男の坊やにお会いする特権も。
まだ半年だというのにハイハイも得意で、頑丈な体つき。
この日まで赤ちゃんがいたなんて知らなかった…
待てよ…
赤ちゃんが半年だとすると、半年前のYさんは出産直後だったというわけか?
お腹に赤ちゃんがいたようには見えなかったので、、
兎にも角にも、
赤ちゃんとの新生活を今後も楽しんでくださいませ。
「松陰は、駈けた。
浦賀に向かって駈けてゆくのだが、
この不器用な若者の駈ける姿は、
穏かな泰平の感覚から見れば、
まことにこっけいなものであろう。
…………………………………………
川崎、神奈川を夢のなかの景色のように通りすぎ、
保土ヶ谷から左折した。」
この文書は司馬遼太郎が著わした「世に棲む日日」にある
「浦賀」に出てくる一節である。
ペリーが1854年に日米和親条約を締結するために横浜港に停留している様を、
吉田松陰が見るために駈けている。
その駈けたコースは拡張されて現存していると思われる。
確かめていないが、現在の国道がそれではないか?
保土ヶ谷から左折すると横浜港に至る幹線道路は、
私の10代の時の生活圏であった。
中学、高校ともに保土ヶ谷にある学校へ通い、
その幹線道路を走るバスに揺られて関内にある塾へ通ったものである。
松陰のその道を走る姿が目に浮かぶようである。
ところで、
大河ドラマ「花燃ゆ」の評判がすこぶる悪い。
3回目を終えてみて視聴率は過去20年で最低であるとの報道。
うーん、確かに何処かが物足りない。
多分それは、
松陰の血騒ぎ、肉踊る「駈ける」ところが足りないのではないか?
……なんて、勝手なことを考えたりしている(O_O)
松陰はペリー艦隊を見物するためにそこへ行くのではなく、
それに乗り込み、米国に渡り、敵の国情を知って祖国防衛に役立てようとした。
国禁を犯し、命を投げ打っての暴挙に走っている。
司馬さんは、松陰のその時の心意気を次のように描いている。
「松陰は欧米文明圏の人間どもを、
文明の利器を使う人間として評価せずに、
むしろ「豪傑」として評価するむきがあった。
松陰は漢訳本その他でナポレオンのことやワシントンの人間や事歴をほぼ知っており
それらを毛唐であるからといって賤汚視せず、
史記列伝中の豪傑と同様に敬し
わずかながらも親しみを覚えたりしている。
さらには今浦賀沖に浮かんでいるアメリカの武者どもについても同様であった。
彼らがその故国における安逸のなかから飛び出し、
万里の波濤をこえてこの国にやってきているということに、
松陰は素直に「豪傑」を感じていた。
………
このあたりが、この若者の奇妙さであったであろう。
かれは、攘夷家であった。
しかしながら他の攘夷家のように、
日本国土に宗教的神聖さがあるとし、
かれらのアメリカの靴によってその神聖国土がけがされるといったふうの
情念のようなものはあまりもっていなかった。
かれの攘夷は、奇妙なほどに男性的であった。
おおかたの攘夷は、日本人の対外感情がそうであるように、
女性的であった。
松陰は違っている。
海をこえてやってきた「豪傑」どもと、
日本武士が武士の誇りのもとにたちあがり、
刃をかざして大決闘を演ずるというふうの攘夷であった。」
……………………………………………………………………………
こういった「奇妙」な人物を演ずるのは
プロの役者といえども並大抵のことではないということでしょうか。
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
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「千年王国後の世界」
黙示録20章7~15節
~マタイ福音書連続講解説教91~
キリスト教の教える「勝利」について
〜「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。
…神は私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。…いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。(Ⅰコリント15:55~58)
⑴それは、虚しさや無意味さからの勝利です。
仏教は、私たちが生きている限り逃れられない四苦を解きます。
その中でも最大の悲劇が死であるとします。
現実的な観察であり、説得力があります。
どれだけ成功してお金を貯めても、名声を博しても死が貴方に訪れた時、
それまでに蓄えた一切を残して裸で去らねばならないのです。
しかしここに、もう一つの現実があります。
「イエス・キリストによって」得られる死に対する勝利です。
本日の学びから将来の千年王国で相続地が与えられた後、
それまでの天と地とが消滅すると、
次に来る時代は「永遠の秩序」と言われるものです。
私たちは復活した体をもって、その世界も受け継ぐようになります。
死はもはや勝利に飲まれてしまったのです。
究極的で、永遠の勝利が与えられました。
死が全ての終わりではなかったのです。
⑵それは、道徳的で人格的な勝利です。
成功・繁栄主義者にとって信仰は手段に過ぎず、
最後の目的は祝福されることにあります。
成功するために神を信じる、
より豊かになるために信仰生活に励む人もいます。
ところが聖書の教える勝利とは、
イエスにどれほど似た者へと変貌されて行くかという点にあり、
言い換えるなら人格の完成にあると言えます。
「死のトゲは罪である」とありますが、
過去の私どもの全ての罪がイエスの贖いによって赦されているのです。
さらに現在についてはきよめの恵みによって日々、主と同じ姿に変えられて行きます。さらに将来には完全な体に甦る復活を待ち望んでいるのです。
私たちにとって成功が勝利を意味していません。
信仰ゆえにより大きな困難や迫害に遭うこともあるのです。
勝利とは、主の御心のうちを歩むことにあります。
⑶それは、今を生きる勝利です。
世間を騒がせているイスラム原理主義者のテロ行為は、
彼らの神学に基づく、ジハート(聖戦)であるだけに厄介なものです。
どれだけの殺戮や破壊行為も、
彼らの目的遂行のためには正当化されてしまいます。
聖書の教える宣教活動とは相入れるものではない。
主がどのような忍耐と自己犠牲により使命を果たされたか。
主の足跡に従うクリスチャンは、主を模範として「主のわざ」に励むのです。そこには華々しい成果でなく、
いやむしろ目立たず評価されないものであるかもしれません。
でも心配は要りません。
主は十字架という最大級の敗北であると人間的には見える最期を遂げられましたが、復活によって勝利のドンデン返しを示してくださったからです。
成果がどれほど小さく見えたとしても、それが「主のわざ」であるのなら、
「無駄ではなかった」と言える日がやがて来ると聖書的終末論は確約しています。
それゆえ見えるところによらずに堂々と今を生き抜くことができます。
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