この2、 3日急に冷え込んで暖房が欲しい位に感じています。
まだ暖房はつけてませんが。
ノースウェストはすっかりと秋のシーズンにシフトチェンジです。
この日、お店の店頭に松茸が並んでいるのを見て否定しようのない秋です。
数日前の雨後に収穫されたものでオレゴンから出荷されたものだそうです。
この週末にでも雨が降れば近くの州内から採れたものが入ってくるそうで、値段もかなり安くなると聞いて伸びた手を引っ込めました(^^)
長い間使えなくなっていたiPadを新調するためApple Storeへ。
夜の7時ごろ行ったのですが、店内は賑わっていて係りの者に会うだけでも15分ほどもかかると言う。
その係員に会い購入する機種を決めたとしても、キャッシャーに並ぶ長い列を見てアレ〜。
その日は諦めようとお店の外に出て広い駐車場まで戻ったところが自分の車を見つけることができない。
ウヨウヨと彷徨ってるうちに既に10分が経過。
それなら!ということでお店に帰還しました。
ここでも物忘れの激しさが功を奏したのです^ - ^
iPhoneの新機種が出てからその売れ行きは順調でお店も忙しいとのこと。
iPhoneXの販売時よりも好調と言うのだからどこまでアップルの躍進は続くんでしょうね〜
息子のニューポートチームは今日の午後、3対1で快勝。
後半15分ぐらいまでは拮抗した試合内容で両軍ともにほぼ互角。
十分に見応えがあった。
高校生の上位リーグともなると戦術が大切な要素となっている。
数年前のようなボールにただ群がっている烏合の集まりではない。
今日の試合を見ていてサッカーと言うスポーツに必要だと感じた要素を勝手に書かせていただく。
①チームワーク
言うまでもなく11人が1つの目的を持ってゲームを形にしなくては勝利はおぼつかない。各個人のスピード体力技術はもちろん大切な要素であるが、チームメートにも頼ってボールを明け渡す(パス)するということがなくてはゲーム自体が成立しない。
②コミニュケーション
選手からボールを受け取るとき、またボールをパスする時、言語でやりとりしている暇は無い。0, 1秒の差で相手にボールは奪われてしまう。取り囲まれた時、チームメートがいるであろう方角に受け取りやすいスピードでパスを送るためには普段からツーカーのコミニケーションが実践されてなくてはならない。
③コミッション
各人のポジションが負っている役割を理解し忠実に果たすこと。
仲良しバスを続けただけでは得点には至らない。今回均衡を破る得点を入れたのがフォワードのジョンソンと言う選手だった。マルチプレーヤーとしてではなく専門性にこだわり、ボールを得たならば難しい状況を切り開いてまでゴールにつなげようとする意欲が感ぜられて見ていて頼もしい。
今宵は鍋を囲みながら息子とそんなサッカー談義ができそうです。
一週遅れとなりましたが、
西郷どんの「薩長同盟」を見ました。
西郷が主人公のドラマですから薩長同盟の立役者も坂本龍馬ではなく西郷に重きをおくのは、
まぁ致し方ないとしましょう。
それはそれとしてではありますが、
半目しあっていた薩長がシェイクハンドして秘密同盟を結ぶに至った経緯がなんとも現実離れしていて少々見るに耐えなかったのは私だけでしょうか?
ロンドンに留学している薩長の若者達が異国での不自由な境遇の中、現金を融通しあい協力しあっている様子を西郷が聞かせる場面がありました。
西郷は、
双方の留学生が写っている写真を見せながら、
互いに反目していたのでは徳川の世が続き、
やがて異国に食われてしまうと説くに従い
血気に流行る両陣営が説得されていく。
そして西郷が自ら頭を下げて
長州に同盟を乞うた。
その場面は潔くて彼の大きな度量を感じ、
感動のあまり涙目となってしもうた。
だがだが、
こんなことって、
普通に考えてあり得るでしょうかね?
留学生が異国でどれほど協力し合っていようが、
つい数年前に禁門の変により破れた長州藩は
履物に「薩賊会奸」などと書いて踏みつけて歩いては
薩摩や会津への深い遺恨を忘れていなかった。
「リメンバー ・パールハーバー」の米国が
留学生の模範を理由に戦争から和解に転じるなどありえるでしょうか。
巨大な幕府を打倒するには薩長が手を組む他ない事は誰もが認めるところ。
だがその犬猿の仲を和睦させる理由が留学生にあるとはとても思えない。
今回の大河ドラマにはこのような現実離れした筋書きがあちこちに散見される。
両者の憎しみを溶解させていたのは、
1にも2にも坂本龍馬による亀山社中の働きがやはり大きい。
経済を好転させ生業を豊かにし、最も欲しい商品を届けることが世を動かす力であることを商家出身の龍馬は知っていたのです。
西郷どん、
薩長同盟はおはんの説得や土下座した頭にあるのではなく
龍馬によるものぜよー
【勇気が出る20の言葉】
①望む現実を創るとは望む自分を創ること
②すべての壁は自分の内にある
③できるかできないかではなく
やるかやらないか
④やる人は「時間」を作り
やらない人は「理屈」を作る
⑤他人に期待すれば不満になり
自分を信頼すれば自信になる
⑥人は欲しいものではなく
自分と同類のものを引き寄せる
⑦だから素敵な恋人を求める前に
素敵な自分になろう
⑧愛を求める前に愛に生きる人になろう
⑨問題は「彼ら」が何をするかではなくて
「自分が」何をするか
⑩人間関係とは他人を通して
自分自身との付き合い方を学ぶ機会
⑪他人を変える一番良い方法は
自分の視点を変えること
⑫転ぶものほど転び方がわかる
⑬自分の苦しんだ経験が他人の役に立つ
⑭「辛い」+「-」=『幸』
⑮人は賛成意見に勇気づけられ
反対意見で成長する
⑯自分の短所を受け入れるとき
自分らしさという魅力が生まれる
⑰最大のピンチは最大のチャンス
⑱大変とは大きく変わる事
⑲うまくやるより本気でやる
⑳出来ない理由は出来る理由は。
カリフォルニア州フレズノ近郊にあるピーチ農家へミッション・トリップに行っていた息子が今日の夜帰宅する。
教会のユースグループ6〜7人の一行で、約1週間ほどのボランティアの働き。シアトルから当地まで車で移動するだけで丸二日間。往復四日間が消費される。当地では月曜から土曜日まで毎朝7時からの食事、そして午前9時から午後4時半までの炎天下でのピーチの収穫・選別・梱包・発送作業が続く。そこからの収穫物や収益は貧困国へ送られる。
グループリーダーから次のような報告があり嬉しく思いました。
①ユースたちはこれまでになく神を体験し、神の御臨在を感じているようです。
②彼らは厳しい作業や長い拘束時間にもかかわらず積極的に奉仕に励んでいます。
③来年も同様にこのところにボランティアに行きたいと彼らは考えているに違いありません。
親の下にあっては家事にも消極的で、厳しい旅行スケジュールにあっては文句タラタラだったのに、我が子とは思えないほどの変貌ぶり。
子供って、親のいる巣箱から離さないと成長しないんですね(^^)
現在彼らの乗ったバンは、オレゴン州を北上中です。今晩1周大きくなった息子に会うのが楽しみ。
藤本満先生を講師としたインマヌエル綜合伝道団主催のe-learning8週間コースが終わりました。テーマが、「現代的コンテキストで十戒を読む」。
自ら主体的に考えることを基本に据えた講座でした。
講師の動画講義はもとより受講生のレスポンスのそれぞれの体験談から醸し出されてくるユニークなコメントが洞察深く、それまでにいだいたことのない概念へ触発されることが多かったです。
8週間最後週のテーマが、これまた今日的であり論争の多い同性愛問題。聖書を表面的に字面だけの文言を取り上げて解釈することの危険性。
いったい主イエスなら涙と血の通う現実の人間を前にどのように接しだろうか?との、より根幹的な視点に立つ重要性。
さらに一見同性愛を弾劾する厳しい言葉を聖書に記させた当時の文化的習俗的な背景を知った上で、そのテキストを含んだ書簡が全体として何を伝えようとしているかの文脈をわきまえなくてはならない点も確認することができました。
その週の課題である私の投稿文をここに紹介して本講座の紹介とさせていただきます。
講師の藤本先生と鈴木先生、そして今回もまたお世話になった大津さん。
有意義な学びとなったこの機会を心より感謝しています。
(以下が私の投稿文書です)
藤本先生
本講座の最後に現在最もホットでありかつ何が正しいかとても断言できないかのような微妙な題材を取り上げてくださいました。
そればかりでなく先生ご自身のお考えも余すところなくお伝えくださり嬉しく存じます。
先生がこのように同性愛についてお考えになるのは、親しい友人との出会いが大きく関係していると伺いました。その中で主イエスであったらマイノリティーに対し、社会から阻害されていると感じてすでに悩んでいる者に対してさらに聖書の言葉を盾に断罪するとは思えないとの聖書全般に対する基本的な考え方がベースにあると伺いました。同性愛に対しての私の基本的な考え方を形成したのもまた同様なプロセスがあったことを認めます。
同性愛的志向があることをある方は幼少期から感じていたのですが保守的なクリスチャンホームの中で育てられる中でそれを正直に認めることができないまま宣教師にもなっていました。40歳を超えたときその人は同性愛の友人たちとの付き合いの中でそのことに目が開かれていったのでした。そのような世界が存在すること、そしてそれは神が与えた性の賜物であること、それに正直に生きることが誠実な生き方であるとの信念を持ち、離婚した上で同性のパートナーと同居を始めました。私から見てその人はとても真面目で良識的な信仰者です。
このような実際的なLGBTの方との出会いがなければ私も同性愛に関する聖書箇所をそのままストレートに受け取っては許容することができなかったでしょう。小学生がするような表面的に聖書の文言をそのまま解釈しては彼らを断罪していたと思います。今回の講座で解説してくださった聖書の解釈方は大変考慮するべきものであり、正当に扱われるべきものと考えます。
イスラエルは選ばれた民族として他の民族とは異なるアイデンティティーを確保するために様々なタブーがあり、その社会的祭儀的習慣の枠組みの中で独自の共同体を保ってきたとする視座。主イエスによってモーセ律法が完成し、信仰生活の規範としての効力を失った新約時代、それらのタブーがあらゆる面で崩壊し覆してきたのがキリスト教の歴史であったとの解説。
どれも1つの聖句からだけでなく聖書全巻を見渡す広い文脈の中で導き出される視座であろうかと思います。
さらに創造の秩序を理由に同性愛を否定する人たちに対しては、次のように考えることができないでしょうか。
神が人を男と女とに創り、一心同体となって家庭を造るのが御心であるのは間違いありませんが、それは一般的に、マジョリティに対してあてがわれるものであり、例外を排除するものでは無い。性的不能者として生まれてくる場合、遺伝子異常による性同一性障害、さらにそのような性的少数者ばかりでなくても手足を失ったまま生まれてくる身体的なハンディの場合、知能や精神にハンディを持って生まれてくる場合などもあるでしょう。それゆえに家庭生活を形成出来ないからといって神の御心に反しているは言えないはずです。それらを失敗や堕落として排除するならナチスドイツの優生保護法につながる恐ろしい考え方であり、むしろそれらハンディ(障害)と一般に思われるものは、各人に与えられた個性として、神の愛と御守り中にあるものとしてリスペクトするものではないでしょうか。
「神のわざがこの人に現れるためです」(ヨハネ9章3節)
ローマ書1章や他のパウロの書簡でも同性愛や男色を罪深い行為として取り上げている事例について。
これらの聖書箇所が罪深い行為として同性愛行為を咎めている文脈は、神を認めない反抗的な人間が欲望と情欲を自らの神とし偶像礼拝を積極的に行った結果、自制のきかない性的逸脱の中で最終的に同性愛や獣淫と言う不自然な性行為に淫乱に陥ったとしているところのものです。その具体的事例が創世記にあるソドムの街の様子です。旅人の男性らを強姦目的で家に侵入しようとする街中の男たち。それに対して未婚の娘を身代わりに差し出そうとする父親ロトの落ちた倫理観。淫乱の極みに陥り理性を失った人々は当然さばきの対象となるものですが、それと本来同性愛的志向を持って生まれた人として倫理観と良識とを備えている一般市民、まして信仰を持っているクリスチャンらとを同列に扱うことはできません。
ここで同性愛的志向と性行為とを分けて考える教団があります。
性的志向は神からの賜物として先天的なものでゆえ個人が変えることができないことを認めるとしても、同性同士の結婚や同居、性行為までは認めないとする考え方です。私の最も信頼を寄せている米国のあるメジャーなプロテスタント教団がそのようなスタンスに立っています。私もこれについては白黒決めることはできませんし、聖書も沈黙しているように思います。ただ同性愛の存在を認めてもその行為や同居を認めないと言うのは異性愛者のマジョリティーとしての論理であって少々横暴ではないかなぁとも考えます。パートナー以外との性的関係を否定し、貞操を守る良心的信仰的な同性愛カップルに対して教会として門戸を閉ざすことが果たして許されるのでしょうか。彼らを罪人として断罪し、のけ者にすることが果たして主イエスの教えと合致してるのかどうか甚だ疑問です。神はありのままの、あらゆる個性をその人のままのかたちで受け入れてくださるお方であると信じるからです。
「割礼を受けているかいないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です」(ガラテヤ6章15節)
本日も朝の4時半ごろから始動を開始デス。
まず太平洋から昇る朝日を写真に収めたかったのですが、
あいにくの曇り空で願いが叶いません。
1人の子供が携帯電話を失なったため、
大阪にあるiPhoneショップに立ち寄る羽目になりました。
そこで3時間ほど機種の選択やセットアップに時間を取られ、
ホテルにチェックインしたときにはすでに夜の7時を回っています。
今日は日本チームの最終予選ゲームが1時間後に始まります。
さぁ今晩も眠り眼をこすりながら応援してしまうのでしょうか?
本日午後3時過ぎの405サウスバウンド。
白いバンが路肩に激突したのみならず炎上していて高く煙が舞い上がっている。
反対車線を通り過ごしながら被害者の安全を祈る。
道路は完全にシャットアウトされそのあと数キロにわたって完全に停車状態が続いていた。
1台の不注意が万台にとんだ迷惑をもたらす。
以下がブルースリーが残した言葉だそうです。
映画では多くを語りませんが、そのカリスマ性が一目でわかってしまうほど、特異な存在でした。
まさに映画の中の役者と言うよりも彼自身の武道に対する哲学をそのまま表現したのが「燃えよドラゴン」の映画だったと言えそうです。
そんな彼がいかにも残したような言葉です。
賛成も反対もしない。
決して他者を比べることをしない、孤高の人でした。
(1)
常に自分自身であれ、自分を表現し、自分を信じろ。成功者を探し出してきて、その人と同じことをやろうとするな。
(2)
パンチとは目標を「打つ」のではない。「打ち抜く」のだ。
(3)
簡単な人生を願うな。困難な人生を耐え抜く強さを願え。
(4)
失敗は、それを認める勇気さえあれば、いつでも許されるものだ。
(5)
誰が正しくて誰が間違っている、誰が誰より優れているなどと考えるな。賛成も反対もするな。
(6)
私が恐れるのは、1万通りの蹴りを1度ずつ練習した者ではない。たった1つの蹴りを1万回練習した者だ。
(7)
武術家の肉体は武器である。にもかかわらず、武器の手入れを怠る人間が、なんと多いことだろう。
(8)
境遇なんかクソくらえだ。俺は自らチャンスを創りだす。
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(9)
重要なのは日ごとに技量が増えることではなく、減らすのを心掛けることだ。つまり実質に関係ないものはどんどん捨てることである。
(10)
物理的であれ、なんであれいつも自分のやることを制限してしまうとそれはあなたの行動、人生にも広がってしまう。限界などない、停滞期があるだけだ。そこに留まってはいけない。
(11)
敵と戦うとき、勝敗は意識のなかから消し去るべきである。 状況に応じて動けばいい。
(12)
あなたが思い描くように、あなたはなっていく。
(13)
知るだけでは不十分。応用しなくてはならない。決意するだけでは不十分。実行しなければならない。
(14)
馬鹿な人間が賢明な答えから学ぶよりも多くのことを、賢明な人間は馬鹿な質問から学ぶ。
(15)
行動した者だけが学ぶことができる。
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