花びらが散ったあとに見える小さな柚子の実
わがやの3本目の柚子は初夏の日差しの下、すくすくと育っている。ひと月前に較べ、背も高くなり、新しい葉もたくさん育ち、40個ほどあった花も次々と散ってゆく。
柚子の花が散ったあとに小さな柚子の実が付いている。すべての花が実になるとは思えないが、今年は少なくない数の柚子が収穫出来そうだ。年末には柚子の皮を散らした白菜漬けを肴に燗酒が楽しめそうだ。
わがやには相変わらず鹿が訪れているが、多くの場合暗くなってからの訪問のため、朝、洋子さんが育てている花が食べられていて初めて歓迎されざる訪問者に気付くことが多い。チューリップはここ数年全滅、ユリは囲いをつけて何とか守っているが、シャクヤクやあじさいには見向きもしない。これらは鹿にとって有毒のようだ。
昨日は夕方まだ明るいうちに4頭の鹿がわがやのバックヤードに現れた。これまでほとんどの場合、訪ねてくるのは母鹿と小鹿の家族であったが、今回は珍しいことに角のある雄鹿が3頭と角のない小鹿が1頭だった。鹿は成長すると雄は雄同士、雌は雌同士で集団を作ると聞くが、これは雄の集団なのだろう。バックヤードではメープルやツタの若葉を貪っている。食事が一段落すると、バックヤードを運動場に見立てて追いかけっこをして走り回る。やはり雄鹿なので行動が活発だ。大切にしているそめいよしのや日本のもみじが被害を受けないか、見ていてはらはらする。
9時過ぎ、周囲がかなり暗くなってきた時には彼らはもういなかった。ねぐらに帰ったのだろう。鹿は見ていると可愛らしいが、食害を引き起こすので、ハミングバードやリスやアライグマのようには歓迎出来ない。
太陽の構造(太陽系図鑑より借用)
太陽については2012年5月21日の金環日食の時に主に太陽活動について書いたが、もう少し太陽について解説したい。一部は重複するが許してほしい。
太陽は地球のような岩石からなる星ではなく、水素やヘリウムなどの原子核と電子などによるガス体で構成されており、太陽の輪郭となる光球の半径は約70万キロメートルで、これは地球の約109倍であり、また太陽の質量は地球の33万倍もある。太陽の表面にあたる光球の温度は約6,000℃で、太陽からの可視光線はほとんどが光球から放出されている。
太陽は中心部の中心核(半径約15万キロメートル)、その周辺部の放射層(同50万キロメートル)、更にその外側の対流層(同70万キロメートル)、対流層の表面部である光球、光球を包む彩層、更にその外側にあるコロナなどにより構成されている。
太陽核は2,300億気圧ときわめて高圧であり温度も1,600万℃と超高温なため、水素原子核が核融合してヘリウム原子核を生成し、その際に膨大なエネルギーと光を放出して、これが太陽のエネルギーの源になっている。このエネルギーと光は、水素やヘリウムが高温のために原子核と電子に分離したガス状態であるプラズマによって形成される放射層を外側に向けてゆっくりと移動し対流層に達する。対流層は内部の熱せられたプラズマが光球では冷やされるために対流している領域で、光球まで移動したエネルギーや光は宇宙空間に放出される。
このようにして太陽から放出された光のうち、地球に到達するのはわずか22億分の1である。なぜそれほど少ない光だけが地球に届くかというと、それは地球が太陽から遠く離れている上、とても小さいからだ。太陽から地球までの距離は1億5千万キロメートルあり、太陽を直径10センチのボールに例えると、地球は10.7メートル先にある直径0.9ミリの小さな球に相当する。
光球の外側には地球の大気に相当する彩層があるが、これは厚みが2,000キロメートルを超える約10,000℃のプラズマの層で、この部分から紫外線やX線が宇宙に放出されている。彩層の外側には約200万℃という高温の薄いプラズマによるコロナがあり、皆既日食の際にその美しい姿を観察することが出来る。彩層ではフレアと呼ばれる巨大な爆発現象が発生するが、これは太陽内部から磁力線によって運ばれてきた磁気エネルギーが彩層で一瞬にして熱や光に変換される現象で、フレアの温度は1,000万度を越し、強い紫外線やX線が放出される。フレアがおこると太陽からのプラズマの流れである太陽風が強くなり、地球では磁気嵐がおこって無線通信障害が発生したりオーロラが出現しやすくなる。
太陽表面を観測すると黒い点を散らしたように見える部分があるが、これは黒点と呼ばれる。黒点では温度が光球よりも低い4,000~5,000℃のため黒く見えるが、その存在は古代ギリシャや古代中国でも知られていた。ガリレオは望遠鏡を発明した17世紀初めから黒点の観測を始め、以後現代にいたるまで黒点観測が継続されている。黒点では磁力線が太陽の内部から出てきて光球の外側の大気に向って伸びて行き、Uターンした後別の黒点を通って再び太陽内部に戻る。そのため黒点は2つがひとつのペアになっていると考えられている。この磁力線にそって低温になったプラズマがコロナの中に描いたループをプロミネンス(紅炎)と呼ぶ。黒点における温度が周辺よりも低いのは、黒点の下部では強い磁力によりプラズマの対流が起こりにくく、そのために太陽内部からの熱が運ばれにくいためだ、と言われている。
黒点観測によれば、光球での黒点の数は約11年の周期で変化し、黒点が少ない時期を黒点極小期、黒点が多い時期を黒点極大期と呼ぶ。また黒点の数が変化する周期を太陽周期と呼ぶ。黒点の数は太陽自身の活動と密接な関係があり、黒点極大期には太陽が最も活発に活動している。最近では2008年が黒点極小期、2013年が黒点極大期と考えられているが、今年の黒点数は極大期ではない2011年を下回り、約100年来の少なさとなっている。
1645年から1715年の間、黒点がほとんど見られない状態が続いたが、この期間はマウンダー極小期と呼ばれ、色々な調査の結果、この期間が地球の寒冷期であったことが知られている。また1790年から1820年も黒点が少ない状態が続き、ダルトン極小期と呼ばれているが、この期間も地球の平均気温が低かったことが明らかになっている。これらの歴史的な事実から、現在の黒点の少なさは地球寒冷化の兆しではないか、と言われている。
2006年に打上げられた日本の太陽観測衛星『ひので』、およびNASAのSDO (Solar Dynamics Observatory)によって収集されたデータに基づく最近の日米欧の共同発表によれば、太陽の北極では磁場がS極からN極に反転しているのに対し、南極ではN極からS極への反転が見られず、南北の両極がN極となり、南北の低緯度付近にS極を持つ四極構造になると予想されている。このような4極構造は太陽観測では初めてのことである。ちなみに太陽の両極での磁場が逆転するのは以前から観測されており、その周期は太陽周期である11年であることが知られている。すなわち太陽周期とは北極がプラスからマイナスあるいはその逆に反転する期間と言える。
太陽では今、黒点活動の少なさや4極構造など、これまで蓄積されたデータでは解析しきれない現象が観測されている。太陽の静穏化により地球が寒冷化すれば、寒冷期の歴史が示すように農作物の収穫は減少し疫病が流行する恐れがある。地球温暖化は声高に騒がれているが、寒冷化についてももう少し心配する必要がある。
1982年に購入して読んだ山本七平氏の『論語の読み方』を引っぱり出して再読してみた。この本を購入した31年前、くまごろうは企業戦士として既にシアトルに赴任していたが、当時は常識として論語を一通り理解したい、という気持ちでこの本を手にしたような気がする。『論語の読み方』は知的サラリーマンシリーズとして出版されており、このシリーズには渡部昇一の『歴史の読み方』、堺屋太一の『80年代の読み方』、竹村健一の『80年代時代の読み方』、長谷川慶太郎の『80年代経済の読み方』など当時の売れっ子評論家たちの著書も並んでいた。
論語は江戸時代には寺子屋でも教えていたくらい日本人の教養の基本であったが、進駐軍および戦後民主主義を振り回す日教組が封建制や家族主義の亡霊扱いしたために戦後教育では軽視され、くまごろうも古文または漢文で少しだけ触れた程度で、しっかりと教わった記憶がない。『子曰く、ただ女子と小人とは養いがたきとなす。これを近づくれば即ち不遜なり。これを遠ざくれば即ち怨むと。』は女性と子供の蔑視であると左派が批判したが、女子と小人の意味は女と子供ではなく、淑女と君子の対極であり、孔子は学問や教養のない人間は扱いにくい、と述べているに過ぎない。また『子曰く民は之に由らしむべし。之を知らしむべからず。』を、民には政治の内容を知らせてはならない、ただ信頼させておくべきだ、と左派は曲解したが、べし、べからずは原文では可、不可であり、民衆からはその政治に対する信頼を得ることは出来るが、政治の内容を理解させることは難しい、とこれまた当たり前のことを述べているだけである。
孔子の生きた時代の中国では、指導者が君子となって民は女子と小人のままで構わなかったが、論語が日本における一般教養の基礎となった江戸時代の日本では武士階級だけではなく、百姓や町人のような庶民が論語を学び、それぞれが完全な社会人となるために君子となることを求められた。そのおかげで他の国とは異なり、日本では明治維新において無規範にならずに秩序を保って近代化を達成することが出来たのだ。
孔子は聖人ではなく教育者である。混乱した社会での人間の救済とは政治的救済であってそのためには社会秩序の創出が何よりも重要であり、また秩序の中での個人の救済は教育的救済である、と説いている。だから現世で苦労すれば来世では報われる、前世のたたりで現世では苦労する、といった宗教的概念とは無関係である。孔子は『未だ生を知らず。いずくんぞ死を知らん。』とも言っている。
社会的な秩序を旧約聖書のモーゼは絶対者との契約に求めたため、そこから出た宗教は契約宗教となり、社会は契約社会となって現代に至っている。他方孔子は社会的秩序を徳に求め、徳治主義社会を創ろうとした。その基本となるのが礼楽であり、礼楽とは本来礼節と文化の意味であるが、孔子は道徳、文化、教育、秩序、政策、制度を含めて礼楽と言っている。『礼楽は天地の情により、神明の徳に達す。』、『礼は民心を節し、楽は民声を和す。』、『仁は楽に近く、義は礼に近し。』、『楽は同を統べ、礼は異を分つ。(楽は人々を和同させ統一する性質を持ち、礼は人々のけじめと区別を明らかにする。)』などは、昔から日本の社会に根付いている社会道徳となっている。例えば会社の中では社規や社則があるものの、現実には楽で全社の一体感を持たせ、礼で上下関係のけじめをつけている。忘年会や社員旅行は楽に、敬語や先輩の上から目線などは礼に由来しているのだ。
孔子は仁とは何か、について、『己に克(か)ち、礼に復る(かえる)を仁と為す(己という私心に打ち勝ち、外に対し礼に従った行動をすることが仁である。)。非礼は視るなかれ、非礼は聴くなかれ、非礼は言うなかれ、非礼は動くなかれ。』と言い、仁は人と人の間を律する最高の規範の基礎となり、それによって社会の秩序が成り立つ、とした。孔子は恭倹・寛大・信用・敏捷・恩恵により仁に達すると言っている。『恭なれば即ち侮られず、寛なれば即ち衆を得、信なれば即ち人任じ、敏なれば即ち功あり、恵なれば即ち以って人を使うに足れり。』『己の欲せざる所は人に施すなかれ。』が仁に到達する心得なのだ。
孔子が評価する人物とは、潔癖だがつむじ曲がりではなく、筋を通すが角がなく、正直だがお人よしではない人間であり、反対に評価しない人物とは、自信過剰の上に正直さを欠き、田舎者のくせに素朴さがなく、真面目そうに見えてその場限りの人間であるが、この基準は現在の日本でも十分に通用するだろう。孔子自身も孔子の四絶と言われる、意地にならない、執念しない、頑なにならない、我を張らない、を心がけたという。また『過ちて改めざる、これを過ちと言う。』など、われわれも心すべきことであろう。現代社会でも通ずる知恵と言えば『子曰く、三人行けば必ずわが師あり。その善なる者をえらびてこれに従い、その不善なる者にしてこれを改む。』もそのひとつである。
2012年1月27日を最後にこのブログでは柚子のことを書いていない。別に関心をなくしたわけではなかったが、フロントヤードに植えた柚子は春になっても新芽を出さず、葉も乾燥して死んだようになっていたからだ。やはりシアトルの冬はこの柚子には厳しすぎたのかもしれない。結局この柚子の木は成長せず、昨年は死んだように時を過ごした。
昨年はじめに新たなゆずの若木を一本カリフォルニアから手に入れ、鉢植えにして育ててみた。冬の寒さが厳しくなると玄関の軒下に移動し、寒風や霜から守った。その結果この柚子は春になるとすくすくと育ち、4月頃からは新芽もたくさん生えてきた。5月に入ると花の蕾が目立つようになり、今では20個ほどついている。順調に育てば今年は柚子の実を収穫出来るかもしれない。
ところでフロントヤードに植えた柚子は近頃になって新芽を出し始めた。きっと昨年1年間は新しい土地になじむために調整していたのだろう。この木の将来も楽しみだ。
9番グリーン付近から見たクラブハウス
今日の土曜定例ゴルフは最高の天気だった。スタート時の気温は約15℃で快晴、18ホールを終えた時は21℃で湿度は低く、とても快適だった。フェアウェイの状態も良く、このクラブ特有の速いグリーンは上につけると苦労する。
今日はパー6個で大叩きはひとつだけ、アウト44、イン47の91はまあまあのスコアだ。バンカーとショートゲームはラウンド前に練習した成果があって、満足のいくものだった。
これからシアトルではこのような良いコンディションでのゴルフが楽しめるだろう。
St. Patrick's Day DashのプラックとMercer Island 10Km Runのメダル
今年も既に第17週目に入った。くまごろうは今年になってから2回のレースを含めて今日までに33回走った。これは週2回のペースであり、悪天候のために外で走りたくない日があったことを思えば上出来だ。今日は久しぶりに快晴で気温は約15℃、快適な走りだった。
Mercer Island 10Km Run以来、少しスピードが速くなった気がする。一時期、7.5 Kmのコースを走るのになかなか46分を切ることが出来なかったが、最近は45分台はあたりまえ、4月に入ってから44分台も3回続けて記録した。因みに今日は45分15秒だった。昨年末からパーティーが多く、体重が68Kg台であったが、St. Patrick’s Day Dashの時は67.5Kg、Mercer Island 10Km Runの際は66.4Kgまで減量したためかもしれない。また、ここ一ヶ月位の間、以前よりも足を高く上げるよう心がけているが、それがスピードアップにつながっているかもしれない。
先日、St. Patrick’s Day Dashの主催者から小包が届いた。開けてみるとくまごろうのエージグループでの3位のプラックだった。このレースは足慣らしのつもりであまり真剣ではなかったが、17名の中での3位は悪くない。因みに1位は26分02秒、2位は32分26秒、くまごろうは33分08秒、4位は36分08秒だったので、余裕の3位といえるだろう。
紀元前8世紀に都市国家として生まれたローマが次第に勢力を広げてイタリア半島を支配し、王政から共和制、更には帝政となって北アフリカ、ガリア、イスパニア、エジプト、マケドニア、バルカンなどを治めて地中海を帝国の内海とするほどまでに発展し、ブリタニアまで含む広大な領土を統治してきたが、徐々に帝国にキリスト教が浸透し、4世紀になって皇帝がキリスト教徒となるに至ってローマ帝国にとって重要な統治基盤であった法治主義よりもキリスト教の教義が優先されるようになり、加えて次々にライン河やドナウ河を越えて襲来する蛮族や、官僚や教会など非生産者階級の増大もあって主要産業である農業の生産性が低下し、帝国全体の国家財政が弱体化していった。
395年、テオドシウス帝はローマ帝国を二つに分け、長男アルカディウスに帝国の東半分を、次男ホノリウスに西半分を統治させるようにした後、その生涯を閉じた。父から東西ローマ帝国を引き継いだ時、二人はまだ少年だったため、テオドシウス帝は信頼が厚い軍総司令官のスティリコに後を託した。ローマ皇帝とは本来ローマ軍の最高司令官であり、帝国国防の指導者でなければならないが、そのような皇帝はテオドシウス帝が最後であり、その子らは生涯、馬を駆って全軍を指揮することはなかった。単に父皇帝の子であり、キリスト教の王権神授説に従って帝位に就いているに過ぎなかったのだ。権力継承の空白期を狙ってドナウ河の北にいた蛮族西ゴート族が族長アラリックの指揮によりバルカン地方を襲い、更にギリシャ全土を略奪した。スティリコは駐在していたガリアから反転して西ゴート族を駆逐したが、東ローマ帝国ではアルカディウス帝を取り巻くスティリコ嫌いの宦官が実権を握っていた宮廷がスティリコを遠ざけ、アラリックに東ローマと西ローマの中間に位置するイリリクム地域の軍司令官の地位を与えたのである。これにより東ローマと西ローマは蛮族の支配する土地によって分断され、再び統一されることはなかった。
西ローマ帝国だけの総司令官となったスティリコは398年、西ローマ帝国への小麦の出荷を停止したアフリカ担当軍司令官ジルドを討伐して北アフリカの西ローマ帝国による統治を復活させ、402年には北イタリアを狙うアラリック指揮下の西ゴート族をバルカンに追い返した。しかし財政難により十分な兵士を集められないためガリア全域を防衛することが出来ず、ガリアでのローマ軍の拠点をライン河近くのトリアーから南ガリアのアルルに移す。これに対し元老院階級であるローマの上層階級には、彼らが誇りに思う祖先が苦労してローマ帝国に組み入れたガリアの大半を放棄し、更に彼らが所有する大農園の農奴を兵役に求めるスティリコへの反発が芽生えはじめていた。405年から406年にかけて東ゴート族やゲルマン系蛮族は西ローマ帝国領土に侵入し、加えて407年にブリタニア駐在のローマ軍が反乱を起こすが、スティリコはこれらを少ない手勢で制圧した。しかし西ローマ帝国宮廷でのスティリコに対する反感は増大し、不信感を持ったホノリウス帝は408年に反逆罪でスティリコを処刑する。この処分を不当とするスティリコ配下の軍団兵はアラリックの軍団に加わり、その勢いでアラリックは軍団を率いてローマを包囲し西ローマ帝国から多額の金銀財貨を手に入れたが、410年には再び無防備なローマを襲い劫掠した。この年、ホノリウス帝は属州総督と軍司令官に帝国がもはや属州を経済的にも軍事的にも保護する能力がないため、各属州は自身で防衛するよう指示する皇帝書簡を送った。帝国が安全および経済を保障するから成り立つ帝国と属州の関係はこの時失われたのである。
その後のガリアはフランク、ヴァンダル、ブルグンド、スヴェビ、西ゴートなどの諸属が群雄割拠し、そこにブリタニアからのローマ軍まで加わって戦乱の世となっていた。415年、ホノリウス帝は西ゴート族に対しガリア西部に定住地を与える代わりにローマ側について蛮族と戦うという同盟を結んだ。更に429年、イスパニアに侵入していたゲンセリックに率いられたヴァンダル族がジブラルタル海峡を越え、439年には北アフリカ全域を征服する。北アフリカは西ローマ帝国にとってはシチリアとならんで重要な小麦の供給地であったが、この地が蛮族の支配下になったことで帝国の主要産業である農業が破綻し、国家経済が一層衰退することになる。かつてはローマ帝国が支配していた地中海の制海権は失われ、ヴァンダル族は次々に地中海に面する港湾都市を海賊のように襲撃した。455年には彼らはローマの外港であるオスティアを襲い、更にローマまで侵攻して14日間でローマを丸裸にしたのである。468年、西ローマ帝国は東ローマ帝国と組んでヴァンダル族が支配する北アフリカを襲ったが、老獪なゲンゼリックの策略にはまって敗走し、その結果としてシチリアやサルディーニャもヴァンダル族の手に落ちた。ヴァンダル族との戦いに敗れた西ローマ帝国は宮廷内の勢力争いにより迷走を続けたが、反東ローマ派の有力者だったオレステスは475年、息子のロムルス・アウグストスを帝位に就けた。しかし476年、蛮族出身であるローマ傭兵軍の軍人オドアケルが土地を要求して反乱を起こし、皇帝軍に勝利してロムルス・アウグストス帝を退位させたことにより、西ローマ帝国は名実ともに滅亡した。
西ローマ帝国は複数の原因が関連しあって滅亡したと言える。ローマ帝国は戦った相手に対し寛容であり、彼らの言語、文化、宗教、社会システムなどを温存しつつローマへの同化政策を推進し、有力者にはローマ市民権を与え、元老院議員とすることさえあった。属州民には10%の税を課すがローマは属州防衛の義務を負い、補助軍団に志願した者には属州税を免除してきた。212年、カラカラ帝はアントニヌス勅令を発し、それまで属州では有力者、医師、教師、それに25年の軍役を勤めた者にしか与えなかったローマ市民権をすべての属州民に与え、同時に10%の属州税を廃止した。この勅令によりローマ市民権は取得権ではなく既得権となって属州民のローマ市民になろうとする向上心が失われると共に、慢性的な税収不足となっていったのだ。313年にリキニウス帝とコンスタンティヌス帝により公布されたミラノ勅令により、キリスト教は優遇され、結果的に有能な中間層が公務や納税を免除されるキリスト教聖職者となることを奨励した。388年、テオドシウス帝はキリスト教をローマの国教としたが、これにより法治国家ローマは宗教国家へと変貌し、以後の皇帝の帝位は王権神授説に基づきキリスト教の司教より授けられることとなった。408年のスティリコ失脚後は西ローマ帝国は自国の防衛を自身でまかなえなくなり、傭兵や蛮族に依存することとなって、国力は急速に衰えていったのだ。ローマ帝国の歴史はどのようにすれば近代国家が盛衰するのか、参考になる点が多々あると思う。日本もローマ帝国をひとつの史実として、如何にして国を守るか改めて考える必要があるのではないだろうか。
数日前に三分咲き程度だったわがやのさくらは連日の春らしい陽気で一気に開花し、今日は満開となった。来週月曜日まで暖かく晴天との予報のため、この週末がわがやのそめいよしのの花見時となろう。
満開の日は昨年と一昨年は4月8日、2010年は3月15日、2009年は4月11日だったので、今年は平年よりやや早めの満開だ。
しばらくの間、このさくらはご近所さんの目を楽しませてくれることだろう。
一昨日はまだ開花宣言は早いと思っていたのに、昨日の暖かさのためかわがやのさくらは今日、もう三分咲きになっている。
天気予報ではしばらく春らしい陽気が続き、特に週末は15℃を越えるとのことで、このそめいよしのは今週の週末には満開となるだろう。
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