遠方で暮らす倅が52歳になりました。 結婚してから20年余り、穏便に暮らしているようなので安心しています。 彼は小生の30歳時に生まれた3番目の子(長男) 小生は、母親が30歳時に生まれた長男 孫は小生が60歳の時に生まれた初孫・ 偶然30年単位です。
右手首がかなり改善されてきたので、久しぶりに乗ってみた。 商店街までは下りなので気が付かなかったが、帰りの上りが進まない。再度商店街を一回り順調なので再挑戦したが・同じく上れない。 やむをえないので、重い自転車を引きずって上り始めた。 疲れたのでベンチで一休み・原因不明なのでよく確かめたら電源が入っていなかった。 電源をONにして強にしたら、スイスイ上れた。 視力が弱っているので重大なミス?天気の良い日に少しずつ練習を再開します。
父親は1903年(明治36年10月21日)生まれです。 昭和31年5月11日に52歳で亡くなり、小生は15歳で戸主になりました 20歳頃(満鉄)に勤務していたころに結核になり・長期に入院したようだ。 (頭脳明晰・博識)だったが病弱で、週に2日ぐらいはゴロゴロしていた。 振り返ってみると(神経質で臆病)は病弱の影響だったのか・幼い小生を徹底的に鍛えたのは(己の寿命)を承知していたらしい。 青山の青南小学校では、伯父(村上敬夫と父親は稀代の優等生と言われていたようだ。 小学校6年生の時に父親の急死で(一中・一校・帝国大学)のコースに、進めなかったのが無念だったようだ。 本人は一言も口にしたことはなかったが?親族には小生兄弟が・その器でないので・がっかりしていたらしく愚痴をこぼしたことがあったそうだ。 (鳶が鷹を生む)という格言がるが、滅多に親を上回るのは難しいようだ。 今日まで頑張れば(長寿世界一の119歳)になれたのに・・TVやマスコミのインタビューも殺到したはずですが。
今日26日は74年前(昭和23年)、6歳で亡くなった次弟の命日です。 偶然だが三弟の誕生日・今日78歳になる予定だったが昨年9月居住先のフィリッピンで死亡した。 三弟は子供の頃から重なったこの日に当惑して、何時も両親に不満を言っていた。 昭和23年の夏休み小生と次弟は母親の実家(会津若松)で過ごしました。 都会とは違い農家の実家は野菜・果物が豊富で天国でした。 当時貴重品だった(卵)も毎朝食し、もぎたての野菜・美味しい会津米のご飯等も腹いっぱい食した。 帰京準備を始めた24日、小生が(腸炎から疫痢)に罹患し25日次弟に感染した。 医師の懸命の手当の効なくあっけなく一晩で次弟が亡くなった。 次弟を犠牲にして、幸いに一命をとりとめた小生は、幼少時から今日まで次弟を背負って生きてきた。 弟を亡くしたのがショックで子供帰り状態が続き・2年生以前の記憶がすっ飛んだ。 親族が集まると必ず話題(弟を褒めたり・残念がったり)になるので長年(トラウマ)になっていた。 年長組の親族がが全員(三途の川)を、渡ったので(話題にならず)一息ついています。 3月(胃がんで全摘種手術)の影響で、トボトボ歩いている状態で、可哀そうだがもう背負う事は不可能です。
昭和41年不動産会社に就職した時に、叔母から(人様の財産)を扱う職業だから(博打類)は一切中止と忠告された。 当時のイメージでは(周旋屋~斡旋屋)等と一括りされていた。 小生は忠告を忠実?に守って(競輪・競馬・パチンコ・麻雀等)は一切関わっていない。 迷いは全くないが、結果予想は(神様の領域)です。
先日・フィリッピンの日本領事館から・電話があり弟の死去を知らされた。 三弟は78歳・一緒に暮らしたのは彼が18歳の時まで・・ 彼は昭和44年・25歳の時にブラジルに移住・・先に移住していた母親宅に居候して商いをしていた。 平成4年・会津若松の叔母が死去した時に・突然帰国・我が家に10日ぐらい泊まった。 直ぐ帰国するのかな?然豊橋市で仕事が見つかったのでしばらく在日すると連絡が来た。 自動車工場では、在日の日系人の世話係(通訳?)数年勤めていた その時に,(フィリッピン人の女性)と、結婚したが・連絡してこなかった。 子どもが出来たのが機会で、フィリッピンに移住・突然(マニラに転居)の通知が来た。 以後20数年経過の中で、数回手紙の往復をしたが・会話はしたことがなかった。 領事さんの説明では、現家族からの連絡で、葬祭一切を一任しても良いですか? 小生は、彼の家族(一族)とは面識もないので全て一任と回答答 小生の父は、死去してから65年・母親は30年・相続財産も無いので絶縁するのがベターと考えた。 伯父・伯母・叔母・従兄姉(10人)・全て死去して最後の一人になった。 我が家は3人の子供がいるが.孫は2人・・日本の人口が減るのに協力?している。
9月になってから、天候不順の日が多い・・降雨の日は、古い資料等の整理をしている。 資料を眺めていると・・あの時どうしてやらなかったのか?助けてやれなかったのかな?多くの悔いを思い出す。 65年前に亡くなった父親~30年前に亡くなった母親~しばらく連絡がない弟はどうしているかな・・ フィリッピン在住・コロナは大丈夫なのか・心配していたが・・ 昨晩・フィリッピン領事館の担当者から連絡があり・13時ごろ(弟・雄三)が死亡した。詳細は調査中とのこと・・細君や娘と会ったことも無いので・返答に困った。 正式に結婚して、戸籍も登録されているので全て先方で処理してもらうよう頼んだ・ 弟は、25歳の時にブラジルに移住・・平成4年に一時帰国・・すぐ帰るとみていたら、愛知県の自動車メーカーに就職(ブラジルからの出稼ぎ)の相談係をしていた。 その時にフィリッピン女性と結婚してフィリッピンに移住・現在に至った。 マイペースなのは小生と同じ・・子どもの頃から(兄弟)の感覚はなかった。 1対1で話をした記憶はほとんどない・・15歳で戸主になった小生とは4歳違いだが大人と子供の関係みたいだった。 担当者が万が一の時には、戸籍謄本他をお願いします・・ 数年前に用意した、父親の除籍謄本・弟一家の戸籍謄本を保管してあったのでメールで送って処理を託した。
<阿佐ヶ谷から会津若松へ> 昭和23年7月21日・夏休みが始まった。 小学校の2年生の小生は、年子の弟と母親の3人で、母親の実家の会津若松に向かっていた。 誰一人想像もしていなかったが・・帰郷寸前の8月26日弟が(疫痢に感染)して急死・小生は奇跡で助かった。 数日後(弟の遺骨)と帰宅・・ 小生はショックで記憶消失・子供返りで以前の事は一切覚えていない。 絵日記や阿佐ヶ谷教会での葬儀写真を見ていても・理解できないでいる。 70年余り・弟(洋二)を背負ってきたが・体力・精神力でも限界になっている。
残された寿命も少なくなってきたので、自分史をまとめ始めた。 明治30年、会津若松郊外の祖父3兄妹が、新興宗教に狂って上京・会津との2重生活を始めた。 三育とは・(信仰と希望と愛)・・ 聖書の示す愛を土台とし、神と隣人に対して十分な奉仕をするため、人間の備える霊性(spiritus)、知性(mens)、身体(corpus)の全ての面を最大限に発達させ、円満な人間形成を実現すること(To Make People Whole Through Christ's Love) 1919年(大正8年)東京市杉並村天沼に、本部を移転・・現在の東京衛生病院~天沼教会の敷地・・ 母親の話では、周辺は窪地で池がたくさんあった・・現在でも数メートル切削すると水が噴き出す。 我が家の3人の子供たちも(衛生病院)で出産・ 昭和47年大叔父さん(深沢孫次)が死亡してから・・縁切れになっている。