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ゆうこ新聞制作日記

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ゆうこ新聞・創刊までの歩み ●「今、泣いてる誰かの為に」編●

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しばらく長いこと、闘病してたもんだから話すことがどうしても
「そっち系」になってしまう。
華やかな遊びが好きな友達は、離れていってしまった。
免疫を極端に抑制している身なので、都会の人混みは厳禁。
大好きだったお酒も飲めない。
ちょっとさびしかった。「友達ってなんだべ?」と思った(笑)

でもこの病気になって、いい友達が出来たのも事実。
そして「本当に大切なものが何か」ってこともちょっぴり分かっちまった。

「病気もひと段落したしさ、シャバの生活にも馴染んできたしさ、
“今まさに”苦しんでる人の支えになるような何かをしたいんだけど。
一回、逃げちゃおうとした人生だしさ〜。なんかないかな〜」

それが口癖になっていた。
でもね、それも最初は「口だけ」だったんだ。

その口癖を聞いた、同じ病気の友達が、
「う〜ん・・なんだろ。新聞とか?」
って言った。

「新聞?( ̄∇ ̄;) 」

・・・いいかもしんない!!
たしかに、情報の溢れている世の中だけど、それを手に入れることが出来るのは
実はほんの一部。

パソコン使えない、手がしびれたり震えたりして携帯がうまく使えない、
肺の病気で本屋まで歩くのも辛い、心の病気で外出するのが怖い、
そんな人たちは・・・今、いったいどうしてるの?

具体的な構想もないまま、
「今、泣いてるだれかの為に」という想いだけで「ゆうこ新聞」制作が始まった。
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ゆうこ新聞・創刊までの歩み ●ゴミ拾いをおすすめします編●

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突破口を探していた。
「薬」のような人工的なものでなく、もっと自然なパワーを探していた。

「同じような辛い思いをしている患者さんたちを、励ますことが出来る。」
この言葉が常に頭の片隅にあった。
でも自分の病気が完治したわけでもなく、記憶障害が治ったわけでもなく、
漠然とその言葉を想うだけで、実行への糸口なんて見つからなかった。

ただ、「誰かが喜ぶことをすれば(この闇から)抜け出せるかも」みたいなことを
ふと思いつき、毎朝6時過ぎから、町のゴミ拾いを始めた。
ゴミ袋とトングを持って、ふらふらしているといろんな人から話かけられた。

「リハビリがわりに、ゴミ拾いしてるんだよ〜」と言う私を
皆、珍しがった。

放置自転車を見張るおっちゃん、散歩中のおばぁちゃん、
通勤中の方々、ゴミ収集車の運転手さん、たくさんの友達が出来た。

SLEは、紫外線を浴びてはいけない病気なので、太陽が町を照らす頃にダッシュで逃げかえる姿を見て、
皆ますます珍しがったけど。

ゴミ拾いを始めて一年が経ったころ、すごい事に気付いてしまった。
脳や心の状態が「ほぼ治った」のだ。
SLEが治ることはないので、それなりに具合は悪かったけれど「精神面」の闇は
突破したのを明らかに感じた。

飲んでいた(精神科の)薬は全て捨てた。ドクターにも「私、治りました」と伝えた(笑)

やっと「同じ病気に苦しむ誰かを、助けることが出来る日」が来た。

「ゆうこ新聞」誕生前夜。

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ゆうこ新聞・創刊までの歩み ●死んじゃダメだ編●

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院したものの、社会復帰までは遠い道のりだった。
会社で働くとかそんな次元の問題ではなくて、まっすぐ文字を書くとか、
料理で卵焼きの作り方を思い出すとか、スーパーで買い物した時のお釣りの計算のやり方を思い出すとか、
そのへんからのスタート。

今まで当たり前に出来ていたことが出来ないことのショックと、
大量に投与されたステロイドの副作用がだんだんと私の精神面を壊して行った。

やがてそれはひどくなり、何もしゃべらなくなった。
幻聴が聞こえて、「(死ぬしか)道がない」と、ブツブツつぶやくようになった。

いろいろな意味で危険を感じていた周囲の人の薦めで、母の家に身を寄せていた私は、
たびたび迷子になって、家族を心配させた。
目と鼻の先のコンビニから、家までの道が分からなくなった。
小さなノートに、道順を書いてもらい、いつもそれを持っていた。

免疫抑制剤の副作用で、髪の毛が抜けた。
大好きだったメイクもしなくなり、おしゃれにも興味がなくなり、
副作用で浮腫んだ(ムーンフェイスという)ぶくぶくの顔で、死んだ魚みたいな目をして公園のベンチに座っていた。
明らかに「ちょっと普通ではないひと」になっていた。
でも、家族や周囲の人は変わらず優しかった。それだけが救いだった。

心の中の奥底に、一握りの光のような「自分らしさ」が小さく光っていたけれど、
それを掘り起こすエネルギーがなかった。
長い闘病と、あまりに苦しい副作用の数々に負けてしまった。疲れちゃったんだ。

今、思うと恥ずかしいというか情けないけど、「逃げちゃおう」と思った。
みんなに悪いけど、「逃げちゃおう」って思った。
いろいろ調べてチャレンジした。
スカーフをドアノブにくくり付けて、首にかけてみたり、
真冬の夜中に外に出て、包丁を握りしめてずっと迷ったり、
アルコール度の高い日本酒の小瓶・精神科から処方された睡眠薬を集めたものを
リュックに入れて、オートロックでなく屋上に出れそうな高い建物を探してウロウロ歩いたりしていた。

銀行口座に残ったわずかなお金を全部おろして、「ママへ」と書いた封筒に入れた。
お世話になった人たちに今までのお礼の電話をしたりした。

でもね、人間は簡単に死ねないし、死んじゃいけない。

「その瞬間」って、ものすごく怖い。


お別れのメールを受け取った姉から、ものすごい勢いで国際電話がかかってきた。

「ゆうこ!死んだら駄目だ!絶対に駄目だ!頑張るんだ!
今の辛さを乗り越えることが出来たら、ゆうこはきっとすごい人になる!
同じような辛い思いをしている人たちに、すごい勇気をあげられるようになるんだよ!」

この言葉が、「ゆうこ新聞」の種にものすごい栄養と水をぶっかけることになる。
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ゆうこ新聞・創刊までの歩み ●再発しちゃいました編●

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2007年の11月、やっとこさ退院出来た私は、社会復帰に向けてリハビリに燃えていた。

遠く、太平洋の向こうに住む姉が、その時持っていた全てをかなぐり捨てるようにして、
日本に来てくれた。食べること、歩くことなどのサポートをしてくれた。
家族のありがたさを本当に感じた。

2008年1月、念願の社会復帰を遂げた。それがたった数日で終わるとは夢にも思わず。
同月の終わり、私はまた病院のベッドの上にいた。

今度は、SLEが全身の「皮膚」の炎症として出た。
火事の中からかろうじて助け出されたような姿、顔から足の先まで全身、真っ赤な水ぶくれが出来、
それがつぶれてドロドロになった。
鏡を見ると、ぶっちゃけ自分が「女性」なのか「男性」なのかも分からないような感じ。
非常にレアなケースということで、大学病院では研究材料として挙げられ、
学生たちが行列を作って私の皮膚を観察したり、触れたりした。

そんなこんなで、またステロイド治療。
とうとう恐れていた「副作用の中で、危険といわれるもの」が出てきた。

ステロイド精神病と呼ばれる、一種のうつ病と、記憶障害だ。
ひどい時は、目の前にいる母親の名前も忘れてしまった。もちろん担当のドクターのことも。
長いこと入院している病棟でも、迷子になった。たぶん認知症にも、似た症状だったと思う。

今ではハッキリ思い出せることがひとつ。
テレビをつけた時に、CMにブラッド・ピットが出てきた。
結構、好きな俳優のひとり、彼の映画は何本も観た。
しかし当時の私は「どこかで見たことがある外国人」とまでしか分からなかった。

同年、3月退院。身体の症状はだいぶ治まったのであとは、退院して回復を待つ、ということになった。
しかし本当の意味で危険だったのは、退院してからだった。

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ゆうこ新聞・創刊までの歩み ●爆発・最初の入院編●

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その日は、本当に来てしまった。
2007年の9月、小さな波のように頭痛がやってきた。
それはやがて激痛となり、同時に高熱を出した。

ろれつが回らず、しゃべれなくなった。
「全身性エリテマトーデス」という名前の通り、「全身」が冒される病気で、
この時は「脳」と「肝臓」が壊れた。

うちの母は当時の私の様子を見た時を回想して
「あの時、正直あぁ、終わった・・と思った」と言う(笑)終わってねーよ(笑)

このブログは「闘病記」ではないので、ここからは簡略するけれど結構大変だった。
担当医の口から「命に・・」「死・・」みたいなセリフが何度か出た。
ステロイド量も、私の身体に対してMAXの量を連日投与したもんだから、
どえらいお土産(副作用)がついてきて、どっちかというとそっちの方が辛かった気もする。

入院生活は、同年11月まで続いた。多くの出逢いがあった。
昨日までまったくの他人だった人たち6人と、カーテン一枚で仕切られた空間で
共同生活。数週間程度の入院の経験はあったけど、数か月単位の長期は初めてだった。

当たり前だけど、みんな病気だった。
年齢もさまざま、暮らしぶりもさまざま。
病気に対する考え方、価値観も皆、違っていた。

ただ多くの人に共通していたのは、「病気による身体の辛さ」に加え
「心の痛みや不安や孤独」を味わった者が持つ、「強さと優しさ」のようなものだった。

「ゆうこ新聞創刊」の種の最初の一粒は、
きっとこの頃にどこかで蒔かれていたのかもしれない。

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ゆうこ新聞・創刊までの歩み ●爆発前夜編●

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ステロイドは、まさに「最強の薬」だった。
少なくとも、当時の私にはそう思えた。
痛みで、自分の身体も洗えず、冷蔵庫を開けることも出来なかったのが
ステロイドを服用してまもなく、どんどん出来るようになった。

仕事にも復帰した。
疲れやすく、明らかに今までとは違う身体だというのを実感したけれど、
見た目はとても「難病患者」には見えない位にまで回復した。

二年とちょっとの間、少量のステロイドその他の薬を飲んでいるというだけで
普通の人とあまり変わらない生活を送ることが出来た。
「このまんま、治るんじゃ〜ん?SLE完治の世界第一号になるんだハハハっ」
こんなことを言って、ヘラヘラ笑っていた。
会社でもプライベートでも、最高の仲間に恵まれ毎日が楽しかった。

「普通の身体ではないので、なるべくゆっくりと過ごして下さい。
疲れないように、注意して下さい」

と、病院で何度も言われていた言葉も、そんな重要じゃないというか、
病気を持った人、誰にでも言うセリフだ位にしか思っていなかった気がする。
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ゆうこ新聞・創刊までの歩み ●告知編●

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住宅街の中にポツンとあるその病院は、本当に「エキスパート」だった。
遠方から飛行機で受診に訪れる患者がいるくらい人気のある病院、いったいどんなドクターが?

私には、数年前に天国に行ってしまった大好きだった叔母がいる。
その叔母の親友、ミナコさんが病院に付き添ってくれた。
本当に心強く、今も感謝している。

待合室は人で溢れかえり、病院の外にも下手な人気ラーメン店以上に並んでいる様子を、
腫れあがり半分しか見えない目でしばらく眺めていた。

診察室のドアの向こうには、ほんの数分であの行列の意味がなんとなく分かってしまうような人物がいた。

全ての検査結果が出るのに、一週間ほどを要し、その人物は言った。
その声はとても大きく、そして勢いがある。
「最初は、関節リウマチを疑ったけれど、君の年齢!そして数値!身体の炎症!
全てトータルすると別の病名が浮かび来たよ」

彼は紙に、
「全身性エリテマトーデス=systemic lupus eryhtematosus」
と書いた。

ふと頭の中に、エーデルワイスの曲が流れた・・かどうか覚えていないけど、
とにかく初めて見る文字の羅列に戸惑い、また言葉に出すのがなんだか怖かった。

「残念だけれど、現代医療では“不治の病”とされている難病です。完治はありません。
これから長い間、いろいろ大変なことがあるでしょう。入院が必要なことも、あるでしょう。
医療費に関しては、国からの補助が多少あります。以前はもっと大きく補助してもらえたんだけど、
小泉政権になった時に、変わっちまったんだよな」

最後の方は、独り言のように聞こえた。

「治療には、ステロイドという薬を使います。
いろいろな意味で、最強の薬。
君の今の痛みも、激変するでしょう」



ステロイド。

最強の薬。

この言葉と、私は後々、嫌になるほど付き合うことになるんだ。


飛行機に乗ってまで患者が訪ねてくるそのドクターの「仕事」は
本当に素晴らしく的確で、速かった。

あっという間に診断書を仕上げ、区役所での「難病申請手続き」に必要な資料を揃え、ちらりと腕時計を見て

「まだギリギリ間に合うから!今からその足で、区役所に行きなさい。
特定疾患の手続きは早ければ早いほうがいいから」

ドクターにとても感謝したが、その対応がどれだけ素晴らしかったかは、
数年後、入院生活に入り、他の患者の口から、発病時のドクターの対応をいろいろ教えてもらった時に、
改めて驚き感謝することになる。


病院からの帰り道、ひとりになった私は、
下を向いてシクシクと子供のように泣きながら歩いた。







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ゆうこ新聞・創刊までの歩み ●発病編●

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ゆうこ新聞・創刊までの歩み ●...

若干、珍しい病気を持っています。

「全身性エリテマトーデス」という膠原病の一種で、
簡単に言うと、本来なら自分を守ってくれるはずの「免疫機能」が
認識エラーみたいなものを起こし、自分自身を攻撃してくるという

「ちょっとそりゃねぇだろ( ̄∇ ̄;) 」と言いたくなる病気です。

攻撃された結果は…というと、

文字通り「全身」のあちこちが故障する。
やっぱり「ちょっとそりゃあんまりだろ( ̄∇ ̄;) 」な…。

始まりは、都内の某社で忙しく働いていた、
2005年の7月のこと。

朝起きると身体がこわばり、手の指が腫れあがっていた。
鏡を見ると、四谷怪談のお岩さんそっくりな奴が写っている。

としまえんのお化け屋敷のバイトに応募するか、
病院に行くかの二択だ。
もちろん、慌てて病院へ。

それにしても、全身の激痛で着替えられない。
アパートのドアノブが自分で回せない。
もう、不安しかない。

駆け込んだ地元の小さな病院の先生の表情は、
一緒に四谷怪談に出れそうな位、険しい。

「すぐ紹介状を書くから。“この手”の病気のエキスパートだから
安心しなさい!この足ですぐ行って!」

“この手”って、なにー?!

その時の私にはまだ分かっていなかったのです。
人生がひっくり返るということを。
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