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ぼくしのめがね

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クリスチャン生活の基本シリーズ③献金

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今日は、教会の大切なメンバーケ... 今日は、教会の大切なメンバーケニーさんの誕生日をランチタイムにお祝いしました。彼は、日本で二年間働いたことのある人で、日本語をよく理解できます。
神様にとても祝福されて、ここ二年で大きく人生が変わりました。今年もさらなる祝福があるように、お祈りしました。。。。。
2016年2月7日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/U9tszuhsoXU

お金ほど人の心を表すものはありません。。。

みなさんも、愛する人のために、一生懸命心をこめてプレゼントを探すでしょう。また大切な相手には、たくさんのお金を使って素晴らしいプレゼントを買うのではないでしょうか。エリックも、結婚前に数々のプレゼントをしてくれました。どれも彼の心がこもっていましたし、お金もこもっていました。笑

さて、お金をどう使うかで、私たちの心のこもり方も伝わるものです。何か捨てるようなものをあげると言われて、傷ついたことはありませんか? 教会では、神様への捧げ物として献金をしますね。今日は、お金の話しをします。

★献金の始まり

 礼拝には、捧げ物がつきものであったことは先週話しましたね。教会では十分の一献金を捧げ物の基本とされています。一月のうちに自分の得たもの10%というこことですね。十分の一献金にはまた、「自発的な捧げ物」という意味もあるのです。ですから、人に強いられてするものではないのです。自分から進んでしなければ意味がないものなのです。

その始まり、由来はと言うと。。。

創世記14:18-20

さて、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。19 彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。20 あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。Then Melchizedek king of Salem brought out bread and wine; he was the priest of God Most High. 19 And he blessed him and said: “Blessed be Abram of God Most High, Possessor of heaven and earth; 20 And blessed be God Most High, Who has delivered your enemies into your hand.”

敵に勝利したアブラハムに現れた、サレムの王であり、祭司であるメルキゼデク、イエス・キリストの型とも、イエスご自身とも言われていますが、アブラハムは、自分から十分の一を彼に捧げているのです。

それ以降、自発的に財の十分の一を捧げるところが聖書にちょくちょく見られるようになります。

私たちも、自発的に強いられることなく、私たちの心の現われとして、喜んで神様に捧げるようになったのです。

2コリント9:7

ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。So let each one give as he purposes in his heart, not grudgingly or of necessity; for God loves a cheerful giver.

★献金はあなたの心の現れです

あなたの心のあるところにあなたの宝もある

マタイ6:21
「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」 For where your treasure is, there your heart will be also.

マタイ6: 24
「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」 “No one can serve two masters; for either he will hate the one and love the other, or else he will be loyal to the one and despise the other. You cannot serve God and mammon.

1ヨハネ2:15
世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。But whoever keeps His word, truly the love of God is perfected in him. By this we know that we are in Him.

本当ではありませんか。私たちは、大好きなバンドのコンサートがあれば、真っ先に予定をつけ高いチケットでも買うのです。私たちの心の重い位置にそのバンドがあるからです。ちょうどそのようです。私たちは、心に大切にしていることにこそ、優先的にお金を使うのです。

★献金は信仰の現れです

①二ミナを捧げた女

聖書の中に次のような記事があります。イエス様は、人々が献金するのをみて一番貧しいやもめが誰よりもたくさん入れたのだと言われました。

ルカ21:1-4

さてイエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。
また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。(二、三百円)それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。 みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。 よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。And He looked up and saw the rich putting their gifts into the treasury, 2 and He saw also a certain poor widow putting in two mites. 3 So He said, “Truly I say to you that this poor widow has put in more than all; 4 for all these out of their abundance have put in offerings for God,[a] but she out of her poverty put in all the livelihood that she had.”

やもめが本当にたくさん入れたのでしょうか。はい。彼女は、最後のお金を全て投げ入れました。これは、何をさしているのでしょうか。これは、誰よりも大きな信仰を神様に捧げたのです。最後の頼みの綱のこのお金を全て捧げます。

私は、お金に頼る人生ではなく、生ける神に頼る人生を選びます。このお金を捧げて、死のうが、私は、神を選びます。という宣言であり、行動であったのです。

信仰には、犠牲が必ず伴うのです。 他の人たちは、対照的に、自分にとって痛くも無くかゆくもない額を献金として捧げました。そして、そこには、信仰もありませんでした。ではから、イエス様は、あえて、この女を賞賛したのです。

どれだけ犠牲を払ったか、どれだけ神に信頼したかか天国では大きく取り扱われる

②わたしを試してみよ

聖書の中で、普通は神を試してはいけませんが、唯一つ神を試して良い、むしろ、これで神を試して見なさいという箇所があります。それは、次の通りです。

マラキ3:8-12

人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉献物によってである。9 あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。―万軍の主は仰せられる―わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。11 わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。―万軍の主は仰せられる― 12 すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ」と万軍の主は仰せられる。“Will a man rob God? Yet you have robbed Me! But you say, ‘In what way have we robbed You?’ In tithes and offerings. 9 You are cursed with a curse, For you have robbed Me, Even this whole nation. 10 Bring all the tithes into the storehouse, That there may be food in My house, And try Me now in this,” Says the Lord of hosts, “If I will not open for you the windows of heaven And pour out for you such blessing That there will not be room enough to receive it. 11 “And I will rebuke the devourer for your sakes, So that he will not destroy the fruit of your ground, Nor shall the vine fail to bear fruit for you in the field,”Says the Lord of hosts; 12 “And all nations will call you blessed, For you will be a delightful land,” Says the Lord of hosts.

あなたが神に立ち返りたいなら、帰ってきなさい。そして、私が本当に生きている良い神であるか、十分の一をもって試して見なさいと、心が離れてしまったイスラエルの民に神は、語りかけているのです。

神様への信頼と信仰と成長を望むなら、これが一番のよい方法です。すると、必ず、神様は、それに答え、不思議に私たちが足りなくならないように祝福し、突然物が壊れたり、盗まれたり、というようなdevour から守ってくださいます。これは、試してみなければ分からないことですね。

私も、クリスチャンになりたてのころは、これが良く分からず、また貧しい家庭に育ったので、自分こそがニーディであるから、何かをあげる立場でないと思っていました。しかし、ある日、あまり霊的に成長していない自分を省みて、まず、神の前に正しいことをしようと決心しました。なんと、その日以来、月末にお金が足りなくなることが一切なくなりました。いつも不思議に残るようになりました。

★献金は神への敬意の現れです

◎ 初物のコンセプト

箴言3:9-10

あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。10 そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる。Honor the Lord with your possessions, And with the firstfruits of all your increase; 10 So your barns will be filled with plenty, And your vats will overflow with new wine.

初物とは、残り物でなく、一番に取り分けられた良いもののことです。私たちがいつもお世話になっている人がいたら、自分の家で取れた最良の野菜の一番いいものを取り分けで、うちで食べる前にまず持っていくでしょう? 私は、田舎出身だから畑のイメージですが。。。

月末に残ってたら、余裕があったらというのは、初物ではありません。給料が入ったら、真っ先にすることが神様への捧げ物を取り分け、主に感謝することです。

★献金は祝福を必ずもたらす

①マラキ書では、先ほど言いましたが、超自然的な守りや、家庭の経済や人生にもたらされます。金銭のことで奇跡を体験するでしょう。

②また、計画性を持って賢くお金を取り扱うことができるようになります。しかも神様と共にあるという信仰を持ちながらです。

③ コルネリオの祈りが聞かれた

使徒の働き 10:1-2

さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。 10:2 彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが。。。。v4「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。There was a certain man in Caesarea called Cornelius, a centurion of what was called the Italian Regiment, 2 a devout man and one who feared God with all his household, who gave alms generously to the people, and prayed to God always.
V4 “Your prayers and your alms have come up for a memorial before God.

コルネリオは、異邦人であったが、敬虔に神を信じそして捧げ物を怠らなかった人である。神は彼を覚えておられ、そして、福音が異邦人にペテロを通して開かれるきっかけとされました。これは、世界中にキリスト教が広まるきっかけとも言えます。彼は、異邦人であっても、神をしっかりと信頼し捧げ物をしていたのです。

神は、忠実に神の言葉を守り、そして、神に信頼するものを神の働きのためにも大いに祝福して用いてくださるのです。そして、その祈りを聞かれるのです。

と、たくさんのことを語りましたが、ぜひ、「お金は、私たちの心だ」ということと、「献金は、神に信頼することだ」と覚えておきましょう。十分の一で、私を試しなさいと言われた神様の言葉に従ってみましょう。

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クリスチャン生活の基本シリーズ②礼拝

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この日曜日は、とても祝福された... この日曜日は、とても祝福された洗礼式がありました。たくさんの方々がお祝いに来て下さり、にぎやかな昼食になりました。あ、そういえば、写真写真! と思ったら、ほとんどの方が帰った後でした。。。とほほ。。。 かわいいちゃんは、携帯を見つけ... かわいいちゃんは、携帯を見つけると、「写真、写真」とセルフィーを連写しよります。。。。また、やられました。。めちゃすばやい! 笑
2016年1月31日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/SRyGr3wNHf8

クリスチャン生活の基本シリーズ第二回目は、礼拝についてです。第一回のデボーションがクリスチャンの心臓部なら、礼拝は、血のようがもしれません。非常に大切な意味を持ちます。またクリスチャンの特徴と言っても過言ではないのです。

★ 礼拝に含まれる意味とは

・伏し拝む。。。ひれ伏して拝むことです。

・Service =主に対する奉仕である。英語では、礼拝は、Service といいます。
マタイ4:10 イエスは言われました。「引き下がれ。サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」Then Jesus said to him, “Away with you,  Satan! For it is written, ‘You shall worship the Lord your God, and Him only you shall serve.’” にある様に、主を拝み、主に仕えることは私たちの使命です。礼拝は、主を拝み、仕えることです。これは、十戒の第一戒からの引用です。

・捧げる。。。旧約聖書ではいつもいけにえの動物を捧げていた。それが礼拝であった。動物は、代価を払って買って来たものであって、何ももたずに幕屋、神殿に行くものは決していなかった。

ここまで、聞いて驚かれるかと思いますが、礼拝とは、主に何かをくれくれと言って集まってくるものではないのですね。むしろ、私たちから主に向かって何かを捧げる場所であるのです。

・応答である  神の存在への応答である

「“主よ、わが魂を救いたまえ” というのが祈りである。”主よ、わが魂をお救いになられたことを感謝す” というのが、賛美である。”主よ、あなたが主であられることを感謝す” というのが礼拝である。」----- A.P. ギブス 

神がよい神であられ、神が神であられることを感謝し、ひれ伏すことが礼拝。まず神の素晴らしさありきなのです。

新約聖書で、一晩中魚が取れなかったペテロにイエス様が網を下ろすように言われ、大量の魚がとれました。そこで、ペテロがした通りです、
ルカ5:8 「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、 『主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから』と言った。」When Simon Peter saw it, he fell down at Jesus’ knees, saying, “Depart from me, for I am a sinful man, O Lord!”

私たちは、神の圧倒的な力に触れる時、祈りが聞かれるとき、素晴らしさを体験するとき、自分自身が照らされ、神への畏敬の念がこみ上げてき、礼拝するのです。

★ 礼拝とは、教会の中心である

教会と、日本語ではいいますので、何かを教えられる教室のようなイメージが着いてしまうかも知れません。言葉と言うものは、すごいですね。日本語の教会と言う言葉は、どうもお役所がつけたようです。もともともは英語の訳語で「公会」だったのだそうです。
英語では、Church と言いますが、ギリシャ語で「主」や「(権力を持つという意の)頭」を意味する”Kurios(キュリオス)”に由来する古い英語〔cirice〕や〔circe〕に由来していて、「主のもの」という意味がこめられているようです。
もともとの、聖書では、ギリシャ語で「エクレシア」と言います。意味は、「呼び出されたもの」です。主によって、罪の中から引き出され、そして主のものとされ、主の使命を果たすために存在するものです。

ですから、礼拝に行く、教会の礼拝に行くというのは、何かを教えてもらうために行くというものではないのです。自分の属するところに帰る。かえって礼拝するのです。
どのように、教会に属するようになったのでしょうか。

ローマ書12:1 では、そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。 I beseech you therefore, brethren, by the mercies of God, that you present your bodies a living sacrifice, holy, acceptable to God, which is your reasonable service. 

イエス・キリストが大きな代価を払って、私たちの罪のなだめの供え物となってくださったのですから、礼拝のために私たちは何も持っていくものがないのです。しかし、私たちは、今、キリストに買い取られて、キリストに属するものとなりましたから、私たちの人生は、すべてにおいてキリストのものとなりました。だから、人生そのものが礼拝となりました。

すなわち、礼拝者の集まり、人生をイエス様と共にする人の共同体が教会であり、礼拝とは、その中心部であるのです。

★ 共に集まることの大切さ 

ヘブル10:23-25 約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。Let us hold fast the confession of our hope without wavering, for He who promised is faithful. 24 And let us consider one another in order to stir up love and good works, 25 not forsaking the assembling of ourselves together, as is the manner of some, but exhorting one another, and so much the more as you see the Day approaching.

ロマ12:5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。so we, being many, are one body in Christ, and individually members of one another.

一人では成長出来ない。テレビのメッセージで救われても、キリストの身体に繋がらなければ成長しない。
シリーズ⑤で詳しく話しますが、礼拝に来るの要素の中に、兄弟姉妹と交わり互いにはげ間し合うということも含まれている。礼拝の前後に、互いに祈りあい、証しをし、励ましあうことがとても大切です。

★ 礼拝とは、主を第一とする証しである

礼拝は、神へのコミットメント(献身)と神の言葉への従順の証しです。また、神を第一とするライフスタイルを通して、世に対して身をもって証しをしているのです。

・安息日について
 聖書の中で、創世記の初めに神様が世界をお造りになりました。そして、七日目に休まれたとあります。そして、七日目を聖別したとあります。
 創世記2:3 神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に神がなさっていた全ての創造のわざを休まれたからである。Then God blessed the seventh day and sanctified it, because in it He rested from all His work which God had created and made.

・なぜ毎週日曜日なのか
 教会は、聖霊が下ってから始まりましたが、週の初めにみなで集まっていました。人は6日目に創造されましたね。ですから、人にとっての初めの日とは、七日目、安息日だったのです。神様と、ただ時間を過ごすことから、人類の歩みが始まったのです。素晴らしいことではないでしょうか。
そのなごりで、休みの日、日曜日に集まるようになりました。また実際的に日曜日が集まりやすいこともあります。  

・コミットメント献身である
主を第一にしていないと礼拝には来れません。やれ、あそこでパーティがある、やれ今日はシーホークスのゲームがあるとなって、礼拝に出られないとすると、神様よりもそちらの方が大切だということになってしまいます。礼拝とは、神を第一にすることの現れです。私たちは、神の前にも、人の前にも、主に捧げられた自分を証しとして見せていくのです。

いろいろなお話しをしましたが、一つだけ、私たちをお救いになったイエス・キリストにいつも感動し、私たちの愛と心を捧げていくこと、これが礼拝です。集わなくなると、愛の感動が薄れていきます。。。。
これからも、礼拝を大切に、神を第一としていきましょう。




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クリスチャン生活の基本シリーズ①デボーション

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お正月の残りのお餅をつかって、... お正月の残りのお餅をつかって、おぜんざいパーティをしました。学生たちが集まりました。もうすぐ帰国するかなちゃんを囲み、アメリカで学んだことなどを話してくれました。 この日曜日で、最後のゆみちゃん... この日曜日で、最後のゆみちゃん。みんなで、祝福の言葉をかけ、祈って送り出しました。日本に帰っても、神様の守りと好意がありますように。。。。子どもたちの面倒を良く見てくれて、本当にありがとう! 去る人がいれば、加わる方も。。... 去る人がいれば、加わる方も。。。。こちらも留学生さん、Eちゃん。一緒に礼拝できて良かったです。これから長い付き合いになるかな? 今日は、信徒さんの一人の要らなくなった炊飯器をもらうことが出来て、本当にたすかったね、Eちゃん。これからも、サポートしていきます。。。
2016年1月24日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/N20t0cpTpuw

2016年の年の初めにもう一度信仰の基本に返ってみたいと思います。クリスチャン生活の基本シリーズとして六回に分けてメッセージして行きたいと思います。今日はその第一です。デボーションについてです。

デボーションというのは、一日のうちある時間を神様に捧げて、神様と時間をすごすことです。祈りの時、静止の時、クワイエットタイム、黙想とも言います。

先日、日本のテレビを見ていて、はっとさせられたことがあります。それは、産婦人科の病院のなかで、いつも出口に近いところのベットにいる赤ちゃんが健康になるそうです。それは、お掃除のおばさんがいつも掃除が終わって帰るときに一番出口に近い赤ちゃんに、「あら、かわいいわね。」と声をかけるからです。決まって、その病院では、そのはじっこに寝かせた赤ちゃんが健康になるそうです。

また、子どもの頭を賢く育てようと思うなら、赤ちゃんの時からたくさん語りかけてあげると言いそうです。

私たちは、神の子どもです。神様の声を聞かなくては、私たちは、健康になることもできませんし、また賢くなることもできないのです。教会に何十年通っていても、神の声を自分で聞いていない人は、いくら良い教えを聞いても、霊的に健康になりません、人生が変わりません。また、神の知恵深く生きることができません。

また、ヨハネの福音書では、羊のたとえのお話しがあります。

ヨハネ10:4,5

彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」And when he brings out his own sheep, he goes before them; and the sheep follow him, for they know his voice. 5 Yet they will by no means follow a stranger, but will flee from him, for they do not know the voice of strangers.”

羊は、最も臆病な動物で、視力が非常に弱い動物です。しかし、必ず、自分の羊飼いの声についていくので、守られているのです。また豊かな草を食べ、そして、夜も夜番をしてくれる羊飼いのもと、ゆっくり休むこともできるのです。あるテレビで実験をしていましたが、羊たちを混ぜてみて、二人の羊飼いたちが別々に呼ぶと、羊は、きっちり二つのグループに分かれます。

私たち人間は、しばしば聖書で羊にたとえられますが、私たちは、どれほど真の羊飼いであるイエス様の声にしたがっているでしょうか。

★イエス様の模範

マルコ1:35

さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。Now in the morning, having risen a long while before daylight, He went out and departed to a solitary place; and there He prayed.

四福音書にどこを見てもイエス様は一人退いて祈っている姿が書き留められている。イエス様は、ミニストリーが成功したときも、真っ先に父のもとに行って祈っていた。

★ 神の声の聞き方/デボーションの方法

① 聞く…聖書を読むことが基本

   聞くことには、神様からのインプレッション、絵、イメージを見る、夢、ビジョン、自然や出来事などを通してなどいろいろとあるが、基本は、聖書。

聖書の知識、聖書の文脈、聖書にある神様のご人格、ご性質の理解が無ければ、どんなインプレッションが来ても解釈を間違ってしまう。聖書の言葉をたくさん心に取り入れた人ほど、その言葉を聖霊様によって、人を祝福するために出すこともできる。
預言の賜物も、信者には与えられているものである、しかし、見た聞いたことを正しく解釈する力は、日々の聖書理解から来る。

ですから、より健康なクリスチャンになる、神の知恵によって生きるクリスチャンになるだけでなく、よく人に仕えることが出来るクリスチャンになるためにも、聖書を毎日読むことは、大切なことです。

聖書の読み方…短い言葉、一、二行でも大丈夫です。ただ、そこを何度も読み返して、黙想してみてください。そして、そこに、私の心に語りかけていること何か、神様は、どんな方だと思うか、などと、思いを巡らせながら読むのです。

② 語る…祈り、神様の言葉に応答  
   祈りとは、神様の心に応答するものでもある。
読んだ御言葉に応答して祈りましょう。

   また、小さいお願いの祈りでも、初めは何でも、かまいません。お祈りは、必ず、神様に聞いてもらえますし、必ず答えられます。あなたがクリスチャンであるどうかも関係ありません。まだ、神様を信じていない人が、危険を感じた時、主の祈りをして劇的に助かり、それをきっかけにクリスチャンになったという証しもありますし、また、小さいお祈りが聞かれると、信仰が強くなり、神様との信頼関係が強くなっていき、それの積み重ねで、どんどん信仰がましていくのです。小さいお願いの祈りが無ければ私たちは成長もしないのです。

赤ちゃんもいないばあをひつこいほどに繰り返します。これは、お母さんとの信頼関係を築いているのです。お母さんは、何回いなくなっても、必ずでできてくれる、信頼できるということを学んでいくのです。。祈ったことのない方、ぜひ祈ってみましょう。

③ 書く…神様に語られたこと、自分の応答などを書きとめておく
   そうすることによって、神様の約束がどれくらい成就しているか、自分がどれだけ成長したか、確認することができる。書かなければ、人と言うものは、すぐに忘れてしまう。

★ 神の声が聞こえない、聖書を読んでも心に入ってこない、恵まれない時
があります。それは、どんな時でしょう。

心にオフェンスがある時、誰かを赦せないでいるとき、怒っている時、自分のわがままなアジェンダで盛り上がっている時、などです。
つまり、心の王座に自分が座っている時です。自我が強い時です。
そんな時は、人を赦し、イエス様の赦しを受け取りましょう。
また、単に身体と精神がとっても疲れているときも、難しいでしょう。そんな時は、ただ、寝転んで、賛美をかけて神様の臨在にひたったらいいでしょう。

★ 神の言葉を自分のものとするには

聞いたみ言葉を行動に移すことがとても大切です。神の言葉は、したがってみて始めて、自分の経験となり、自分の身になる。これなしには、デボーションは完成しないことを覚えておきましょう。
イエス様の行動は、常に、天のお父様のしておられることにしたがっていた、と言うことを思い出してみましょう。

ヨハネ5:19

そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。Then Jesus answered and said to them, “Most assuredly, I say to you, the Son can do nothing of Himself, but what He sees the Father do; for whatever He does, the Son also does in like manner.

イエス様は、あなた方のしならない食べ物と言われました。

ヨハネ4:32, 34

「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」。・・・イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。」But He said to them, “I have food to eat of which you do not know.”…….. “My food is to do the will of Him who sent Me, and to finish His work.

あなたを養い、育て、喜びを与えるのは、神のみ言葉に従うことです。それが、あなたの食べ物というほどに、従ってみた御言葉があなたの身となり血となっていくのです。自分のものとなるのです。聖書は読むだけでは自分のものにはならないのです。

1サムエル15:22

聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」“Has the Lord as great delight in burnt offerings and sacrifices, As in obeying the voice of the Lord? Behold, to obey is better than sacrifice, And to heed than the fat of rams.

どんな宗教行事に参加することよりも、大きな捧げ物をするよりも、一つの神の言葉に従う方がよっぽど神様を喜ばせるのです。

★日々の生活は、神様に対する私たちの礼拝であり、誉め歌である

詩編 96:1

新しい歌を主に向かって歌え。 全地よ、主に向かって歌え。 Oh, sing to the LORD a new song!  Sing to the LORD, all the earth.

みなさんの心から賛美があふれる時とは、どんな時でしょうか? 神様に触れられた時、自分が変えられた時、罪赦された時、つまり自分に相応しくない、恵み、神様からの多大なプレゼントを受け取った時、心の底からハレルヤ! 感謝します。神様、あなたを愛します。という叫びのような賛美が出てきます。これが、ダビデの言っている新しい歌です。新しい歌、新しいか恵みへの応答をもって、神様の前に毎日生きて行くこと、これが私たちの生活の基本なのです。

まだデボーションの習慣のない方は、ぜひ、今日、ノートをつくって、時間を取って五分間でも始めてみてください。きっと、あなたの人生は劇的に変化していくことでしょう。

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信じるなら。。。If you would believe (第七のしるし)

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昨日は、二十歳くらいの二人の結... 昨日は、二十歳くらいの二人の結婚式がありました。アメリカは、自分たちで結婚式のテーマや服装、テーマカラーなどを決めます。今回の式は、若い人たちならではの、シンプルかつ個性的なテーマでした。花嫁さんは、きらきらしたスパンコールのドレスで現れました。ブライドメイドは、ベルベットの紺のドレス、グルームスメンは、グレーのシャツとスニーカーでした。。。。。 バージンロードも、花嫁のベール... バージンロードも、花嫁のベールも無し、というスタイルでしたが、式では、伝統的な誓いの言葉があり、聖餐式がありました。それから、ここが若い人ならではかな? 互いに対しての手紙を読み上げました。。。。花婿が本当に、花嫁をどんなことがあっても命がけで守っていくと言ったことが、感動でした。。。。。実は、この花婿さん、小さい時、私はよくベイビーシットしたんですよね。感慨深かったです。。。。。ぐすん。。。。
2016年1月18日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/tNOw9lEc0_0

ヨハネ11:1-45 有名なラザロのよみがえりの奇跡

今日は、いよいよヨハネの福音書七つのしるしの最後となりました。箇所は、ほぼ11章全部で長いので、みなさんで読みながらお話しをすすめていきたいと思います。
さて、今までのしるし、覚えていますか? 水がワインになり、離れている人が癒され、盲人の目が開けられ、水上歩行、五千人以上の給食など。。。どれも人間の力では到底不可能な出来事ですね。今日は、死んで4日たった人が生き返りました。七つの奇跡どれも超自然的としかいいようがありません。七つというのは、ユダヤの文化で完全数です。七つのしるしは、まるでイエス様が念押しして、私たちに、「イエス様と共にある人生は、不可能が可能になる人生である」と繰り返し語っておられるようです。
さて、ヨハネ11章を見て行きましょう。

11:1-6

1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。

★神の時について

とても親しい友達ラザロが病気になりました。そして、イエス様は、そのことを知らされてもその場所になおも二日とどまられました。
私たちは、祈りの答えが早く来ないと、心配になります。悩みだしたりします。しかし、イエス様は、重病のラザロを置いて二日もとどまられたと書いてあります。一つ、もう一度覚えていただきたいことがあります。
私たちは、いつも自分の目先の必要を答えて欲しいと祈ります。それが私たちの目的です。しかし、いつもイエス様の側では、その「祈りの課題が答えられる」ことだけではなく、それとともに、そのことを通して「さらにイエス様との関係が深くなるよう」な答え方をされるのです。
今回も、そうでした。イエス様は、人々がもっと益を受けるために、人々がもっと深いことを知ることが出来るように。それをされたのです。
長く祈り続けていたことが叶えられれば、長ければ長いほど、あなたの信仰は強くなります。また揺るがなくなるものです。

★病気について
また、イエス様は、ラザロの病気のことを聞いて真っ先に、「この病気は、死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。」と言われました。そもそも、人類に罪が入ったから死が入り、病気が入ったのです。しかし、もはや病気は、死ぬためのものでなくなったとイエス様は、おっしゃるのです。それは、神の栄光のためだと。イエス様が、人類の罪の解決のためにきてくださったからには、もはや病気さえも、神の栄光となるのです。

とうとう、イエス様がラザロの家に行く前に、ラザロは死んでしまいます。
V14-15 そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」Then Jesus said to them plainly, “Lazarus is dead. 15 And I am glad for your sakes that I was not there, that you may believe. Nevertheless let us go to him.”

そして、イエス様は、「あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったこひとを喜んでいます。」と言われました。
イエス様は、ご自分のされようとしてることをご存知なのです。私たちにとっては、ちんぷんかんぷんでも。。。。ですから、どんな時にも、神の良い御心に信頼するべきですね。

ラザロの姉妹マルタが、イエス様を迎えました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟はしななかったでしょうに。。。。Lord, if You had been here, my brother would not have died.」と言います。マルタにとっては、もう今更来て貰っても手遅れだと思うわけです。イエス様さえいてくれたら、病気が癒されたのに。盲人も、どんな病気でもイエス様は癒されるのだから。。。。と思ったはずです。

★永遠のいのちについて

イエス様は、答えて言われます。

11:23-27
イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」27 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」

わたしを信じるものは、死んでも生きる。生きている時に、イエス様を信じているものは、死んでも生きる。と言われました。

聖書の中に、”罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。” For the wages of sin is death, but the gift of God is eternal life in Christ Jesus our Lord. ロマ6:23

また、”そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、” And as it is appointed for men to die once, but after this the judgment, ヘブル 9:27

人は、死んだら終わりと考える人が多いですが、実はそうではありません。私たちには、死後永遠の世界がまっているのです、そして、永遠の死か、永遠の生かに入るのです。ですから、その前に、人が地上の生活を終えた後、神様の前に立って、生前の行いを裁かれなければならないのです。

イエス様は、このしるしを通して永遠に死なないいのちを教えるために、あえて、人々にラザロの死の悲しみを通されたのです。そして、死を目の当たりにし、人々は人生の意味について考えたに違いありません。

★信じるなら。。。

いよいよ、イエス様は、死んだラザロのところに向かわれます。イエス様は、人がまぬかれることの出来ない死に対して、非常な憤りを感じられ、涙さました。

11:38-41

38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。

マルタは思いました。死後直後ならまだしも、もう4日もたって、腐ってきているでしょうに。。。今更。。。と。でも、イエス様は言われました。

「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」“Did I not say to you that if you would believe you would see the glory of God?” と。

信じるなら、神の栄光を見る。この病気は死で終わるものではない、神の栄光が現れるためだとも言われました。

ラザロは、葬られた包帯を巻かれたまま、墓から出てきました。ラザロはよみがえりました。ハレルヤ! ラザロは、イエス様によって死に打ち勝ちました! なんという奇跡でしょぅか。人類最大の奇跡ではないでしょうか。

今でも、死人がよみがえった奇跡は、あちこちから報告されています。神様が、同じしるし・メッセージを伝えていらっしゃるのですね。

★このしるしにこめられたメッセージは何か?

イエス様は、なぜ、このようなしるしを見せられたのでしょうか。それは、私たちも、イエス・キリストによって死に打ち勝つことができる。永遠のいのち、死なないいのちに入ることができるという証明です。生きていて、イエス様を信じるものは、神の栄光を見る。この病気は、死で終わるものではない、神の栄光のためだということです。
さて、みなさん、信じるとは、抽象的に感じるでしょう。特に、日本人には漠然としているかもしれません。

こう考えてください。これは、イエス様が十字架に掛かる前、贖いのわざをなさる前のできごとです。ラザロは、イエス様の十字架をのわざを信じて救われたのでしょうか。いいえ、そうではなかったでしょう。

ラザロは、イエス様ととても親しく、愛の通う人間関係を持っていました。

みなさん、信じると言うことは、人間関係を持っているということです。個人的にイエス様のことをよく知っているということです。

あなたは、イエス様のことを信じますか。個人的なつながり、関係を持っていますか? これが永遠のいのちのためには、とても大切なことなのです。他の聖書の箇所で、”わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。” マタイ7

信仰を持つとは、信心するという日本の感覚ではなく、名前を唱える、お経を唱えるというものではなく、イエス様を個人的に知るということなのです。

信じるなら、神の栄光を見ると言ったではありませんか。イエス様を知っているなら、あなたは、必ず、神の栄光を見るのです。

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生まれつきの盲人の癒し ・六番目のしるし

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これは、私の愛用している聖書で... これは、私の愛用している聖書です。今は、携帯などのアプリもあってただで読めて便利です。聖書は、旧約聖書39巻の書物からなり、新約聖書は、27巻の書物からなっています。一番初めに、天地創造から始まり、最後の書物は、世の終わりのお話しで終わっています。内容は、人類の罪の歴史と神様の愛と回復の歴史と預言が書かれています。
もう、何十回も読みましたが、未だに、毎日新鮮に読めます。。。
しかし、分厚いでしょ
2016年1月10日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/4zuaykhnPsc

ヨハネ9:1-7

9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」 9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。 9:4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。 9:5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
9:6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。 9:7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。

今日は、シリーズにもどってヨハネの福音書第六のしるしを見て行きたいと思います。イエス様は、道の途中で、生まれつきの盲人を目に留められました。イエス様の心は、この盲人に向かっていました。私たちは、辛い状況、または、求めがある時に、自分の気持ちは誰も分かってくれないなどと思い孤独を感じることがありますが、それは、必ずしも正しくありません。いつもイエス様は、必要のある者の上に目を留められていることを覚えましょう。

★ 生まれつきの病気の原因?

V2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」And His disciples asked Him, saying, “Rabbi, who sinned, this man or his parents, that he was born blind?”

私たちは、病に直面するときに、何が悪かったのだろうか。。。と考えます。しかも、それが生まれつきの場合には、なおさらです。私にも、長年病を患っているおばがいました。祖母が気に病んでありとあらゆることをやりました。先祖のたたりかと。。。お遍路さんに、お百度参り、霊能者に除霊もしてもらいましたが、結局どれもききませんでした。ほとんどは、先祖供養がなっていないから、たたりなんだと言われました。たくさんのお金も積み増したが、すべて無駄に終わりました。

「この人が生まれつき盲目なのは、だれが罪を犯したからですか?」と、弟子たちは質問しました。
世代に渡る罪のことは、私のおばの件にもある通りに、日本人の方が理解しやいかもしれませんね。罪や、災い病というのは、先祖から受け継ぐものもあるのです。。。だから、あながち、弟子たちが誤った質問をしているわけではありません。

最初の人アダムとエバが罪を犯し、罪が入ったから死が入り、死が入ったらので病気が入りました。人の命は限りあるものとなりました。罪の性質が遺伝し、受け継がれると同時に、病気や死も必ず受け継がれていきます。ですから、この盲目が誰かの罪の結果であることは、もしかしたらあながち間違っている質問でもないかも知れません。

しかし、イエス様は、こう答えられました。イエスは答えられた。

V3「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。Jesus answered, “Neither this man nor his parents sinned, but that the works of God should be revealed in him.

罪の問題を解決し、罪の連鎖を断ち切り、わたし達を祝福を流すものとするために、地上に来られたイエス様が、「神のわざがこの人に現れるためだ」と言われるのです。
私達に、希望があるのです。

★ イエス様がおられる限り、それは神の栄光となる

V4,5 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」4 I must work the works of Him who sent Me while it is day; the night is coming when no one can work. 5 As long as I am in the world, I am the light of the world.”

イエス様が言われているのは、イエス様が私たちと共にいるかぎり、私たちに光があり、昼の間だというのです。そして、光のある間にイエス様を信じるなら、あなたの一番大きな問題であっても、それは、神の栄光のためだと言うのです。

たとえ、先祖から引き継いできた問題、病気、生まれつきの問題であっても、イエス様に出会うならば、それは、神の栄光となるとおっしゃっているのです。ハレルヤ!

★ 預言的行動、つばで作ったドロで。。。

V6,7 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行ったWhen He had said these things, He spat on the ground and made clay with the saliva; and He anointed the eyes of the blind man with the clay. 7 And He said to him, “Go, wash in the pool of Siloam” (which is translated, Sent). So he went and washed, and came back seeing.

これは、七つのうちの第6のしるしです。メッセージ性をもった預言的なできごとです。いつも、気になっていたこのつばのドロの件。。。神様が目を開かせてくださいました。
「つば」とは、しばしば、聖書の中で、恥を表すものとして表現されてきました。つばをかけられると清くなくなったり、相手に辱めを与えたい、恥の象徴としてつばを吐きかけることがありました。(旧約聖書、レビ15:8, 民数記12:14, 申命記25:9 参照) 現代のアメリカでも、日本でもつばというのには、あまりいい意味がありません。つばをかけるのは、汚いと感じますし、あまりいい気持ちにはならないものです。

イエス様は、つばを土に吐きかけそして、それでドロをつくって、盲人の目に塗りました。

思い出してください、イエス様は、完全な人であり、完全な神でありましたね。

そして、聖書の中には、しばしば、最初のアダムと後のアダムという表現をみます。
最初のアダムとは、創世記の初めの人、アダムです。アダムは、神様が土の塵からつくられました。そして、後のアダムとは、イエス様のことです。イエス様は、最初の人アダムのもたらした人類の罪とその呪いを完全に取り除くために来られたのです。しかも、神であられるのに、人間の形を取って。。。ですから、イエス様もアダム、すなわち、土に属しているものとして、後のアダムと呼ばれたのです。

この後のアダムが人類の罪を取り除くことができたのは、ご自身を神の前にささげられた贖罪のいけにえとなられたのです。イエス様は、私たちの罪の身代わりとなって、十字架に掛けられたのです。
イエス様は、文字通りつばを吐きかけられ、平手打ちをされました。人類の恥を一手にその身に負われました。

ですから、つばを掛けられた土は、十字架で恥を受けられたイエス様を表しているのです。

イエス様は、そのドロでこの盲人の目を開けました。
イザヤ書に次のような預言がかかれています。

イザヤ53:5

しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、 私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。But He was wounded for our transgressions, He was bruised for our iniquities; The chastisement for our peace was upon Him, And by His stripes we are healed.

と聖書に書いてあるとおりです。キリストの打ち傷、十字架のわざによって私たちは癒されるのです。

★ 第六のしるし

この出来事か示しているメッセージ・しるしは何でしょうか?

肉体的盲目、また霊的盲目、すなわち、現状を含め何が身のまわりで起こっているか分かっていないということですが、それは、私たちは、罪とその呪い(結果) に縛られてしまいます。見えないこと自体が全てを不可能にしてしまうのです。

イエス様がきて、十字架にかかってくださることによって、私たちの目が開かれることが可能となりました。

そして、罪の呪いから解放することがおできになるのです。
すなわち、癒しがあなたのものとなりました。

それは、どこからくるか。それは、今、イエス・キリストを信じることです。
あなたが、信じるなら、神の栄光を見ることができるのです。あなたの過去がどうであれ、あなたの家系がどうであれ。生まれつきのあなたの性格や性質がどうであれ。

イエス様を信じませんか?

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2016年 新年礼拝 「夢をあきらめないで」

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毎年、新年初めの日曜日は、新年... 毎年、新年初めの日曜日は、新年礼拝です。書初めをしました。今年は、子どもたちが多かったですーー。 お節と持ち寄りの手料理たち。。... お節と持ち寄りの手料理たち。。。。やっぱり、重箱に入っているとお節らしく見えますねぇー。材料の多くは、日本で仕入れてきましたー。 新潟のお餅でお雑煮も。。。とて... 新潟のお餅でお雑煮も。。。とてもきめが細かく、しっかりしたお餅で食べ応えがありました。遠いアメリカまで送ってくれた弟夫婦に感謝!! 下のお話しに出てくる大切にして... 下のお話しに出てくる大切にしていた指輪です。。。真ん中の方の石が一つなくなっていて、長い間つけられませんでした。
みなさん、明けましておめでとうございますー。
本年もよろしくお願いします。

さて、みなさんは、どんなクリスマスをお過ごしになりましたか。
プレゼントの交換などで、楽しくわくわくした時をすごされたと思います。

私も、忘れられないクリスマス、神様にとっても励まされたクリスマスを過ごしました。
それを新年のみなさんへの励ましの言葉にさせていただきたいと思います。

写真の指輪なんですが、以前主人がプレゼントしてくれたもので、私の大のお気に入りです。トルコ石です。この指輪は、一緒にメキシコにも行きましたし、思い出がたくさんあります。

でも、ある日、真ん中の方の石が知らない間に取れていてなくなっていました。
歯抜けになっってしまってこのお気に入りの指輪は、もうごみ同然になってしまいました。もう二度とつけることはできませんでした。

私は、とってもがっかりして、悲しかったんです。石を見つけることは不可能ですし。。

クリスマスの前日に、主人がサプライズがあるとのこと。。何かと思ったら、あの私の壊れた思い出の指輪がなおっているのです。

「わーーー!! どうしたの! ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう!!}

何回もジャンプして喜びました。

主人が言うには、宝石職人のところに持っていって、同じような石を探してそれを削ってもらって小さくしてうまくはめ込んでもらったそう。結構、値段が高くついたようです。

値段が高くつくようなら、あきらめてよかったのに。。。と私は、言いましたが、主人は、指輪と思い出の価値を考えたら、お金を使う価値があると考えたようでした。

感謝でいっぱいで、その指輪をはめてみた時、

神様がこう言われました。

「私は、あなたをこのように回復する。」 と、「今年は、回復の年となる。」と。

人生の中には、たった一つの石がかけているせいで、何かごみ同然に感じるようなことはないでしょうか。ちょうどこの指輪のように。

ずっと願っている一つのことが、このことさえ解決したら私の人生は、とてもいいのに。たった一つのこの問題のせいで、全てが台無しのように感じることはないでしょうか。

神様は、そんな一つの願い、かけた石を見つけ出し、削りそして、あなたの人生にもどしてくださるというのです。

けれども、私たちに一つのことが求められています。それは、もう一度、夢を持つことです。もう一度、回復を信じることです。願うことを始めることです。

もう、あきらめた。もうふたを閉めているような思いはないでしょうか。

聖書の中に次のような言葉があります。

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」ヘブル書11:1

信じることが出来たら、それは、もうかなっていることと同じだ。その完成を本当に見るようになるというのです。心の目でみたら、それは、あなたのものだと。。。

しかし、信仰は、望んでいる事がらを。。。。と書いているとおりに、信仰と望みとは、きっても切り離せないものなのです。

あなたが希望を持つことがないならば、信じることはできないのです。

私のあきらめていた指輪さえ、回復させて私を喜ばせてくださる神様は、

あなたの希望を必ず実現に至らしめてくださいます。

今年、年の初めに、もう一度、望みを回復させましょう。夢を見ましょう。他人が愚かと言うかもしれないと思いますか。。。。

神様とあなたの間で、夢をもう一度もちましょう。

神様は、必ず、あなたの望みを信仰へ導き、そして、神様の栄光を見せてくださいます。

今年も、みなさんの上に神様の豊かな祝福がありますように、お祈りしています。

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嵐の中で In the Storm

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弟から、大量におとり寄せの新潟... 弟から、大量におとり寄せの新潟のお餅が届きました。教会のみなさんでどうぞと。今年の新年礼拝のお雑煮になります。今年は、きっと美味しいお雑煮になりますよーー いつも、12月になると、メイシ... いつも、12月になると、メイシーズにおっきな星が飾られます。遠くからもよく見えます。きれいです。先日、ちょっと時間があいたので、主人とStar Wars 7を見に行きました。その時の写真です。大変な人ででした。。。。寒かったー
2015年12月27日日曜日礼拝メッセージ音声は、https://youtu.be/MugU5Jz_SOU

ヨハネ6:15-21
15そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れていこうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。16 夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。17 そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。18 湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。19 こうして、四、五キロメートルほどこぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。20 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」21 それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。

ヨハネ6:29-30
29 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」30 そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。

年末になりました。今年も振り返って神様のよくしてくださったことを一つ一つ数えると本当に感謝がたえません。神様は、私たちの想像をはるかに超えて私たちに良くして下さる方ですね。
さて、今日はシリーズ五回目、ヨハネの福音書の中の七つのしるしのうちの第五のしるしを見て行きたいと思います。このしるしは、五千人の給食のすぐ後のできごとです。

★ 一人退かれるイエス様 6:15

五千人の給食の後、イエス様は一人で山に退かれました。何をしていたのでしょうか。普通は、何か大成功を収めたり、人の注目を大きく引いたら、パーティを催したりします。選挙で当選したり、ミスユニバースに選ばれたら、パーティをするでしょう。しかし、イエス様は、一人で山に静かにしていました。何をしていたのでしょうか。それは、父なる神様に栄光を返していたのです。父なる神様と二人きりになり、感謝をささげていたのでした。私たちは、物事が順調な時、成功した時、神様と時間をすごすことを忘れてしまいます。そして、友達と喜びあったりします。辛い時、ゴールに向かってがんばっている時などは、よく一人になって神様にお祈りするのですが、かなったら神様のことを忘れてしまいがちです。まず、このイエス様の姿勢を覚えておきましょう。

★ 嵐の中の出来事 v17-21

そして、弟子たちは、すでに暗くなっていましたが、カペナウムに向かって船をだしました。すると、途中で激しい嵐に合います。吹きまくる強風と聖書に書いてあります。こうして、四、五キロ進んで行ったところで、イエス様が弟子たちに向かって水の上を歩いて来られるのを見たのです。周りは嵐です。人が水の上を歩いて近づいてくるのです。弟子たちは、非常に恐れました。
イエス様は「わたしだ。恐れることはない。」と言われました。そして、弟子たちは喜んでイエス様を舟に迎え入れるとほどなく、目的地に着きました。

★ 何のしるしでしょうか。

私たちには、いろんな人生の荒波、試練、嵐があります。そして、私たちは、どこかに解決策がないかと必死に探します。水の上に浮かんだ舟の中にいては、八方塞です。なすすべがありません。しかし、イエス様は、嵐の中を水の上を歩いてまで、ご自分の方から私たちに近づいてくださる方です。そして、「私だ、恐れるな」と声をかけてくださいます。
このしるしは、①嵐の中で私たちを見つけてくださるイエス様のしるしではないでしょうか。そして、また、弟子たちは、イエス様と分かって喜んで舟に迎え入れました。そして、まもなく目的地に着きました。②イエス様を舟に喜んで迎える大切さ。を教えているのではないでしょうか。

★ しるしを見せろという人たち v24-33

群集は、イエス様を探してカペナウムに来た。そして、いつの間に来たのか、と不思議に思った。そして、イエス様は、言われます。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なるなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなた方に与えるものです。この人の子を父、すなわち神が認証されたきらです。」

そこで、人々は、「神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」と問います。イエス様は、「あなたがたが、神が遣わされた者を信じること、それが神のわざです。」

◎神が遣わされた者を信じること、それが神のわざです。”This is the work of God, that you believe in Him whom He sent.”

これさえあれば、私たちは、なくならない食物のために働くことができる、と言うのです。人々を満足させ、心を満たし、永遠にいのちに至る確実なものを手渡すことができるようになるには、イエス様を信じることだ、と言うのです。

しかし、人々はいいました。では、信じれるようにもっとしるしをくれと。。。信じさせてくれ、何々をしてくれたら信じてあげる。これは、信仰、信じることではないのです。なぜなら、それは、疑いと恐れからきているからです。疑いは、信仰の真逆から来ています。これが真実だと説得して、論破してくれたら信じるよ。これは、条件付のものです。その条件がクリアしないなら、信じないと言っているのです。

イエス様は、弟子たちに言われたでは、ありませんか。
「私だ。恐れるな。」It is I; Do not be afraid. 弟子たちは、嵐の中でもイエス様を喜びました。そして、舟に迎え入れたではありませんか。そして、イエス様とともに目的地に着くことが出来ましたね。

これが、あなたへのしるしです。恐れから、物事を判断しないように。恐れや疑いのフィルターから信仰を持とうとしなでください。
ただ、「私だ、恐れるな」と近づいてきてくださるイエス様を、喜んでお迎えしようではありませんか。イエス様は、必ず、私たちをその目的地に一緒に連れて行ってくださいます。

信仰とは、How TO 本のようではありません。信じることは、何か漠然としてつかみどころのないことのように、ギリシャマインド化した現代人には思えます。しかし、信頼してイエス様を心にお迎えすることが、全ての鍵です。あなたが、永遠のいのちに至る食べ物のために働く鍵であり、あなたの人生の方向性の鍵であり、あなたの問題を解決する鍵でもあるのです。

ただ、信ぜよ。

これが、ヨハネ6章の嵐の中でのしるしのメッセージです。


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羊飼いのクリスマスChristmas Brought to Shepherds

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こないだのクリスマス会のときの... こないだのクリスマス会のときの写真。
ちびっこたちもタンバリンで、クリスマスキャロルを歌いました。
この日は雨だったので、ウサギの長靴の子も。。。微笑ましいですね。
くるりと振り返り、モデルなみの... くるりと振り返り、モデルなみの、小さいさん。

みなさん、いつもブログに訪れて下さってありがとうございます。
もうすぐクリスマス。みなさんの上に神様の祝福が豊かにありますように。

メリークリスマス!!
2015年12月20日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/yLKKZYRR0LY

ルカ2:8-20

2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。 2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。 2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。 2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」 2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。 2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」 2:15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」 2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。 2:17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。 2:18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。 2:19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。 2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

★ 羊飼いたちに届けられた知らせ

羊飼いたちが野宿をして羊の番をしているとき、天使たちが夜中にやってきて素晴らしい知らせを告げました。それは、
◎民全体のための素晴らしい喜びであった。

羊飼いは、卑しい身分とされていた。高い教育を受けているのは、宗教学者たちであり、尊敬されていたのは、宗教学者たちであった。羊飼いというのは、世の尊敬で言えば、真逆の存在であった。

民全体のための素晴らしい喜びの知らせなら、どうして、もっと違う伝え方をしなかったのだろう。事実、王の王、主の主の誕生に関わることなのですから。。。
今の世の中だったら、きっとテレビ、ラジオ、インターネット、ユーチューブ、インスタグラム、ツイッターなどで伝えただろう。また、内閣総理大臣にそのような重要なことは、一番に伝わるはずです。

しかし、天使たちは、野にある、貧しい教育もない羊飼いたちに訪れたのです。

これは、何を示しているでしょうか。
神のやり方と人のやり方は全く違うということですね。まず、天使たちは、まず羊飼いのところにキリストの大ニュースを伝えたのです。

不思議ではありせんか。
しかし、考えてみると聖書は、一貫して言っています。

1コリント1:28

また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。and the base things of the world and the things which are despised God has chosen, and the things which are not, to bring to nothing the things that are,

神の選びと人間の選びとは全く違うのです。

考えてみてください。あなたがキリストに出会った時は、全てが順風満帆で高い地位にあって全て満足していたときだったでしょうか。むしろ、多くの人が、貧しさや苦し み、痛み、弱さを覚えている時に、出会ったのではないでしょうか。

神様は、真っ先にそのような弱さを覚えている人たちに手を差し伸べる方であることを覚えましょう。また、今あなたが、私は、罪深くて、聖書のことも何もしらないし、ク リスチャンになる資格がないと思っているかもしれません。そういうあなたこそ、神様 は手を差し伸べてくださるのです。

羊飼いたちは、恐れましたが、「恐れることはありません。」と天使たちは、語りかけ たとおりです。いい知らせがあなたの手元まで来ています。いい知らせは、あなたのものです。恐れることはないのです。

★ 飼い葉おけのしるし

天使たちは、続けて言いました。2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」 11 For there is born to you this day in the city of David a Savior, who is Christ the Lord. 12 And this will be the sign to you: You will find a Babe wrapped in swaddling cloths, lying in a manger.”

救い主が生まれたよ。と。そして、あなたがたは、見つけますよ。どんな赤ちゃんかと言うと、布に包まって、飼い葉おけに寝ておられるみどりごだと。。。。
それが、あなた方のためのしるしです。と。

しるしとは、毎回言っていますが、サインですね。看板のように、それを見たら、はっと分かる。それが何を意味しているか分かるものですね。

羊飼いたちには、はっとする理由がありました。
それは、人々がいつも集まりにぎわっている民族の中心地、エルサレムの都会。そこには偉い祭司やら宗教学者たちがいる。そして、大切な仕事を羊飼いたちにお願いするのでした。傷のない非の打ち所のないよい子羊がいたら、それを傷つけないようにするように。私たちが引き取りに来るから。。。と
羊飼いたちは、良いひつじを見つけたら、傷をしないように、布に来るんで、飼い葉おけに置いたのでした。
その羊というのは、旧約聖書の時代から、人の罪のための贖いの動物として神の前にささげられていたものでした。
羊飼いたちは、天使たちの言葉を聞いて、はっとしたのではないでしょうか。
「いよいよ、本当に私たちの罪を取り除く救い主がこの世に来られたのだ」と。
「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」“Let us now go to Bethlehem and see this thing that has come to pass, which the Lord has made known to us.” と急いで見に行きました。

そして、聞いたとおりだったので、神をあがめて賛美したのでした。

★ 神の小羊イエス・キリスト

この世の問題は、全て私たちの罪から来ています。理想を語ることはいくらでもできますが、どんな世界の問題の解決策について話し合っても、私たちの心の中が変わらないなら何も変わらないのです。
イエス・キリストは、その全ての問題の根源である世の罪を取り除くためにこの地上にこられました。
そうです。飼い葉おけに入れられたこひつじのように。いつか、神様の前に、ほふられるために。死ぬためにこられたのです。

そして、その時は、来ました。それが有名な十字架のシーンです。
イエス様は、罪を犯したこともないに、私たちの罪の身代わりのために十字架にかかって、私たちの本来追うべき恥、苦しみ、罪の罰、罪から来る結果それは呪い、全てを引き受けてくださったのです。

★ あなたの心にもクリスマスを

   この飼い葉おけに寝かされていた、あの赤ちゃんは、あなたのためにほふられた贖いの小羊となられました。
どうして、この民全体のための素晴らしい知らせなのでしょうか。それは、誰でもこの方を信じる人は、罪が赦されて天国に行けるからです。永遠のいのちがいただけるからです。
そして、この人類最大のプレゼントをイエス・キリストがあなたに下さったのです。
プレゼントは、受け取らなければ自分の物になりません。あなたの目の前に今おかれたプレゼントを受け取りませんか? そして、本当のクリスマスを心に迎えましょう。

ヨハネの福音書3:16
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
"For God so loved the world, that He gave His only begotten Son, that whoever believes in Him shall not perish, but have eternal life.




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増えたパン・第四のしるし Multiplied Bread

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教会のランチタイムに皆さんにお... 教会のランチタイムに皆さんにお誕生日をお祝いしていただきました。今年は、どんな年になるでしょうかー。 夜は、一日早いですが、お誕生日... 夜は、一日早いですが、お誕生日ディナーに行きました。雨が降ってシアトルらしい夜でした。ブルガリヤ料理、お店の人も大変フレンドリーで二時間くらい話しこみました。楽しかったです。
2015年12月13日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/4K7_QQb3KkM

ヨハネ6:1-14

1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。
2 大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。4 さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。
5 イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」
6 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。7 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
8 弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」10 イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。11 そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。
12 そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」
13 彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。
14 人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。

今日の箇所は、有名なイエス様の五千人の給食の奇跡の箇所です。今日のしるしから、私たちは何を学ぶでしょうか。ご一緒に見て行きましょう。

★ ピリポを試して言われた

4 さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。
5 イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」
6 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。

イエス様は人気がありました。どこに行っても多くの人がついてきます。
イエス様は、「ピリピを試して言われた」とあります。そして、「自分では、しようとしておられることを知っておられた。」と。ピリピには、イエス様と一緒にいるとどんな働きができるのか、イエス様とともにある人生がどんなものであるのかをその身をもって体験することとなったのです。
あなたの人生に、イエス様がともにいれば、どんなことが起きるのでしょうか。
期待をもって読んで見ましょう。

ピリピには、よく分かりませんでした。V7 以降で、今から食べるものを買いに行ったとしても莫大な金額と労力がいる、これだけの大勢の人たちを食べさせるのは不可能に近いと結論を出します。

私たちの頭で算用して、不可能だと思えることは、この世の中にたくさんあります。
ピリピも、人間の知性をつくして考えてみたけれども良いと思える結果に出会えませんでした。

★ 一人の少年のお弁当

そこに、一人の少年が自分が食べるお弁当を持っていて、それを使ってくださいと差し出したのです。
しかし、このことも、弟子たちは、「一体なんの足しになるのか」とばかばかしいこととして取り上げたのです。

しかし、イエス様は、言われました。
それを持ってきなさいと。

人間の頭で考えてばかばかしいと思えるような小さいものを神様は、用いられるのだということをここで忘れてはいけません。

あなたは、自分が神様に用いられるなんて、まさかと思うでしょうか。しかし、よく聖書を読んでみてください。まさかこの人が。。。という人に限って神様に大きく用いられているのです。聖書の中で、まさかこの人がという人こそが、イエス様から賞賛の言葉を受けているのです。
あなたは、神様の仕事をするには、小さすぎると自分のことを評価していますか?
あなたこそ、相応しいのです。
ただ、イエス様を愛して、イエス様のなさることに信頼して、自分の小さな持てるものをイエス様の手の内に指しだすなら。。。

★ 分けるごとに増えたパン

   イエス様は、少年のお弁当を受け取ると、それを祝福しました。そして、皆を座らせて自分の分を取ったら隣に回すように指示しました。パンは、取ってはまわし、取ってはまわされました。そして、半分にバンを裂くごとに増えていきました。全員が満腹になって、まだ12のかごにバンがいっぱい余るほどでした。当時男だけで五千人と数えられていますから、女子どもを入れるとどれほどの人数だったことでしょうか。みんな満腹したのです。

★ イエス様のしるしが示すものは

この章の後ろの方、48-51 節に 「イエスさまがいのちのパン。生けるパンである。」と、書かれています。そして、誰でもこれを食べるものは永遠のいのちをもつことができる。もう、渇くことがない。もうお腹がすいたということがない。イエス様が全ての問題を解決し、そして満たしてくれることの出来る方である。ことを示しています。

イエス様は、五千人以上の大群衆をたった二匹の魚と五つのバンという小さなお弁当で満腹にすることが出来ました。

イエス様と共にある人生は、このように豊かに増し加えられるのです。

そして、イエス様が来られ、十字架と死と葬りと復活と昇天によって可能になったことは、私たちがこのいのちを手渡していくことが出来るようになったのです。
隣の人に分かち合うことができる。ピリポに言われたように、私たちでこのパンを手渡していくことが出来る。
そして、自分の手の内にあるパンを隣に分けていく。すなわち、自分の手におさまるくらいの知識、能力で十分ということです。私たちは、時々伝道するのに、あまりにも知識が無いとか、自信がないとかいって伝道するのが億劫になります。しかし、あなたが食べて満足した、そのパンを手渡せばいいのです。
実際、人がキリストに導く人数は、その人の幼い信仰のときのほうが多いと言われています。年数がたてば立つほど、億劫になったりするものです。
少年のお弁当のパンを思い出してください。イエス様が祝福されて、みなに渡しました。あなたの手にある福音は、すでにイエス様に祝福されています。これ以上なんのつけたしも必要ありません。そして、このパンは、無くなることがありません。手渡せば手渡すほど増えていくのです。

ただ、第一歩の勇気、少しのあなたの犠牲が必要なのです。

後は、神様の業です。

神様の奇跡がついてくるのです。恐れずに、となりの人に分けていきましょう。

今は、クリスマスのシーズンです。日本人には、一番浸透しているキリスト教に由来するシーズンです。クリスマスの本当の意味を伝えようではありませんか。


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ファミリークリスマス

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今年は、子どもたちがいるので、... 今年は、子どもたちがいるので、ランチタイムにかけて。。。美味しいランチをいただいています。留学生さんたちです。 図らずも女性テーブル 図らずも女性テーブル 図らずも男性テーブル 図らずも男性テーブル 図らずも家族テーブル 図らずも家族テーブル 交換プレゼントをしました。これ... 交換プレゼントをしました。これは、プレゼント置き場です。何があたるかなーー? 今年も、楽しいゲームをしました... 今年も、楽しいゲームをしました。これは、ゲームの景品をもらっている人たち。。。何にしようかな。。。みんな迷っています。混雑してますねー これにしよう! これにしよう! 交換プレゼントタイム。プレゼン... 交換プレゼントタイム。プレゼントは、もらってすぐ封を開けるのが、アメリカ流。こんなのもらっちゃったーーーー。ありがとうー 子どもたちは、クリスマスキャロ... 子どもたちは、クリスマスキャロルに合わせてタンバリンに、パーカッションを鳴らして、のりのりでした。映画タイムには、みんなでくっついて座って、とってもおりこうさんでした。

メリークリスマス!!

今日は、教会毎年恒例のクリスマス会でした。

去年に続き、今年も直前キャンセルがおおかったり都合のあわないかたが多かったですが、楽しくすごすことが出来ました。

日本人教会してやりがいがあるのは、クリスマスシーズンです。

というのも、クリスマスの本当の意味を知らない人が多いからです。

クリスマスって何の日でしょうか?
と言う質問には、たいがい、サンタさんが来る日、とか、ケーキの日などと言う答えが返ってきます。

では、どうして、プレゼントをお互いに交換したりするんでしょうか?
という質問には、無言になります。あ、なんでだろう。。。って。

クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝う日です。

イエス様が地上に来られたのは、天地万物を創造された天の神様からの人類最大のプレゼントです。

というのも、このイエス様によって、信じるもの誰でもが天国に行けるようになったからです。

人は、一度死んで生前の行いを裁かれることは、聖書に書かれてあります。誰でも、瀕死体験をした人は、目の前を走馬灯のように生前の悪事が思い出されるといいます。。
小さなうそも、人に知られてない心の奥底の憎しみも、聖い神様に裁かれないといけないのです。

しかし、私たちを愛された神様は、イエス様を二千年前に地上に送り、そして、私たちの罪の身代わりとして十字架につけられ、死に葬られ、三日目に蘇られました。
誰でも、それを私のためだと信じて受け入れるなら天国に行ける、永遠のいのちをいただけます。

イエス・キリストによる永遠のいのちこそ、私たちへの最大のプレゼントなのです。

私たちは、あまりにも大きなプレゼントをもらったので、周りの人にもおすそ分けしたくて仕方がないのです。

十億円当たるというCMが日本では流れていましたけど、もし十億当たったら、回りの人に十万円ずつでもおすそ分けしたい気持ちに、気前の良い気持ちになりませんか?

神様にたくさんたくさん愛されているので、私も隣にいる人を愛したいと思うのです。少しでもこの愛を隣の人に分けたいと思うのです。

これが、クリスマスの本当の精神です。

義務的にプレゼントを贈るのでもない、何かしらないけど、プレゼントのシーズンだから商業におどらされてプレゼントを贈るのでありません。サンタさんだって、キリストの愛に動かされて、悲惨な人生を送っている人たちを救いたくて、プレゼントをしたことがきっかけで広まったことです。。。

本当のクリスマスは、

イエス・キリストと言う大きな神様からのプレゼントに感動して、互いに祝福し合う時なのです。。。

今年も、このメッセージを伝えることが出来て嬉しかったです。

本当のクリスマス。

本当のクリスマスプレゼント、あなたも受け取りませんか?

聖書の言葉

ヨハネ3:16

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世(あなた)を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
For God so loved the world, that he gave his only Son, that whoever believes in him should not perish but have eternal life.

日本は、師走。
忙しく、寒い時期ですが、神様の祝福に満ちた心が温まる時をお過ごし下さい。



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