毎週木曜日、母と子どもの集い、ロバの子クラスのおもちゃタイム
こちらは、おやつタイム。。。子どもたちは、いつも楽しく遊び、ママたちは、楽しく交流しています。
各家族の祝福を祈りつつ。。。。
2015年10月11日日曜日礼拝音声、https://youtu.be/Bao4Opwwg_0
エゼキエル15:1-5
1 次のような主のことばが私にあった。
2 人の子よ。ぶどうの木は、森の木立ちの間にあって、その枝が、ほかの木よりどれだけすぐれているのか。
3 その木を使って何かを作るためにその木は切り出されるだろうか。それとも、あらゆる器具を掛けるためにこれを使って木かぎを作るだろうか。
4 見よ。それは、たきぎとして火に投げ入れられ、火がその両端を焼き尽くす。その中ほども焦げてしまえば、それは何の役に立つだろうか。
5 見よ。それが完全なときでも、何も作れないのに、まして、火がそれを燃やして、焦がせば、もう、それで何が作れよう。
◎イスラエルの民の存在の意味
2 人の子よ。ぶどうの木は、森の木立ちの間にあって、その枝が、ほかの木よりどれだけすぐれているのか。“Son of man, how is the wood of a vine different from that of a branch from any of the trees in the forest?
① どこに自分を置いているのか?
イスラエルは、森の木立の中にあった。
彼らは、自分の立ち位置を間違えたところにおいている。
イスラエルは、ぶどうの木に聖書の中でも何回もたとえられている。また、自分たちでもそう例えている。
どうして森の木立の中にいるのか? 彼らは、神を頼みとすることなく、他の国々のようになろうとしていたのだ。他の国々と契約を結び、より頼んできた。自分たちが神の所有の民であることを忘れ、また、神との契約を持っている民であることをすっかり無視した生き方をしていたのです。
よく、自分探しで、アメリカやカナダに来る人がいますが、この世に自分探しをしても見つかりません。私たちの造り主は神様ですから、私たちのアイデンティは、神の国に行かなければならないのです。
あなたは、自分の身をどこにおいていますか? 間違った競争の中においてはないでしょうか。神様がデザインされてない、他の者になろうとしていないでしょうか?
② イスラエルの目的は何か? あなたの人生の目的は何か?
また、イスラエルには、驕りがありました。それは、他の木とは、違うということです。それは、自分たちは、ぶどうの木であって、森の木立の木々は実を結ばないが、自分は、実をつけることができると。。。
しかし、神は、言われます。
3 その木を使って何かを作るためにその木は切り出されるだろうか。それとも、あらゆる器具を掛けるためにこれを使って木かぎを作るだろうか。Is wood ever taken from it to make anything useful? Do they make pegs from it to hang things on?
森の木立の木々と自分を並べているが、森の木立のように固い木ではなく、蔓であるぶどうの木からは、何も作ることが出来ないと。。。
ぶどうの目的は、実を結ぶことです。また、実を結ぶためには、農夫たちの手がなければ多くの実を結ばなければ、美味しいぶどうもできないのです。
イスラエルは、農夫である神様の御手の中に、いなければならないのです。森にいるべきではないのです。神の農園にいるべきなのです。
実を結ばない、ぶどうの木は、役にたたないので、燃やすしかない。。。と、5節にあります。
私たちに何を教えているでしょうか。新約聖書では、このように書かれています。 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。“I am the true vine, and My Father is the vinedresser.
ヨハネ15:2
2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
2 He cuts off every branch in me that bears no fruit, while every branch that does bear fruit he prunes[a] so that it will be even more fruitful.
ヨハネ15:5
5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
“I am the vine; you are the branches. If you remain in me and I in you, you will bear much fruit; apart from me you can do nothing.
私の証し:
神様に生き方を試されたことがあった。若いころ、神様に全てをささげて献身しようとしたとき、道が閉ざされた。そして、一旦仕事をやめたが、再就職することになった。給料は、当時の同じ年頃の女性の二倍以上はあるが、徹夜もあるような忙しい職場で、みな、キリスト教ぎらい。キリストの話は絶対にしてはいけないと言われた。自分の時間もなく、喜びもなくなった。そんな時、聖書の言葉がよみがえった。「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」という言葉だった。そうだ。私のしたいことは、やっぱり実を結ぶことだ。食べ物を買うためのお金のためではない。これが、私の生き方だ。と、もう一度、自分の人生の目的をはっきりとさせることができました。その職場のあと、信仰によつて、神様の仕事を現在に至るまでしています。
私たちは、もともと、神に造られた者たちです。人生の目的も、実りの内容も神様がよくご存知です。神様が、実を結ぶようにデザインされたからです。
この神様なしでは、この森の木立の木々の中にいるイスラエルのようになってしまうのです。
キリストなしでは、人生の目的が果たせないのです。
あなたは、イエス・キリストに出会っていますか?
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
“I am the vine; you are the branches. If you remain in me and I in you, you will bear much fruit; apart from me you can do nothing.
キリストにつながっていなければ、私たちは、実を結ぶことができない。何もすることが出来ないと書いてあります。
毎日、キリストと繋がっているでしょうか?
キリストなしでは。。。私たちは、何もできないのです。
ぼ
自転車の置物、ザンビアで手作りされたそうです。$70 自転車のないところに送られるのかな? 大好きなフリモントのチョコレート工場Theo チョコレートのお店にて。。。。Theo チョコレートは、youtube でおなじみの、しゃべる猫シオちゃんのモデルになったものです。チョコの包みに猫がついているので。。。。
新しい学生さんたちが宮崎県から。。。ゆみちゃんと一緒に、フリモントを案内しました。ここは、ガスワークスパークですー。
事務所のお花は、こんなにも満開ですーー。たくさん花をつけましたーー。すごい!
2015年10月4日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/tRjCfvZhbUg
エゼキエル13章、14章
13章では、偽預言者への審判が語られ、14章では、偽預言者に追従する者への警告が語られています。
預言とは、神からの言葉を預かりそれを民に語ることです。自分の言葉ではありません。また、預言者とは、それをするように召されたものです。そして、旧約聖書の時代は、全員がそれをしているわけではなく、ごくごく数人の神様に選ばれた人がその仕事をすることが出来ました。
新約の時代は、誰でもが神様の声を聞くことが出来るようになりました。また、私たちの内に神様が住んでくださるのです。
今日は、13章、14章を通して、私たちが注意しなければならないこと、神様からの新約に住む私たちへのメッセージをいただいて行きたいと思います。
イスラエルの預言者ども。。。と言って神様はお叱りの言葉を語られています。時は、混乱、苦悩、この先自分たちの生活はどうなっていくのだろうという、捕囚の時代のお話です。
そんな時に、まやかしの言葉、預言と言いながら、自分の心のままに預言しているものがあったようです。
神様は、次のように偽預言者にたいして裁きの言葉を語られています。
エゼキエル13:2-3
2 「人の子よ。預言をしているイスラエルの預言者どもに対して預言せよ。自分の心のままに預言する者どもに向かって、主のことばを聞けと言え。3 神である主はこう仰せられる。自分で何も見ないのに、自分の霊に従う愚かな預言者どもにわざわいが来る。2 “Son of man, prophesy against the prophets of Israel who prophesy, and say to those who prophesy out of their own heart, ‘Hear the word of the LORD!’” 3 Thus says the Lord GOD: “Woe to the foolish prophets, who follow their own spirit and have seen nothing!
そもそも、バビロン捕囚は、民への教訓であり、懲らしめでありました。今まで、どんなに警告しても悔い改めない偶像礼拝の罪によって引き起こされたことでした。
けれども、神の預言者を名乗っている人たちが心のままに、神の霊に従わないで、自分の霊に従って預言していたのです。大丈夫だ、大丈夫だと。。。
全く、神様と、イスラエルの民との関係の文脈から外れてしまっている。この文脈でいうなら、平安や、国の安泰と言うのは、民の悔い改めがなければありえないはずである。
◎ 文脈が大事
私たちも、聖書を読むときに、切り貼りするように神の言葉を自分に適用することは、間違う可能性がある。聖書の中には、さまざまな言葉がある。励ましや、慰め、叱責やいろいろとありますね。それを、聖書のストーリーの文脈を無視して、切り取って、自分に適用するのは、愚かなことです。自分の人生の文脈とあっていたり、今の状況にあっていることを適用するものです。また、神様と自分の関係の文脈に大幅にかけ離れている言葉は適用できないはずです。
私は、このような経験があります。。私を愛しているし、私のためを思っているからこその言葉なんだろうけど、神様のものではない気がすることがありました。。。
私は、なかなか結婚に導かれませんでした。今まで、いろいろな良いともだちに、祈っていて示されたというような言葉をもらいました。誰々さんとあなたが昨日結婚する夢を見ました。とか、もうすぐ結婚するとか。。。特に、私が意中の人と私が結婚する夢を見ましたといってこられた時は、神様からの預言だと思って、その人は、神の言葉を語ったと信じました。しかし、そうはならなかったのです。
聖書は、預言の言葉は吟味するべきだと書いています。おさらいしてみましょう。
◎ 預言の吟味について
聖書では、預言は吟味すべきだと書いてある。
Ⅰコリント14:26-33
兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。
27 もし異言を話すのならば、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい。28 もし解き明かす者がだれもいなければ、教会ではだまっていなさい。自分だけで、神に向かって話しなさい。29 預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。30 もしも座席に着いている別の人に黙示が与えられたら、先の人は黙りなさい。31 あなたがたは、みながかわるがわる預言できるのであって、すべての人が学ぶことができ、すべての人が勧めを受けることができるのです。32 預言者たちの霊は預言者たちに服従するものなのです。33 それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。
How is it then, brethren? Whenever you come together, each of you has a psalm, has a teaching, has a tongue, has a revelation, has an interpretation. Let all things be done for edification. 27 If anyone speaks in a tongue, let there be two or at the most three, each in turn, and let one interpret. 28 But if there is no interpreter, let him keep silent in church, and let him speak to himself and to God. 29 Let two or three prophets speak, and let the others judge. 30 But if anything is revealed to another who sits by, let the first keep silent. 31 For you can all prophesy one by one, that all may learn and all may be encouraged. 32 And the spirits of the prophets are subject to the prophets. 33 For God is not the author of confusion but of peace, as in all the churches of the saints.
新約聖書では、教会の徳を高めるために預言はある。と、言っています。イエス様が来られて、更に恵みがましている時代となっています。イエス様の十字架によって罪が赦されているからですね。
預言の吟味の仕方は、次の三つです。
①聖書の真理にあっているか、神様のご人格にそっているか。
②他の人の口からも同じ預言が語られる。(預言の言葉が与えられてどうしても自分が語らなければならないと重いがちですが、タイミングがなくても、預言の言葉はそもそも神様からくるので、自分から出なくても、必ず同じ言葉が他人の口からも出てくるのです)
③自分の霊が確証するか。自分の深いところで、アーメンという感覚が与えられます。
◎ 本物を知る必要性
偽札を見破る一番の訓練は、本物のお札によく触れ、よく見て経験することだそうです。そうすれば、偽札が来た時、すぐに手触りだけでもすぐに識別できるのだそうです。
私たちは、どれほど本物を知っているでしょうか。神様の言葉、神様のご性質。。。
ヨハネ10 羊は羊飼いの声を良く知っている
エゼキエル14:3
3 「人の子よ。これらの者たちは、自分たちの偶像を心の中に秘め、自分たちを不義に引き込むものを、顔の前に置いている。わたしは、どうして彼らの願いを聞いてやれようか。3 “Son of man, these men have set up their idols in their hearts, and put before them that which causes them to stumble into iniquity. Should I let Myself be inquired of at all by them?
偽の預言、または、偽の預言者について行く人たちにも特徴があるようです。
◎心に秘めた偶像について
神様は、はっきりと、心に偶像がある、と指摘しています。その隠された偶像が、偽預言を引き寄せているのです。
私の体験談にあったとおりですね。私の心の中に意中の人と言う、偶像があったので、偽の預言が来たときに、その言葉を簡単に信じてしまったのです。カチンとかみ合って、磁石が引き合うようにくっついてしまったのです。
心の中に、あなたの隠れた神(偶像)がいるならば、その偶像にあうことしか、人は聞こうとしないのです。偶像のフィルターを通して物事を聞くようになるのです。その偶像にあうものだけを聞いて、それにあわないと、聞かないのです。結局、人と言うのは、自分の心の中心にあるものにのみ仕えるものなのです。二人の主人に仕えることができないと、イエス様が言われたとおりですね。。。
一人でバイブルスタディをしたり、聖書を読んでいても同じことです。心に偶像があるなら、あることしか、心に響きません。そうなれば、霊的な成長もできないのです。
◎悔い改めが、全てを変える
聖書では、私たちの考えのフィルターをのぞくことが出来るのは、心の一新であると書かれています。(ロマ12:2) それは、悔い改めによります。
神様は、エゼキエル14章で、偶像を捨て去りなさい、悔い改めなさいとすすめておられます。神様は、裁きのみを強調する神ではありません。必ず、私たちの更生と改善、私たちの真の幸せのために叱ってくださいます。神様は、いつも私たちの悔い改めを待っていてくださいます。
私たちが、神の声を聞こうとするとき、聖書を読むときに、一番にすべきことは、神様の前に心を空っぽにすることですね。心にある悩みを全てイエス様の足元において、そして、頭の中にいっぱいにある、将来の計画や今日しなければならない日程など、全ておいて、神様の前に、悔い改めるべきことは、悔い改め、真っ白な状態で神様に向かうのがいいですね。
神様は、私たちの空っぽの心を愛でいっぱいに満たして下さることでしょう。
ぼ
今週は、木曜日に二人の学生さんが夕食に来てくれました。チキンチリスープを作りました。エリックが食べ方を説明しています。。。学生さんは、シェアハウスに住んで自炊なので、お料理をしなければいけないので、今度からは、クッキングクラスをすることになりました。
事務所の鉢植えが、花をつけましたーーーー。一年近く前なので、どんなお花か忘れていましたが、かわいいですーーー。
日曜日の礼拝に、初めて来てくれた、Mちゃんと、教会リーダーと。。。Mちゃんは、お家が遠いので、前日我が家に泊まりました。。。Mちゃん、また来てね。
礼拝後、お天気だったので、留学生さんたちを連れて、ビーチにいきました。すごい人です。風か強くて、冷たくて、耳がちぎれそうになりました。。。風は、秋ですね。
2015年9月27日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/wLXotvUnnas
エゼキエル7-11章
メイン聖書箇所エゼキエル10章
今日の聖書箇所は、長いので全部は読めませんが、少しずつみていきましょう。みなさんが今週、聖書を読んでくださったと信じてお話しを進めていきます。
さて、エゼキエルは、7章で、エルサレムに終わりが近づいたことを預言します。それは、神の怒りゆえでした。そして、8章では、エゼキエルは神の霊に連れられて、どのように民か偶像礼拝をし、そして、神から心が離れているかを見せられます。しかし、8章4節には、そこに、神の栄光がありました。「なんと、そこには、わたしがかつて谷間で見た姿と同じようなイスラエルの神の栄光があった。」And behold, the glory of the God of Israel was there, like the vision that I saw in the plain.とあります。
神を信じるあなた、あなたの上に神の栄光がのぞんでいることをご存知でしょうか?
エゼキエル8:5,6
その方は私に仰せられた。「人の子よ。さあ、目を上げて北のほうを見よ。」そこで、私が目を上げて北のほうを見ると、北のほうの祭壇の門の入口にねたみの偶像があった。6 この方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたは彼らのしていることが見えるか。イスラエルの家は、わたしの聖所から遠く離れようとして、ここで大きな忌みきらうべきことをしているではないか。あなたはなおまた、大きな忌みきらうべきことを見るだろう。」
Then He said to me, “Son of man, lift your eyes now toward the north.” So I lifted my eyes toward the north, and there, north of the altar gate, was this image of jealousy in the entrance.6 Furthermore He said to me, “Son of man, do you see what they are doing, the great abominations that the house of Israel commits here, to make Me go far away from My sanctuary? Now turn again, you will see greater abominations.”
エゼキエル8:12
この方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたは、イスラエルの家の長老たちがおのおの、暗い所、その石像の部屋で行なっていることを見たか。彼らは、『主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てられた。』と言っている。」
Then He said to me, “Son of man, have you seen what the elders of the house of Israel do in the dark, every man in the room of his idols? For they say, ‘The LORD does not see us, the LORD has forsaken the land.’”
◎本当に神が人を見捨てられたのだろうか。。。
最初の人アダムとエバを思い出してください。彼らに罪が入る前は、栄光の衣につつまれていて、裸でいることが分かりませんでした。彼らが神の前に罪を犯したとき、栄光の衣がなくなり裸でいることに築き、恥を感じ、身を隠しました。自分から、神から離れて行ったのです。ですから、神の臨在から離れてしまったわけです。
長老たちの言っていることは、自分たちの思うとおりにならないから、神はおられないと結論ずける、まさに偶像礼拝の心なのでした。
偶像と人の心の問題。偶像は、いつも神と人との関係の間に入る異なる神である。神は、「よたしの他に神々があってはならない。それらを拝んでも、仕えてもならない。」とおっしゃる神である。あなたの中に神よりも、信仰よりも大切なもの、手放せないものがあるとしたら、それは偶像なのです。手放すことをしないために必死で努力することは、偶像に仕えることです。
苦難の時、長く続いている試練の時、長老たちは、自ら神を捨てることを選んでいたのだ。神が見放している、神が私たちのことを見ていないと言っている。むしろ、長老であるならば、神の言葉にしたがい、神の言葉を宣言していくべできなかっただろうか。
今日のテーマは、離れている神の栄光です。エゼキエル書10章では、神の栄光が徐々に、神殿からさり、エルサレムから去る様子が書かれています。本当は、10章全部を読めばいいのですが、長いので、割愛します。
8章では、聖所のなかから輝いている神の栄光でしたが、9:3神殿の敷居にうつり、10:18-19また、東の門に移り、そして、11:23東の山に移っていく様が書かれてあります。
エゼキエル9:3
そのとき、ケルブの上にあったイスラエルの神の栄光が、ケルブから立ち上り、神殿の敷居へ向かった。それから、腰に書記の筆入れをつけ、亜麻布の衣を着ている者を呼び寄せて、
Now the glory of the God of Israel had gone up from the cherub, where it had been, to the threshold of the temple.[a] And He called to the man clothed with linen, who had the writer’s inkhorn at his side;
エゼキエル10:18-19
主の栄光が神殿の敷居から出て行って、ケルビムの上にとどまった。19 すると、ケルビムが翼を広げて、私の前で、地上から上って行った。彼らが出て行くと、輪もそのそばについて行った。彼らが主の宮の東の門の入口で立ち止まると、イスラエルの神の栄光がその上をおおった。
Then the glory of the Lord departed from the threshold of the temple and stood over the cherubim. 19 And the cherubim lifted their wings and mounted up from the earth in my sight. When they went out, the wheels were beside them; and they stood at the door of the east gate of the Lord’s house, and the glory of the God of Israel was above them.
エゼキエル11:23
主の栄光はその町の真中から上って、町の東にある山の上にとどまった。
And the glory of the Lord went up from the midst of the city and stood on the mountain, which is on the east side of the city.
そして、この言葉の前には、神様からの約束が与えられています。11:19 わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。 Then I will give them one heart, and I will put a new spirit within them,[a] and take the stony heart out of their flesh, and give them a heart of flesh,
神様は、なんと忍耐深いかたでしょうか。どうして、いっぺんに神殿やエルサレムから去らずに、ゆっくりゆっくり去っていったのでしょうか。神様は、私たちの立ち返るのをいつも待っておられるのです。
さて、先週も話しましたが、私たちは、選ばれた種族、祭司、聖なる御国の国民です。
◎私たちは、神の臨在、栄光を常にもてなしているでしょうか。
Ⅰコリント6:19
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
Or do you not know that your body is the temple of the Holy Spirit who is in you, whom you have from God, and you are not your own? 20 For you were bought at a price; therefore glorify God in your body[c] and in your spirit, which are God’s.
私たちの身体は、新しい聖所、神殿です。神様が住まわれることを選ばれた場所です。もしも、私たちの内に偶像があるなら、神様にとって非常に居心地が悪いものです。誰かの家に招かれていって、一番いい席に誰かが座り、あなたは、ずっと無視されているとしたら、どんな気持ちがしますか? あなたに誰も挨拶しなかったら? つまらないから、そーっと裏口から早めに帰るのではないでしょうか。
神の臨在は、選ばれた神殿、選ばれた町エルサレムでも同じだったのです。
◎神に選ばれたナジル人サムソンについて
旧約聖書士師記の有名な勇士サムソンの話を覚えているでしょうか。
彼は、不妊の女から生まれた約束の子でした。ナジル人として神に捧げられた、いわば、神の仕事をし、世の中を変えるべく備えられた人でした。神の栄光が留まっていましたから、どんな敵が来ても負けることはありませんでした。いつも神の守りがありました。
しかし、彼には、女という偶像がありました。しかも、神を敬わない女性との結婚です。彼は、自分の目的、肉的な夢を追いかけて、神様からせっかくいただいた特権を使いきってしまいました。そして、ついに新しい恋人デリラによって、神の栄光の秘密をばらされます。。
神様は、それぞれに賜物を与え、計画を与え、神の栄光がとどまるように計画されています。しかも、神ご自身が私たちに留まりともに神の事業をすることを喜んでいらっしゃるのです。
しかし、サムソンを見ても分かるように、どれだけ、私たちの心が神と一つになっていることが大切なことでしょうか。祝福はある、油そそぎはある、神様の栄光、臨在がともにある。しかし、私たちの心に偶像があったら。。。自分を一時的に満足させることはできても、あなたの人生のデスティニィに到達することもなく、神の御国を実現することもないのです。
神の栄光は、居心地の悪いところに永遠に留まってはいないのです。
まず、私たちの心のなかのお掃除から始めませんか。神より大切にしているもの、偶像を捨て去りましょう。自分が、神の力を利用して成功させようとしている夢を神に捧げましょう。
ぼ
毎週木曜日、親子で集えるロバの子クラスをしています。だんだん、お友達になってきて、子どもたちはかわいいですーーーー。おやつタイムに、お遊びタイム。ママたちは、安心してお茶とおしゃべりを楽しんでいます。いつも、手伝ってくれている、留学生さんが撮ってくれた写真です。。。。Hちゃん、いつもありがとう!
今週は、日本から、二年前にシアトルで留学していたMちゃんが訪問してくれました。今年で二回目の里帰りですが、毎年、大人になっていくMちゃんを誇らしく、応援しています。アメリカのおばちゃん、おじちゃんの気分です。。。。これからも、応援しています。Mちゃん、人生の荒波に負けないでねーーー
今年のイースターにいただいた鉢植えのお花。。。私の教会の事務所においていたのですが、枯れそうになったりしましたが、毎日お水をあげていると、なんと、またつぼみをつけました。いのちってすごいですねー。毎日お世話をするとかーーーならず、いのちが生き返ってくるんだなぁ。。。。
2015年9月20日日曜日礼拝音声は、https://youtu.be/ic3VFWHzHEE
エゼキエル2:8-3:12
2:8 人の子よ。わたしがあなたに語ることを聞け。反逆の家のようにあなたは逆らってはならない。あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。」 9 そこで私が見ると、なんと、私のほうに手が伸ばされていて、その中に一つの巻き物があった。 10 それが私の前で広げられると、その表にも裏にも字が書いてあって、哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった。
3:1 その方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。」2 そこで、私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ、3 そして仰せられた。「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。」そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。 4 その方はまた、私に仰せられた。「人の子よ。さあ、イスラエルの家に行き、わたしのことばのとおりに彼らに語れ。 5 わたしはあなたを、むずかしい外国語を話す民に遣わすのではなく、イスラエルの家に遣わすのだ。 6 あなたを、そのことばを聞いてもわからないようなむずかしい外国語を話す多くの国々の民に、遣わすのではない。もし、これらの民にあなたを遣わすなら、彼らはあなたの言うことを聞くであろう。 7 しかし、イスラエルの家はあなたの言うことを聞こうとはしない。彼らはわたしの言うことを聞こうとはしないからだ。イスラエルの全家は鉄面皮で、心がかたくなだからだ。 8 見よ。わたしはあなたの顔を、彼らの顔と同じように堅くし、あなたの額を、彼らの額と同じように堅くする。9 わたしはあなたの額を、火打石よりも堅い金剛石のようにする。彼らは反逆の家だから、彼らを恐れるな。彼らの顔にひるむな。」 10 その方は私に仰せられた。「人の子よ。わたしがあなたに告げるすべてのことばを、あなたの心に納め、あなたの耳で聞け。
11 さあ、捕囚になっているあなたの民のところへ行って、彼らに告げよ。彼らが聞いても、聞かなくても、『神である主はこう仰せられる。』と彼らに言え。」 12 それから、霊が私を引き上げた。そのとき、私は、うしろのほうで、「御住まいの主の栄光はほむべきかな。」という大きなとどろきの音を聞いた。
今週から、また旧約にもどってエゼキエル書です。エゼキエルは、バビロン捕囚時代の預言者です。みなさんも一章を読まれたと思いますが、バビロン捕囚の民と一緒にいる時に神様からの召しを受けました。
エゼキエル書のテーマは、「神の栄光」です。素晴らしいことではないでしょうか。捕囚の只中で召されたエゼキエルに託されたテーマは神の栄光だったのです。エゼキエルは、捕囚に連れられて五年たった時に神様の圧倒的な臨在にふれ、幻を見、神の召しを受けました。
召しを受けたエゼキエルに神様が言われたことは
① この巻き物をたべよ
3:1 その方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。」2 そこで、私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ、3 そして仰せられた。「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。」そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。
エゼキエルに言ったことは、み言葉の巻き物を食べることでした。ここを読むと、みなさん、「ええ? 食べるの? 食べ物じゃないのに? 」 とびっくりすると思います。
食べることは、何を表しているのでしょうか。私たちが食べ物を食べる時、口で咀嚼し、そしてお腹の中にいれます。そして、その食べ物の栄養素を身体が吸収していきます。吸収は口の中から始まり、大腸に至るまでにおいて食べ物の隅々まで吸収されます。そして、どういうことになるでしょうか? 英語でよく、You are what you eat. と言いますが「あなたは、あなたの食べたもので出来ている」という言葉があります。実際、私たちは、食べた物から出来ているのです。食べ物は、形を変えて、私の肉となり血となっているのです。
神様は、エゼキエルにみ言葉を食べなさいと言われました。十分、エゼキエルの中で咀嚼され、吸収され、エゼキエル自身の一部となるほどにせよと言われているのではないでしようか。
昔の時代には、神に召された特別な人が神様の仕事をしました。祭司は血筋によって選ばれ、そして預言者は神に選ばれました。ごく一握りの人です。
しかし、新約の時代は、万人祭司の時代です。イエス・キリストを信じた人はみんな祭司・神の働きをする人になったのです。
Ⅰペテロの手紙 2:9
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。9 But you are a chosen generation, a royal priesthood, a holy nation, His own special people, that you may proclaim the praises of Him who called you out of darkness into His marvelous light;
◎キリストを食べる
イエス様は、ことばであったとヨハネの福音書にも書かれていますが、イエス様は、生きた聖書、生きた神の言葉です。そして、そのイエス様自らがこのようにおっしゃっています。
ヨハネ6: 48 わたしはいのちのパンです。 I am the bread of life.
ヨハネ6:53
イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。Then Jesus said to them, “Most assuredly, I say to you, unless you eat the flesh of the Son of Man and drink His blood, you have no life in you.
イエスキリストを食べ、咀嚼し、自分の一部になるほどになる。これこそ、神の夢であったはずです。
「食べる」という意味は、私たちがキリストを信じ、そして、キリストそのものである、神のみ言葉を受け取り、そして、心にいれ、そして、それを自分の行動とすることです。
② 神の言葉通りを語る
3:4 その方はまた、私に仰せられた。「人の子よ。さあ、イスラエルの家に行き、わたしのことばのとおりに彼らに語れ。. 4 Then He said to me: “Son of man, go to the house of Israel and speak with My words to them.
次ぎにエゼキエルは、神の言葉のとおりを語るよう言われました。私たちは、何かがんばって人より立派にとか、何かを上手にというふうに動機付けられて、もっとがんばれ、もっと大きくと言うふうに自分を打ちたたく社会となっています。
しかし、神さまは、何も難しいことをおっしゃっているのではないのです。ただ、神様から聞いたことを話すように。。。と言われているのです。あなたが作り上げた理論ではないのです。
そして、その結果も神様の手の中にあることを私たちは知る必要があります。
私たちの働きは、「自分」中心ではないのです。「神」中心なのです。
③ あなたの額を堅くする
3:7 しかし、イスラエルの家はあなたの言うことを聞こうとはしない。彼らはわたしの言うことを聞こうとはしないからだ。イスラエルの全家は鉄面皮で、心がかたくなだからだ。 8 見よ。わたしはあなたの顔を、彼らの顔と同じように堅くし、あなたの額を、彼らの額と同じように堅くする。9 わたしはあなたの額を、火打石よりも堅い金剛石のようにする。彼らは反逆の家だから、彼らを恐れるな。彼らの顔にひるむな。」
神様は、聞き手が聞こうとしなくても、語り続けなければならない。そのために、あなたの額を堅くすると約束されます。人の顔を見ないように、また恐れなく語り続けることができるように、あなたの額を堅くすると。。。
新約の私たちには、聖霊様がいらっしゃいます。イエス様が助け主を私たちにあげようと言われたその方です。
◎聖霊の満たし
使途1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。 But you shall receive power when the Holy Spirit has come upon you; and you shall be witnesses to Me in Jerusalem, and in all Judea and Samaria, and to the end of the earth.
これは、聖霊のバプテスマをさして言っています。私は、聖霊のバプテスマを受けるとものすごく信仰が強くなったことを覚えています。恐れがなくなりました。どんなに迫害されても、人にクリスチャンだからと言って馬鹿にされたり、いじめられてもびくともしないどころか、そのたびに、心から熱い神様の愛がこみあげてくるようになったのです。
さあ、召されているみなさん、この巻き物を食べませんか。
今の時代は、イエス・キリストを受け取りませんか、よく咀嚼し、神のことばが自分の肉になるように。あなたもキリストと一つになりませんか。
ぼ
「祝福を数えなさい」 良かった探しをしてみようってことですね。
いい言葉です。
イサクワのギルマンビレッジに日本からのお客さんを連れて行きました。時間が出来たから、ささーって行きましたが、いやー天気がよくてよかったです。
そのあと、スノコルミーの滝にも足をのばして、あたらしく出来たトレイルを楽しんできました。。。。しかし、写真とるの忘れました。。。てへ
ギルマンビレッジの雑貨屋さんで見かけた本です。肯定的な言葉がたくさん書いてあります。
「どこにでも、美しさと可能性を見出しなさい」と。。。。
いい言葉ですねー。 今週のメッセージの箇所とぴったしの言葉でした。
「生きる」
古いバーンを改装してる建物ですが、かわいいです。天窓からの日ざしが素敵です。
天窓があちこちにあります。
いいお天気です。
「幸せは、人生の最終目的地ではなく、生き方である。」
毎日のライフスタイルが、「喜び」を産み出すものでありたいですねー
いい言葉です
2015年9月13日日曜日バイリンガル礼拝音声は、https://www.youtube.com/watch?v=lDuiweTxmRc
ピリピ4:4-9
4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。5 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。6 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。8 最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。9 あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。
4 Rejoice in the Lord always. I will say it again: Rejoice! 5 Let your gentleness be evident to all. The Lord is near. 6 Do not be anxious about anything, but in every situation, by prayer and petition, with thanksgiving, present your requests to God. 7 And the peace of God, which transcends all understanding, will guard your hearts and your minds in Christ Jesus.8 Finally, brothers and sisters, whatever is true, whatever is noble, whatever is right, whatever is pure, whatever is lovely, whatever is admirable—if anything is excellent or praiseworthy—think about such things. 9 Whatever you have learned or received or heard from me, or seen in me—put it into practice. And the God of peace will be with you.
人々は、喜びを求めて生きている。これは、人間が神から与えられた人生のデザインなのだろう。先週も話しましたとおり、喜びは、天の通貨、報酬であるから、私たちの霊の深みに刻みこまれているのだと思う。しかし、私たちは、喜びをこの世に求めているのでなかなか満たされることができないのも事実である。
今週も引き続きピリピ書ですが、ピリピ書のテーマは、「喜び」です。3章でも、冒頭「主にあって喜びなさい」と書かれてあります。三章では、人間的なことを頼みにするのではないこと、私たちの国籍が天にあるので、地上のことに捕らわれず、ゴールを目指して走り続けましょうということが書いてありました。
4章もまた、初めに、「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」と書かれてあります。今度は、「いつも」喜ぶんだということを強調しています。すなわち、喜べないような時にも喜ぶんだということですね。
そして、4章の冒頭には、確執のある二人の姉妹に対して言及しています。さて、ストレスがあるとき、喜べない時、また文句が口から出てきそうなとき、どうしたら言いのでしょうか。パウロは、最後に言います、と念押しの形でメッセージを残しています。
★キリストが私たちのうちにおられることの証し 御霊の実
V5 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。Let your gentleness be evident to all. The Lord is near.
寛容…上品・公平・優しい gentleness, moderation と英語では訳されています。このキリストにある、御霊の実である寛容が、誰の目にも証明されるようにしなさいと言うのです。
ガラテヤ5:22,23 But the fruit of the Spirit is love, joy, peace, longsuffering, kindness, goodness, faithfulness, 23 gentleness, self-control. Against such there is no law.キリストと離れてしまえば、実は結べない。私たちは、何かいやなことがあると、自分からキリストから離れてしまいます。キリストがあなたを離れるのではなく、あなたが離れているのです。ですから、自分から離れそうな時に、意識してキリストに戻らなければなりません。
① V6感謝をもってささげる祈りと願いによって。。。。by prayer and petition, with thanksgiving
◎ 心(感情)・ 思い(考え)において寛容であること。
これは、素晴らしいツールです。
私たちは、霊的戦いが自分の考えMind の中で繰り広げられており、勝ち負けも頭の中の考えによって決まってくることをよく知らなければなりません。
ピリピ書4:7に続けてこのように書いてあります。
V7そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守ってくれます。And the peace of God, which transcends all understanding, will guard your hearts and your minds in Christ Jesus.
私のマインドが、平安であれば、何も問題はないわけです。戦いが激しかろうが、自分の周りの状況が最悪であろうが、自分の頭の中が穏やかであれば、人は、何の害も感じないわけです。
さて、では、どうしたらいいのでしょうか。聖書は、「感謝をもって捧げる祈り」と買いあります。祈りについては、ヒゼキヤのところで話しましたね。神様のところに全てもっていく、渡してくる。神様が私に代わって戦ってくださる。と。
もう一つ大事なことは、「感謝すること」です。
このような状況でどのように感謝したらいいのだろうか。。。と思うかもしれません。私も同感します。
私は、いつも主人エリックに関して関心することがあります。そして、私と違うなーと思うのです。
例えば、こないだの5月の旅行中に些細なことでけんかになりました。そして、口を利かず、ぶんぶん怒って随分離れて歩きました。私の心の中は、エリックがどんなにいやなやつか数えだし、もっと腹が立ち、結婚しなければ良かったかも知れない。。。とまで考えていました。。。。たった、10分くらいの間に頭の中ではそんな大事になっていたのです。
そして、エリックはこっちに向かって歩いて来ました。相手も私と同じなのだろうと、むっとした顔でにらみつけると、エリックは、
「さっき、離れて歩いている時に、君がどんなに素晴らしい奥さんかずっと考えていたんだ。。。そしたら、感謝しかない。ありがとう。些細なことで怒って悪かった。」と言うのです。
びっくりしました。私は、相手の悪いことを数え上げて、ますます怒り、相手は、私のいい事を数え感謝していて、すっかり怒りがおさまっていたのです。。
パウロが言っているのは、分かり易く言うとこういうことではないでしょうか。
喜べないとき、感謝することを数えてみる。。。神様にその心をもって、祈り、願いを知っていただく。
もうその時には、問題が問題でなくなっているのです。
すばらしいツールではありませんか?? ぜひ、実践してください。
② 8 最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。8 Finally, brothers and sisters, whatever is true, whatever is noble, whatever is right, whatever is pure, whatever is lovely, whatever is admirable—if anything is excellent or praiseworthy—think about such things.
◎他者に対する見方が、寛容であること。
この世の中は、否定的な言葉で溢れています。そして、人々は、人から浴びせられる否定的な言葉によって左右せられ、コントロールさえされています。ネガティブな言葉はそれほどの影響力を持っています。
しかし、それ以上に影響力のある言葉は、肯定的な言葉です。Affirmation です。
パウロは、すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさいと言っています。
私たちの教会では、Affirmation Circle が一つの文化ですが、これは良い習慣です。これが身について、どこにいても誰といてもできるようになったら、あなたの周りの世の中が変わるかも知れません。
最近、このようなことがありました。
ある方に、「どうして、あなたは、私のことをよくほめてくれるんですか?」と言われました。私のほうでは、あまり誉めているという意識はなかったのですが。。。。あまりにも、毎回私が彼女にとって意外な点を、上げてはほめていたらしいんです。。
今まで、自分は、だめだ、できてない、なっていない。と思い込んで生きていたその方は、ふーっと漠然とした圧迫感から解き放たれたようでした。
そして、笑顔が増え、もっと素敵な顔になりました。
また、今まで考えなかったことも希望をもって考えられるようになりました。
癒しが始まりました。
私にとっては、とっても不思議な体験でした。
教会で、Affirmation Circle が浸透しているせいか、自然にそうしていたようでした。また、私にとっては、主人もとてもAffirming なので、その影響もあると思います。
良いことを賞賛する、良いと認めていくことは、なんと回りに良い影響を与えることでしょうか。
パウロは、他者に対してそのようにしなさい、悪いことではなく、他者の良いところに心を留めなさいと言っているのです。
これも、少し心にかければできそうなツールですよね。
これがあなたの人生の処方箋です。喜びがあなたに与えられ。あなたは守られ、勝利します。
喜べない時、感謝をしましょう。良かった探しをしましょう。また、人に対しては、いつも良いところを探し、賞賛することに努めていきましょう。きっと喜びがたえない毎日になることでしょう。これが神様からの知恵であり、人生の勝利の処方箋です。
ぼ
我が家には、アメリカ内外からしょっちゅうお客さんがいらっしゃいます。今は、二週間ほど、日本からお友達の姪っ子さんがいらつしゃっています。
「やっぱり、本場のハンバーガーは美味しいなぁ」と言っておられました。。。忙しくてあまり、良いおもてなしができずにいますが、毎日、教会でお友達になった方々と出かけたり、英語の練習をしておられます。神様がたくさん祝福してくださいますように。。。。
2015年9月6日日曜日バイリンガル礼拝音声は、http://youtu.be/MhdcEuGm6YI
ピリピ2:1-11
1 こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、2 私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
今週からまた新約聖書になりました。ピリピ人への手紙は、獄中書簡といわれ、パウロが牢獄の中から書いたものです。
◎ キリストの身体である教会=一人の人のように働いている
私は、最近キリストの身体である教会ということにとても目が開かれ、いろいろと神様から教えられています。キリストの身体である教会が私に教えてくれています。神様の霊に導かれ、まきさんがプレイデートを企画してくれ、そして、そこに来られた方がつぎのロバの子にも来られることになったり、また、ロバの子も、まゆこさんに奉仕の心が与えられ、奏楽をしてくださることになったからこそ、始められるわけであり、ケビンもみわちゃんのために、ギターの奏楽に入ったくれたり、ケニーも日本のことを知っているので私のストレスを和らげる役割をしてくれたり、エリックも子どものメッセージや物を運んだりこまごましたところを喜んでやってくれたり。。。。そのようなことを見るときに、私たちは、一つ身体のように動いているのだと感動します。流れている血のようなものが、聖霊様であり、聖霊様が一人ひとりを導いて物事をされているのだと思います。
このパウロの手紙は、このようなキリストの身体である教会にあてて書かれたものです。
◎ ピリピ書のメインテーマ、喜び
ピリピ書全体を通しての主題があります。それは、「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」ピリピ4:2
喜びを見失っては、私たちは、天の御国の方向性からそれてしまうからです。なぜなら、喜びとは、天国の通貨、お金のよう。喜びは私たちの報酬です。
ロマ5:3
「それどころか艱難さえも喜んでいます。」Not only that, but we rejoice in our sufferings, (ESV)
ヨハネ15:11
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。“These things I have spoken to you, that My joy may remain in you, and that your joy may be full.
ヨハネ4:32、34
イエスは言われた、「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」。・・・イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。」 But He said to them, “I have food to eat of which you do not know.”……..34 Jesus said to them, “My food is to do the will of Him who sent Me, and to finish His work.
ヘブル12:2
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。fixing our eyes on Jesus, the pioneer and perfecter of faith. For the joy set before him he endured the cross, scorning its shame, and sat down at the right hand of the throne of God.
★教会の喜びの土台。。。教会が一人の人のように働けるのは、それぞれがキリストに繋がっているから。聖霊の交わりがあり、一致と、愛、心を合わせ、志を一つにする。
ピリピ2:1-2
こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、2 私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。Therefore if you have any encouragement from being united with Christ, if any comfort from his love, if any common sharing in the Spirit, if any tenderness and compassion, 2 then make my joy complete by being like-minded, having the same love, being one in spirit and of one mind.
◎ 喜びに至るに不可欠である代価/クオリティ 謙遜
しかし、この教会のピリピの中には問題があったようです。二人のリーダーの間に意見の違いによる確執があったようです。その確執が教会内全体にストレスをもたらしていたのです。パウロは、それについて注意をしなければなりませんでした。
そして、パウロがまず、教えたことは、「謙遜」についてでした。「謙遜」とは、神様から教えられ易い柔かい心です。
ピリピ2:3-4
何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。. 3 Do nothing out of selfish ambition or vain conceit. Rather, in humility value others above yourselves, 4 not looking to your own interests but each of you to the interests of the others.
他人と一つ事業を成し遂げるためには、自己中心があっては、うまく行きません。私たちは、相手を一人の神の人として、尊敬し、認める態度がなければいけません。なぜなら、あなただけがキリストの身体ではないからです。ともに働いている意見の必ずしもあわないその人に実は神様が語っておられるのかもしれないからです。自分を通すのではなく、身体全体に語っている神様に聞く姿勢が必要です。
また、虚栄に注意しなければなりません。虚栄とは、外見を飾って自分を実質以上に見せようとすることです。これは、神様の働きの一番の妨げになります。人間の世界で価値のあることは、天国では意味のないことであることが多いからです。どれだけ人を多く集めるかとか、どれだけ有名になるか、どれだけ人に有能に見られるかは、神の世界では全く価値のないことです。
天の国で一番評価されることは、忠実であることです。そして、忠実であるためには、信仰が不可欠です。
◎ キリストに見る謙遜 私たちのお手本
6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。6 Who, being in very nature God, did not consider equality with God something to be used to his own advantage; 7 rather, he made himself nothing by taking the very nature of a servant, being made in human likeness. 8 And being found in appearance as a man, he humbled himself by becoming obedient to death— even death on a cross!
また聖書の他の書では次のような箇所があります。イエス様は、苦しみの先の喜びを目指して、どんなことにも耐えたと。。。
ヘブル12:2 fixing our eyes on Jesus, the pioneer and perfecter of faith. For the joy set before him he endured the cross, scorning its shame, and sat down at the right hand of the throne of God. 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
先に述べた通り、教会が志を一つにする、一致する、ゴールを見据えているなら、そこに必ず、喜びがあるのです。イエス様は、苦しみや苦しみを与えてくる相手に焦点を当てるのではなく、その先の喜びを見据えて働かれたのです。
キリストにとっては、大罪人としての恥を着せられ、人々に誤解されることも、そして、罪人として数えられることも、評判を失うことも、地上での地位を失うことも、ものともしませんでした。
それは、ゴールを見据えていたからです。その後にある、輝かしい喜びと、愛する者たちに与えられる素晴らしい約束のために従いとおしたのです。
みえや、自己中心がそこにあったのなら、決して救いの業は私たちにもたらされなかったことでしょう。
★アイデンティティと人生の目的
◎キリストの「謙遜」は、対人であるというより、対父なる神であった。
先日、「武士道残酷物語」と言う映画を見ました。日本人のマインドセットに住み着いている殿様のために死ぬという姿が先祖代々現代に至るまでの姿を描いていました。殿に、娘が取られても妻がとられても残酷な目にあっても、文句を言わす、何もさからえないのです。そこに、セルフエスティームはありません。そこに、喜びはありません。自分のために人を死なせる殿には喜びはあるかも知れませんが、何を言われても、「ありがたき幸せ」と言う、下々のものには喜びはありません。希望もありません。日本人である私たちは、あまりにもこの考えになじんでいます。しかし、このコンセプトを通して聖書を読んでしまったら、間違えてしまうのだと思います。
イエス様は、ゴールめざし、喜びと希望を持ちながら、従いました。
しかし、どんなひどい目にあっても、評判を失っても、アイデンティティを失うことはありませんでした。それは、神の子としてのアイデンティ、そして、神の目的がある、ゴールがあるということ。そして、神の目的を追いかけるには、神には必ずおできになるという、信仰と信頼がありました。
私たちも、教会として、ともに、一つの目的にいく時、喜びを見据え、ゴールを目指し、志一つに、互いに謙遜に一人の人のように喜びながら仕えて行きたいものです。
ぼ
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