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イエスを十字架につけた人たちPeople who crucified Jesus

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2015年3月22日日曜日バイリンガル礼拝音声は、http://youtu.be/y2xP2rKRzFA

ヨハネ19:1-16
そこで、ピラトはイエスを捕らえて、むち打ちにした。
2 また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。
3 彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と言い、またイエスの顔を平手で打った。4 ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」5 それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です」と言った。6 祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ」と言った。ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」7 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」8 ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れた。9 そして、また官邸に入って、イエスに言った。「あなたはどこの人ですか。」しかし、イエスは彼に何の答えもされなかった。10 そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」11 イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」12 こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」13 そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語ではガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。14 その日は過越の日で、時は第六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」15 彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」16 そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるために彼らに引き渡した。

いよいよ、イエス様が十字架に掛けられる日が近づいて来ました。イエス様は、当時ユダヤの地方を支配していたローマの総督ピラトに引き渡されます。
今日は、イエス様を十字架に掛けた人たちについて注目してみたいと思います。

① 群集

時は、過ぎ越しの祭。大勢の人たちが祭を祝うためにエルサレムに来ていた。
ローマの総督、裁判官であるピラトは、イエス様に罪を認めないので、釈放したかった。18章では、イエス様を釈放しようと試みたが、群衆は、イエス様ではなく大罪人バラバを釈放するように求めた。

また、この群衆を扇動していたのは、祭司長などの宗教指導者たちであった。宗教者たちは、イエス様が妬ましかったので、イエス様をのぞきたかったのである。

19章でも、群衆は、「除け、除け、十字架につけろ」と何度も繰り返し叫んでいる。

群衆と呼ばれた人たちが、イエス様に会いに行ったのではなかったのだろうか? 群衆と呼ばれた人たちが、癒されたのではないか? イエス様の教えに耳を傾けたのではないか? また、満腹になるまでパンと魚をふるまってもらったのではなかったのだろうか?
イエス様は、このような人たちに十字架につけられたのでした。
イエス様のことを見聞きし、興味を持ち、また癒されたり、良いことを体験するが、個人的な関係を持っていなかった。そして、いとも簡単に、宗教指導者たちの掛け声に従ってしまう。
イエス様が殺されようが、どうなろうが、自分とは関係がない。と思ったのです。良いことを見聞きしたり体験したけれども、個人的な関係がないならば、イエス様の十字架の痛みは、彼らに何のインパクトもないのです。
ですから、リーダーの掛け声一つに何の考えもなく、さーっとついて行ってしまうのです。いわば、真理に対して無関心な人たちです。思想のない人たちと言っていいのかもしれません。
イエス様は、このような、天の御国、真理、真の神様、宗教よりも愛に生きる、などということに無関心な人たちに十字架につけられたのです。

一つ目は、真理に無関心な人たちでした。

②  ピラト

ピラトは、前々から会いたいと思っていたイエス様にやっと、こんな形で会えました。18章では、イエス様にいろいろと質問しています。そして、イエス様をだんだん求めるようになりました。「真理とはなんですか」とも聞いています。真理の探究者となりました。

また、イエス様を求めていますし、この良い人をどうしても罪に定めたくありませんでした。だいいち、罪を認められなかったからです。そして、イエス様をどうにか助けようと考えました。18章では釈放しようと試みたが、結果バラバが釈放されてしまいます。

先ほどの、聖書箇所を読んでも分かるように、ピラトは、ユダヤ人とイエス様の間を行ったり来たりします。そして、どうするか、判断に困っています。それは、なぜでしょうか。彼には、イエス様を生かすという権威があったのではないでしょうか。なぜ、こんなに困らなければ奈良なのでしょうか。

彼は、自分の信念、また神や真理よりも、自分の生きている世界、住んでいる領域において面目を保ちたかったのです。

ユダヤ人を満足されたい。また政治的にも丸く治めたい。そして、何より、最後の決め台詞となつたのは、ユダヤ人のこの言葉でした。

ヨハネ19:12-13
こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」13 そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語ではガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。

ピラトにとっては、カイザルに対する忠誠心を疑われるくらいなら、この罪のない人を殺した方がましだったのです。つまり、カイザルの気持ちを害するくらいなら、一人の罪のない人を死刑にするほうが良かったのです。

みなさん、真理を選ぶときには、犠牲が伴うことをピラトは知らなかったのです。自分が犠牲を払ってまでも、真理を手には入れたくなかったということです。

聖書の箴言の書には
神を喜ばせることよりも、人を喜ばせることを選ぶなら、罠にかかります。というような言葉があります。究極的には、真理を得るには、人に嫌われたくないという自分を取るか、神を取るかという選択になるのです。

③ 父なる神、御子イエス様の従順な姿

さて、もう一人イエス様を十字架にかけた人がいます。それは、この聖書の箇所には直接的にでてきていませんが、父なる神様です。

ヨハネ19:10-11
そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」11 イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」12 こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。

ピラトが釈放したくて、自分には権威があるんだぞ、と言い出しました。するとイエス様は、「上からの権威でなければ、ピラトでもイエス様の生死に関する権威は何もない」と、おっしゃいました。すなわち、イエス様が十字架にかかられるのは、上からのことだとおっしゃいました。人間の手にかかっているのではない、というのです。

イエス様は、父の計画にもくもくと従われました。何を聞かれても、自分の有利になるようなことは言わず、静かに従われました。イエス様は、何の罪も犯していないのに、極悪人がつけられる十字架につけられようとしているのです。平手打ちをされ、つばを吐きかけられ、人々に馬鹿にされ、笑われました。しかし、決して、自分の面目を保つために、何一つ自分を守るために口を開くことをされなかったのです。

どうしてでしょうか。
それは、私たちの罪を背負うためでした。私たちが罪赦されるためでした。私たちが永遠の命を持つためでした。

神様は、私たち人間をお造りになりました。私たちに素晴らしい宝物を一人ひとりのうちに与えました。しかし、私たちには罪があります。それは、ピラトのような、また群集のような、私、わたしがかわいいという、真理に無関心な心です。
神は、そんな私たちを救われたいと思われたのです。
ですから、本当は、罪人である私が受けなければいけなかったその刑罰をイエス様に負わされたのです。そして、誰でもこのイエス様を信じるものには、罪が赦され、永遠のいのちが与えられるようにされたのです。
イエス様は、この父なる神の計画にもくもくと、けっして自分を守ることもなく従われたのです。

ピラトと違うのは、イエス様は、真理のために多大な犠牲を払われたのだということなのです。

それは、後の日に、多くの実りを見るためでした。そして、実際そうなりました。私もイエス様を信じて救われました。それは、私を信仰に導いてくれた人の命も救いました。そして、私の家族を救いました。また、私を通してたくさんの人に伝われました、今も、伝わり続けています。

さあ、みなさんに質問します。あなたは、今日のメッセージの誰に当てはまりますか。真理について無関心な群衆でしょうか。また、真理を求めているが、最終的に、神よりも人を選んでしまったピラトのようでしょうか。

いずれにしても、真理を受け取るには、犠牲が伴います。群衆と言われている一人が、もし、あの時、宗教指導者にノーといったならば、そこで救われていたでしょう。ピラトが、たとえカイザルに背いたと言われても、あの時、イエス様を求めつづけたのならば、イエス様に出会い、真理を悟ったでしょう。

イエス様に出会うには、何がしらの犠牲が伴うのです。

しかし、私たちの払う犠牲は、イエス様の払ってくれた犠牲に比べたら、比べものにならないくらい小さいのです。

その犠牲を払ってイエス様に出会いませんか。

もうすぐイースターです。今日のこのことを心に思いめぐらしながら、今週一週間すごしましょう。



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一日力強い助っ人現るー

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三人のアップ写真。たっくさんお... 三人のアップ写真。たっくさんお話しして、たっくさん働いてくださいました。。。あと、たくさん食べました。笑
私たち、小さな開拓教会、しかも異国の地。何が嬉しいかというと、助っ人です。。。

南大阪福音教会から、一日私たちの教会を訪問してくださった方がありました。

しかも、旅先のアイダホの東端からわざわざグレイハウンドバスに乗って夜行でシアトルに来てくださいました。

朝9時くらいについて、早速我が家に来てくださいました。一時も休むこともなく、ひたすら、夜7時くらいまで私のお手伝いをしてくださいました。

すっごく助かりましたーーー。

しかも、働いている間、いろいろとお話を聞きました。

どのように神様にであってクリスチャンになったのか。

どのように家族がクリスチャンになったのか。

神様にお祈りすると、いつもきかれること。。

たくさんの奇跡的な神様からの助け、導き。。。

本当に励まされました。

改めて、神様は生きているんだなー。どんな祈りにも耳を傾けてくださっているんだなーと感動しました。

そして、彼は、ゆっくり眠ることもなく、朝、三時半に家をでて、飛行機に乗りました。

頭が下がります。

今度シアトルに来る時は、ゆっくりしていって欲しいです。

私も今度はよくおもてなしをしたいと思います。

しかし、人一人の人生の体験って豊かですねーーー。

人って素晴らしい。神様ってすばらしい!

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日本からの訪問者

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礼拝後、しずかさんと 礼拝後、しずかさんと
先月、今月と日本からの訪問者が多いです。

先月ベイビーシャワーをして、赤ちゃんのお祝いをした方のお母様が日本から三週間来られていました。

お母様はクリスチャンで、毎週礼拝に来てくださいました。

とっても素敵な方で、もっとゆっくりお話しができたり、どこかお連れで来たりしたら良かったのですが、

お母様もお孫さんたちと、娘さんのお世話で忙しくされていました。

今度来られた時は、ゆっくりと過ごせたらと思います。

住んでいる国が違っても、なんだか近く感じる出会いでした。

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山上の垂訓

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みなさん、こんにちは。

今週の日曜日は、ミャンマーからアメリカに来て聖書学校で学ばれているジョシュアさんに来ていただいてメッセージをしていただきました。
これで3回目なのですが、
ミャンマーは、仏教の国で、なんとなく精神世界も日本人と似ているようです。
聖書の言葉の説き明かしも深いものがありますし、
日本人にはとても理解しやすいです。

彼は、最近結婚されて、奥様は妊娠中です。

聖書の箇所は次のとおり、イエスさまが初めてされたメッセージと言われています。

マタイ5章1-12

1 この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。

2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。

3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。

5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。

6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。

7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。

9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。

12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。

みなさんは、どのようにこれを読んで感想をもたれましたか?
何か心のプラスになったらいいですね。
今週も祝福がありますように。

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とどまることの勧め Exaltation of Abiding

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2015年3月8日日曜日バイリンガル礼拝音声は、youtube; http://youtu.be/nhbYaUXdrWU

ヨハネ15:5
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。“I am the vine; you are the branches. If you remain in me and I in you, you will bear much fruit; apart from me you can do nothing.

ヨハネ15:7-12
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。11 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。If you remain in me and my words remain in you, ask whatever you wish, and it will be done for you. 8 This is to my Father’s glory, that you bear much fruit, showing yourselves to be my disciples. 9 “As the Father has loved me, so have I loved you. Now remain in my love. 10 If you keep my commands, you will remain in my love, just as I have kept my Father’s commands and remain in his love. 11 I have told you this so that my joy may be in you and that your joy may be complete. 12 My command is this: Love each other as I have loved you.

★ ぶどうの木と枝
ヨハネ15:5 イエス様は、イエス様がぶどうの木で私たちが枝だと言われました。私たちは、イエス様と繋がって木がその幹から養分を吸い取って成長するように、イエス様から養分、愛、いのちを受け取って成長していくものなのです。
五節でも、そういう人は、多くの実を結ぶと書いてあります。そして、イエス様を離れては、私たちは何もすることができない、すなわち、神の御国のために何も成し遂げることはできないのだ、ということを言われました。

面白いことに、ぶどうの木というのは、りんごの木のようではなく、幹と枝がはっきりしません。ぶどうの木というのは、蔓なのです。Vine
神様は、私たちとイエス様との関係は、このようだと教えておられるのです。
どこからどこまでが枝で、どこからどこまでが蔓わからない。
外から見たら、一体に見えるということです。

★ 内住のキリスト

ガラテヤ2:20
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。I have been crucified with Christ and I no longer live, but Christ lives in me. The life I now live in the body, I live by faith in the Son of God, who loved me and gave himself for me.

私たちは、キリストを信じたときから、私たちの内に神の霊が私たちの内に住まわれます。ですから、他の聖書の箇所でも、私たちの体は、神の宮だと言われています。
そして、神は、霊ですから、目に見えません。ですから、信者である私たちを見る人は、同時に神様をも見ていることになるのです。

★ とどまることは、あなたの選択でもある

そして、人々が私たちの内にキリストを見るときには、私たちがキリストと真の意味で一体となっている時です。
さて、七節のはじめには、こうあります。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、If you remain in me and my words remain in you,
つまり、「とどまること」というのは、私たちのチョイスである。私たちの意思に関わることであるということです。イエス様に繋がっていれば、多くの実を結ぶ、ただし、イエス様にとどまってるなら、ということなのです。

「とどまる」という言葉は、滞在する、宿るということです。私も先月から、立て続けに日本からのお客さんを迎えていますが、一番の楽しみというのは、一緒にご飯を食べたり、ゆっくり交わったりすることです。ただ、私の家の一室を使ってもらっているだけではないのです。もてなし、というのは、部屋を貸すことではなく、ともに時間を共有し、互いを分け合うことです。
私たちは、イエス様にとどまっているでしょうか。
ただ、日曜日だけ、イエス様に繋がってはないでしょうか。イエス様にとどまるというのは、日常の生活の細部に至るまで、イエス様とともにいることです。
それは、あなたのチョイスにかかっています。そういえば、教会に来ている以外は、神様のことを忘れてしまう人もいるのではないでしょうか。

イエス様は、七節で続けて、言われます。何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。ask whatever you wish, and it will be done for you. 私たちが神の御国の建設、御国の業をこの地上にもたらすために必要なものは、みな、求めれば与えられると言うのです。そして、イエス様は、次の二つを勧められます。

・愛にとどまる。。。

V9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。9 “As the Father has loved me, so have I loved you. Now remain in my love. イエス様とお父様に習うということです。先週のメッセージの通りに、私たちは、体験を通して、愛することを心に焼き付けるのです。また、自分が愛された通りに、人にもするのです。自分に愛された経験のない人は、愛そうとするときに、独りよがりな愛、ゆがんだ愛を発信してしまい、受け取り手に伝わらないことがあります。私たちには、御父と、イエス様という素晴らしい見本があり、またイエス様も私たちを愛することで、私たちが他人をどのように愛したらいいか、示しておられます。 宗教から命へ。。。デリックの話し。

・み言葉にとどまる

V10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。10 If you keep my commands, you will remain in my love, just as I have kept my Father’s commands and remain in his love.

ロマ12:1-2 にこのようなみ言葉があります。

1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。Therefore, I urge you, brothers and sisters, in view of God’s mercy, to offer your bodies as a living sacrifice, holy and pleasing to God—this is your true and proper worship. 2 Do not conform to the pattern of this world, but be transformed by the renewing of your mind. Then you will be able to test and approve what God’s will is—his good, pleasing and perfect will.

私たちは、神様の御心を自分でしようとしても、心の一新すなわち、言語では、私たちのMind 考え方が変革されなければ、できない。と言うのです。
私は、心の癒しのミニストリー、解放のミニストリーをしていますが、この働きの全てを一言で言い表すと、自分の世に染まった考え方を捨て、神様のみ言葉を真の意味で信じるように導くことです。これには、自分が持っている、み言葉に合わない考え方に気付くことと、み言葉を知ること、また、み言葉を信じること、そして、信じているみ言葉を行うことで、完成します。

神様の戒めにとどまることは、愛にとどまることであるとイエス様は言っていますね。聖書の教えは、神の愛です。私たち、イエス様にとどまるものは、イエス様を尊敬し、そして、イエス様の愛することを愛し、イエス様の憎むことを憎みます。これが、神の戒めにとどまること、み言葉にとどまることです。

★ 喜びの満たし

V11わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。 I have told you this so that my joy may be in you and that your joy may be complete.

喜びは、天国の通貨のようなものです。天国にはお金がありません。しかし、喜びがあります。地上での神様のための働きも、報酬は喜びです。
人と言うのは、お金のために働いている人は、自分のことを幸せとは思いません。いつも、何かが足りないと感じながら、奴隷のように生きています。
しかし、給料が少ないが、意味のある仕事をしていると感じながら働いている人は、いつも満足しているそうです。また、先日、学生映画会で見た、Happy というドキュメンタリー映画でも、人間の幸せを形作る要素のなかに、社会、コミュニティにに貢献していると感じることをすることでした。地域のごみを拾うなどの奉仕活動をしている人、インドのマザーテレサの働きに携わっている人たちなど、みな、人生の意味を人に何かを与えるときに豊かに感じ、自分は、幸せだと思うのです。
これは、喜びという報酬を手にしているからです。

イエス様は、互いにこの天の報酬である喜びを持ち続けようではないかと、あなたに今日励ましておられます。

もう一度言います、イエス様にとどまるのは、あなたの選択にかかっているのです。イエス様に留まりませんか。そして、イエス様の愛を受け取り、人に与え、愛するものとなりませんか。そのためになら、神様はどんな祈りにもこたえて下さるとおっしゃるのです。

祈りましょう。
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愛のメッセージ The Message of Love

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2015年3月1日日曜日バイリンガル礼拝音声は、http://youtu.be/QNp9b5scbA4

ヨハネ13:1-15

さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
2 夕食の間のことであった、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」9 シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」
11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない」と言われたのである。
12 イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。13 あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。

ヨハネ13:34-35

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

イエス様愛のメッセージ

その① 弟子たちの足を洗われた

 当時は、外に出かけると足が汚れた。家に帰ると奴隷が足を洗うという習慣があった。イエス様は、教師であり、師匠である立場であるのにも関わらず、奴隷のすることを自ら買って出たのだ。なんという衝撃だろうか。
イエス様は、行いをもって愛のメッセージを伝えられた。行動の伴う愛というのは、なんとインパクトがあることか。言葉よりも多くを語るものだ。
イエスの愛のメッセージは、行動の伴うものであった。言葉よりも、行いを通して示されたことのインパクトは大きく、心に忘れることなくいつまでも残るものだ。

  足を洗う意味。。。。罪が赦されるという意味がある。 いわば、足を洗うということは、私たちの心を洗ってもらうということだ。イエス様に個人的に心のうちをうちあけ、洗って綺麗にしてもらうことだ。

その② この愛は、裏切る者にも与えられた

 v2 夕食の間のことであった、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、And supper being ended, the devil having already put it into the heart of Judas Iscariot, Simon’s son, to betray Him,

 イエス様は、後にイエス様を裏切るユダの足をも洗われた。イエス様は、誰が裏切るか知っておられた。なんとふところが深いのだろうか、と思わされる。それと同時に、イエス様は、このようなメッセージを残された。イエス様の愛は、全人類のために与えられたということだ。あなたが、理解できようが出来まいが、拒もうが、それは、もうあなたの前に差し出されているということだ。

その③ イエス様の愛を受け取ることを教えている。

 v8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」 Peter said to Him, “You shall never wash my feet!” Jesus answered him, “If I do not wash you, you have no part with Me.”

ペテロは、先生に自分の汚い足を洗ってもらうのを申し訳なく思い、断りました。すると、イエス様は、私と何の関係もありませんと言われました。 イエス様に足を洗われないのなら、イエス様と何の関係もないのです。イエス様に、個人的に罪を赦してもらわなければ、何の関係も無いのです。

教会に行っても、宗教行事に参加していても、イエス様に個人的に、足を洗ってもらわないならば、イエス様との関係は無い。すなわち、死後、みな神の御前に裁きを受けますが、その時に、イエス様と関係ある者とみなされない。神の家族とみなされないのです。

その④ イエス様の模範に従うこと。互いに愛し合うこと。

v12-15 イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。13 あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。12 So when He had washed their feet, taken His garments, and sat down again, He said to them, “Do you know what I have done to you? 13 You call Me Teacher and Lord, and you say well, for so I am. 14 If I then, your Lord and Teacher, have washed your feet, you also ought to wash one another’s feet. 15 For I have given you an example, that you should do as I have done to you.

ヨハネ13:34-35
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」A new commandment I give to you, that you love one another; as I have loved you, that you also love one another. 35 By this all will know that you are My disciples, if you have love for one another.”

イエス様は、あなた方もイエス様と同じようにしなさいと言われています。

私も、ある人の行動から多くを学び、今もその模範どおり心がけていることがあります。

私が、いつも人に気前良く与え、祝福をしたいと思い、また、必要がある人がいたらその人を思いやるように考えるように、心に深くその思いを焼付けされてくれた方がいます。

本人が嫌がるので名前は出しませんが、私が、アメリカで就労ビザを待っているとき、お給料がもらえないので、貧しい生活をしていました。ある時、その方は、デパートに私を連れて行ってくれ、上から下まで、靴まで何でも私の好きなものを買って良いんだと、買い揃えてくれました。私は、とても祝福されました。そして、感動しました。その方は、何も大金持ちではありません。家には必要のある子どもたちがいます。けれども、この方の神様に対する愛、また私に対する愛ゆえに、そのような行動をとってくださったのです。

そして、その時一つ思ったことがあります。それは、「私もこのように人にしてあげよう。」と言うことです。。

いつか、アメリカでお給料をもらえるようになったら、私も人を祝福したいと思ったのです。
そして、それ以来、私は、必要のある人はいないか。どのようにしたら、その人を一番祝福できるかと考えるように変えられました。

これが、自然なことです。人というのは、言葉で教えられるよりも、行動で示される、すなわち、人に良いことをしてもらう時に、感動し、そして、自分もそのようにしたいと思うものです。

イエス様は、言われました。「師であるわたしがあなた方の足を洗ったのだから、あなた方も互いに洗いあいなさい。」と。  イエス様が、奴隷のように地面にはいつくばって私たちの足を綺麗にしてくれるのだから。イエス様があんなにひどい目に合わされて十字架に掛けられ、私たちの罪を負い、私たちを赦してくださったのだから、私たちも、互いに赦しあうべきです。

「赦しあう」と言う言葉を聞いて、「そうしよう」と思うだけでは十分ではありませんし、それだけでは、あなたの行動は変わらないのです。

先ほども言ったように、やはり、自分が受け取り、体験しなければ、私たちの心までは変わらないのです。あなたが感動するほど、イエス様の愛を存分に味わっていないならば、イエス様の言葉は、もう一つの律法にすぎないのです。
私も、あの時、あの親切な方の好意を拒んでいたなら、今になっても決して何も学ばなかっただろうし、私の生き方は、変わっていないまま、けちであったに違いありません。
ちょうど、イエス様がペテロに、「わたしが足をあらわなければ、あなたと何の関係もない」と言った通りです。

今、ここに、こんなに素晴らしい生き方があるなら、そうしたい。人を赦したい。人を愛したい。人を祝福するものとなりたいと思う人は、いますか。
その人は、ぜひ、イエス・キリストの愛を受け取ってください。まず受け取ることです。

あなたが、まず、イエス様の赦しを体験しなければならないのです。

お祈りしましょう。


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春休みは里帰りシーズンです

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日本からわざわざ来られました。... 日本からわざわざ来られました。一年見ないうちに綺麗になっちゃって。。。 帰国組みとともに。。。人生の荒... 帰国組みとともに。。。人生の荒波、うまくサーフィンしてくださいね 新しく来てくれました。ようこそ... 新しく来てくれました。ようこそー。また来てね。
日本の大学生は、今が春休みです。

こちらの学生は、期末テストをひかえて、ひーひー言っております。

さて、また里帰りさんたちがわざわざ教会に訪ねて来てくださいました。
とても嬉しいものです。
それぞれに成長が見られます。

またもうすぐ帰国してしまう学生たちも来てくれました。

時間がたつのは早いものです。

でも、少しでも、成長の助けになれていたら嬉しいです。

若いみんののうえに今日も神様の助けと祝福がありますように。
と祈ります。

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弟子の足を洗ったお話し

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聖書の中にいろいろなストーリーがありますが、この箇所も有名です。
師匠であるイエス様が弟子たちに仕えた名場面です。そして、この後まもなく、イエス様は捕らえられ残酷な殺され方をするのです。。。。

ヨハネ13章1-15節

1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

2 夕食の間のことであった、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、

3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、

4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。

5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。

6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」

7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」

8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」

9 シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」

10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」

11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない」と言われたのである。

12 イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。

13 あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。

14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。

15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。
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豊かな実を結ぶために To produce much grain

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2015年2月22日日曜日バイリンガル礼拝音声はhttp://youtu.be/qONBRKzTMjU

私たちは、先週からヨハネ10章から12章を読んでいますが、イエス様がご自分の死に関してよく言及されるようになりました。

ヨハネ10:11
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。“I am the good shepherd. The good shepherd gives His life for the sheep.

イエス様は、ご自分の羊・民を救うためには命をも捨てる、というのです。それこそが良い牧者だと。

また11章では、死んだラザロを蘇らせるという奇跡をなさいました。この奇跡は、ヨハネの福音書七つ目の奇跡であり、七は完全数、完全性を示す奇跡となりました。そして、この奇跡のためにますます宗教家たちは面白くありませんでした。しかし、イエス様は、このラザロの奇跡を通して明確なメッセージを送っています。

ヨハネ11:25,26
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」と。“I am the resurrection and the life. He who believes in Me, though he may die, he shall live. 26 And whoever lives and believes in Me shall never die. Do you believe this?”

12章では、異邦人の人たちがイエス様に会いたがり、弟子たちにお願いするようになりました。するとイエス様は、神様の時が近づいていることを感じ、一粒の麦の話しをされました。

ヨハネ12:23-26
すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。
わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。23 But Jesus answered them, saying, “The hour has come that the Son of Man should be glorified. 24 Most assuredly, I say to you, unless a grain of wheat falls into the ground and dies, it remains alone; but if it dies, it produces much grain. 25 He who loves his life will lose it, and he who hates his life in this world will keep it for eternal life. 26 If anyone serves Me, let him follow Me; and where I am, there My servant will be also. If anyone serves Me, him My Father will honor.

神様は、地上の全てを造られましたが、その全てに神様特質・メッセージを入れておられます。神様は、種をデザインされ、種が地に落ちて、種の殻が割れて中の栄養が全て新芽に吸われて、新芽が殻を破って出てきます。これを、ユダヤの当時の人たちは「死」とみなしていました。種は、自分が死ぬことによって新しい命を生み出します。

★豊かに実を結んだストーリー

・宣教師… 

今日歌った歌「私は知っている」は、私のお友達が、私たちが神学生のときにつくった歌です。この歌の背景となったのは、次のようなお話し。
私たちの教会のグループは、スウェーデンの宣教師が戦後、始められました。
そして、何十年もたったある時、教会を受け継いだ日本人牧師がスウェーデンを訪問しました。そして、知っている先生のお墓を訪れたそうです。
すると、その先生のお墓に、日本語で、「神は愛なり」と彫られていたそうです。それを見て、人生全てを日本のために、日本を愛して捧げられたんだということを改めて知らされて、感動されたんだそうです。そして、今や、五十以上の教会ができ、また宣教師たちも海外に送られるようになりました。その一人が私です。あの、スウェーデンの宣教師が人生を日本にささげつく下から、今の私があり、今ここでいのちを捧げているのです。

・イエス・キリスト

 ロマ5:15 ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。But the free gift is not like the offense. For if by the one man’s offense many died, much more the grace of God and the gift by the grace of the one Man, Jesus Christ, abounded to many.

★私たちにとって死ぬこととは。。。 v25

・自分のいのち  

自分のいのちを憎むとありますが、ここでいういのちは、新約聖書の原語ギリシャ語では、サイキという言葉が使われています。これは、the soul の意味であり、情、欲望、感覚、衝動を含みます。the seat of the feelings, desires, affections, aversions  自分、自分という自分がかわいいという思いです。

先に述べた宣教師も、イエス様も自分のいのちを憎まれました。自分の外国へいくという不安、怖さ、孤独さそのようなものを全てわきにおいて、むしろ神様を見上げて、神様をとって、従っていかれたのです。これが、自分のいのちを憎むということです。

イエス様は、自分のいわゆる肉の欲、情、衝動は死ななければならない。と言われているのです。この肉の性質というのは、自分で考えて行っているわけでなく、自然に自分からでてくるものです。

「罪」と言う言葉を教会に来るようになるとよく耳にすると思いますが。罪とはなんでしょうか。前に言いましたが、的外れなこと。つまり、神様の心、掟、真理から外れていることですね。みなさん、罪を故意に犯しますか。悪いとわかってて犯す人もいるでしょう。しかし、知らず知らずに犯している罪のなんと多いことでしょう。身体に染み付いた考え方から来る行動で、人を傷つけることがなんと多いことでしょうか。無意識に罪を犯す性質を、自分の命といっているのです。

・永遠のいのち  

自分のいのち・情を憎むものは、それを保って永遠の「いのち」を得る、と。言葉には原語では、違った言葉が使われています。それは、ゾーエーと言う言葉です。Of absolute fullness, both essential and ethical which belong to God, life real and genuine, a life active and vigorous, devoted to God. 
絶対不可欠であり、道徳的にも全くの充足しているさまであり、神に属するものである。本物の命である。活動的で、活発な神に献身した命である。

◎自分の命憎むとき、永遠の命に至る。。。

 種が死に、芽という全く違う形のものが生まれる。自分の命を憎むなら、永遠の命に至る。たましいの領域から、霊が生きるという領域に移される。死から不死の世界に移る。質の違うものに変わっていく様を語られている。すなわち、自分の命を憎むものは、生き方が変えられるということである。

いもむしが、美しいアゲハチョウになるように、神様は、醜いものからでも、美しいものに変革させてくださるのです。また多くの実りを与えてくださるのです。これが神様の約束です。ただし、イエス・キリストにあるならです。

★この道には、報いがある

私に仕える者は、わたしがいる所にいる。。。所  abiding in Me.John15,
この場所は、私たちが宿るところ。留まるところ。泊まるところ。住まうところ。
主にある安息を意味する。主にある充足。主のSeat of Rest  

★一つだけ覚えていて欲しいこと。

皆さん、新しい生き方に入りませんか。自分のいのち・感情や衝動を愛する生き方から神に属する命に写りませんか。 種は内側から、殻を破るのです。他の誰かが殻を破ってくれるのではありません。そこには、あなたの意思がとても重要に関わってきます。あなたの決断。新しい命に入りたいという決断かとても大切なのです。
新しい命に入りましょう。そこには、神様の約束があります。必ず多くの実りと報いがあるのです。

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「私は知っている」 という歌

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私の大好きな歌があります。
この歌は、私のお友達が、私たちが神学生のときにつくった歌です。
この歌の背景となったのは、次のようなお話し。
私たちの教会のグループは、スウェーデンの宣教師が戦後、始められました。
そして、何十年もたったある時、教会を受け継いだ日本人牧師がスウェーデンを訪問しました。そして、知っている先生のお墓を訪れたそうです。
すると、その先生のお墓に、日本語で、「神は愛なり」と彫られていたそうです。それを見て、人生全てを日本のために、日本を愛して捧げられたんだということを改めて知らされて、感動されたんだそうです。

「私は知っている」

私は知ってる 一粒の種が
まかれたことを 育ったことを
実を結んだことを

私は知ってる 一人の人が死んだことを
捧げつくしたことを 誉れをとらなかったこと

神は愛なり 神は愛なりと 
刻まれた 墓標を 小さな 小さな 
墓を私は知ってる

死ぬことは 痛みだろうか 
死ぬことは 消えることなのか
それは それは キリストの いのちに
継ぎ合わされること
それは それは 新しく 生まれること

私は知ってる 一粒の 種が
私にもある
キリストの命を 与えられていることを

神は愛なり 神は愛なりと 
刻まれた 墓標を 小さな 小さな 
墓を私は知ってる
 
一粒の種が地に落ちて
死ななければ
それは一粒のまま

一粒の種が地に落ちて
死ななければ
それは一粒のまま
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