聖書の中にいろいろなストーリーがありますが、この箇所も有名です。
師匠であるイエス様が弟子たちに仕えた名場面です。そして、この後まもなく、イエス様は捕らえられ残酷な殺され方をするのです。。。。
ヨハネ13章1-15節
1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
2 夕食の間のことであった、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、
3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、
4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」
7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」
8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
9 シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」
11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない」と言われたのである。
12 イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。
13 あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。
14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。
2015年2月22日日曜日バイリンガル礼拝音声はhttp://youtu.be/qONBRKzTMjU
私たちは、先週からヨハネ10章から12章を読んでいますが、イエス様がご自分の死に関してよく言及されるようになりました。
ヨハネ10:11
わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。“I am the good shepherd. The good shepherd gives His life for the sheep.
イエス様は、ご自分の羊・民を救うためには命をも捨てる、というのです。それこそが良い牧者だと。
また11章では、死んだラザロを蘇らせるという奇跡をなさいました。この奇跡は、ヨハネの福音書七つ目の奇跡であり、七は完全数、完全性を示す奇跡となりました。そして、この奇跡のためにますます宗教家たちは面白くありませんでした。しかし、イエス様は、このラザロの奇跡を通して明確なメッセージを送っています。
ヨハネ11:25,26
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」と。“I am the resurrection and the life. He who believes in Me, though he may die, he shall live. 26 And whoever lives and believes in Me shall never die. Do you believe this?”
12章では、異邦人の人たちがイエス様に会いたがり、弟子たちにお願いするようになりました。するとイエス様は、神様の時が近づいていることを感じ、一粒の麦の話しをされました。
ヨハネ12:23-26
すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。
わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。23 But Jesus answered them, saying, “The hour has come that the Son of Man should be glorified. 24 Most assuredly, I say to you, unless a grain of wheat falls into the ground and dies, it remains alone; but if it dies, it produces much grain. 25 He who loves his life will lose it, and he who hates his life in this world will keep it for eternal life. 26 If anyone serves Me, let him follow Me; and where I am, there My servant will be also. If anyone serves Me, him My Father will honor.
神様は、地上の全てを造られましたが、その全てに神様特質・メッセージを入れておられます。神様は、種をデザインされ、種が地に落ちて、種の殻が割れて中の栄養が全て新芽に吸われて、新芽が殻を破って出てきます。これを、ユダヤの当時の人たちは「死」とみなしていました。種は、自分が死ぬことによって新しい命を生み出します。
★豊かに実を結んだストーリー
・宣教師…
今日歌った歌「私は知っている」は、私のお友達が、私たちが神学生のときにつくった歌です。この歌の背景となったのは、次のようなお話し。
私たちの教会のグループは、スウェーデンの宣教師が戦後、始められました。
そして、何十年もたったある時、教会を受け継いだ日本人牧師がスウェーデンを訪問しました。そして、知っている先生のお墓を訪れたそうです。
すると、その先生のお墓に、日本語で、「神は愛なり」と彫られていたそうです。それを見て、人生全てを日本のために、日本を愛して捧げられたんだということを改めて知らされて、感動されたんだそうです。そして、今や、五十以上の教会ができ、また宣教師たちも海外に送られるようになりました。その一人が私です。あの、スウェーデンの宣教師が人生を日本にささげつく下から、今の私があり、今ここでいのちを捧げているのです。
・イエス・キリスト
ロマ5:15 ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。But the free gift is not like the offense. For if by the one man’s offense many died, much more the grace of God and the gift by the grace of the one Man, Jesus Christ, abounded to many.
★私たちにとって死ぬこととは。。。 v25
・自分のいのち
自分のいのちを憎むとありますが、ここでいういのちは、新約聖書の原語ギリシャ語では、サイキという言葉が使われています。これは、the soul の意味であり、情、欲望、感覚、衝動を含みます。the seat of the feelings, desires, affections, aversions 自分、自分という自分がかわいいという思いです。
先に述べた宣教師も、イエス様も自分のいのちを憎まれました。自分の外国へいくという不安、怖さ、孤独さそのようなものを全てわきにおいて、むしろ神様を見上げて、神様をとって、従っていかれたのです。これが、自分のいのちを憎むということです。
イエス様は、自分のいわゆる肉の欲、情、衝動は死ななければならない。と言われているのです。この肉の性質というのは、自分で考えて行っているわけでなく、自然に自分からでてくるものです。
「罪」と言う言葉を教会に来るようになるとよく耳にすると思いますが。罪とはなんでしょうか。前に言いましたが、的外れなこと。つまり、神様の心、掟、真理から外れていることですね。みなさん、罪を故意に犯しますか。悪いとわかってて犯す人もいるでしょう。しかし、知らず知らずに犯している罪のなんと多いことでしょう。身体に染み付いた考え方から来る行動で、人を傷つけることがなんと多いことでしょうか。無意識に罪を犯す性質を、自分の命といっているのです。
・永遠のいのち
自分のいのち・情を憎むものは、それを保って永遠の「いのち」を得る、と。言葉には原語では、違った言葉が使われています。それは、ゾーエーと言う言葉です。Of absolute fullness, both essential and ethical which belong to God, life real and genuine, a life active and vigorous, devoted to God.
絶対不可欠であり、道徳的にも全くの充足しているさまであり、神に属するものである。本物の命である。活動的で、活発な神に献身した命である。
◎自分の命憎むとき、永遠の命に至る。。。
種が死に、芽という全く違う形のものが生まれる。自分の命を憎むなら、永遠の命に至る。たましいの領域から、霊が生きるという領域に移される。死から不死の世界に移る。質の違うものに変わっていく様を語られている。すなわち、自分の命を憎むものは、生き方が変えられるということである。
いもむしが、美しいアゲハチョウになるように、神様は、醜いものからでも、美しいものに変革させてくださるのです。また多くの実りを与えてくださるのです。これが神様の約束です。ただし、イエス・キリストにあるならです。
★この道には、報いがある
私に仕える者は、わたしがいる所にいる。。。所 abiding in Me.John15,
この場所は、私たちが宿るところ。留まるところ。泊まるところ。住まうところ。
主にある安息を意味する。主にある充足。主のSeat of Rest
★一つだけ覚えていて欲しいこと。
皆さん、新しい生き方に入りませんか。自分のいのち・感情や衝動を愛する生き方から神に属する命に写りませんか。 種は内側から、殻を破るのです。他の誰かが殻を破ってくれるのではありません。そこには、あなたの意思がとても重要に関わってきます。あなたの決断。新しい命に入りたいという決断かとても大切なのです。
新しい命に入りましょう。そこには、神様の約束があります。必ず多くの実りと報いがあるのです。
ぼ
私の大好きな歌があります。
この歌は、私のお友達が、私たちが神学生のときにつくった歌です。
この歌の背景となったのは、次のようなお話し。
私たちの教会のグループは、スウェーデンの宣教師が戦後、始められました。
そして、何十年もたったある時、教会を受け継いだ日本人牧師がスウェーデンを訪問しました。そして、知っている先生のお墓を訪れたそうです。
すると、その先生のお墓に、日本語で、「神は愛なり」と彫られていたそうです。それを見て、人生全てを日本のために、日本を愛して捧げられたんだということを改めて知らされて、感動されたんだそうです。
「私は知っている」
私は知ってる 一粒の種が
まかれたことを 育ったことを
実を結んだことを
私は知ってる 一人の人が死んだことを
捧げつくしたことを 誉れをとらなかったこと
神は愛なり 神は愛なりと
刻まれた 墓標を 小さな 小さな
墓を私は知ってる
死ぬことは 痛みだろうか
死ぬことは 消えることなのか
それは それは キリストの いのちに
継ぎ合わされること
それは それは 新しく 生まれること
私は知ってる 一粒の 種が
私にもある
キリストの命を 与えられていることを
神は愛なり 神は愛なりと
刻まれた 墓標を 小さな 小さな
墓を私は知ってる
一粒の種が地に落ちて
死ななければ
それは一粒のまま
一粒の種が地に落ちて
死ななければ
それは一粒のまま
礼拝後のベイビーシャワー。。。みなさん良い顔です。祝福の流れるところにいのちが溢れます。
2015年2月15日日曜日バイリンガル礼拝、音声は、http://youtu.be/8pxmQY5UHSI
ヨハネ9章1-8
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。
4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
8 近所の人たちや、前に彼が物ごいをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」
Now as Jesus passed by, He saw a man who was blind from birth. 2 And His disciples asked Him, saying, “Rabbi, who sinned, this man or his parents, that he was born blind?”3 Jesus answered, “Neither this man nor his parents sinned, but that the works of God should be revealed in him. 4 I must work the works of Him who sent Me while it is day; the night is coming when no one can work. 5 As long as I am in the world, I am the light of the world.”6 When He had said these things, He spat on the ground and made clay with the saliva; and He anointed the eyes of the blind man with the clay. 7 And He said to him, “Go, wash in the pool of Siloam” (which is translated, Sent). So he went and washed, and came back seeing.8 Therefore the neighbors and those who previously had seen that he was blind said, “Is not this he who sat and begged?”
★ 病気の原因?
V2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」And His disciples asked Him, saying, “Rabbi, who sinned, this man or his parents, that he was born blind?”
私たちは、病に直面するときに、何が悪かったのだろうか。。。と考えます。私にも、長年病を患っているおばがいました。祖母が気に病んでありとあらゆることをやりました。先祖のたたりかと。。。お遍路さんに、お百度参り、霊能者に除霊もしてもらいましたが、結局なおらず、おばは自殺してしまいました。
「この人が生まれつき盲目なのは、だれが罪を犯したからですか?」と、弟子たちは質問しました。
最初の人アダムとエバが罪を犯し、罪が入ったから死が入り、死が入ったらので病気が入りました。人の命は限りあるものとなりました。罪の性質が遺伝し、受け継がれると同時に、病気や死も必ず受け継がれていきます。ですから、この盲目が誰かの罪の結果であることは、もしかしたらあながち間違っている質問でもないかも知れません。
しかし、イエス様は、こう答えられました。イエスは答えられた。
V3「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。Jesus answered, “Neither this man nor his parents sinned, but that the works of God should be revealed in him.
わたしは、この箇所を読むといつも泣きそうになります。感動するのです。
罪の問題を解決し、罪の連鎖を断ち切り、わたし達を祝福を流すものとするために、地上に来られたイエス様が、「神のわざがこの人に現れるためだ」と言われるのです。
私達に、希望があるのです。
しかし、誰でも彼でもに神のわざが現されるのでしょうか? そうではないのです。イエス・キリストと出会い、このお方に掛けた人のみです。
罪、死、病気の問題を解決できる方は、キリスト・イエスの他に誰もいないからです。キリストこそが、神のみ業、栄光をあなたの上に現すことができるのです。
★ その時は、限られている。
V4,5 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」4 I must work the works of Him who sent Me while it is day; the night is coming when no one can work. 5 As long as I am in the world, I am the light of the world.”
私たちは、人生の重要な決断を後回しにしがちです。また、よく神様に関することは、老年になってから信仰したらいいか、などと言う人も日本では多くいます。しかし、私たちは、いつ自分の命が終わるのか誰も知らないのです。また、死後自分がどこに行くのか、死んでからも私たちの霊が存在していることも、何も気にしないで生きています。聖書の違う箇所にこのような言葉があります。
Ⅱコリント6:2 確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。Behold, now is the accepted time; behold, now is the day of salvation.
“今” こそが、あなたの、恵みの時であり、救いの日なのです。 今です。やがて、恵みや、救いのオファーが閉ざされる時が来るのです。この地の終わりの時が来ます。もう誰も、救いの宣教のために働かなくなる時が必ず来るのです。そして、それがいつ来るのか誰にも分かりません。
★ 不思議な方法で不思議なことが起こる
私たちの最大の敵は、自分の理性と言えるのかもしれません。私たちの経験や蓄積してきた知識、知能かも知れません。
イエス様は、とっても不思議な方法で、この生まれつきの盲人を癒されました。
V6,7 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行ったWhen He had said these things, He spat on the ground and made clay with the saliva; and He anointed the eyes of the blind man with the clay. 7 And He said to him, “Go, wash in the pool of Siloam” (which is translated, Sent). So he went and washed, and came back seeing.
生まれてから、全く目が見えないのに、こんなどろとつばで目が治るわけが無い。とか、何でわざわざシロアムまで行って洗わないといけないのか、と、ぶつぶつ考えて、やらなかったら、彼は癒されることはなかったでしょう。信仰がなければ、私たちには神のみ業を体験することができないのです。どんな素晴らしい学問も、医学も、哲学もわたし達を死の力から解放することはできないのです。ばかばかしいように思えることでも、イエス様を信じる信仰があるならば、あなたは、人生が180度変えられることを体験するでしょう。
他の聖書の箇所にも次のような言葉があります。
1コリント1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。 For the message of the cross is foolishness to those who are perishing, but to us who are being saved it is the power of God.
1:25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。Because the foolishness of God is wiser than men, and the weakness of God is stronger than men.
1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。27 But God has chosen the foolish things of the world to put to shame the wise, and God has chosen the weak things of the world to put to shame the things which are mighty;
29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。that no flesh should glory in His presence.
盲人は、従って見ました。言われたとおりやってみました。すると、生まれてから見た事の無いものを見るように変えられたのです。
彼が、池に行ってみたのは、彼の信仰の表れとなりました。信仰の証しとなりました。
信仰がなければ、神に近づくことはできないのです。信仰がなければ、み業は現れないのです。
今が、恵みの時、今が救いの時です。今日、あなたの前に立ちはだかる病や困難、岩のような大きな動かない問題があったとしても、今がその時です。神のみ業・栄光があなたに現れるのです。信じましょう。
ぼ
一ヶ月くらい前に、末期がんで延命措置をはずしたサンデイさんとの出会いの話を書きました。
彼女は、延命措置を外す前に、イエス・キリストを信じました。
彼女の最後の願い事は、誰かにそばで賛美歌を歌ってもらうことでした。
主人と私で歌いに行きました。
今朝、分かったことですが、私達が病院を後にした、一時間後に天国へ旅立たれたんだそうです。
そんなに早く召されるとは思っていなかったので、驚きました。
そして、間に合って良かったー。と思いました。
今は、天国でもっと綺麗な賛美歌を歌ってることだと思います。
たくさんの天使たちと一緒に。。。。
ぼ
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明日は、礼拝のあと、そのまま教会で、ベイビーシャワーがあります。
赤ちゃんが産まれる前にみんなで集まって祝福するのです。赤ちゃんを迎えるのに必要なものをプレゼントしたりします。
ゲームをしたり、おやつを食べたり、楽しく過ごします。
普通は女の人や子供たちが来るのですが、最近は男性も来てカップルを祝福することも多くなって来てるようですね。
明日のカップルは、カナダから越してきて間もない、カナダ人日本人の夫妻です。
これが彼らにとってシアトルのいい思い出になったら、いいなーと思います。
私は、明日のおやつにアンパンを焼いてみました。
美味しく出来ていますように。。。。
主人にたべられませんように。。。
明日楽しみです。
ぼ
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シアトルで、日本人とアメリカ人対象にしてミニストリーをしていて一番嬉しいことがあります。
それは、帰国していった人たちが里帰りに来てくれることです。
そして、もっと嬉しい事は、その人たちが教会に来ることを楽しみにしてくれてたり、懐かしく思ってくれること。
そして、一番嬉しい事は、日本でも教会に行ってくれていることです。
2月、3月、4月と、何人かの里帰り組みが遊びに来てくれます。
以前、こちらに留学生として滞在しておられた方々です。
二十歳前後にこちらにおられた人たちなので、成長がとっても楽しみです。
まるで、親戚のおばちゃんの気持ちです。
一人ひとり、大切な人たち。
再会を楽しみに、そして、祝福を続けて祈っています。
写真は、先週の里帰りさんと。。。。
来てくれてありがとうね。
ぼ
みなさん、こんにちは。
今週日曜日の礼拝の聖書の箇所です。
この奇跡は、後に大問題に発展することになります。
それは、イエス様が安息日にそれを行われたからでした。
当時も今もですが、ユダヤ教では、安息日に何も働いてはいけないとされています。
これを厳密に守るあまりに、本当の神様の心を見失ってしまったようです。
当時ユダヤ教の宗教家たちは、癒されて喜んでいる家族とその本人を追い掛け回して、検証しようとしています。
イエス様は、宗教と真っ向から対決しにこられました。人々に宗教をとるのか、神の愛をとるのかと選択を迫られています。
みなさんには、本末転倒だと思えることは、ありますか。
また、この世に宗教以上のもの、愛が存在することを信じますか。
ヨハネ9章1-14
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。
4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
8 近所の人たちや、前に彼が物ごいをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」
9 ほかの人は、「これはその人だ」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ」と言った。当人は「私がその人です」と言った。
10 そこで、彼らは言った。「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」
11 彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
12 また彼らは彼に言った。「その人はどこにいるのですか。」彼は「私は知りません」と言った。
13 彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。
14 ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。
ぼ
2015年2月8日日曜日バイリンガル礼拝音声は、http://youtu.be/u22jqevk9pE
ヨハネ8章 1-12
1 イエスはオリーブ山に行かれた。2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。」12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
★敵(悪魔)の策略
6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。6 This they said, testing Him, that they might have something of which to accuse Him.
律法学者とパリサイ人は、何とかして、人気のあり優しく権威に満ちたイエス様の働きをやめさせたかった。イエス様を牢屋にぶち込みたかった。何とかあらを探そうとしていた。そして、彼らは、イエス様をわなに掛けることに決めた。
彼らは、姦淫の現場で女を引きづり出した。不倫の現場に行って、現行犯で女だけを捕まえてきたのだ。当時の律法では、このようなことをするものは、男女両方とも石打の刑で殺されるはずだ。男性は、いったいどこに行ったのだろうか。
今まで、罪人と食事をし、罪を赦し、病人を癒してきたイエス様。病気も罪原因、また汚れているとみなされていた。そのまるで罪に甘く見えるイエス様が今度はなんと言うかと試したのです。
もしも、簡単に赦したら、律法、聖書の教えを軽んじることに、また裁き、目の前で石打の刑にするなら死刑件を持たないのでローマ帝国に対する越権行為となります。どっちに転んでもイエス様を告発できる材料になると考えたのです。
告発するのが、彼らの目的です。
これは、サタンの性質に非常に似ています。サタンは、わたしたちを罪に訴え、罪悪感を持たせ、恥を持たせようとしてきます。そして、自滅に追い込もうとするのです。クリスチャンであっても、恵みの法則を知らないなら、この落とし穴に入ってしまいます。
★罪
罪の自覚が恵みへの飢え渇きをもたらす。
この女は、不倫の現場で捉えられたため、その辺のものを身にまとい髪は乱れ、なんとも無残な姿で人々の前に座らされていただろう。誰の目にも彼女は罪人である。人の視線が突き刺さる。そして、現行犯だから、石打の刑で死ぬことは決まっている。このような恥を人の前でさらされるならいっそのこと、今殺して欲しいと思ったに違いない。彼女は、自分の罪と直面していた。そして、死を目前にして、どうしてこんな人生をたどるようになってしまったのかと、その罪の原因を見つけていたことだろう。しかし、もはや、救われる余地はなかった。
彼女にとっては、自分の罪への対決・直視が、真の意味で自分自身を知ることであり、恵みのはじめ、恵みの認識の第一歩となったのである。
★まさかの赦し
V6….しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。This they said, testing Him, that they might have something of which to accuse Him. But Jesus stooped down and wrote on the ground with His finger, as though He did not hear. 7 So when they continued asking Him, He raised Himself up and said to them, “He who is without sin among you, let him throw a stone at her first.” 8 And again He stooped down and wrote on the ground.
イエス様は、指で地面に何か書かれたとあります。ある人は、姦淫の女を責めていてる人たちの罪を一つ一つ書いていたとも言い、ある人は、恵みについて書いていた。。。とも言います。本当は、何を書いていたのでしょうか。イエス様の、このポウズ、一呼吸あいたところに、人々の心に光が当てられたようです。イエス様のおられるところに、臨在のあるところに心に気づきが与えられるものです。being convicted by their conscience
「罪の無いものが最初に、彼女に石を投げなさい。」
この言葉は、この女の心も、責めている人の心も刺し通しました。
一人また一人と、去っていきました。最後にイエス様だけが、残りました。イエス・キリストは完全な神であり、完全な人であります。聖く、罪の犯したことの無い方です。イエス様だけが、この女に石を投げることができたのです。
女は、死の宣告をされ、びくびくしていたでしょう。今石が飛んでくるかと身をすくめていたでしょう。そして、それは、当然のことであったのです。
イエス様と、この女は、二人だけで向き合いました。
私たちは、みな、一度死に死後に裁きを受けることが定められています。(聖書) 生きているときに、彼女のようにイエス様と一対一で向きあうことがなかったとしても、必ず、死後に向き合い、生前の罪に対して申しひらきをしなければならないのです。
しかし、聖書は次のように言っています。
ヨハネ3:16-17
16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。 For God so loved the world that he gave his one and only Son, that whoever believes in him shall not perish but have eternal life. 17 For God did not send his Son into the world to condemn the world, but to save the world through him.
イエス様が来られたのは、わたしたちを裁いて滅ぼすために来たのではなく、救うために来られたのです。
★恵みの生活への招き
ところが、イエス様は、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。」“Neither do I condemn you; go and sin no more.”
この女は、命を取り戻しました。イエス様と一対一で向き合い、自分の罪を赦していただいたのです。
恵みのdefinition …恵みとは、わたしたちが価しない、全くのプレゼントです。
彼女が生きることは、全くの贈り物なのです。これが、イエス・キリストの与える私たちへの命なのです。私たちは、人生をやり直すことができるのです。私たちは、新しい命をいただいて生きることができるのです。これが、私たちの最大の感謝です。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。」“Neither do I condemn you; go and sin no more.”
イエス様は、恵みの生活へ招いておられます。あなたの罪は、赦された、だから行って、今度は決して罪を犯さないように。
彼女は、自分の罪を手放すことができた。
彼女は、文字通り肉体の命が救われた。助けられた。そして、もう一つ、心の奥底、霊にも命を取り戻したのです。彼女は、天国につづく永遠の命をいただいたのです。これからは、罪を犯さずに歩んでいこうという新しい恵みの生活に招き入れられました。
みなさん、罪と言うのは、なぜ、やめられないかと言うと、罪を愛しているからやめられないのです。罪を犯すことによって、自分自身への何らかの見返りがあるから、みな罪を犯すのです。どうしても彼女が姦淫の罪をやめられなかった。それは、悲しみ、苦しみ、寂しさ、幼いときのトラウマ、を紛らわすためだったかも知れません。また、何かの復讐心からそれをしていたのかもしれません。罪には、根っこの問題があるのです。それを皆隠したり、紛らわしたりするために罪を犯すのです。そして、そこから離れられなくなる。
しかし、死を目の前に突きつけられたとき、彼女は、罪を手放すことができました。
恵みの生活に招きいれられたのです。
イエスはまた彼らに語って言われた。V12「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」12 Then Jesus spoke to them again, saying, “I am the light of the world. He who follows Me shall not walk in darkness, but have the light of life.”
恵みの生活とは、光の中を歩むことである。死の束縛から解放されたのだから、人生全てをキリストに捧げて生きるという世界。自発的に愛からキリストに従うという人生。罪の奴隷から解放されるが、律法や善悪、決まりごと、宗教の奴隷となり、主人が変わるだけの奴隷ではない。自由の中を歩むことだ。これが恵みの法則。人生丸ごと神様に捧げる。
結婚関係のようなもの。相手を愛しているなら全てのことは正しい。律法のイラストレーション。旅行から帰ってきて、迎えに来た妻にキスをするべきか、ハグだけにするべきか、どこにキスをするべきかなどと悩んでいる人がいたとする。愛して結婚しているのだから、これらに関して悩むことは、全て間違い。愛してすることは、全て正解。また二人の関係の中で育ててきたものがある。その流れでオッケー。
もう、律法に縛られることはなく、死と刑罰を恐れる生活ではない。愛による生活です。
聖書の中に次のような言葉があります。
ロマ5:20-21
20 律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。21 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。Moreover the law entered that the offense might abound. But where sin abounded, grace abounded much more, 21 so that as sin reigned in death, even so grace might reign through righteousness to eternal life through Jesus Christ our Lord.
ロマ2:4
それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。Or do you despise the riches of His goodness, forbearance, and longsuffering, not knowing that the goodness of God leads you to repentance?
神の優しさがわたしたちを悔い改めに導きます。イエス様は、あなたを裁くために来られませんでした。救うためです。手を広げて待っておられます。
恵みの生活を受け取りましょう。
ぼ
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