マタイ福音書連続講解説教14 マタイ6章19~34節
「義に生きる(一般面)」
{メッセージからの抜粋}
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主イエスは何と現実主義者であらることでしょうか。
神の義とはどういうものであるかを説かれ(5章前半にある八福)、義に対しての再解釈をされ(5章後半の六つの事例)、その義を生活に適用した生き方とはどういうものかを述べているのが6章です。
その適用例は実に身近なものが取り上げられています。誰もが問題意識を抱いている中心的なトピックについての教えです。
6章前半はユダヤ教を実践するに当たっての三大支柱ともいうべき施し、祈り、断食について触れます。
6章後半は一般の日常生活にあって最も関心を払う富(お金)や思い煩いについて取り上げられています。
お金は神様から使い方を任せられた管理者として正しく、また賢く運用しなくてならないものですが、時にそのお金が私たちを支配するほどに強い魔力を持つことがあります。
「マモン」というアラム語はそのような支配的権力を握った「富」の一面をよく表している言葉です。
「だれも二人の主人に仕えることはできません。~あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(24節)
この富の奴隷となって仕える限り、私たちは思い煩いから開放されることはありません。
地上に蓄えた富は目減りしてしまうものです。
「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(21節)
損害を受けた富は、人の心を蝕んでしまうものです。
天に蓄えられた宝は、虫や盗賊の手の届かないところにあって保全されます。
減価償却の心配の必要もないので、私たちの心に悪い影響を与えることもないのです。
主イエスが私たちの主人となってくださるとき、あらゆる思い煩いから開放されていきます。
本来人は神の最高傑作として、創造の冠として造られました。
「空の鳥を見なさい」(26節)と主は言われました。
巣を作ったり、餌を集めたり、賛美の歌声を奏でるために忙しく一日中働いています。
でも「何を食べようか、何を飲もうか」といって思い悩んでいる様子はないのです。私たちは鳥よりももっと優れているものです。
「野にあるゆりを見なさい」(28節)とも主は言われました。
働かずとも栄華の窮みであるソロモンもこの自然界にある神の作品ほど着飾ることはできなかったのです。私たちは野の花よりも精巧に、優美に造られた作品です。
養ってくださる父なる神への信頼があるところでは、心配は解け去っていきます。
美しいガリラヤの田園風景を教材にされながら、義を実践する際の支柱は父なる神への信頼にあることを教えてくださいました。
昨年から妻の机を長女が使っています。
というよりも、ほとんど使われないまま部屋の肥やしとなってます。
宿題は居間の食卓で、読書はベットでしてるからです。
それで不要の机を下の長男が受け継ぐことになりました。
日本ではピカピカ1年生になると同時にランドセルや勉強机を買ってもらうのが通常のようです。
私も妻に彼らに机を与えようとしたことがあります。
妻曰く「要らない」。
「やはり彼らに勉強机を与えたほうがいいのでは? 宿題にも無頓着だった私みたいになったらどうしよう」なんて少々心配してたのです。
今回長女のお下がりをもらうことになり、勉強嫌いな長男もこれで多少は机に向かうきっかけにもなるかな、と期待しました。
彼の部屋にその机を搬入してから数時間後……
「ダディ、見に来てよ。机を準備完了させたよ。」
そう言って長男は私の目を閉じさせ、手を引いて自分の部屋に連れて行きました。
「もういいよ。目を開いて。」
その机は、NinjaGoで埋め尽くされていました( ̄▽ ̄)
ポートランドから南へ25分ほど高速を走ると、Lake Oswegoがあります。
読んで字のとおり、Oswegoという名の湖を中心に据えている町。
大都会の只中にリゾート地が出現するような感覚になれる場所。
今回も多くの友人たちとお会いすることができました。
一人の方はその湖で魚釣りをしたことを以前FBで公開してくれましたが、意外な発見。
家のデッキが湖面にせり出しているので、そこから釣り糸をたれて数分もしないうちに大きな魚がいくつも連れて行くのです。
きっと、湖畔に住む人たちは魚を買う必要はないでしょう。
この日は数週間ぶりの雨が降り、乾燥しきっていた大地に貴重な湿り気となりました。
カップサイズなのが最近はやっている理由かな?
ポートランドであるところを訪問中、カップケーキをいただきました。
これはそのお宅の友人たちが届けてくれたものなのですが、良いタイミングに現れた私にもおすそ分けが回って来ました。
長女が見たらうらやましがる事でしょう。
これでランチまでのあと1時間持ちこたえました。
でもi phoneのバッテリーが持ちこたえそうにありません。
朝、充填を満杯にしてから出発して後、昼を過ぎたばかりなのにすでにレッドゾーンに入っています。
どうしたことでしょうか?
次の訪問宅で充填のためのケーブルをお借りしました。
事情を話すと、その解決策を教授してくれました。
アプリが起動していると使用しなくてもバッテリーを消耗するのだそうです。
彼女は手際よく、私の数十のアプリを休止状態にしてくれました。
子供らがインストールしたゲームが特に腹ペコでバッテリーを食い尽くす元凶だったようです。
今後はこれでバッテリー消耗の心配から開放されました。
ヘブル書聖書研究からの抜粋です
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ヘブル1章4節 「御使いよりも優れた名前」
ヘブル書は大変簡潔に二つに分解できます。
① 前半が御子の優越性について 1章4節~10章18節
② 後半が信者が御子にある生き方の適用 10章19節~13章終わりまで
御子が優越していることをユダヤ信者に示すにあたり、ユダヤ人が最も誇りとしているものと比較しています。当時、信者となったユダヤ人は常に以前のユダヤ教に惹かれ、元のユダヤ共同体に属してアイデンティティ危機を回避したい誘惑にありました。そこで異邦人と比べてユダヤ教が優れていると彼らが誇り、認めている3大支柱を持ち出して、そのおのおのがイエスと比較されたとき、イエスはそのそれぞれにおいてもさらに優れているのだと論証するのは的を得たことでした。
そういうわけで本書のほとんどのページは、御子がユダヤ教と比較されるために費やされています。
① 御子は御使いたちに勝る 1章4節~2章18節
② 御子はモーセに勝る 3章1節~4章13節
③ 御子はアロン系祭司制度に勝る 4章14節~10章18節
ユダヤ人にとって御使いは大きな地位を占めていました。
大切な律法も御使いの手を通じてモーセに与えられています。
しかし、御子は御使いたちに勝る方です。
先回この書全体のイントロダクションとして1章1節~3節を考察しました。
4節からいよいよ本論に入ります。
「御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。」 (ヘブル 1:4 )
“having become as much superior to angels as the name he has obtained is more excellent than theirs. “(Heb 1:4 RSV)
ここで「なられました」”having become” とあるところはあるカルト団体により「造られた」”being made”と訳され、教えられています。残念ながら英語のKJV訳もそのように訳してしまっています。ギリシア原語では明らかに”having become”、 “to be”と訳されるべきものです。
御子なる神がナザレのイエスとして人となったとき(”having become”)、つまり受肉されたとき、ある意味において御使いよりも低いものとなりました(ヘブル2:9)。
にもかかわらず、御子が復活され、昇天されて天の御座に帰られたとき再び御使いたちに勝る地位につかれたのです。そのときは人間性を保持されながらも、御使いより優越された位まで挙げられたのです。
そしてその瞬間、「御子は御使いたちよりもさらに優れた御名を相続され」ました。
その名前とはいったいなんでしょうか?
マリヤから肉体を取って誕生されたとき、御子は御使いによって「イエス」と命名されました(マタイ1:21)。御子が十字架で死なれて復活し天に帰られたとき、その従順によって父なる神はさらにもう一つの名を用意されておられました(黙示録19:12)。
「その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。 (黙示録19:12 )」
その名が何であるかは御子以外には誰にも明らかにされていません。私たちが天国に行ったとき、もしかしたら教えられるかもしれませんが、聖書はその点は沈黙しています。
その名はすべてのものに勝る名であるとされています(ピリピ2:9)。
また、預言者ゼカリヤが見た幻に出てくる石(これはメシア)にある言葉が刻まれていますが、これがそのメシアの秘められた名であろうと考えられています(ゼカリヤ3:9)。
天国においてその刻まれた名前を読むことが許されるとしたら、今からワクワクしませんか。
「ヘブル語で書いてあるのでしょ。どうせ私には読めません。」なんてあきらめる必要はありません。そのとき天国では私たちはヘブル語を自由に操ることができるでしょう。もちろん英語もです!!
この日、レニア山へ妻と行って来ました。
よく晴れ上がり、雄大なレニア山が目の前にくっきりと顕れてくれました。
これも結婚15周年を祝う行軍の一つです。
Sunriseというレニア山への登山口まで車で入り、その後付近の稜線を歩いて、Dege Peekという山頂を目指して歩きました。
歩きながらの二人の会話です。
妻:「この15年間のハイライトは何でしたか?」
私:「ハイライト、、、?そうだねえ、山もあったし谷もあったね」
妻:「谷だったらすぐに思い浮かぶわ」
私:「、、、、、、、、、、、、、、、、」 (冷や汗)
妻:「わあ~! すごく深いくぼみ!」
私:「えっ? ええっ?????」
妻:「ほらここよ。鹿の足跡がこのところだけすごく、くぼんでいるでしょ」
(そう言いながら地面に指差す妻)
(な~んだ。結婚生活の谷のことではなかったんだ。)
冷や汗だらだらの私でした。
ホサナ教会ではヘブル書の聖書研究を始めました。
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今回は初回で3節だけを扱っています。
ヘブル1章1~3節 <ヘブル全書の主題>
聖書本文
「1:1 神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、
2 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。 (ヘブル 1:1-3 )」
解説
かつて旧約聖書の時代、神は預言者を通じて私たちに語られました。
神がご自身について、人について、また世界の目的について明らかにされたことを啓示と言います。しかしこの「終わりのとき」には「御子により語られました」。
たいていの英語訳はこの「御子により」の部分を in his son あるいは in the sonと訳しています。
しかしギリシア語原文には定冠詞はなく、 in son と本来は訳されるべきものです。
ギリシア語で定冠詞が省かれている場合、人格的な関係よりも性格や性質が強調されていることになります。つまりここでは、かつて預言者という管を通じて語っていた神が、いまや御子というユニークな方法で語られているということです。啓示は a sonによるのです。啓示は人によってでなく、御使いによってでもなく、a sonによるのです。そして複数の「多くの方法」によるものでなく、単数のa sonによるのです。
このa sonとは言うまでもなく神のひとり子であられるメシアなるイエスです。
それではこのひとり子がどうして最後の啓示者として、神の啓示を担う資格をお持ちであられるというのでしょうか。2節から3節にかけて7つの根拠が説明されています。
① 御子は万物の相続者であられるから。
御子は宇宙の中心で歴史の目的です。また万物の目的でもあられます。
万物を相続するとはそういう意味であり、またそれは所有という概念を含んでいます。宇宙の所有者であられるのです。それなら神ご自身に他なりません。
御子は人の姿をお取になられて地上に来られました。正確には神ー人として来られたのです。
② 御子によって世界を造られたからです。
ここでのギリシャ語は「時代」と訳されるべきものです。直訳では「御子によって時代を作った」となります。各時代のプログラムや神の計画をコントロールされておられる方です。宇宙の創始者であり、同時に時代の創始者であられます。
歴史の進行は御子により、時代の漸進性やディスペンセイションとなって顕されました。聖書が示しているとおり、それぞれの時代に神様は目的や計画を御子によって紐解き、顕かにされたのです。御子は時代を造られたばかりでなく、時代にかかわるあらゆることにまでコントロールされます。
③ 御子は神の栄光の輝きです。
御子は神の「輝き」なのです。御子は神の特質のすべてを啓示されます。というのは隔てることのない父なる神との関係を持っておられるからです。彼は神の栄光が放たれる際の輝きそのものであられ、ユダヤ人の間で「シャカイナ・グローリー」と言われています。それは目に見えない神ご自身が人に臨在される際の顕現なのです。たいていは光り輝く様子で人に現れることが旧約聖書から分かりますが、御子がその輝きなのです。このお方は外に輝き出でた神聖そのものです。この点をヨハネ1章1~14節が詳細に扱っていて、それによるとメシアはシャカイナグローリー(光)であられ、肉体を取られてイスラエルの人々の間に幕屋を張られた(住まわれた)のです。
④ 御子は神の本質の完全な顕れです。
英語訳では「神の本質のイメージそのもの」と訳されますが、imageという英語訳のギリシア語原語の意味は「表現されたイメージ」というものです。その原語は実は英語のcharacter(性格)を生み出した言葉なのです。御子は神の実態が顕れた性格そのものであられます。完璧な代理人であるという意味です。それはまたコインが刻印される際の道具に用いられる言葉でもあります。金型がコイン表面をプレスしてから上げられると、コインには金型にあったものと同じものが代理として残されるのです。そのように御子は神聖の完璧な顕れです。あらゆる方面から見て父なる神を再現されるお方です。この点は先述した歴史の始まる以前から御子が存在していた点を示しています。父なる神のうちにあるすべては御子のうちにもあるのです。御子はその力あるみことばによって万物を保っておられます。
⑤ 御子こそは宇宙の保持者であられ支配者です。
すべての歴史を貫いて父なる神が定められた目的を達成されるために働いておられます。「保つ」というギリシア原語の言葉には単に物を持つだけでなく、ゴールに向けてそれを運ぶという意味が含まれています。現在形で書かれていることから、今この時点でも御子がすべての被造物が持っている神から与えられた目的に達するために宇宙を支えているのです。その万物は摂理により、また御子が放たれた言葉によってコントロールされています。
⑥ 御子は罪のきよめを成し遂げられた方です。
「きよめ」という言葉は祭司の仕事に関わるものです。このあと5~7章で主が祭司職にかかわる方であることが詳しく解説されますが、その萌芽がここにあります。御子は死を通じて罪のきよめを成就されました。これには4つの側面があります。
専有的な清めです。御子だけが成就されたものであり他に購いを完成したものは誰もいません。
それは清めのための犠牲を伴ったことを意味しています。
ギリシア語特有のアオリスト時制が使用されている点から、これは完了した清めですでに実現されているので、人の購いのために御子がすることは他にないことが強調されています。
外側の形式的な清め(旧約時代がそうでした)だけでなく、罪のきよめに関することなのです。
⑦ 御子は優れて高い大能者の右に着座された方です。
着座されたとは、仕事を成し遂げたことを意味し(10:12)、また右の座に付かれたということは父なる神と等しく同等の権威をお持ちである(Ⅰペテロ3:22)ことを教えています。その御座での働きは私たちのために父なる神にとりなしの祈りをささげることです(ローマ8:34)。
これら7つの点から分かることは、御子は預言者たちに勝るユニークな啓示者であられるということです。旧約聖書預言のゴールが実現するための最終的な啓示をされるお方であり、かつ、これまで「多くの部分に分けられて、いろいろな方法で語られてきた」ことを御子こそが認証できる方であられるということです。
この日の土曜日には長男のサッカーの試合観戦に行ってきました。
今回はコーチ代理としてライン引きを手伝うために開始30分前に現地到着。
すでにラインは他の父兄によって完成されていました。今回は余裕を持ってじっくりと試合観戦ができました。
そこで今回気づいたことです。
①長男がチームの中で最も小さい。身長だけでなく体重も最も低い数値でしょう。つまりヒョロヒョロしてます。したがって身体的なプレスには他の子に敵わず、よく倒されたり、当たり負けしてしまいます。
それでもハングリー・スピリットにおいてはチームでトップクラスです。
②つまり常にボールを全力で追いかけ、チャンスと見ると果敢にチャレンジを惜しみません。
それゆえ今期は彼が得点王で8点目。2位の3点を大きく引き離しています。
この日も1-0でチームの勝利に貢献した唯一の得点は彼のドリブルシュートでした。
③こう書くと飛びぬけて上手なプレーヤーであるかのように見受けられるでしょう。
ところがそうでもないのです。彼に特別なスキルがあるわけではありません。ただ我武者羅にボールに喰らいついているのでチャンスを物にできるのです。
彼よりもうまい選手はセレクト(選抜)チームにすでに引っ越しています。
たぶんそのセレクトのテストを受けたら彼は合格はできないでしょう。
④彼は勝負にかける意気込みはありますが、その結果に浮き沈みはしていません。
また自分が得点王だ、勝利に最も貢献していると言ってうぬぼれることもありません。この点は私の子供時代と大いに違う点です。
つまり彼は親からの期待に応えようとか、親やチームメイトからの愛や賞賛をもらうことがプレイの動機になっていないのです。カッコウをつける必要もなく、成功しておごることもなく、うまくできなくて落ち込むこともありません。
⑤負けるときも、勝ったときも"Good Job”と言って褒め、「楽しんだか?」と私たちは聞き続けました。
サッカーを純粋に楽しんでほしい、チームとの協調行動に喜びを見出してほしいとの私たち親の主眼が効いているのかな、多少自分たちの親業も認めていいかな、と思ったりしながら1時間の観戦を終えました。
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