ホサナキリスト教会
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マタイ福音書連続講解説教15 マタイ7章1~12節
「義の道における注意事項」
{メッセージからの抜粋}
7章の前半部分は、これまで主が語られた山上の垂訓(5章~6章)の総論部分であると位置付けられます。「義」をキーワードにすると、次のようにまとめられるのではないでしょうか。
1) 天の御国の住民(義とされた者)のマカリオス(幸い)を描写~5:1~16
2) 天の御国の憲法(律法の義)をメシアが再解釈~5:17~48
3) 義を生きるとはどういうことか(宗教生活への適応)~6:1~18
4) 義を生きるとはどういうことか(一般生活への適応)~6:19~34
5) 義の道における注意(付帯)事項:総論~7:1~12(今回)
6) 義の道に対する二つの応答:結論~7:13~29(次回)
義を実践しようとするとき、信仰を見える形で表現するとき、それは人目につきやすいものです。それを実践している人がしていない人を見て、さげすんでしまうことも起きやすいのです。
そこで7章に来てから付帯(注意)事項として、
I. さばいてはいけないこと(1~5節)が教えられます。
ただこれは、人を正しく評価(Evaluate)することを禁じたものではありません。
さばくこと(Judgment)と相手を見抜くこととは別ものです。そこで、
II. 判断力(識別力)をもつことが必要(6節)であると教えられます。
そのような知恵は当初から人は持ちえていません。人はみことばを学ぶことによって知恵と悟りとをいただくのです。神様からの良い賜物、聖霊様もいただかねば信仰生活を最後まで全うできないのです。成熟へと進んでいけないのです。そこで主は、
III. 求めることついて(7~11節)、父親と子供の関係をたとえにしながら教えられます。
そしてこの総論部分の結語として12節があります。これは旧約聖書を要約するとこの一文章になる、と主ご自身がまとめられたものです。
IV. 総まとめ(12節):「それで、何事でも、自分にしてもらいたことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」
当時のパリサイ人が実践した義とは、律法(聖書)本来の精神とはかけ離れたものでした。私たちは彼らのことを笑えません。キリスト教会史の中でも、神の義を振りかざしながら、神の御心に反することを繰り返してきました。反ユダヤ主義、十字軍の遠征、宗教改革直後の教派間の血で血を洗う争いなど、ほかにも数えたらきりがありません。
「神のために」という大義名分を掲げるとき、12節にある聖書を要約した基準に照らしてみると、これまでクリスチャンでありながらも、いかに脱線してしまっているかは明確となります。
初代教会の信者たちはアンテオケで大きな教会を組織するようになると、他者から「クリスチャン」と呼ばれるようになったと使徒の働き13章にあります。
それまでは「この道の者たち」(使徒9章2節)と呼ばれていました。
人々は彼らの生活様式を見て、それは一つの生きる「道」であると遠巻きながらも認めていたことがうかがえます。これは東洋的な表現です。
ここで話は飛びますが、「柔道」と"Judo”は別物です。
「柔道」はある原理を持って究明すべき「道」と言えます。その原理とは「自他共栄」と「精力善用」であり、講道館柔道ではその精神を持って1本を取りに行くのを目標としてきました。世界に広がりを見せたJudoは「道」というより純粋なスポーツです。とにかく試合に勝つことが絶対目標となり、ポイントを稼ぐためにガードを固めるため1本での勝敗が少なくなりました。タックルや足取りなどの奇術も外国人選手の得意なものとなり、組み手からの投げ技という本来の姿勢が失われています。負けないこと、勝つことが優先され、「何のための柔道か」という哲学的な命題が抜けているスポーツだからです。テレビスポンサーのために、カラー柔道着が導入されたのもずいぶん昔のこととなりました。
1世紀の人々が信者を見て「この道の者たち」と呼んだのは、彼らの食べ物や着るもの、髪型や服装などの表面的形態が他者と異なっていたからではありません。
信者のスピリットがイエスを主と仰ぎながら、主に習うものであるのを認めたからです。
その良い例が最初の殉教者となったステパノにあります。
彼は自分を石打にして殺害しているものたちのために、「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」(使徒7章60節)と祈りましたが、それは十字架上で主が敵のために赦しを祈られた祈りと重複するものです。
その赦しのスピリットが世界を変えてきました。革命を起こしてきました。
義に生きるとは、宗教的形態を取り繕うことではなく、主イエスのスピリットに生きることです。
シアトルに帰宅してみて、「帰国」と言ったほうがしっくりと来るような気候の急激な変化に戸惑っています。
ゴールデンゲイトブリッジの北にあるSanRafael は晴天で夏のようでした。
気温も75度(摂氏ですと24度)もあったのです。プールで泳ぎたくなるほど、暑かったです。
今朝、吐く息が白かったです。小雨の降るどんよりと曇ったノースウエストらしい天気。
気温は45度(摂氏7度)。
アウトドアライフよりもインドアライフがふさわしい日に感じます。
そこで今日は読書をしたり、このブログを書いています。
この日、Walnut Creek のダウンタウンの路上で、駐車違反の反則キップを切られてしまいました。
有効時限から10分ほど超過していたのでした。
ついつい客人との話が長くなり、時間が気になっていたのですが相手はそんなこと知りません。長話に付き合って恐る恐るクルマに戻ると、案の定、白色の封筒がフロントガラスに置かれてあったのでした。
$45なり。
イタッ(T ^ T)
「無駄金にはならないんだ。その反則金もこの街の収入に計上されてコミュニティのために活かされるのだから。寄付と思えばいい。」そんな風に自分に言い聞かせたことです。
その後、Oaklandという街に移動。
用事を済ませてクルマに戻ると、白封筒がまたしてもフロントガラスに
☆〜(ゝ。∂)
今回はたっぷり有効時間を残しています。
なのに、なのに…\(//∇//)\
理由なく寄付を強要され、これに応じるほどお人よしではありませんの、ワタクシ。
その白封筒に小切手の代わりに反論文を書いて送付したのは言うまでもありません。ただ気がなりなのは、わたしの英語が当局に通じるか、という点です。
通じるように、そして免停にならないようにお祈りくださいませ。
1:5 「イエスは特別な御子」
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御子の優越性を述べた後に著者はその理由を挙げなくてはなりません。
しかも読者であるユダヤ人と共通の土台に立たなくは議論は成立しないのです。それはもちろん旧約聖書に他なりません。
5節から13節まで7つの旧約聖書箇所を引用しながら御子の御使いに対する優越性についての根拠を展開していきます。
ここでは第一の根拠を取り上げます。それは詩篇2:7からの引用です。
神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。 「あなたは、わたしの子。 きょう、わたしがあなたを生んだ。」 またさらに、 「わたしは彼の父となり、 彼はわたしの子となる。」 (ヘブル1:5 )
For unto which of the angels said he at any time, Thou art my Son, this day have I begotten thee? And again, I will be to him a Father, and he shall be to me a Son? (Heb 1:5 KJV)
御子が相続者であられ、特別な意味での「子」であられ、父なる神との特異な関係を持っておられると教えるものです。御子こそは、たった一人の神が「生んだ」子 “ begotten son” です。
その原語は、エホバの証人のようなカルトが教えているような「誕生」や「起源」を意味しているものではありません。英語訳では”only begotten” となるのですが、この原語は「長子としての権利を持ったもの」という意味のものです。そしてこのような使われ方はどの御使いにも一度としてされたことはありません。
永遠の昔からイエスは父なる神に対して御子であられましたが、復活を通じて御子は特別な意味での「(父なる神が生んだ)ひとり子」: ”only begotten son” と呼ばれる地位に着いたのです。
これは当時のローマ文化を踏まえた上での書き方です。ローマの家庭に生まれた子供はその誕生から子供であることには違いないのですが、成人に達したとき、父親から改めて「子」であると宣言されていました。その絵がここで用いられています。御子は永遠に父なる神に対して「子」であられますが、ある時点で特別な意味において「子」であると宣言されたのです。それが復活のときでした(使徒13:33、ローマ1:3~4)。
御使いは旧約聖書では常に、“sons of God”と複数形の「子達」という形で現れます。例外はありません。しかもそのとき常に集合体での言及であり、個人的に「神の子」と言及されている箇所はありません。旧約聖書の歴史で一度として御使いは “a son “と呼ばれていないのです。創世記6:1~4、ヨブ1:6、2:1、38:7、詩篇29:1など。
新約聖書に入り、信者たちも「神の子たち」”sons of God” と呼ばれていますが、御子だけが「(父なる神が生んだ)ひとり子」であられます。
御子は御使いも信者にもないユニークな関係を父なる神に対してお持ちです。
御子の地上生涯でそのように特異な「ひとり子」であるとの宣言を受けた箇所がいくつかあります。
① 御使いガブリエルが母マリや語った言葉の中に。ルカ1:35
② 御子が洗礼を受けられたとき父なる神の言葉の中に。マルコ1:11
③ 御子の変貌時に父なる神の言葉の中に。ルカ9:35
④ 復活によって特異な神の子であると宣言。ローマ1:4
信者や御使いが踏み込めない特別な関係をイエスは父なる神に対してお持ちであられます。
今夕のフライトは楽しています。
いつもですと満席ですので、隣の人と肩が触れたりして気を使わなくてはならないのですが、今回は3分の1の乗客もいません。誰もが一人で3人分の席を独占できます。
現在私も正面のトレイにキーボードを乗せて叩いているところであり、左のトレイには配られたドリンクとスナック、右のトレイには本を置いています。
このような環境なら日本行きの8時間フライトも、ニューヨークからの6時間フライトも地獄でなくなるのになあ。
ANAが就航させた新型の787なら、地獄までいかずとも監獄程の快適さとなるのでしょうか。
後日談です。
着陸後、乗務員が歌を歌い始めました。
「ついに着陸したよ。皆さん。
オークランドだよ、ホイ。
皆さんとともに時間を過ごせて、うれしかったよ、ホイ。
また会う日まで、ご機嫌よろしゅう、ホ-イ」
こんな感じで一人で悦に入っておられる。
決して上手とは言えない中年男の歌声に誰も歓心している様子はないけれど、彼はオリジナルのサービスを披露してくれた。
何事もマニュアル通りで、そのイントネーションや文言の一言一句が型とおりでないと気が済まない日本のサービス業界と比較してしまう。
このようなオリジナルサービスは、毎度でないにしても5回に一回くらいの頻度でお目にかかる。
この辺りに合衆国の底力を見るような気がするのです。
先日手足をハチに刺され、アレルギー反応で太腿も上腕も赤く腫れ上がり、痒みもひどいものでした。
妻がそのハチの巣のありかを発見しました。
コンテナと地面のわずか数センチの隙間を数十匹の黒い怪物が絶えず出入りしているのです。
長男は忍者の手裏剣を振りかざし、長女はアーチェリーを手にとって私のために復讐を誓ってくれます。
彼らを説得して、復讐はさらに数週間待つことにしました。
スキージャケットにゴーグル、ヘルメットとブーツに身を固めた上で冬眠中の彼らに討ち入りしようと思います。
水鉄砲で屋敷を破壊したのちに、地面との隙間を塞ぎ、コンテナの中でジワジワと餓死させてあげようと計画中です。
どこでそんな残酷な仕業を知ったかですか?
秀吉による鳥取城の兵糧攻めからです(^з^)-☆
マタイ福音書連続講解説教14 マタイ6章19~34節
「義に生きる(一般面)」
{メッセージからの抜粋}
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主イエスは何と現実主義者であらることでしょうか。
神の義とはどういうものであるかを説かれ(5章前半にある八福)、義に対しての再解釈をされ(5章後半の六つの事例)、その義を生活に適用した生き方とはどういうものかを述べているのが6章です。
その適用例は実に身近なものが取り上げられています。誰もが問題意識を抱いている中心的なトピックについての教えです。
6章前半はユダヤ教を実践するに当たっての三大支柱ともいうべき施し、祈り、断食について触れます。
6章後半は一般の日常生活にあって最も関心を払う富(お金)や思い煩いについて取り上げられています。
お金は神様から使い方を任せられた管理者として正しく、また賢く運用しなくてならないものですが、時にそのお金が私たちを支配するほどに強い魔力を持つことがあります。
「マモン」というアラム語はそのような支配的権力を握った「富」の一面をよく表している言葉です。
「だれも二人の主人に仕えることはできません。~あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(24節)
この富の奴隷となって仕える限り、私たちは思い煩いから開放されることはありません。
地上に蓄えた富は目減りしてしまうものです。
「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(21節)
損害を受けた富は、人の心を蝕んでしまうものです。
天に蓄えられた宝は、虫や盗賊の手の届かないところにあって保全されます。
減価償却の心配の必要もないので、私たちの心に悪い影響を与えることもないのです。
主イエスが私たちの主人となってくださるとき、あらゆる思い煩いから開放されていきます。
本来人は神の最高傑作として、創造の冠として造られました。
「空の鳥を見なさい」(26節)と主は言われました。
巣を作ったり、餌を集めたり、賛美の歌声を奏でるために忙しく一日中働いています。
でも「何を食べようか、何を飲もうか」といって思い悩んでいる様子はないのです。私たちは鳥よりももっと優れているものです。
「野にあるゆりを見なさい」(28節)とも主は言われました。
働かずとも栄華の窮みであるソロモンもこの自然界にある神の作品ほど着飾ることはできなかったのです。私たちは野の花よりも精巧に、優美に造られた作品です。
養ってくださる父なる神への信頼があるところでは、心配は解け去っていきます。
美しいガリラヤの田園風景を教材にされながら、義を実践する際の支柱は父なる神への信頼にあることを教えてくださいました。
昨年から妻の机を長女が使っています。
というよりも、ほとんど使われないまま部屋の肥やしとなってます。
宿題は居間の食卓で、読書はベットでしてるからです。
それで不要の机を下の長男が受け継ぐことになりました。
日本ではピカピカ1年生になると同時にランドセルや勉強机を買ってもらうのが通常のようです。
私も妻に彼らに机を与えようとしたことがあります。
妻曰く「要らない」。
「やはり彼らに勉強机を与えたほうがいいのでは? 宿題にも無頓着だった私みたいになったらどうしよう」なんて少々心配してたのです。
今回長女のお下がりをもらうことになり、勉強嫌いな長男もこれで多少は机に向かうきっかけにもなるかな、と期待しました。
彼の部屋にその机を搬入してから数時間後……
「ダディ、見に来てよ。机を準備完了させたよ。」
そう言って長男は私の目を閉じさせ、手を引いて自分の部屋に連れて行きました。
「もういいよ。目を開いて。」
その机は、NinjaGoで埋め尽くされていました( ̄▽ ̄)
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