国上山 国上寺本堂の広場を隔てて眺める位置に良寛像が
据えてある
勿論、名のある彫刻家の作品であろうが
実際に
良寛禅師に会ったことはないし、写真を見たものではない
書物や画に残された資料により、創造力で創作された
彫像である
歴史は百パーセント、真実を伝えてはいない
遺跡や遺物の考古学・文書による史学
いずれも、推量や推測を織り込んで成り立っている
歴史小説や伝記小説はその点大らかに歴史を楽しませている
この良寛禅師も多くの学者や好事家が様々な角度から
発表して糧を得ている
その割には、喜捨が少ないようだ
漸く、国上寺 本堂に辿り着きました
仏教のお寺や宗派には詳しくないので語ることは
出来ません
これまでは、曹洞宗のお寺を数寺アップしてきました
やはり、様式の違いがあります
特に葬儀の際のお経の上げ方や、儀式は各派により
その違いが鮮明に表れます
米蔵でのパフォーマンスが終り、屋外での演技となりました
道路拡幅に伴い伐られる、大きな柿の木の幾ばくも無い命に
鎮魂を込めています
wahooの頭では理解し難いものでしたが、寒の季節に
素足で板張りの蔵で舞い、霙の降る屋外で舞う
まるで修行僧の感がありました
最終回
本堂の右手に屋根をかけられた倒木と石碑があった
巨木は松の木であり、立て看板には
「弘法大師 五鈷掛の松
弘法大師が中国より帰国の途次三鈷と五鈷を投げられ
三鈷は高野山の松にかかり五鈷が当山のこの松にかかり
真言道場になりました」
とかいてある
石碑は良寛の書で
「国上の大殿のまえの一つ松上つ枝は照る日をかくし
中つ枝は鳥を住ましめしづ枝は甍にかかり時じくぞ
霜は降れとも時じくぞ風は吹けれども千早ふる神のみ代より
ありけら可やあやしき松ぞ国上の松は」
と刻んであります
大きな屋敷の端には「潟」があり、庭園の借景となっている
今回は撮影出来なかったが、春になったら再度訪問し
庭園の撮影とこの家の歴史を尋ねてみたいと思っている
藩米の輸送方法はいかばかりか
冠木門と屋敷を囲った黒塀
この情景で屋敷の大きなことが分かる
国上寺の周りには、石仏や地蔵尊が沢山安置されている
いずれも、年代を感じさせる風情を醸し出している
昨日、アップした米蔵の内部を舞台に「堀川久子」女史の
パーフォマンスが繰り広げられる
残念ながら、公演の撮影は禁じられお見せできない
米蔵は三つに仕切られ、その内の二つが舞台である
上の部屋は床と木の椅子が一脚
奥の部屋には梯子が立てかけられ、大きな石が床に置かれ
天井から「鮭」がぶら下げられている
明り取りの窓が天井近くに設けられている
乙子神社を少し登ると、国上山(くがみやま)の中腹に
「国上寺」(こくじょうじ)がある
本堂の向かって右にこの小さなお堂がある
立て看板をよく見ていないので、一切経蔵か鎮守堂か
分からない
詳しくはインターネットでこの寺の由緒がホームページに
なっています
江戸時代から続く大きな旧家「二宮家」
近郷の庄屋をつとめていた
米を集荷して、藩米として納め湊へ搬送していたであろう
この大きな米蔵を使って、「堀川久子」女史の
パフォーマンスが
行なわれた
あられ、みぞれ混じりの寒い冬に
良寛ゆかりの国上寺の下に位置する「乙子神社」
縁起については勉強不足で画像のみです
小さな神社ですが、式内神社でしょうか
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