ホサナ教会ではこの日、
ポトラック愛餐会と聖餐式とを持たせていただきました。
私の日本滞在の過去2週間、
教会を留守にしていましたが、この日から通常の日曜礼拝の再会。
それに107回続いたマタイ福音書の連続メッセージシリーズが終了し、
次回からゼカリヤ書の連続講解説教が始まります。
その区切りに特別な集いを持たせていただきました。
気づいてみれば、
みことばに集中した1時間弱と
ごちそうに堪能した2時間強。
おしゃべりにも夢中になって気づいてみれば3時間ほど時間が経過していました。
時間が経つのを忘れるほどの楽しい時間でした。
よって写真を撮るのも忘れてしまいました。
日本滞在の最終日となったこの日、
子供らに何かサービスをしてあげなくてはならないと感じ、
三浦海岸へ行くことにしました。
私自身が初めのところでしたが、
駅から歩いて行けるところに砂浜が広がっている所がいい。
横浜から快速で50分ほどで到着。
台風は過ぎ去ったものの、
次第に強風が強まるビーチ。
それでもプールにはない
自然の作る波を全身で受けて、子供らも満足そう。
ボディーボードで数十メートルも
波乗りが出来てさらに満喫の子供ら。
乗る気のなかった彼らを「楽しいに決まっているから」と説き伏せて
連れ出して正解でした。
子供らはおじさん(私の実弟)の宝物である
オートバイに乗せてもらってご機嫌。
この日も暑かったが、
つなぎを着てヘルメットをかぶっている弟が信じられない。
バイクで走りだせば
扇風機を持ちながら走っているようなもので、暑さは気にならないものか?
4~5年ぶりの日曜礼拝訪問となりますが、
川崎南部教会へ行ってきました。
主任牧師の橋本先生は脳こうそくの入院中。
前日に病院を訪問することができて、
今日の礼拝でご奉仕があることや
私が高校生の時に橋本先生の特別集会で信仰決心に至ったことなどを
お伝えできました。
先生の前で目を合わせたとき、
「京太です」と申し上げたとき
わずかでしたが、首を縦に振ってくださいました。
たとい言語障害がったとしても
他者の声は認識できるようです。
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礼拝では、
長女が2曲賛美しました。
先回来たときは小学生低学年だった彼女の成長ぶりに
皆さん驚いていたようです。
川崎南部教会での日曜礼拝・説教要旨です。
「主の山に備えがある」
聖書拝読 創世記二十二・一~一四
主題聖句 創世記二十二・十四
百七十五年のアブラハムの生涯で最大の、
そして最終的な「試練」(一節)を迎えた。
故郷のウルを離れて以来、経済、道徳、災難、健康、
あらゆる面での試練を通り抜けて来たアブラハムであったが、
この最終的な炉を通ることで「信仰の父」・「神の友」
とのタイトルに相応しい人格が完成されることになる。
❶神の試練
「あなたの愛しているひとり子イサクを
モリヤの山で全焼のいけにえとしてささげよ」と神は言われる。
悍ましい人身供養の蛮習は異邦人世界にはあっても、
聖書の神が命じることがありえるだろうか?
すでに彼は直接的な神の顕現とメッセージを五回も体験している。
神からのものであるかどいうか、勘違いすることはない。
「モリヤの山」とは
後にエルサレムにて神殿の立てられる場所であった(Ⅱ歴代誌三・一)
❷アブラハムの応答
「翌朝早く」行動に移した即従。
しもべらに「私と子どもとは、~あなた方のところに戻ってくる」
と言えたのは復活信仰ゆえ。
「神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました」
(へブル一一・一九)。
「考えた」とは
「理性的に計算して至った」の意。
これまでの生涯で、神のことばと約束の確かさを知った上での
論理的な結論であった。
❸神の備え
試練に真っ向から応えようとするものに、
神はいつでも必要な備えをされる。
直近ではイサクの代わりに角をやぶに引っ掛けた一頭の雄羊。
究極的には神のひとり子であられるイエスが
ゴルゴダの丘の上で十字架に磔刑とされた。
このイエスによる「神の備え」は、
私たちをしてアブラハム契約の継承者とし、
世界の相続人とさせるものであった。
どうでしょう?
カノさん、ありがとうございました。
山形から帰り、
翌日は友人の待つ原宿へ。
15年ほどの付き合いになるその友人曰く
「髪を染めるといいよ」
「白髪を残して黒上だけを染めることが出来るんだ」
「茶色に少し赤みを入れると、ナチュラルになる」
「最も新しくて流行りの色だよ。これから鏡を見るのが楽しくなると思うよ」
私は人生この方、神を染めたことがない。
天然の白髪だけ。
日本人は黒と白髪とのツートンカラーが目立ちすぎてしまうらしい。
私の家族写真を見たその友人には、私だけが異なって見えているらしく
「家族の一人らしくしてあげるから」
と言いながら施術を開始。
「明日、教会で説教をしなくてはならないのだから、
追い出されないように、あまり派手にならない程度におねがいします」
そんなことを言いながら
まな板に乗った鯉となりました。
出来上がりは、、、
私は満足。
だが、家族は誰も気が付かない。
そこで「何か私で気が付いたことない?」と水を向けて見る。
「ヘアカットしたのね」と妻。
―それでもカラーには気が付いていなかった―
弟曰く
「関心を持たれていないんだね」
イスラエルでの朝食はオリーブとチーズ、野菜がふんだんに使われている
「来年はエルサレムで」
山形県大江町キリスト教会での日曜礼拝・説教要旨です。
Ⅰコリント1章4~9節
「私たちの主イエスキリストとの交わり」
私たちキリスト者とは、
「主キリストとの交わり」に入れらたものであるというのが、
聖書の教えるクリスチャンポジションである。
その「交わり」についてはベクトル表示を例にすると分かりやすいかもしれない。
❶ベクトルの始点~交わりの発端:「そのお方の召しによって」(9節)
私たちは誰一人として自分で選んでクリスチャンになれたものはいない。
主が私を貴方を選び、声をかけ、招いて下さったのだ。
それは自らにふさわしい功績などがあったわけではなく、
それらすべてに先行する神から「与えられた恵み」(4節)ゆえに実現したものなのである。
その恵みについては多くの場合、
感知できないほど私どもの神経はマヒし、
感知できる感受性を見失ってはいないだろうか。
こうして生きていること自体が、生かされている恵みである。
❷ベクトルの長さ~交わりの豊かさ:「神の御子・主イエスキリスト」(9節)
パウロはその与えられた恵み故に神に感謝していると言うが、
なぜなら
⑴その豊かさゆえに(5節)
~「ことばと知識」において豊かなものとされたという
私たちはどれほどその豊かさを体験し、
味わっているだろうか。
それは聖書にどれだけ親しみ、
その教えに精通し、
そのみことばを通じて
真の知識であるキリストを経験していることにつながっている。
コロサイ2:3.
⑵その確かさのゆえに(6節)
~コリント人のキリストにあるあかしが確かになったという
その確かさのゆえに聖書を雄弁に説く教師らが活躍した。
パウロやアポロがその例。
彼らはコリント人の成長、信仰の確立のために用いられ、
水や種を蒔いた役割を担ったに過ぎず、
成長させたのは神」(3:7)であることを忘れてはならない
❸ベクトルの終点~交わりの完成:「神は真実であり」
主との交わりが豊かにされ、確立されていくとき
その「結果」(7)はどうなるのであろうか。
1⃣「どんな賜物にも欠けることがなく」
それは個人でなく、教会に賜物が欠けることがなくなるという意味。
信者がそれぞれ与えられている賜物を教会建設のために発揮するようになること。
コリントの教会には賜物を誇る輩がいたようであるが、
本来の目的はキリストの体の建て上げのために
神から信者にギフトとして与えられたものである。
Ⅰコリント12章
2⃣「熱心に私たちの主イエスの現れを待っている」
主イエスの再臨の待望する姿勢が
「ことばと知識」に精通し、成熟したキリスト者の姿であると教える。
歴史に介入される神、
その体系を理解してい行くときに
個人の信仰生活が
神の世界における救済事業とリンクされ
自らがその救済史において位置づけられる。
その時各人は、
神の恵みによって始まったキリストとの交わりは、
同じ恵みによって完成させられることを納得するに違いない。
神はキリストの血潮によって
私たちと永久の血の契約(新約)を結んでくださった。
「主も、あなたがたを、私たちの主イエスキリストの日に
責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます」(8節)
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