昭和の銀幕の大スター、高倉健が召された。
個人的には「幸せの黄色いハンカチ」で見た彼が
私の映画上での最初で最後のときであったと記憶している。
任侠ものから一般的な映画世界に方向転換した際の代表作が
「八甲田山」であるとされる。
映画史上最も過酷なロケであったと言われている。
厳冬の吹雪の中を、数時間連続のロケが敢行され
意識が飛んでしまう人も起こされたとか。。
高倉健は、耐えに耐え続けて、その吹雪の最中にも姿勢を崩さず、
その圧倒的な存在感が他の俳優の模範となり、励みにもなったという。
「健さん、あなたはどうしてそんなに強いのか」
ロケが終了してくつろいだ酒場で監督が聞いた。
その時の高倉健の応えがまた良い。
「生きるのに必死だからですよ。」
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
聖書本文とメッセージ・ノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/43490
「千年王国3」
マタイ 24 章 34 節 ~マタイ福音書連続講解説教 90~
イントロダクション
主イエスは千年王国を暗示された。
「まことに、あなたがたに告げます。
これらのことが全部起こってしまうまで は、この時代は過ぎ去りません。 」
(マタイ 24:34 )
現在の「恵みの時代」、
または「奥義としての御国時代」が終わると次に来るのが千年王国である。
その転換点には、イスラエルの回復があることを聖書は預言している。
「こうして、イスラエルはみな救われる」(ローマ11:26)。
これは民族としてのイスラエルがイエスをメシアとして悔い改め、信じることの預言であり、この前提条件が果たされてからイエスの地上再臨が実現する。
それでは、そのイスラエルの救い(回復)とは一体何を意味するのか。
そこにある4つの側面を学んでみよう。
①イスラエルは民族的に新生体験をする
その土台は新しい契約・エレミヤ 31:31~34
シナイ契約(モーセ契約)は、
神とイスラエルが結んだ 5 つの契約の中での唯一の条件付契約であった。
このシナイ契約は律法を守る力までは提供していない。
結果、イスラエルはバビロン捕囚や世界離散の憂き目に遭ったきた。
新しい契約においては、新生によって義なる生活を送ることが可能となる。
肉の、人間的なものではなく、聖霊による信仰生活が始まるからである。
国家的新生を体験したイスラエルは千年王国に入り、
そこでは未信者のユダヤ人は存在しない。
預言の進展・エレミヤ 24:7
~神はイスラエルに神を知る心を与える。
②イスラエルは信者となって約束の国へ帰還する
その土台は土地の契約・申命記 29 章~30:20
イスラエルの背信とそれに結果する約束の地からの追放が預言され、歴史上、実現に至った。
彼らは長期にわたり異邦人社会にて迫害を受けて来た。
しかし約束の土地からの追放は永遠のものではない。
イスラエルは新生した後、世界各地からの帰還するようになる。
預言の進展・イザヤ 11:11~12:6
ここで「再び」とあるが、ヘブル語では「2度目に」という原語となっている。
最終的な帰還は 2 つの帰還のうちの 2 番目のものである。
最初の帰還は不信仰のままでのものであり、
1948年のイスラエル共和国建設から現在までの間に成就している。
それは大艱難時代前に起こり、裁き(艱難時代)への序曲となる帰還である。
最終的な帰還(2度目)はレムナント・信者の帰還であり、千年王国への祝福への序曲となる。
マタイ 24:31によると、天使が最終的帰還の際に活躍する。
それは主の再臨の後に起こる。
③イスラエルの約束の土地の所有
その土台はアブラハム契約・創世記 15:12~21
千年王国でのイスラエルの北の境界線はユーフラテス川。
南の境界線には2つの考え方がある。
「エジプトの川」The River of Egypt 〜常に水が流れる川のことで、ナイルデルタにある東端のナイル川支流のこと。所有権の境界を意味する。
「エジプト川」The Brook of Egypt 〜ワジのことで、シナイ半島中央部にある水なし川。実際の入植の境界線のことであろう。
預言の進展・イザヤ 30:23~26
土地の生産力が増加。月は太陽の光のように、太陽は 7 倍の光を放つ。
肉体的な病が癒される。
④ダビデ王座の回復
その土台はダビデ契約・1 歴代 17:10~14
ダビデの死後、彼から出る子孫によって王国が確立される。
IIサム 7:11~16 は、ソロモンに関する預言
I歴代は、イエス(ナタンの子孫)に関する預言
メシアも神殿を建てる(千年王国期)。その王座は永遠に立つ。
永遠の王朝、王国、王座が保証されているが、その根拠はメシアが王として永遠に君臨されるからである。寿命に限界のある人には永遠の王国保持は不可能。
預言の進展・エレミヤ 23:5~6
ダビデの子孫が王座につく。
その王は神人である。統治の特徴は知恵、公
義、正義である。
結論として、千年王国での統治権について確認しよう。
メシアがダビデの王座に座して世界を統治されるが、
教会時代の聖徒らが、
「キリストとともに、千年の間王となる」(黙示録20:6)と預言されていて、
「キリストとの共同相続人」(ローマ8:17)となることは先週学んだ。
地上の統治権はサタン、人間、サタンと変遷してきて、
最後にメシアが相続することも学んだ。
それでは、その相続・統治権とは、
どういう判断基準で各人に与えられるものなのであろうか。
千年王国における統治権は各人に異なったレベルがある。(ルカ 19:11~26)
この主のたとえ話から分かることは、
その判断となる基準が、
「小さなこと(地上での委託事業)に忠実」であるかどうかである。
さらに、主の姿勢に倣い「仕える者」であったかどうかである。(マルコ 9:35)
「もし神の前にひざまずくなら、誰の面前であろうとも立つことができる」
あるFacebookの神学者達のグループで終末論に関して意見を交換しました。
その続きを紹介します。
(私に対する問いかけ)
高橋様、ご無沙汰しております。
ここであまり微細な説明はできないのですが、
ヨハネ黙示録の「千年」についてだけ一言書かせて下さい。
私もかつて、ここは「千年」とはっきり書いてある以上、千年と読むべきだと教わり、そう考えていましたが、黙示録全体の象徴的な数字の用い方をいろいろ勉強して、その考えをいまは改めています。
いまでも黙示録は私には「閉じられた」書のように感じられ、
よく理解できない部分がたくさんあります。
ただ、例えば11章の二人の証人の預言期間が三年半、12章の龍が女を追い回すのも三年半とありますが、私にはこれが文字通りの三年半とはどうしても思えません。
教会の迫害と神の守り、あるいは証の時代を象徴的に表しているという説のほうがはるかに説得力があります。
ボウカム先生などの本を読まれると(あるいはライトさんのエブリワンなど)新しい読み方に目が開かれると思います。
(私からの応答)
Y様
書き込み をありがとうございました。
「黙示録全体の象徴的な数字の用い方をいろいろ勉強」されたところ、
文字通りの解釈をお改になられたとのこと。
その経緯のほどを機会がございましたらゆっくりと承りたく思いました。
その際に小生がいろいろ勉強してたどり着いているものもシェアしたいと思いますが、
それがいつになることか、甚だ頼りないですので、、、、
僭越とは存じますが、手短にシェアします。
黙示録には象徴的な言葉が溢れていますが、当時のユダヤ人に分からないようなものではございません。多くの場合はすでに旧約聖書の中で象徴的用語として使用されていましたので、その用語も同様に解釈します。
ちなみに旧約聖書預言に言及している黙示録の用語はなんと550もあるとあるメシアニックジューの学者は計上しています。
旧約聖書で用いられていない予言の用語につきましては、それが比喩的で象徴的なものならば必ずと言って良いほどに、その前後のテキストに何を示しているかが指示されています。
ところが、数値においては象徴として用いられたところは一つもありません。
例外的に千年や3年半などが象徴として解釈せねばならない十分な理由も聖書本文からは見出されません。
なお、3年半は、「1260日」とか、「42ヶ月」、「ひと時とふた時と半時」、「1週の間」(この部分のダニエル予言では1日が1年です)という異なる表現で黙示録に随所に出てくることや、ダニエルの予言にもその数値が現れていて、恐ろしいほどに調和を保っています。
終末の千年王国樹立に至る艱難期の予言において、黙示録とダニエル書などを比べて見ますと、両者のプログラム進行プロセスに驚くほどの整合性が発見され、神の霊感を受けた啓示の書として揺るぎない確信を得た次第でした。
そのような終末論を当教会でシリーズにて扱いました。
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew
私はかつて黙示録は、艱難時代も再臨も象徴的な用語に混乱してしまい、誰も確かなことは言えない予言の書なのだと長い間考えておりました。
繰り返しますが、旧約聖書予言の象徴的用語の使用例を参考に紐解くなら、黙示録が何とも親しみやすく分かりやすい書に変わりました。その視点をヘブル的なアプローチであるとしているものでございます。
バーリンゲイムのメイン通りもホリデー仕様に。
先回来た時は工事中だったタイル施工の道路も見事に完成。
カリフォルニアに念願の雨が降りました。
昨夜、ホテルの窓越しに豪雨がアスファルト地面に叩きつけられる音が聞こえるほどの激しさ。日本での梅雨を思い出させるほど。
こんな雨はカリフォルニアでは珍しい。
ここ昨今は雨が降らず、非常事態宣言が出されていたんです。
何でも庭に水を撒いただけで罰金が課せられるとか、、、( ̄▽ ̄)
今週は月曜から毎日のように降っている恵みの雨です。
先日、ある聖書教師との間で意見を交換しましたので紹介します。
(T様から私へのメッセージ)
高橋さん。
お読みくださり、コメントをありがとうございます。
簡単に僕の理解を述べさせていただきます
ラプチャーは、Ⅰテサロニケ4章の拡大解釈だと思っています。
この意味は、基本的に、王が自分の支配地を訪ねるときに、町の住民が城壁の外に出て、町のそとで王を迎え、王を先頭に町に入ってい来る・・・同じように、キリストがこの地に目に見えるように降りてこられるとき、信者が引き上げられ、キリストを先頭にこの地に下ってくることを指ししていると思います
千年王国に関しては、黙示録では、「千年の間王となる」と記されているだけの概念があまりにも独り歩きして、そこにイスラエルの預言が成就する隙間をいれたということだと思います。
僕は、イスラエルの回復は、基本的にキリストの教会において成就すると信じ、イスラエルの建国を預言の成就とは認めていません
ただ、肉のイスラエルの回復の希望を、パウロが熱く語っていることは確かだと思います。その意味で、戦後に、多くのユダヤ人がイエスを主と認めるようになってきていることに大きな希望と喜びを見出しています。
………以下は省略
(続いて私からの応答です)
T様
私の突飛な問いにも丁寧にお答えくださりありがとうございました。
T様の聖書を解釈する手法、
イスラエルと預言の成就の関係に関するお考えをご披露下さいました。
見解の別れるissueであるにも関わらず、端的に明瞭にご自身の立場を鮮明にしてくださった点に敬意を感じました。経済問題を解くように、解りやすく切れ込んで下さいました。
再臨に関しての見解が人によって別れています。
その原因は一体なんであるのか、、、
おこがましい表現で恐縮でございますが、最近突き止めたように感じています。
それは、
「聖書を字義通りに受け取るか、比喩的に拡大解釈するか」
の点に尽きるようです。
聖書は啓示の書であるとともに文学書ですから、
比喩的に書かれた場所ももちろん存在します。
その時には比喩として読まねばなりません。
が、比喩として読むように文脈上示唆されていない箇所では、
ストレートに字義通りに読みんで理解せねばならないと私は考えます。
そうでないなら、人の数だけ様々な解釈が可能となり、
結局のところ、どれが真理か分からなくなります。
神はそのような相対化できる文書を人に与えたものではないはずです。
Ⅰテサロニケ4章は、主の空中再臨とラプチャーを教えている聖句であると私が結論する根拠です。
T様がここで展開されたような、
「王を迎えに出る住民」モチーフはその章にヒントさえ出てきません。
その聖書を字義通りにどこまで解釈するのか、という1点が、
他の見解の別れる終末論にも、イスラエルの救いの教理に対する姿勢や理解力を決定づける要因であるように思われてなりません。
教派や神学者の頭数だけ終末論の見解の相違があるようですが、
神はそのような計画で啓示の書を我らに与えたはずではなかったはず。
終末時代は、一つだけの歴史様態しかあり得ません。
(今後の歴史は一つきりという意味です。人が明日過ごせる時間は24時間で、それ以外の時間帯を過ごせないというのと同じ)
そのたった一つの歴史様態を聖書が預言として伝えていると私は信じています。
その伝え方には法則性があります。
当時のユダヤ人の知性や文化を通じて、
読み手のユダヤ人に語ったところのものが聖書として集大成されたものであります。
つまり、その法則性を見出す手法として「ヘブル的視点」
が必要ではないかと小生は考えております。
長々と私論につきあわせてしまい失礼しました。
(総評)
聖書を字義通りに啓示の書として信じることがないなら、
「千年」にも、「イスラエルの回復」にも確固として信じられなくなるのは当然のことです。
聖書観がその人の終末論を規定していくと言えるでしょう。
皆様、おやすみなさい
オークランド・カリフォルニア行のフライトは、
3時間ほどの遅れとなるとの速報が携帯に入った。
夜11時半に離陸すると、オークランド着は午前の1時半となる。
心配なのはレンタカー貸し出し事務所。
その時間帯に閉店とされてしまっては、ホテルまでの足はない。
電話で聞いたら午前の1時半でクローズとのこと。
事情を話してみると、1時間ほど閉店時間を延長してくれるという。
さて、それをどこまで信じて良いものかどうか、、?
その様な件で裏切られたことはこれまでにも何度もある。
未明の空港は誰もいない。
荷物も直ぐに出てくるわ、レンタカーセンターまでのシャトルバスもガラガラ。
さて、肝心の事務所は???
午前2時過ぎに到着してみると、開いていてくれた!!!
先ほど電話で応対してくださったご婦人が私一人のために
残業して待っていて下さったのだ!
感謝!
聞いて見たところ、もし連絡がなければ定刻に閉店していたという。
ダメモトで何でもアタックするものか。
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/43489
「千年王国 その2」
マタイ 24 章 34 節 ~マタイ福音書連続講解説教 89~
主イエスは千年王国について直接的には言及されなかったが、暗示された。
「まことに、あなたがたに告げます。
これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。」
(マタイ 24:34 )
過ぎ去った今時代の後に、次の時代が来る。それが千年王国。
その統治形態について学ぶ。
それは、メシアであるイエスによる専制君主制である。
メシアの王座はエルサレムにて設立され、
その統治は全ての異邦人諸国に及ぶ (詩篇 2:6~8)。
メシア統治の特徴としては、 正義と真実であるということが出来る。
なぜなら、王には聖霊が余すところ なく与えられ(7 つの表れ)、
またそれらがもたらす 5 つの結果(3~4)のゆえである(イザヤ 11:1~5)。
異邦人部門とユダヤ人部門との二つに別れた組織があり、
両者を統合した世界はメシアが統治するようになる。
この時、我ら教会時代の聖徒らは「キリストとともに千年の間王となる」
(黙示録 20:4)を見ると、その聖徒らは3つグループに別れているのが分かる。
⑴ 4A、携挙された教会時代の聖徒たちのこと。
「裁きを与えられた」とも訳せる箇所であり、これを採用する。すなわちメシアの裁きの座をすでに通過した教会時代の聖徒のこと。
その裁きとは、地上で行った信仰の業に対する評価のこと。
それが御国での地位を決めることにもつながっている。
⑵ 4B、大艱難時代の前半に殉教した聖徒のこと。第 5 の封印に時に言及(黙示 6:9~11)
⑶ 4C、大艱難時代の後半に殉教した聖徒のこと。
彼らは全てメシアの代理人として地上の各地に遣わされて行き、
メシアである王の法令を執行する役割を担う。
結論として、神の国の統治についてまとめてみよう。
1) サタンによる地の統治について
サタンは、創造された当初はケルブとして、神の御座の近くに仕えていた(エゼ 28:14)。
天地創造(創世記 1:1)後に、神の園・エデンに置かれた(エゼ 28:12)。
彼はその地の管理者として任じられていた。
ところが堕落ゆえに「地上の灰」(エゼ 28:18)となり、統治者としての権威を失ってしまう。
2) アダムによる地の統治について
地上の統治者、生物界の管理者として任じられた(創世記 1:28、ヘブル 2:8A)。
ところが堕罪により土地はのろわれ(創世記 3:17)、エデンの園からも追放された
(創世記 3:23、ヘブル 2:8B )。
こうして人は、与えられていた土地についての完全な統治権を失ってしまった。
その失った統治権をサタンが強奪したと考えられる(ルカ 4:5~7)。
3) メシアによる地の統治権の回復
イエスには第 2 のアダムとして、
アダムが失った地の統治権を回復するミッションがあったと言える。
死の苦しみゆえにメシア自身に栄光と誉れの冠を受けられ(ヘブル 2:9)、
さらに人にとっては「万物を足の下に従わせる」特権が回復された。
それは地上を統治する権威でもある。
それは、サタンがアビスに幽閉される千年王国においてで実現する(黙示録 20:3)。
神の経綸は、失われたエデンの園へ世界と人とを回復・移住?させることにある。
エデンの園(メシア的な王国)の共同相続人して私たちは召されている。
まとめ
当初サタンが持っていた地の統治権は堕落のゆえに失われた。
神がその後に造られたアダムにその統治権が代わって移譲された。
ところがアダムも堕落してしまい、その統治権を失うと、サタンが強奪してしまった。
その奪われた統治権を人に回復させるミッションがメシアに委ねられたのである。
メシアによってのみ、人は千年王国を相続し、地を統治するものとされるのである。
関ヶ原開戦への乱取りとなった昨夜の官兵衛。
家康の犬となって忠誠を誓う息子の長政。
秀吉子飼いだった福島正則までも籠絡して、家康の味方に付けてしまう。
一方の官兵衛は独自に九州平定をやり遂げた上で西に進み、
東西陣営の戦乱に乗じて天下を狙う構想。
残念でならないのは官兵衛の思惑に反して、東西決戦がたったの1日で決せられてしまい、家康の勝利が確定してしまって、官兵衛の出る幕が閉ざされてしまったこと。
西軍有利での膠着状態を反転させたのは、
それまでどちらにつくか決めかねていた小早川秀秋の裏切りにあった。
家康からの射撃を受けて恐れをなした優柔不断の秀秋は
全軍に司令を発して山を駆け下り、友軍のはずの西軍に斬り込んで行く。
それで戦況は決せられてしまった。
もしその裏切りさえなければ……
歴史に「もし」は許されないとされるが、
こんな想像もあって良いはず…
西軍に押された家康は、兵を引かざるを得ない。
両軍の睨み合いや膠着状態の中で、戦は長引き、兵は士気を失って行く。
その後、西から進軍した官兵衛が京を抑え、秀頼を擁立して
天下を獲るチャンスは十分あったと考えられる。
陰鬱な家康の作る江戸政権よりも、
官兵衛の理知に富み、オープンな性格が作り上げる政権がこの時出来上がっていたら…
我々日本人の性格が今よりも大きく異なっていたように思えてならない。
「日本を造った」関ヶ原の勝敗が、
決断能力のない精神薄弱者の秀秋の気まぐれな一存に依っているとは、
歴史の機敏というものだろうか?
寒ーい。
外を見ると数日前に降った雪が解けずにそのままあるのが、
寒さをさらに室内に呼び込むように見えてしまう。
先週の水曜、うまく作動していなかったヒーターのために修理工が来てくれた。
これで4回目の訪問となる。
彼がしばらくヒーターをいじれば作動するようになる。
が、彼が帰って数日経つと再びストップしてしまう( ̄▽ ̄)
お陰様で、この4日間の感謝祭休暇はずっと冷蔵庫の中で暮らすハメになってしまった。
昨夜は耐えきれなくなった妻と子供らは、母の家に避難。
よく月曜はそこから直接学校へ通った。
先ほど同じ修理工が再来して、ヒーターを再稼働してくれた。
今度こそ長く作動し続けますように。
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