これも、もう一つの宗麟の功績です。
大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代としてローマへ派遣された、4名の少年を中心とした使節団。
その使節団の中心が、『伊東ドン・マンショ』 大友宗麟の名代の正使として派遣される。
1582年2月20日、長崎港を出発、マカオ、マラッカ、ゴアを経由して、’84年4月にポルトガルの首都リスボンに到着。
その後、スペインのマドリードに寄り,’85年3月1日にローマに到着、何と!ローマまで3年もかける。
さらに、ヴェネツィア、ミラノなどを訪問し、1590年に帰国する。
使節団により、ヨーロッパの人々に日本の存在が知られる。
彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機により、日本語の書物の活版印刷が初めて行われる。
【彼らが持ち帰った西洋の文物の一例】
「活版印刷機」 「西洋楽器」 「海図」
★画像は馬に乗った 「伊東ドン・マンショ」 の像です。(大分市)
今日から、セ・パ リーグ戦きょう再開です。
今から、阪神甲子園球場にタイガースを応援に行ってきます。
阪神、能見投手の先発か、現在、対巨人戦8連勝中です。
どちらのチームも調子は上向き。
伝統の一戦! 素晴らしい試合を期待しています。
これも宗麟の功績の一つです。
1557年、外科、内科、ハンセン氏病科を備えた西洋医学の病院、日本最初のいわゆる総合病院を建てる。
1558年には、医師の養成、いわゆる医学教育校を設立。
領民は無料で診察を受けることが出来、1562年には入院患者が100名を越えてたという。
その立役者となったのが彼です。
『ルイス・デ・アルメイダ(ポルトガル人)』
1551年に日本を訪れ、貿易商であったが医師の免許を持ち、西洋医学を日本に導入し、日本初の病院をつくった。
豊後府内(大分市)にとどまり、まず乳児院を建てる、さらに宗麟の協力を得て上記のように活躍する。
その後、医療目的で九州各地を周り、1583年、熊本県天草で没した。
【大分市に、大分医師会が開設した救急救命センター 「アルメイダ病院」 この名称は彼れにちなんでいます。】
★画像は、アルメイダが日本人助手と共に、右足の手術を始めようとしている場面の像です。(大分市)
1576年、ポルトガル人から、大友宗麟に日本で初めて 「大砲」 が送られる。
この大砲の音の大きさと破壊力により、「国崩し」 と呼ばれた。
フランキ砲と言い、16世紀の大砲の種類、原始的な後装砲。(大砲の後部で玉と弾薬を詰めフタをして使用)
宗麟はこの大砲を、丹生島城(今の臼杵城)の備砲とし、島津軍を迎え撃った。
薩摩の島津義久が日向に侵攻、戸次川の戦いで秀吉先発隊と大友連合軍は壊滅的敗北をきする、
やむ得ず、宗麟は丹生島城で籠城しこの大砲を使う。
この大砲のおかげで、島津軍を一時的に退かせ、豊臣秀吉の本隊が到着するのを待った。
【その後駆けつけた、秀吉軍10万、秀吉自ら率いる10万、総勢20万にて薩摩軍を敗退させ、宗麟、九死に一生を得る。】
★画像は、その時に使用された大砲の複製品、臼杵城内に展示されています。
★本物の大砲(国崩し)は現在、靖国神社に奉納されています。
『大友義鎮(よししげ) 1562年(32歳)に出家して、大友宗麟(そうりん)と号す』 1530年~1587年
豊後国(ぶんごのくに)=今の大分県(宇佐市と中津市を除く) ★宇佐市と中津市は当時、「豊前(ぶぜん)」 に属す。
その豊後国の主、強大な戦国大名、キリシタン大名、宣教師からは 「王」 と呼ばれたのが大友宗麟です。
1550年、父の義鑑が臣下の謀反により死去、弱冠、20歳にて豊後国の主となる。
1551年、宗麟が21歳の年、イエズス会宣教師 フランシスコ・ザビエルと引見し、キリスト教と出会う。
★領内の布教活動を保護することで、南蛮貿易を活発に行い莫大な利益を得る。
1578年(天正6年)宗麟48歳の年に洗礼を受け、 洗礼名は 「ドン・フランシスコ」 と名乗り、キリスト教徒となる。
★日本で初めて大砲(当時は国崩しと呼んだ)を使ったのが宗麟だとされる。
★鉄砲も種子島伝来より10年も早く、豊後へ伝わったとされてる。
【一時期は、九州六箇国及び日向、伊予の一画を支配した】
「豊後(大分県)」 「豊前(福岡県の東部から大分県の北部)」 「筑前(福岡県の西部)」 「筑後(福岡県南部)」
「肥後(熊本県)」 「肥前(佐賀県・長崎県)」 「日向(宮崎県の一部)」 「伊予(愛媛県の一部)」
★実に、薩摩国(鹿児島県)を除いた九州のほとんどを支配していたことになります。
【画像はJR大分駅前にある、大友宗麟公の像です。】
宗麟は、日向国(宮崎県延岡市辺り)にキリスト教国(キリシタンの理想国)、『むじかの里』 の建設を夢見た。
南蛮貿易を開花させ理想の国を追い求めた、キリシタン大名 大友宗麟。
『むじかの里』 戦争のない平和な国、理想の国を作ろうと決心するが・・・
その理想の地としての日向国に侵攻するが、1586年島津軍(薩摩)との戦いで大敗北。
豊後国内に攻め込まれるが、豊臣秀吉の軍勢による加担で島津軍を敗績させる。
1587年、秀吉による九州征伐後、秀吉より日向の地を与えられるが・・・
その年の1587年、豊後国津久見にて、むじかの里を夢見ながら病死、享年58歳。
宗麟の夢であった、むじかの里は遂にここで潰える。
【宮崎県延岡市に 「無鹿(むしか)」 と言う地名が残っています、「ムジカ」 ラテン語で音楽という意味。】
★ムジカは実現できなかったが、宗麟の残した功績は数知れず、強大なる戦国大名である反面、人間らしい一面も見せた。
【宗麟が没後、秀吉はキリシタンを弾圧した。】
画像は府内城(大分市)にある、宗麟公の像です。
画像の絵は、生家跡地に記念碑として建てられているものです。(タイル画)
福田画伯を代表する日本画2点です。
【福田平八郎】 1892年(明治25年)~1974年(昭和49年) 享年82歳
大分県大分市王子町一丁目 生家は文房具店を営む父母の長男として生まれる。
京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)卒業
後に本校、教授となる。
1947年(S22年) 日本芸術院会員
1961年(S36年) 文化勲章受賞 文化功労者
日展常務理事から顧問へ。
【大分市には画伯にちなんだ、「福田平八郎賞大分市小中学校図画展」 という名称の賞があります。】
★法然院(京都市左京区)哲学の道近くのお寺に、福田画伯ご夫婦のお墓があります。
子供の頃から敬愛してた、日本画家の大家です。
大分の実家、5軒先が福田画伯の生家で、画伯の父親が小さな文具店を営んでいました。
現在、生家の跡地は公園となっています。
こう見えても、おいさんは絵画が大好きで、幼稚園の時に県美展に入選したのをきっかけに、
幼・小・中学校の期間、数多くの絵画を描き、各種展覧会で多くの表彰を受けました。
この頃、福田画伯の影響を強く受け、
中学の時、美術部の担任より、「美術関係の学校に進学しなさい」 と言われたくらいでした。
その学校が 「大分県立芸術緑ヶ丘高校」 音楽と美術の専門学校です。
有名な卒業生は、 錦野旦(歌手)、 稲尾和久(西鉄ライオンズ投手)、 大塚博堂(シンガーソングライター)、
立川清登(バリトン歌手)、 そしてあの、リリーフランキーも卒業生です。
【結局、紆余曲折があり、緑ヶ丘高校には進学せず、大工の化学科を専攻しました。】
★画像は実家の近くにある、福田平八郎画伯生家跡の公園です。
理事会が予定より時間超過、すぐに総会に入る。
今年は役員改選期、会長と一部の副会長が退任し、
新しい会長と空席になった副会長席に新任の副会長が選出されました。
他の議題は、本年が母校110周年記念での協力体制作り、同窓会の法人化問題について等々が・・・
総会が無事終わると懇親会。
恩師の校長・先生方、同級生、県外支部からの代表者と、一年ぶりに会うみな皆さん。
今回は百数十名の参加者で盛り上がりました。
★恩師の先生方、お歳を取られましたが、みなさんお元気でした。
今回の大分帰省は、豊工会の理事会と総会・懇親会に出席するのが主目的でした。
今年は役員の改選時期により新役員の選出、それと同窓会の法人化が主題でした。
会場は、大分県労働福祉会館(全労済ソレイユ)3F(水仙)
一時間の予定が、議論が白熱し、30分ほど時間オーバーに。
★有意義な話し合いができ、神戸から帰った甲斐がありました。
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