イスラエルでは昨日から新学期が始まり、
約210万人の生徒たちが元気に登校しました。
ホサナキリスト教会・聖書広場からの引用です。
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/412082
「大艱難時代の中間期②」
マタイ24章15~28節 黙示録13章1~18節
~マタイ福音書連続講解説教82~
7年間の大艱難時代の中間は、一大変革期である。
オリーブ山での主イエスの預言には、
ダニエル9:27が成就したときを合図として
ユダヤ人に「山」に逃げるように勧めている。
「預言者ダニエルによって語られた
あの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たのならば、
そのときには、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。」
(マタイ24:15)
その山とは、東のヨルダンにあるぺトラという断崖の続く岩山である。
反キリストがいよいよ本性をむき出しにしてユダヤ人抹殺を計り、
激しい迫害が始まる。
迫害がそのまま続けば一人として生き残るユダヤ人はいないのであるが、
そこにも神の統制があって、反キリスト軍勢のままにはことは進んでいかない。
その神による統制の一つは、
「二つの翼」(黙示録12:14)によってぺトラまで逃げ延びること。
さらにもう一つは、「選ばれた者のためにその日数は少なくされる」(マタイ24:22)
と主は言われたが、それは具体的には
「一時と二時と半時の間」(黙示録12:14)
すなわち3年半の間という制限されたときであること。
『荒らす憎むべき者』がエルサレムの神殿に据えられる事が、
反キリストがイスラエルと交わした安全保障条約の破棄であり、
これをもって艱難期の後半が始まるのである。
反キリストがそのような行動に至った理由がある。
天においてある異変が起こり(黙示録12章)、
それゆえに反キリストの暗躍が始まると教えるのである。
その異変とは、
天使長ミカエルの軍勢とサタンの軍勢とが天において戦いを交え、
敗北したサタンは天から追い出されて、地上に投げ落とされる。
そのとき、地に落ちたサタンは自らのいのちが短いことを知るに至る。
つまり、主イエスの地上再臨が間近であるのを悟り、
これを阻止するために躍起とならざるを得ないのである。
そこで主の再臨の前提条件を破壊しようとする。
前提条件とは、ユダヤ人の民族的な救いのことである。
彼らが長年拒否してきた主イエスこそがメシアであることを信じて、
主の名を求めるときが主の再臨の時となる。
これを阻止するために、ユダヤ人への福音宣教への妨害と攻撃、
さらにはユダヤ人抹殺のためのあらゆる迫害が起こるのである。
史上ユダヤ人撲滅運動は繰り返されてきた。
そこにはサタン的な意図が働いていることを
霊の目で我々は見抜かなくてはならないであろう。
ぺトラという自然の要害で守られるユダヤ人であるが、
サタンは攻撃の手を緩めようとしない。
そこで次の黙示録13章に入ると、
どのように迫害がエスカレートしていくのかが記されることになる。
1.海からの獣による攻撃~反キリスト(13:1~10)
2.地からの獣による攻撃~偽預言者(13:11~18)
悪魔・サタンとその手下どもの悪霊は、実在の霊的な存在である。
信者を惑わして神から遠ざけ、神の人類救済明確を打ち壊そうと躍起になる。
だが、その攻撃自体でさえも神の許容される範囲があり、
神の守りがあるのである。
私たちはいたずらに悪の存在やその攻撃を恐れる必要はない。
主イエスはすでに勝利してくださった。
そして私たちの勝利を約束してくださっているのだから。
「9 堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、
世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。
10 あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって
その永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、
あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、
堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。
11 どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。
アーメン。」
(1ペテロ 5:9-11)
今日からレイバーデイ週末として翌月曜日まで、3日間の連休となる。
子供達にとっては夏休みの最終日であり、翌火曜から新学年が始まる。
金曜の夜は娘から「山か湖に連れて行け〜」
との猛攻を受けた。
過去の数年間は、オリンピック半島やオレゴン州へロードトリップをして来た。
が、今年は何ら予定なし。
近所のイサクワの山でいいじゃあないか、
ワシントン湖でいいじゃないか、
とその猛攻をかわす。
遠出しなくともすぐ近くに堪能できる大自然は多い。
家でゆっくりとくつろぐのが最高のバケイションだ。
そんな休暇哲学を説いて見せたが
納得した様子なしの娘。
娘よ、汝がこの悟りの境地に達するのはまだ若すぎて無理であろう^o^
PCの容量が残り少ないため、
数年分の写真を保存用マシンに移動した。
ファイル数十をまとめて「切り抜き」、
バックアップページに「貼り付け」た。
数時間後、外出から帰ってPCを見ると、
ガーン
切り抜きは出来ているが、貼り付けが見つからない。
貴重な4年分ほどのデジタル写真が全て空中霧散シテシマッタ。。。
あまりのショックと痛みに
妻に打ち明けるのにも3日程かかった。
そして今日、長女のPCのデジタル写真を同様に移動した。
この時は切り抜きではなく、コピー機能を選択。
その時、行方不明だったあの数年分の写真類を発見した!!
その時の喜びと開放感で、数mほどジャンプできそうな気がした。
聖書には羊飼いから迷子になっ1匹の羊の話が出てくる。
当時の社会で見慣れた光景を題材とした主のたとえ話である。
もし主が今日の日本にお出でになられたとすると、
貴重なデジタルデータを失った者をたとえ話に使われるやもしれない。
今年、自衛隊は創設60年を迎えるのだそうだ。
7月に集団的自衛権が合憲であるとの解釈変更の閣議決定が成された。
そのような流れゆえだろう、
NHK特集で自衛隊の幹部候補生学校を取材していた。
入学式の際に校長が披露した一つの箴言が心に留まった。
「大いなる精神は
静かに忍耐する。」
ドイツ人哲学者シラーの言葉だそうだ。
これは同校OBである元陸上自衛隊幕僚長(陸上自衛隊トップ)の
宮澤氏から校長に贈られたものであるという。
その宮澤氏が自衛隊に入った1960年代は安保闘争の最中。
「国のために」という純粋な青年の志を挫くかのような冷たい視線が世間にはあった。
「税金ドロボウ」と罵られることもあった。
そのような理不尽にも堪えて志を全うするように、
と若かりし宮澤氏が教えられた言葉であったという。
今や、3・11の災害救助活動や海外での現地視点に合わせた復興援助に
高い評価を得ている自衛隊。
それでも、20代青年の清い志を砕くような理不尽さに遭うかもしれない。
その時に思い出して欲しい言葉として校長は訓辞した。
「幹部自衛官としての高い志、すなわち大いなる精神をもって
平和な時代に理不尽と思われる環境さえ適合するしたたかさを持つ
静かに忍耐することを望みます」
実に含蓄ある言葉である。
私の乗っているカムリのスピードメーター等、
全ての計器類の照明が点かなくなった。
ダッシュボードを全開して、電球を取り替えるだけだと思うが
自分でできる作業ではない。
あ~あ、これでまた数百ドルの痛い出費となる~
修理を先延ばしにしてきた。
夜間走行するときはまったく計器類が見えない。
そこで懐中電灯を時に照らしながら
スピード違反には気をつける応急措置。
トヨタのサーヴィスセンターに電話でアポを取ってから数日後、
そのセンターに行ってきました。
待つこと10分。
サーヴィスマンに現状を説明すると、
彼はおもむろに計器に手を差し伸べると
目の前の計器類が一斉に明かりを点した!!
ダイヤル式の照明調節がOFFの位置にあったのが原因。
指一つでそれを回しただけで完全解決。
あまりのあっけなさに、ガーン。
「良くあることなんだよ」とサーヴィスマンは慰めてくれた。
修理終了まで覚悟していた待ち時間のストレスも
傷む財布への恐れも
トヨタに対する不信感も
全ては自分ひとりの思い込みからしょっていたもので
独り相撲というもの。
自分勝手な思い込みが
相手を非難したり、自分が損した、傷つけられたといって怒ってしまうことは
日常生活の中でしばしば拝見する。
そのダイヤルを知らない間にOFFの位置に回したのは、
洗車の時、ボードをタオルで拭いたときであったに違いない。
自分に原因があったのに、それには盲目で
故障だ、欠陥だ、損失だ、と他者に攻撃の矢を放つ。
人の判断力は限られたものでしかない。
主はさらに大いなるお方。
このお方に目を向けよう。
「心を尽くして主に拠り頼め。
自分の悟りにたよるな」
箴言3:5
「愚か者は自分の道を正しいと思う。
しかし知恵のある者は忠告を受け入れる。」
箴言12:15
昨日の「官兵衛」では九州征伐のために奔走する官兵衛さん。
同時に伏線として洗礼を受けた後の官兵衛の様子も映し出していた。
妻に告げることなく洗礼を受けたことを素直に詫びる官兵衛。
人生の転機を夫婦として共有出来なかったことに後ろめたさを感じる夫として描いている。
戦国時代の当時、妻の考えや思想がどれほど尊重されていたのだろうか?
人権意識のことに低い情勢下で、あのような近代的な夫婦の会話が果たして実際あったかどうか、実に心もとない。
その大切なキリシタンの教えを教えて欲しいと妻は迫る。
官兵衛は「まだ人に教えるほど良く分かっていないのだ」と答える。
高山右近との付き合いの中でキリシタンの教えを吸収していったとされるが、
四国征伐、九州征伐と戦乱を駆け抜ける中で腰を押し付けて学ぶ余裕は無かったであろう。
官兵衛にとって、創造主や永遠といったテーマに目を開かせたのは
有岡城での1年にも及ぶ幽閉事件であったのは確かなようだ。
ひどい湿気に窮屈な空間、蚊とシラミに悩まされて皮膚病に侵される。
死と隣り合わせの中で、彼にとり不思議な輝きに映ったのが藤の花だった。
順境の時にあっては気づきもしないであろうその変哲のない命が
「生き抜こう」と決意を誘う創造主の作品であり、
同時に自らの命そのものに見える心境となった瞬間であったと、
多くの研究家は考えるようだ。
司馬遼太郎は「播磨灘物語」でその時の彼の心情を次のように描いている。
「その青い生き物のむこうに小さな天があり、
天の光に温められつつ、伸びることのみに余念もない感じだった。
官兵衛は、生まれてこのかた、
生命というものをこれほどのつよい衝撃で感じたことがなかった。
その者は動く風の中で光に祝われつつ、わくわくと呼吸しているようであり、
さらにいえば、官兵衛に対して、生きよ、と天の信号を送り続けているようでもあった。
官兵衛は神(デウス)を信じていた。
しかしそれが神の信号であると思う以上に、
ごく自然な感動が湧き起こってしまっている。
官兵衛という生きた自然物が、
他の生命から生きることを励まされているという感じであり、
その感動が重なり重なって、そのことに馴れてから、
(これはデウスの御心ではないか)と、解釈するようになった。
解釈が成立して、官兵衛の心が落ち着いた」
藤の花の成長から神からのメッセージを受け取ったと、
クリスチャンではないが司馬氏はかいている。
友人の荒木村重から受けている非情な扱い、
その不条理でさえもまた、大きな神の摂理の一つであると解釈したのであった。
彼の人としての成長も、信仰心も
この試練の時に培養されたと言って良いと思う。
「試練(ここでは聖書文脈から信仰ゆえに受ける試練のことであるが)に耐える人は幸いです。
耐え抜いて良しと認められた人は、
神を愛する者に約束された、
いのちの冠を受けるからです。」
Ⅰペテロ1:12
シアトル・レインの試合観戦して来た。
女子プロサッカーのチームでこの日、全米準決勝まで勝ち進んだ。
なでしこジャパンから川澄奈穂美選手が出場しています。
スタジアムに入ってみると、直ぐにそこにある熱気に包まれた。
ピッチから遠いベンチに居ながら、各選手の動きがよく見て取れる。
プロサッカー観戦は、50年の生涯で初めてのことでした(^O^)/
我が子たちはすでに10本の指に余るほど、シアトル・サンダーズという男子プロサッカーの試合を観戦したというのに……
背番号9番の川澄選手は右サイドの2列目、MFのポジション。
対戦相手のワシントンDCの攻撃陣はいずれも背の高い選手で、川澄選手が子供のように見える。
ボールの奪い合いでは何度か倒されてしまった(≧∇≦)
しかも審判はわざと川澄選手が倒れたと判断してペナルティキックを相手に与えてしまったことも。
あれははない!
思いっきりブーイング
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