サンロレンゾ日本人教会牧師の島田先生
いつもエネルギッシュで元気を頂いています
島田先生のお隣がAngelFishレストランのオーナー
この日の夕刻は昨夜に続いて
誕生日をお祝いしていただきました。
昨夜は日本時間で誕生日。
今夜は米国時間での誕生日でした。
サンロレンゾにある日本人教会牧師の島田先生と
アラメダにあるAngelFishというレストランにて。
イーストベイで最も美味くてオススメのレストランです。
島田先生との会合の恒例の場となりました。
ここのオーナー様が聞くところによればゴルフの達人とか。。。
早速、ゴルフに燃えている島田先生は
オーナー様へのナンパ・アタック。
どうもオーナーのお休みの日が教会の集会日と重なっているようなのですが、
いつか実現すると良いですね。
それにしても私がオーダーしたシーフード・うどん、
美味かった(^O^)
ネタが新鮮だし、スープの味付けが絶妙の味。
火曜の夜というのに
満席であるのは納得。
泣かせ、笑わせてくれるカードを子供らが書いてくれました
遂に大台に突入です。
今日で50歳になりました。
月日が経つのは早いものと
つくづくと実感します。
人生の半分ほどを生きたつもりでいます。
もう半分ほど過ぎた頃、ひ孫とサッカーをするのが私の夢です。
こんな私でも
ここまでの歩みを祝して
確かに導き続けていてくださっている
主イエスを崇めます。
こんな私と共に一緒に歩んでくれている
家族を始め教会の皆さん、友人・知人たちに
心からの感謝を捧げるものです!
休日のこの日は長女とハイキング。
Rattle snake ridge へ。
登山口に広がっている湖のほとりで先ずはランチを。
そのランチは長女が作ってくれたおにぎり。
私が雑用で外出している1時間弱ほどの間に
二人分のランチやスナック、水筒などを全ての準備を完了していてくれた。
私の言いつけに嫌な顔もせず、
要求以上のことをしてのけるようになった。
登り道の途中、彼女から徒競走を何度も挑まれた。
挑戦には受けて立ったが、
先に息が上がったのは
私の方だった。
いつの間にこれほど成長したんだ?
先回この山に彼女と来た時は
バックパックに彼女を乗せて歩いたのに(^∇^)
テルアビブのビーチにも夏がやって来ました
ホサナ・キリスト教会、聖書広場からの抜粋です。
聖書本文とメッセージノートとはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/511378
「花婿を出迎える十人の娘」
マタイ25章1~13節
~マタイ福音書連続講解説教78~
Ⅰ 「思慮深い」しもべのたとえ:マタイ25:1~13
1)10人の娘が花婿を迎える話がたとえで語られる。
*5人が「賢い」娘~油を備蓄していた
*5人が「愚か」娘~油は用意していなかった
双方ともにランプに火は点していた。
ランプの火とは聖書である(詩篇119:105)。
そして油とは、聖霊である。
ここで間違えてならないことは、二つの娘の区別が
聖霊に満たされた信者と、そうでない信者にあるのではないこと。
区別は、イエスを信じる者と、拒絶する者とにある。
パリサイ人、律法学者たちは
聖書に通じていて神との長い契約関係の歴史があった。
にもかかわらず、
イエスのメシア性を拒否したために聖霊に預かることができなかった。
ランプを灯してはいるが、油のない娘のようである。
彼らは主が迎えにこられたとき(携挙)、
主とともに天に引き上げられることはできない。
聖書で「愚か」とは不信者に向けられた言葉で、
信者に対して使われたことは一度もないことからもそれが分かる。
信者は天において先ず、
「メシアの御座の裁き」に導き出される。
そこでは罪に処する判定ではなく、
信者としてどのように信仰生活を忠実に歩んだかを評価される裁きである。
(先週学んだ箇所である)
その評価の判定基準とその後の報酬についても聖書は啓示している。
Ⅱ 携挙された教会が天でうける報酬
1) 報酬は、メシアからの「冠」として表現されている
*千年王国での地位や権威にかかわっている
*それは、天にいる24人の長老は冠を被っていた(黙示4:10)
*黙示録2~3章は、現在までの地上にある教会の描写
*黙示録4~5章は、携挙後の天にある教会の描写
*“After these things”(黙示4:1)は、
これまでの一連の啓示の後に起こることを示唆したもの。
例・黙示19:1が大艱難時代が終焉して天での婚礼が始まる接続詞
*教会は携挙の直後に天にてメシアから報酬を受ける
*その後、地上では大艱難時代が到来する
2) ギリシア語には2種類の冠がある
*Diadem~王家に生まれた者に与えられる
これはメシアが被っている冠
*Sephanos~勝利者、競技優秀者に与えられる
私たち信者が与えられる冠
3) 報酬として授けられる5つの冠はいずれもStephanos である。
① 朽ちない冠(1コリント9:24~25)
~霊的な戦いに勝利した人に
「 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、
ということを知っているでしょう。
ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。
彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、
私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。」
② 喜びの冠(1テサロニケ2:19)
~主イエスに魂を導いた人に
「私たちの主イエスが再び来られるとき
御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。
あなたがたではありませんか。」
③ 義の冠(Ⅱテモテ4:7~8)
~健全な教理と道徳とを反対者の中で守りぬいた人に
「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。
かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。
私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」
④ いのちの冠(ヤコブ1:12、黙示録2:10)
~試練に耐え、殉教した人に
「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。
見よ。悪魔はあなたがたをためすために、
あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。
あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。
そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」
⑤ 栄光の冠(Ⅰペテロ5:2~4)
~神の言葉を忠実に語り続けた人に
「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。
強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、
卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。
あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、
むしろ群れの模範となりなさい。
そうすれば、大牧者が現れるときに、
あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。 」
4) これらの報酬に関する教えをたとえ話で説かれたのが、
ルカ19:11~27である。
結論 目標を目指して走る:ピリピ3:13~14
「 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。
ただ、この一事に励んでいます。
すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、
目標を目ざして一心に走っているのです。」
パウロが到達して、彼が生きた終末論がこの聖句に如術に示されている。
*「一事に励み」、「一心に走っている」というが、
それは神からの評価であり、報酬である
*選択的な忘却がある~彼の過去にあっては価値高かったものも、
最終のゴールを設定した今となっては、塵あくたにしか過ぎない。3:4~6
*彼のキリストにある新たな価値観とは、「神の栄冠を得ること」
•それを、すでに得たのではない
•捕らえようとして追求している
•しかし、主イエスが捕らえて下った
高瀬さんご夫妻による
ヴァイオリンとピアノコンサート。
シアトルのバプテスト教会で開催されるので
出席させて頂きました。
超一級のミュージシャンの演奏に
心揺さぶられました。
技倆もさることながら
その技倆を支えているお二人の情熱がヒシヒシと伝わって来ました。
コンサート半ばでの高瀬夫人のお証し。
プロのピアニストとして
義両親のミュージシャンゆえの軋轢と圧迫。
想像を絶する相克を乗り越えながら、
尚も一流のミュージシャンゆえのプライドまで
主におささげしながら
主に専心仕えておられるお二人。
音楽はもちろんですが、
お二人の信仰の姿勢に感動の1時間でした。
アンコールを求めたスタンディング・オペレーションの会衆は
その感動を皆が共有したものであると思われます。
この週は毎夕、野外での夕食となりました。
火曜から始まった教会のキャンプが終わり
数日振りに長女が帰ってきた。
友人たちと楽しみ、、
良いカウンセラーにも恵まれたらしい。
「神様がより身近に感じられるようになった」
との頼もしい感想にうれしくなる。
4日しか離れていなかったが、
一段と成長したかに見える。
日本では
「中学2年生の夏が終わると、
子供から大人に変化を遂げる」
そんな風に言われていた。
彼女はその変貌の真っ只中にいる。
今日も水遊び
ホーラ、日本の叔母からいただいたドレス
この日も気温はぐんぐんと上昇。
雨もしばらく降らないので、庭の芝生は枯れに枯れている。
が、タンポポの生命力には恐れ入る。
芝は枯れても、青々とした葉を八方に伸ばし
毎朝、黄色い花を咲かせる。
太陽が空高く上がると花を閉じるが、
翌日また開くのだ。
日本帰国以来、3週ぶりで芝を刈った。
芝というよりも、そのタンポポの茎しか刈れてない。
地面にへばり付いているその根までは刈れないので、
しばらく経てば再び花を咲かせるであろう。
その生命への不屈の姿勢に
あやかりたいものだ。
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