茶々が懐妊したのを揶揄した風刺落書に怒る秀吉。
犯人の可能性のある百人ほどの人々をまとめて拷問の上、死罪とした。
天下人の横暴を諫言するのは官兵衛しかいないと、
正妻のねねに頼まれ大阪へ登る。
「人は天下を獲ると、こうももうろくするものか、、」
「何?!!!」
秀吉は表情を変えて立ち上がり、官兵衛に近づく。
側近の三成らも「控えよ!」と怒声を上げて殺気立つ。
以後も命を掛けた官兵衛の諫言が続く。
「民は秀吉様のお子の誕生をよろこばれましょうか?!」
…………………………………
ドラマでは秀吉の残虐非道さを己の命に変えても諌め、
天下の安定のために尽くす官兵衛が演出されるが、
この部分は創作であろうと思われる。
官兵衛がそこまで勇気を振るって諫言している史料にお目にかかったことはない。
秀吉の傍若無人さは誰にもストップできなかった。
この後、甥の秀次を実子が生まれたばかりに邪魔者扱いし、
側近ら10名も含めて切腹させている。
そればかりか、
側室や女児、幼児をも含めた秀次の遺族39名をことごとく首を刎ねて処刑する。
すでにキリシタン禁教令を発布していたが突然、
フランシスコ会中心のキリシタンを京都で捕縛し
耳を削いだ上で長崎まで連行、
十字架で磔刑に処している。
(26聖人の殉教)
この場で命を捨てて諫言している官兵衛と
先日の禁教令発布の折には守るものあって妥協した官兵衛。
NHKさん、
同一人物として調和出来ないのですが…
死海の夜明け
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です。
聖書本文とメッセージノートはこちらから:
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/4222785
「大艱難時代後半の3年半②」
マタイ24章22~27節 黙示録15~16章
~マタイ福音書連続講解説教85~
黙示録の文学書としての特徴や性格を理解することは、
正確な解釈のために役立つ。
3種類のシリーズで大災害が地上を襲うとある。
その各シリーズには7つの災害が含まれている。
a)7つの封印
b)7つのラッパ(7番目の封印の裁き)
c)7つの鉢(7番目のラッパの裁き)
各セットの裁きの直前には天の光景が開かれているのも見逃せない特徴である。
a)直後のイベントのための前奏曲であり
b)シャカイナ・グローリーに包まれた神の顕現があり
c)神を称える賛美
d)信者に約束された報酬などが啓示されている
黙示録はどうしてこうも難しいのか。
それが書かれた法則を知ると案外変わりやすいものとなる。
その法則のひとつは、「再記述の法則」と言われるものである。
すでに前章で語られた内容を別の表現を用いたり、
別の視点で述べたり、
更なる詳細な情報を与えることが「再記述」というもの。
①中間期の再記述
a)10章の小さな巻物は、7つの鉢の裁きを秘めたもの
b)11章の二人の証人は前半の3年半に活躍する者たち
c)12章の二つの翼によってイスラエルはぺトラに逃れる
d)13章の「偽の三位一体」により後半3年半に厳しいユダヤ迫害が起こる
e)14章の14万4千人の賛美は千年王国での様子
②17~18章の再記述
a)17章、統一宗教バビロンの崩壊~前半3年半の出来事でバビロンに焦点
b)18章、世界帝国首都バビロンの崩壊~後半3年半の出来事で
バビロンに焦点が当てられている
このように、中間期に記されている事象はそれ以前の3年半に起こることや
以後の3年半の事々を違った角度から再記述したものであるといえる。
17~18章に書かれていることは、7年間の反キリスト勢力の中心であるバビロンが
どのように崩壊していくかをまとめて記したものである。
結論 人間の最終的運命が二分される聖書の教えについて
ポスト・モダンのヒューマニズムの時代の風潮として、
絶対的価値観を否定して万事が相対であるとするものがある。
人の死後のあり方についても宗教の数だけ異なる教えがあり、
結局何を信じるかで「勝手にそれぞれが決めるもの」という理解が広がっている。
ところが黙示録は、大艱難時代が進み苦難の度合いが増すに従い、
人は二分されて行くことを教えている。
万の生き方から、たった二つきりの生き方に収斂されていくというのである。
•ダニエル書から:
「多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。
悪者どもは悪を行い、ひとりも悟るものがいない。
しかし、思慮深い人々は悟る」
(12:10)
•黙示録から:
「不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。
正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」 (Rev 22:11 )
そして、人の運命を二分されるお方が、主イエスである。
•「手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。
麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」
(マタイ 3:12)
•「倉」とは、信者の入る千年王国である。マタイ13:30
•「消えない火」とは、不信者がゲヘナに投げ込まれることである。
私たちはここで、主イエスからいただいた信仰の遺産を確認したい。
「4 また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産
を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために
天にたくわえられているのです。
5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、
終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。」
Ⅰペテロ1:4~5
長女がソロを歌いました。
ウーン、
動画がアップできません。
しばらくお待ちください。
Sent via bloguru mobile.
長男とDon。北海道旅行にて。
孫たちが聖餐式のお手伝い
長女のソロの楽譜
Donはココナッツクッキーが好きでした
遺灰は教会敷地に収納
義父Donのメモリアルサーヴィスがありました。
フロリダやカリフォルニアからの参列者を含めて
多くの親類縁者達にお会いできた恵みの機会となりました。
Donが家族・親類にとってどれほどに特別な存在であったか、
彼がどれほど真摯に人々に仕えてきたか、
5名ほどが語るスピーチから彼の人柄が浮き上がってきました。
式終了時の彼の愛唱歌である賛美歌
"soon and very soon we are going to see the King"
を歌っている時、涙が止まらず、ティッシュも無くて難儀しました。
http://worshiptogether.com/songs/songdetail.aspx?iid=558743
Verse 1
Soon and very soon,
We are going to see the King,
Soon and very soon,
We are going to see the King.
Soon and very soon,
We are going to see the King,
Hallelujah, hallelujah,
We are going to see the King.
Verse 2
No more crying there,
We are going to see the King,
No more crying there,
We are going to see the King.
No more crying there,
We are going to see the King,
Hallelujah, Hallelujah,
We are going to see the King.
Verse 3
No more dying there,
We are going to see the King,
No more dying there,
We are going to see the King.
No more dying there,
We are going to see the King,
Hallelujah, Hallelujah,
We are going to see the King.
I宣教師と会食しました。
ここの日本レストランはシェフもサーバーも日本人だけあって
味もサーヴィスも正真正銘もの。
うまいちらし寿司に話も弾みまくり……
教えられることが多く
貴重な時間が流れて行きます。
三ツ星ホテルなのに部屋に入ってみると
何か足りないものを感じた。
書斎にするデスクがないのだ。
フロントに電話すると
プラス$20で広い部屋を当てがってくれると言う。
即お願いしてその部屋に行ってみると、確かに広い。
キッチンやバーカウンタ、冷蔵庫ばかりでなく
キングサイズのベットがロフトに設置されていた。
本ブログを創始し、サーバーしてくれているPSP会社へ行ってきました。
ホサナ教会のHPもウエブデ・イクスプレスという御社のシステムを利用しています。
2年ほど前、そのHP構築のためのセミナーに御社に伺って以来、
ことある毎にIT関連のことでお世話いただいています。
今回は、他のビジネスのHP構築のために2 to 1指導をしていただきました。
参加者私一人に対して、
Mさんと Iさんのお二人が懇切丁寧に
手取り足取りして教えてくださるので助かります。
不案内なIT世界もこうして日本語でお世話下さるところがあるとは、
大きな助けです。
御社はここ最近、サンディエゴにも支社を開設されました。
日本企業の皆さん、
ITのことならこの会社、お勧めします。
マサダ要塞に至るロープウエイ
ホサナキリスト教会聖書広場からの抜粋です。
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http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/412083-1
「大艱難時代後半の3年半①」
マタイ24章22~27節
~マタイ福音書連続講解説教84~
マタイ福音書に見る大艱難時代後半の3年半
1)後半3年半の開始(マタイ24:15):反キリストの神性宣言と像の至聖所設置
「15それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべきもの』が、
聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。) 」
反キリストがエルサレム神殿に自らの偶像を設置して、イスラエルとの契約を破棄してその抹殺を図る様になる。それが後半への転換点。
2)緊急避難(16~20):その場所はボツラ(へ)、ぺトラ(ギ)
「16 そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。
17 屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。
18 畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。
19 だがその日、哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。
20 ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。」
津波のような迅速さでジェノサイト・ユダヤ人抹殺運動が押し寄せてくるので、
時を置くことなく東のヨルダンにある山地・ペトラに逃げなくてはならない。
3)甚大苦難(21):史上最悪・最大のユダヤ人抹殺運動
「21 そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、
またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。 」
ある著名な聖書学者はここでのイエスの教えが、
AD70年のローマによるエルサレム陥落を預言したものだという。
しかし、この21節はその推論を論駁している。
艱難期にユダヤ人を襲う迫害こそ、60万人が抹殺されたナチの
ホロコーストにも勝る史上それまでにない「ひどい苦難」であるから。
4)神聖統制(22):3年半という日数に限られている
「22 もし、その日数が少なくされなかったら、
ひとりとして救われる者はないでしょう。
しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。 」
ここでの「選ばれた者」とは、選民イスラエルのことで
彼らが全て抹殺される前に神の介入があり救われることを教える。
エルサレムの神殿が汚されてから3年半に艱難期は限られている。
5)悪魔暗躍(23~24):復活した反キリストと偽預言者~黙示録13章
「23 そのとき、『そら、キリストがここにいる』とか、『そこにいる』とか言う者があっても、信じてはいけません。
24 にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。 」
かつて出エジプトの際、モーセの奇跡やしるしを真似て同様のことをして見せた
エジプトの魔術師のように、
このときにはサタンの力を得た偽預言者が驚く奇跡をして見せて人々を惑わす。
6)シャカイナ・グローリーの出現(25~27):大艱難はメシアの再臨まで続く
「26 だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる』と聞いても、信じてはいけません。
27 人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、
ちょうどそのように来るのです。
偽メシアのうわさが流布されるが、真のメシアはいなずまのような明瞭なしるしを伴って再臨される
7)選民殲滅運動(28):死体とはユダヤ人、はげたかとは反キリストの軍勢
「28 死体のある所には、はげたかが集まります。」
反キリストの招集する世界連合の軍勢はハルマゲドンの戦において、
いまやユダヤ人殲滅寸前まで追い込む。
すでにペトラにて逃亡生活をしているユダヤ人を
むさぼるはげたかのような勢いが教えられている。
結論 苦難の意義について:へブル12:7~11
「7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
8 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、
私生子であって、ほんとうの子ではないのです。
9 さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、
しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、
私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
10 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに
私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、
私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、
かえって悲しく思われるものですが、後になると、
これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
12 ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。 」
1)「子」としての扱いゆえに(7)
•イスラエルは神の長子ゆえに、苦難も特権も倍のものを受ける
他の民族に比べたら遥かに多くの特権を持っている。
それに比例して責任も重いがゆえに大艱難時代を通過せねばならない。
•大艱難時代を通じて真の信仰に目覚める
その苦難の中で、イエスがメシアであることに目覚めるようになる。
2)苦難の目的について考えてみよう(9~10)
•「生きる」~父なる神との楽しい交友ゆえの豊かな生涯があるのを教えている。
•「ご自分の聖さに預からせるため」
~千年王国に至る相応しさを見に付けさせるために
3)苦難の結果(11)
•「訓練」を通った人には「平安な義の実を結ばせる」
父なる神は私たちに訓練や凝らしめを時に与える。
それは子供となったこと、
すなわちイエスを長子とする神の家族に加えられたことを意味している。
もし罪を犯して後にそれらの懲らしめがないとするなら、
それは「私生児」(8)であることになる。
ユダヤの法律ではその私生児のことをMAMZERと呼んで、
次の3つのことを意味した。
①相続財産を得られない
②ユダヤ人とは結婚できない
③ユダヤ人の墓に葬られない
全ての信者は「子」として時に受ける訓練を耐え忍ばねばならないのである。
利休の茶室に秀吉、官兵衛、そして石田三成がいる。
………………………………
秀吉:「先鋒は清正と行長、軍師は官兵衛じゃ。
信長様が成し得なかった夢を、この秀吉が成し遂げるのじゃ。」
官兵衛: 「殿下……
天下太平は目の前でございますが、長い戦で民は疲弊しております。
何卒、しかと民の姿を見ていただきとうございます。」
秀吉: 「そのような事は分かっておる!」
官兵衛: 「殿下、何卒、お考え直しください!!」
秀吉: 「おぬし、このワシの夢にケチをつけるのか?」
……………………………
秀吉: 「これ以上申すな!!!」
利休: 「耳の痛いことを言ってくれるお方がおられるうちが春でございます。」
秀吉: 「利休よ。……ワシは黒茶碗が嫌いじゃ。」
利休: 「殿下にもいずれその良さがお分かりになります。」
…………………………秀吉は怒りに震えて立ち上がると、
その黒茶碗を蹴飛ばす寸前となるが、そのまま三成を伴って退席する…………………
天下人秀吉の傲岸さ、
天下のための最善は何かを理を持って説く官兵衛。
盲目的に秀吉のご機嫌取りとして権勢を伸ばしつつある三成、
高所から哲理を言ってのける利休。
この時点でのこれらの各人のそれぞれがよく表されている。
本日のとある新聞コラムにもこの時のいきさつが詳細に解説されていた。
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140923/wlf14092307000002-n1.htm
秀吉が中国征伐という愚かしい老人性夢遊病に陥ったのは、
ここでの台詞通り、
信長の夢を踏襲して後継者としての正統性を
アッピールしたかったのは間違いないと思われる。
ではその信長が日本平定後、朝鮮や中国に目を向けたのはどうしてか?
当時万里の波涛を超えて布教や貿易にやって来た南蛮人に刺激された事は想像に難くない。
………………………………………………………………………
先回、当時の欧州は大航海時代であり、
地理上の新大陸発見時代でもあったことを書いたように思います。
ここから
「秀吉や家康がキリスト教を禁教にした理由」について考えて見ましょう。
1494年にアレキサンデル6世は、
大西洋の真ん中に南北で線引きして世界を真っ二つに両断することを両国に認めた。
(トルデシリャス条約)
両国とは、ポルトガルとスペインで、
この2カ国で新世界を真っ二つに両断したのである。
トンデモ、トンデモ〜
西側のブラジルを除いた新大陸をスペイン領とし、
東側のアジア・アフリカはポルトガル領とするというお話、、、
何とも身勝手な〜(^◇^)
その際に教皇は両国王に宣教保護権なるものを与えている。
それはスペイン王とポルトガル王に付与された
彼らが征服した新地に対しての布教許可権であり、交易独占権でもあった。
このように、カトリック教会の宣教と国王の政治的・軍事的な意向とが
結託していたのは紛れもない事実。
全世界でのキリストの代理人を自認していた教皇にとって
布教権や司祭叙任権は専権事項であり、
発見した新大陸でのそれらもまた本山(教皇)から
大航海と新大陸管理の事業者(国王)へ譲られるべき性質のものであった。
当時はそのような時代状況であり、事の善悪を論じられる次元ではない。
だから禁教令や鎖国を持ってキリスト教を排除しなくては
やがて日本も植民地に成り果てていた……
そんな風に考える人がどうも多いようなのです。
これは本当でしょうか…?
日本は世界から見ると、今も当時も超特殊な国です。
日本には大規模農地に適した広大で肥沃な土地はない。
当時は金銀などの鉱山資源も発見前のこと。
第一、戦国の武士たちに対抗するほどの兵員や武器の輸送は不可能であったと言えます。
関ヶ原での東西両軍の双動員兵員数は概算で30万人程。
一方、その数世紀後の欧州最大の会戦である
ワーテルローの戦い(1815)でのそれはおよそ20万人とされています。
欧州が連合して日本征服を企んだとしても、
日本の戦国武士にはかなわなかったはずです。
カトリックによる日本宣教は国王認可の元での国家事業であり、
貿易と密接に結びついたものであったとしても、
彼らに征服の下心があったと結論付るには早すぎるようです。
ここにホセ・デ・アスタコ(1540-1600)という
スペイン人のイエズス会宣教師を紹介します。
彼はペルーやメキシコでの布教活動を管区長として指導した人ですが、
1577年に書いた書簡の中で全世界の宣教地を3区分する必要性を説いています。
①西洋と同等な高度な文明を持つ人々〜日本や中国
②文明後進国ではあるが、それなりの独自文明を持つ人々〜南米マヤ人やアステカ人、ポルトガル領インド人
③野蛮人で「堕落した凶暴な住民」
その中でアコスタは
「第一区分の住民に対しては使徒時代のギリシア人、ローマ人、その他のアジア人、ヨーロッパ人と同一の方法で布教するべきである」と記しています。
イエズス会宣教師のトップが日本を白人国家として扱うよう述べているのに注目です。
その路線を正しく踏襲したのがイエズス会東インド管区巡察師として来日したヴァリニャーノでした。
…………………………来週に続きます………………………………………………
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