ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋
「キリスト教の本質~異邦人との対比から」
マタイ15章21~ 28節
~マタイ福音書連続講解説教39~
聖書本文とメッセージノートはこちらから
http://hosannamin.org/whatsnew/view/521-283
「キリスト教とは、つまるところ何であるのか」についての2回目の学びです。
今回は異邦人の女性との会合を通じて,その本質を垣間見ることができます。
彼女いわく、
「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。
娘がひどく悪霊に取りつかれているのです」(22節)
それに対して主は「彼女に一言もお答えにならなかった」
とあります。
さらに、「イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていない」(24節)
とまで言われています。
主もまた当時の特権意識を抱いていたユダヤ人と同様に、
国粋主義で民族主義的な偏見で異邦人を見下していたというのでしょうか?
この箇所を正しく理解するには、
ユダヤ的な視点から聖書を紐解く必要があります。
日本の文化土壌や常識から平坦に聖書を読んでも
到底理解できないものがあります。
聖書の著者が前提としているものは、
数千年間にわたり蓄積されてきたユダヤの文化であります。
主はこの時、初臨のメシアとしてイスラエルに専属的に遣わされているのです。
それが旧約聖書預言の視点であり、
今日21世紀の私たちの視点と異なる点です。
やがて主はユダヤ人に拒絶され、十字架に架かります。
そこで「異邦人の時代」となり、福音が世界中に広がります。
すると救われる異邦人の数が満ちて、
「異邦人の完成」段階へと進む瞬間が将来のある時にやって来ます。
その後にイスラエルの回復と完成がある、
というのが神が人類救済のために計画されているタイムテーブルです。
その全体像からすると、
本記事の段階では未だ十字架前であり、
異邦人が祝福を得られる時代段階ではないのです。
女性は、「ダビデの子よ。」と呼びかけていますが、
それはメシア称号です。
ダビデ契約の成就者として旧約に預言されているメシアは、
イスラエルに回復と繁栄をもたらし、
全世界を統治されます。
これらは、第一義的にユダヤ人に専属的に与えたれている祝福です。
「子供たち(ユダヤ人)のパン(祝福)を取り上げて、
子犬(異邦人)にやるのはよくないことです」(26節)
との主のお言葉は、
そのような聖書預言の歴史的な展開(英語でいうディスペンセイション)
を背景としたものです。
冷淡とも言える主の言動にもめげずに、
その女性は執拗に食い下がります。
「主よ。私をお助けください」(25節)
当初の彼女の言葉がここで変化しているのに注目しましょう。
これは、「メシアがイスラエルを祝福する義務」
を利用しようとしたものではありません。
「ダビデの子よ」との呼びかけには、そんな意味が包含されていました。
ここではただ単に、個人的なあわれみを求めた言葉です。
そこに至ってはじめて主は、彼女に応答ができる局面を得たのでした。
二人の間にコミュニケーションが成立し始めてから、彼女は答えます。
「主よ。その通りです。
ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」(27節)
ここで主は、「あなたの信仰は立派です」と言われ、
即座に彼女の娘を癒されました。
ところで、「立派です」と主からほめられた信仰は、
聖書に2例しかありません。
そのもう一つは百人隊長の例です。マタイ8:10
彼らはともに異邦人であり、共通項として次の点が挙げられます。
• 主に対する絶対的な信仰があった
• 主の力を引き出すのは自らの立場、熱心、資格によらないことを熟知していた
• 祈りが届けられるのは、主の一方的なあわれみによると理解していた
さて、ここに見られる「立派な女の信仰」とは
• 理解があった~「そのとおりです」:イスラエルへの専有的祝福を理解
• 謙遜があった~「小犬でも」:異邦人としてのわきまえ
• 期待があった~「食卓から落ちるパンくず」:主の力とあわれみはとてつもなく大きく、
それに比べたら自分の願いは小さいものなので、主には不可能でないとの信頼。
現在は、全ての人が信仰により、
主の救いと祝福に漏れなく預かれるよう招かれている時代です。
そして今後も、聖書預言は一つも違う事なく成就して行きます。
ベルビューにあるJubilee Reach Center・正門
Jubilee Reach Center へ行ってきました。
http://www.jubileereach.org/
ここはコミュニティの再生、保護、発展のために尽くしている非営利団体です。
特に人に対するケアが充実していて、ここまでやるの? といった驚くほどのレベルです。
たとえば子供のためには、共働きの両親のための預け保育、学校前や後の児童ケア、宿題の手伝い等。
移民のための英語やPCの教室、職業訓練、ホームレスのための援助や災害被害や失業中の家庭のための家具などの配給などなど。
近く日本人のための図書館もこの敷地に建設される話もあるようです。
これらほとんどの働きは、地域のボランティアが支えています。
Jubileeとは、旧約聖書にある「ヨベルの年」の教えです。
イスラエルでは50年毎に巡って来たこの年に、全ての負債が帳消しとなり、没落して奴隷となった人も解放されて我が家に帰れました。
その開放を告げる合図のために、ラッパを長く吹き鳴らしました。
イスラエルの国中にそのラッパの音が鳴り渡ると、経済破綻者も、債権者もともにリセットされたのです。
それは、彼らに土地の真の所有者、富の真の供給者は誰かを教えるものでした。
どれだけ人が富を所有していたとしても、いや違う、それは富を管理しているだけで所有はしていない。
真の所有者なる神に返すときなのです。
単に貧者救済や偏った富を是正する公平化制度ではありません。
もしそれが人為的になされたのなら共産主義というもので、有産階級が黙っているわけありません。
これは命の創造者にて保持者、富の供給者にて所有者なる唯一の神に対する信仰から実現された行為です。
たとい不幸にも、身を投げるほどの経済的破局に陥ったとしても、その人の価値がそれにより計られるわけではない。
貧しい人も、富める人も、等しく神の前に愛されている神の子供だと聖書は教えます。
その聖書の教えを実践する一つがヨベルの開放だと言うわけです。
イスラエルではかつて50年毎に、この聖書の基本概念を教える大胆な経済政策が採用されていました。
現在のヨベル、神の計り知れない恵みをこの団体は地域に伝え続けています。
以下は旧約聖書にあるヨベルの年の教えの箇所です。
「8 あなたは、安息の年を七たび、つまり、七年の七倍を数える。安息の年の七たびは四十九年である。
9 あなたはその第七月の十日に角笛を鳴り響かせなければならない。贖罪の日に、あなたがたの全土に角笛を鳴り響かせなければならない。
10 あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。
11 この第五十年目は、あなたがたのヨベルの年である。種を蒔いてはならないし、落ち穂から生えたものを刈り入れてもならない。また手入れをしなかったぶどうの木の実を集めてはならない。
12 これはヨベルの年であって、あなたがたには聖である。あなたがたは畑の収穫物を食べなければならない。
13 このヨベルの年には、あなたがたは、それぞれ自分の所有地に帰らなければならない。
14 もし、あなたがたが、隣人に土地を売るとか、隣人から買うとかするときは、互いに害を与えないようにしなさい。
15 ヨベルの後の年数にしたがって、あなたの隣人から買い、収穫年数にしたがって、相手もあなたに売らなければならない。
16 年数が多ければ、それに応じて、あなたはその買い値を増し、年数が少なければ、それに応じて、その買い値を減らさなければならない。彼があなたに売るのは収穫の回数だからである。
17 あなたがたは互いに害を与えてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしはあなたがたの神、主である。 (レビ記 25:8-17)
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家内手製のB.ケーキ
本日、長男が10歳となりました。
良くもここまで順当に育ってくれたものだと感心しています。
健康に問題があるわけでなし、学校でも普通に勉強して、普通に遊んで、
こんな良い子になったのが不思議なくらい。
この日、仲良しのS君ひとりを誘って、自宅に招いて遊びました。
食事をともにしてから、家内が映画に連れて行きます。
翌日は彼が夢中になっているシアトル・サンダーズ(プロサッカーチーム)の試合を見に行きます。
恒例のケーキは、この時も家内の手作りでした。
彼の将来の夢は、サッカー選手と宇宙飛行士とを同時にこなすことです。
Pacific Place 平日のためかガランとしています。
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■ どちらの道を選ぶべきか
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本日は、シアトルのダウンタウンにあるモール・pacific placeにまでやってきました。
ここに踏み込んだのも、何年振りとなります。
ショッピングはここでしたことはないのです。
ここの地下駐車場を利用するためです。
6番街か7番街に出るか、帰りの出口には二つの選択肢があります。
「あれ、次の目的地へはどちらが良かったかな?」
「一方通行の通りはどちらだったかな?」
出口付近に近づくと、これまでしてきたように頭の中がグルグルと回転を始めるのです。
我が家の洗濯機ほどの高速回転をさせました。
しかし、これまでのように結論が出ない。
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■ とにかく決断しなくてはならないのが人生
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そう、「あれにしようか、こちらにしようか」と
決断できないまま延々と悩み続けていた、
その5分前にお会いした顧客と同じ。
しかし私のそのときの問題は、岐路が数メートル先に迫っていること。
忍耐してその優柔不断さにお付き合いをしている優しい営業マンのようにはいかない。
現実の世界はもっと厳しいぜよ、オバハン。
「イエヤ」
と、当てずっぽうにハンドルを切ったものの、それは正解ではなかった。
あーあ、一方通行のため大回りをしなくてはならない。
これもまた、今までと同じケースであった。トホホ。。
えっ?
件のオバハン顧客はどうしたかだって?
彼女には決断できそうにないので、私のほうから決断して差し上げました。
「貴方にはお売りしません」という決断でした。
私たちの毎日は決断の連続です。
時に失敗もあります。
でもその失敗を繰り返すうちに、学習し、成功精度の良い決断へと磨かれて行くものです。
この私だって、あの駐車場へあと10回も通えば、悩まずに正しい道を選べるようになります。
それには失敗の場数を踏むことも大事です。
決断自体を恐れていたら、前に進めないのです。
ところで、聖書は人にとって最大の決断が何であるかを教えています。
~あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。
わざわいの日が来ないうちに、
また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。~
(伝道者の書 12:1-2)
この聖句の「若い日に」とは、あなたの現在で最も若い日のことです。
それはつまり、今日のことですね。
今日のこの瞬間、正しい決断に導かれますように。
天の父の祝福をお祈り申し上げております。
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小屋に戻ったが慣れない様子のオスのヨシ
運よく庭先にあったローズマリー
我が家にいるウサギ。
オスが求愛を始めたので、しばらく別居させていました。
オスの避妊手術後、再び同居させたのですが、今度はメスが攻撃的にオスを押しのけようとします。
オスの不在時に、小屋のあちこちに自分の匂いを撒き散らしては、自己の占有領土であると宣言しているかのようです。
不当占拠されている北方四島を見るかのようです。
仲裁役として、どうしたら良いものか?
インターネットで調べると解決策が見つかりました。
それは自宅庭にあるローズマリーのキツイ芳香を利用するというもの。
その開花直前の花を両手で擦り合わせてジュースを搾り出し、それを小屋の床や内壁に擦り付ける。
自分の匂いを失ったメスは、独占欲も失うという寸法。
今のところ、この作戦は見事に功を奏しているようです。
仲良しの同級生と。
この日は長女のチェロのコンサート。
夕食後、家族皆で彼女の通う中学校まで行ってきました。
3曲を弾いていました。
曲目は、
Spring from the Four Season. By Vivaldi
Dramatic Essay. By Mark Williams
Telemann Sinfonia. By Telemann
冷房装置の無い蒸せる体育館での音楽鑑賞も乙なものです。
膝の上にある書を読む意欲が湧き上がります。
アジアの子供たち
ボブ・ムーアヘッド牧師の説教からの抜粋です
【この時代に生きる 私たちの矛盾】
1.利便
ビルは空高くなったが 人の気は短くなり
高速道路は広くなったが 視野は狭くなり
猛スピードで運転し すぐ怒り
より便利になったが 時間は前よりもない
急ぐことは学んだが 待つことは覚えず
2.消費
お金を使ってはいるが 得る物は少なく
たくさん物を買っているが 楽しみは少なくなっている
レジャーは増えても 楽しみは少なく
飲み過ぎ・吸い過ぎ・浪費し 笑うことは少なく
持ち物は増えているが 自分の価値は下がっている
3.家族
家は大きくなったが 家庭は小さくなり
世界平和の時代と言われるのに 家族の争いはたえず
家は良くなったが 家庭は壊れている
夫婦でかせいでも 離婚も増え
4.食事健康
ファーストフードで消化は遅く
体は大きいが 人格は小さく
たくさんの食べ物に恵まれても 栄養は少ない
薬も増えたが 健康状態は悪くなっている
夜更かしをしすぎて 起きたときは疲れすぎている
5.信仰、祈り
書物を読むことは稀で
テレビは長く見るが、祈ることはとても稀である
6.人間関係
月まで行き来できるのに 近所同士の争いは絶えない
喋りすぎるが、愛することは稀であるどころか、憎むことが多すぎる
空気を浄化し 魂を汚し
原子核を分裂させられるが 偏見は取り去ることができない
7.人生観
生計のたてかたは学んだが 人生を学んではいない
長生きするようになったが 長らく今を生きていない
世界は支配したが 内世界はどうなのか
8.仕事
計画は増えたが 成し遂げられていない
前より大きい規模のことはなしえたが より良いことはなしえていない
利益に没頭し 人間関係は軽薄になっている
たくさんの学位を持っても センスはなく
知識は増えたが 決断することは少ない
専門家は大勢いるが 問題は増えている
たくさん書いているが 学びはせず
情報を手に入れ
多くのコンピューターを用意しているのに コミュニケーションはどんどん減っている
忘れないでほしい、
愛するものと過ごす時間を、それは永遠には続かないのだ
忘れないでほしい
すぐそばにいる人を抱きしめることを、あなたが与えることができる
この唯一の宝物には 1円もかからない
忘れないでほしい
あなたのパートナーや愛する者に
「愛している」と言うことを
心を込めて
あなたの心からのキスと抱擁は
傷をいやしてくれるだろう
忘れないでほしい
もう逢えないかもしれない人の手を握り
その時間を慈しむことを
愛し
話し
あなたの心の中にあるかけがえのない思いを
分かち合おう
人生はどれだけ
呼吸をし続けるかで
決まるのではない
どれだけ
心のふるえる瞬間があるかだ
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/51-2038
「キリスト教の本質~ユダヤ教との対比から」
マタイ15章1~ 20節
~マタイ福音書連続講解説教38~
マタイ13章で、「奥義の御国」(教界)時代が始まり、
その特長がたとえ話から解説されました。
マタイ14章から、弟子訓練が始まりました。
マタイ15章では新しいその御国時代が、
パリサイ的なユダヤ教と比べて、
また異邦人と比べるとどのようなものであるかが、
突発的な出来事を通じて明らかとされて行きます。
つまりキリスト教とは何であるかが、
これらの範疇にいる人々と主との会合を通じて明らかとなるのです。
15章の便覧
*1~20節:パリサイ的ユダヤ教との対比
*21~28節:異邦人との対比(ユダヤ人の優先性)
*29~39節:異邦人との対比(ユダヤ人と異邦人の一体性)
今回はパリサイ人との論争を通じて、
ユダヤ教と対比したキリスト教の本質を学びます。
❶義は自力で獲得するものではない。
パリサイ的なユダヤ教は、
清めの儀式や安息日厳守にこだわりました。
これらを守ることは、人の目に明らかとなります。
その標準に生きる人たちにとって他人の評価を得やすいので、
つい法規遵守に夢中となりやすいのです。
それに惑わされやすいのが人間の姿でもあります。
ユダヤ教ばかりでなく、
世界にある全ての人が創作した宗教は遵守すべき掟があります。
お勤め、托鉢、座禅、修行、断食、荒業、などなど、、
これら難題をクリアする事が、万人とは異なる優越感を抱かせ、
神仏からの悟りやお墨付きの「義」を得る道として、実にわかりやすいのです。
主は、
パリサイ人の作り上げた数万からなる詳細な義に至る道である口伝律法をことごとく無視されました。
その厳格な遵守の先に義はなく、
救いはないことを教えられました。
「まことに、あなたがたに告げます。
もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、
あなたがたは決して天の御国に、入れません。」 (マタイ 5:20)
ここで言われた「まさる」とは、遵守の程度ではなく、
次元の違いを指摘されたのです。
❷義は神から与えられるものである。
「父なる神様がお植えにならなかった木」、
すなわち人為的な宗教戒律に生きる自認エリートは他者を見下しながら、
自分の義に満足する人たちです。
そこに謙遜さはなく、救いへの求道心もありません。
ところが、
主が「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」 (マタイ5:3 )と言われた心貧しい人とは、
自らのうちには誇りとするもの、
自己義の根拠となるものがかけらもないことを知っています。
この人たちは、ひたすら神のあわれみ、恵みにすがる他ないのです。
自分には神の前に立てる誇りとするものが何も無いので、
主イエスの義にすがったのです。
その時に、イエスの義が転嫁されるのです。
イエスをメシアとして信じる信仰により、
心に聖霊が与えられて、
心清められるのです。
そして新しい霊が内側に働き、
その内発性の動機が神の御心に沿う正しい行いへと私たちを向かわせるのです。
「 しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、
ただキリスト・イエスを信じる信仰(イエスの真実)によって義と認められる、
ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。
これは、律法の行いによってではなく、
キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。
なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、
ひとりもいないからです。」 (ガラテヤ 2:16 )
昨日、SF観光のバスについて書きました。
バスでは楽しめないお勧めの観光地がありますので、お知らせしますね。
ストリート・パーフォーマーの歌い手です。
この方は毎週土曜日、朝の10時ころに忽然と現れて、
午後の2時ころまで大声を張り上げます。
パートナーの男性と順番に歌を歌ってくれます。
これまで十数年間、彼女たちが現れなかった土曜日はありません。
Medan line st. と Grant がその場所です。
一見の価値ある観光名所です。
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