仲良しの同級生と。
この日は長女のチェロのコンサート。
夕食後、家族皆で彼女の通う中学校まで行ってきました。
3曲を弾いていました。
曲目は、
Spring from the Four Season. By Vivaldi
Dramatic Essay. By Mark Williams
Telemann Sinfonia. By Telemann
冷房装置の無い蒸せる体育館での音楽鑑賞も乙なものです。
膝の上にある書を読む意欲が湧き上がります。
アジアの子供たち
ボブ・ムーアヘッド牧師の説教からの抜粋です
【この時代に生きる 私たちの矛盾】
1.利便
ビルは空高くなったが 人の気は短くなり
高速道路は広くなったが 視野は狭くなり
猛スピードで運転し すぐ怒り
より便利になったが 時間は前よりもない
急ぐことは学んだが 待つことは覚えず
2.消費
お金を使ってはいるが 得る物は少なく
たくさん物を買っているが 楽しみは少なくなっている
レジャーは増えても 楽しみは少なく
飲み過ぎ・吸い過ぎ・浪費し 笑うことは少なく
持ち物は増えているが 自分の価値は下がっている
3.家族
家は大きくなったが 家庭は小さくなり
世界平和の時代と言われるのに 家族の争いはたえず
家は良くなったが 家庭は壊れている
夫婦でかせいでも 離婚も増え
4.食事健康
ファーストフードで消化は遅く
体は大きいが 人格は小さく
たくさんの食べ物に恵まれても 栄養は少ない
薬も増えたが 健康状態は悪くなっている
夜更かしをしすぎて 起きたときは疲れすぎている
5.信仰、祈り
書物を読むことは稀で
テレビは長く見るが、祈ることはとても稀である
6.人間関係
月まで行き来できるのに 近所同士の争いは絶えない
喋りすぎるが、愛することは稀であるどころか、憎むことが多すぎる
空気を浄化し 魂を汚し
原子核を分裂させられるが 偏見は取り去ることができない
7.人生観
生計のたてかたは学んだが 人生を学んではいない
長生きするようになったが 長らく今を生きていない
世界は支配したが 内世界はどうなのか
8.仕事
計画は増えたが 成し遂げられていない
前より大きい規模のことはなしえたが より良いことはなしえていない
利益に没頭し 人間関係は軽薄になっている
たくさんの学位を持っても センスはなく
知識は増えたが 決断することは少ない
専門家は大勢いるが 問題は増えている
たくさん書いているが 学びはせず
情報を手に入れ
多くのコンピューターを用意しているのに コミュニケーションはどんどん減っている
忘れないでほしい、
愛するものと過ごす時間を、それは永遠には続かないのだ
忘れないでほしい
すぐそばにいる人を抱きしめることを、あなたが与えることができる
この唯一の宝物には 1円もかからない
忘れないでほしい
あなたのパートナーや愛する者に
「愛している」と言うことを
心を込めて
あなたの心からのキスと抱擁は
傷をいやしてくれるだろう
忘れないでほしい
もう逢えないかもしれない人の手を握り
その時間を慈しむことを
愛し
話し
あなたの心の中にあるかけがえのない思いを
分かち合おう
人生はどれだけ
呼吸をし続けるかで
決まるのではない
どれだけ
心のふるえる瞬間があるかだ
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/51-2038
「キリスト教の本質~ユダヤ教との対比から」
マタイ15章1~ 20節
~マタイ福音書連続講解説教38~
マタイ13章で、「奥義の御国」(教界)時代が始まり、
その特長がたとえ話から解説されました。
マタイ14章から、弟子訓練が始まりました。
マタイ15章では新しいその御国時代が、
パリサイ的なユダヤ教と比べて、
また異邦人と比べるとどのようなものであるかが、
突発的な出来事を通じて明らかとされて行きます。
つまりキリスト教とは何であるかが、
これらの範疇にいる人々と主との会合を通じて明らかとなるのです。
15章の便覧
*1~20節:パリサイ的ユダヤ教との対比
*21~28節:異邦人との対比(ユダヤ人の優先性)
*29~39節:異邦人との対比(ユダヤ人と異邦人の一体性)
今回はパリサイ人との論争を通じて、
ユダヤ教と対比したキリスト教の本質を学びます。
❶義は自力で獲得するものではない。
パリサイ的なユダヤ教は、
清めの儀式や安息日厳守にこだわりました。
これらを守ることは、人の目に明らかとなります。
その標準に生きる人たちにとって他人の評価を得やすいので、
つい法規遵守に夢中となりやすいのです。
それに惑わされやすいのが人間の姿でもあります。
ユダヤ教ばかりでなく、
世界にある全ての人が創作した宗教は遵守すべき掟があります。
お勤め、托鉢、座禅、修行、断食、荒業、などなど、、
これら難題をクリアする事が、万人とは異なる優越感を抱かせ、
神仏からの悟りやお墨付きの「義」を得る道として、実にわかりやすいのです。
主は、
パリサイ人の作り上げた数万からなる詳細な義に至る道である口伝律法をことごとく無視されました。
その厳格な遵守の先に義はなく、
救いはないことを教えられました。
「まことに、あなたがたに告げます。
もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、
あなたがたは決して天の御国に、入れません。」 (マタイ 5:20)
ここで言われた「まさる」とは、遵守の程度ではなく、
次元の違いを指摘されたのです。
❷義は神から与えられるものである。
「父なる神様がお植えにならなかった木」、
すなわち人為的な宗教戒律に生きる自認エリートは他者を見下しながら、
自分の義に満足する人たちです。
そこに謙遜さはなく、救いへの求道心もありません。
ところが、
主が「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」 (マタイ5:3 )と言われた心貧しい人とは、
自らのうちには誇りとするもの、
自己義の根拠となるものがかけらもないことを知っています。
この人たちは、ひたすら神のあわれみ、恵みにすがる他ないのです。
自分には神の前に立てる誇りとするものが何も無いので、
主イエスの義にすがったのです。
その時に、イエスの義が転嫁されるのです。
イエスをメシアとして信じる信仰により、
心に聖霊が与えられて、
心清められるのです。
そして新しい霊が内側に働き、
その内発性の動機が神の御心に沿う正しい行いへと私たちを向かわせるのです。
「 しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、
ただキリスト・イエスを信じる信仰(イエスの真実)によって義と認められる、
ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。
これは、律法の行いによってではなく、
キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。
なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、
ひとりもいないからです。」 (ガラテヤ 2:16 )
昨日、SF観光のバスについて書きました。
バスでは楽しめないお勧めの観光地がありますので、お知らせしますね。
ストリート・パーフォーマーの歌い手です。
この方は毎週土曜日、朝の10時ころに忽然と現れて、
午後の2時ころまで大声を張り上げます。
パートナーの男性と順番に歌を歌ってくれます。
これまで十数年間、彼女たちが現れなかった土曜日はありません。
Medan line st. と Grant がその場所です。
一見の価値ある観光名所です。
サンフランシスコのダウンタウンエリアでは常時、
この種の観光バスが行き来しています。
今日のように晴れた日は、
屋上のオープン・デッキの座席から街を眺めるのも気持ちよいでしょうね。
ただし、そのようなのんびりした日がSFで与えられるとは思いません。
夢のまた夢?
長女は先日から3日間、学校主催のキャンプがあって
ピュジェット湾内にある小さな島へと出かけて行きました。
日本の小学6年生では、修学旅行がありますが、
これに対応する学校行事と言えるかもしれません。
「かもしれない」と自信なげに書いたのは、
修学的な要素はほとんどないらしいためです。
2泊3日のキャビン集団生活が主な目的で、
あとは海や山の生態系などの実地調査もあるとか。
観光地へ行く、美味しいものを食べるといったことがないので、
そのあらましを聞いた私の反応は「なーんだ」というものでした。
それでも友人とのキャビン生活は楽しかったらしく、
先ほど、まんざらでもなさそうに帰宅しました。
日本での学校行事は、運動会にしても、修学旅行でも、
そして卒業式でもどれもが専門性が高いですね。
そのための気合を入れた練習や下準備に数週間を費やします。
結果、米国のものとは格段に違うものができあがります。
こちらの国は至って、イージー・ゴーイング(気楽に行こうよ)のスタイルです。
ただそのイージーなスタイルは、
全ての生徒を導入する一般対象のイベントにおいて言えることです。
一旦専門性を帯びると、たちまちにしてシリアス度が増してきて、
子供たちも目の色変えて打ち込むようになります。
数日前の長女のコンサートでは、
彼女の目の輝きが普段では見られないものであったように私には思えました。
鯉が龍となった瞬間を見つけたような、、、、
アハハ、これは親のひいき目でしょうね。
サクラメントのMikumiレストランは、相変わらずいつ行っても大入り。
宿舎の場所によって行くところも毎回変わるのですが、
市内に6店舗もあるので、どれかのお店で夕食のお世話となります。
今回主に行ったところは、Midtown店。
官庁街に位置してるこの店のディスプレイや調度品は、抜群の洗練さがあります。
寿司の味は他と変わりません。
すし飯はセンターで一挙に作ったものを各店に配送しているし、
寿司ネタも同様にして一括管理してますから。
差の出る点は、サービスの質。
Mikuniではどの店でも 「いらっしゃいまーせ」とスタッフ全員が客を歓迎してくれることになってますが、
声のハリや大きさが各店によってマチマチ。
Midtown店ではその声が、ひときわ大きく元気がいい。
先日、Mikuniのオーナー・太郎さんが言ってた言葉を思い出しました。
Midtownのマネージャーは明るい人で、それが他のスタッフにも伝染するのだそうです。
店内を座席まで案内されながら、独特の哀調を帯びた
「いらっしゃいーまーせ」が寿司カウンターから連呼されました。
長女のコンサートが開かれました。
同年齢の子供達やおじさんほどの人たちも合わせて、
7名ほどが日頃の練習の成果を披露します。
会場となったのは、イサクアのとあるピザ・レストラン。
関係者でお店はいっぱい。
午後5時から始まったので参加者は皆、
夕食のオーダーを取りながら鑑賞することとなり、
お店としても会場費は捻出出来そう^_^
長女はトップバッターとして1曲、プログラムの中ほどでも1曲歌いました。
ホサナキリスト教会・聖書広場からの抜粋です
http://wdx.hosannamin.org/whatsnew/view/422-3637
「湖上での弟子訓練」
マタイ14章22~ 36節
~マタイ福音書連続講解説教37~
マタイ14章は、主イエスによる弟子訓練が記されています。
その14章冒頭ではバプテスマのヨハネの斬首事件があり、
これを期に弟子たちへの教えから訓練へと、主の働きの主眼が変えられて行きます。
先回の14章半ばは、5千人の給食の奇蹟で、これは弟子たちの丘の上での訓練でした。
今回の14章終盤は、主イエスの湖上歩行の奇蹟として、これは弟子たちへの湖上での訓練となりました。
主と弟子たちとの間には大きな隔たりがあります。
弟子訓練とは、その隔たりを幾分かでも埋めようとの営みとも言えます。
主と弟子たちとの間には、どのような隔たりがあったのでしょうか。
❶ゴールの隔たり。
空腹の1万人以上になる男女を5つのパンと2匹の魚から満腹にした主の奇蹟は、
大きなインパクトを人々に与えました。
食糧問題を瞬時に解決されるメシアとして群衆は大歓迎し、
王として即位させようと計ったのも自然の成り行きです。
弟子たちも「時、到来」とばかりにこれに同調し、
旧約聖書が預言しているメシアによるエルサレムからの世界統治が実現されると、
興奮の渦に巻き込まれて行ったのです。
それが彼らの目標(ゴール)であったわけですが、
それは地上的・物質的な願望に色濃く染められたものでした。
主はそんな彼らを無理矢理に解散させ、
弟子達には強いて舟に乗り込ませて帰途に就かせたのでした。
主のゴールは十字架による罪の贖いの成就であり、
それによって人々の罪の問題を解決されることにありました。
苦難のメシアとして死に向かわれたのです。
その先に勝利者として地上にやがて凱旋され、
メシア王国を樹立されることになります。
❷苦難に対する隔たり
弟子たちを乗せた舟は、間も無く嵐に襲われました。
8時間ほども波・風と格闘しながら漕ぎ続けます。
肉体の疲労と目的地に辿り着けない挫折感の中で、
信仰も弱って行ったことが想像されます。
「主のお言葉通りに舟を出したばかりにこんなことになって、、、
一体どうしてくれるんだ!?」
そんなつぶやきが聞こえてきそうです。
一方その時、主はお一人で山におられました。
「祈るために」(14:23)とあります。
主は霊的な苦闘の中を通られておられました。
同時に、父なる神との慕わしい甘美な時を過ごされていたのです。
センセーショナルな群衆の期待にも流されることなく、
与えられている使命の道を完遂するためには、
神御自身であられるメシアでさえも、祈りの時間が必要とされたのです。
ここに、完全な神であられたお方は、
同時に完全な人間でもあられたという調和を見ます。
私にはこの調和を理性で理解することはできません。
聖書に書かれている通りのことが、啓示された真理として受け入れるのみです。
主でさえも祈りが必要ならば、私たちは尚更のはずです。
「一人で」「山に登る」
そこで下界の騒がしさから離れて、神と語らう祈りの時間が必要とされます。
❸平穏さの隔たり
主は苦闘している弟子たちのところにまで、
波の上を歩いて近づかれます。
人影を見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と錯覚し、
恐怖のあまり「叫び声まで上げた」とあります。
漁師という波の上のプロ集団が、
そこまで取り乱してしまうのも滑稽な話です。
主はしっかりとした声で「わたしだ。恐れることはない。」と言われました。
水や湖、全世界を創造されたお方は、
嵐を瞬時に鎮めることもおできになられますから恐、れるはずはありません。
その平静さと確信の高嶺におられる主を前にして、
ペテロが口出しをします。
「私に水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」(28)。
彼らしい野望が、この言葉の中に見て取れます。
「自分は怯え切っているが、平然とした主のように嵐の波の上を歩いて見たい」
そんな心中は決して軽んぜられるものでありません。
それは聖なる野望ともいうべき、褒められる挑戦でした。
主も同意されて「来なさい」と、彼を招かれました。
私たちも己の実態が、試練の前に揺れ動く小さなものであるのを知る時、
信仰の高嶺への一歩を勇気を持って踏み出そうではありませんか。
それは未経験の一歩であるやもしれません。
しかしながら、「主のように歩みたい」との野望を持って、
挑戦し続けようではないですか。
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